解決3
曇天の朝、俺は教室の扉の前にいた。
柄にもなく、深呼吸をして扉に手をかける。転校初日の女子高生主人公か俺は。
「……」
扉を開け、のっそりと教室の喧騒に飛び込んだ。毎朝のように体験していることなのに、いまだに教室に入る瞬間には緊張感があった。
ふと、1人の少女と目が合う。
「……ぁ」
千曲双葉は、手を振り上げようとして思いとどまったのか、胸元あたりの中途半端な位置で手をとどめた。
俺は何も見ていないかのように、自席に視線を移す。なんだか罪悪感が湧いたが、コレは仕方のないことだ。わざわざ教室で挨拶をして、悪目立ちする必要もないだろう。
昼食の時間、俺はいつも通り席を立ち、教室の後ろの扉から出て行こうとした。
目の端で捉えた教室の中には、1人ポツンとお弁当箱を開く少女の姿。そういえば、お弁当箱も借りたままだったな。キリキリする胃痛を抑えて、俺は教室外へと歩を進めた。
俺は途中まではいつもと同じルートを辿ったが、渡り廊下に差し掛かったタイミングで、いつもとは全く逆の方へと曲がった。
その先にあるのは、いつもの第二体育館ではなく、第一体育館。主にバスケ部が練習を行っている体育館だ。
「……うぃっす」
鉄でできた重い扉を開けて、だだっ広い空間に、申し訳程度の空虚な挨拶を添える。
「え、あれ、ちょ、珍しいな!」
体育館に入って来た異物の俺を見つけて、仲間とバスケに興じていた伊那聡がこちらに駆け寄って来た。
「どうしたどうした!雄太もバスケやるか?」
「やらない」
なんでそんな自然にファーストネームで呼べるんだよコイツ。恥じらいとかないのか。
「なんだよやろうぜ!楽しいぞ?」
「スポーツが苦手だからこんな性格の仕上がりになったんだよ……じゃなくて」
俺は咳払いをして、ここに来た本題に思考を戻した。
「ちょっと、伊那に、相談がある」
「え、相談?なんだお前珍し……」
俺らしからぬ発言を聞いて、伊那は首を傾げたが、何かを察したようで、落ち着いた表情を浮かべた。
「ああ、いいぜ」
「ありがとう」
「へー、雄太ってちゃんとお礼とか出来るのな」
「俺をなんだと思ってんだよ」
俺は伊那を連れて、体育館前のロッカーが並んでいる渡り廊下に出た。
「その、相談なんだけど……」
「まぁ、双葉ちゃんのことだろ?」
なんでコイツもうファーストネームで呼んでるんだよ。そんな流れるように女の子の下の名前を呼ぶな、俺なら絶対どもっちゃうぞ。
「……そうだ」
「うーん、なんていうか、困ったなー……」
俺が神妙な面持ちで伊那を見ると、伊那は手を組んでうんうん唸った。彼は俺に話しかけるほどに優しい人間なので、あの件も気にしているに違いないとは思っていたが。
「いやー、まさか双葉ちゃんがあんな感じの子だなんて思わなくてさ、雄太にも迷惑かけたみたいで」
「いや、伊那は別に悪くないだろ、あの時は、もうどうすることも出来なかったろ、俺もお前も」
「けど、気を遣ったのかも知れないけど、雄太は自分を卑下しすぎだぞ、エッチな妹が好きだとか、思ってもないこと言って」
「あ、ごめん、それは本当に思ってる」
「え……そ、そうか……まぁ、多様性の時代だもんな!SDGsだよなソレも!」
気を遣ってくれてるみたいだけど、それは流石にSDGsではないわ。サステナブルでもデベロップメントでもないし。
「まぁ、それはどうでも良くてだな。本当に悪いんだけど、大町紗奈と、仲裁してやってくれないか?」
俺は、深々と頭を下げた。
心に浮かんだ、微かな敗北感。クラス内で力を持たない俺は、力を持つ人間に頭を下げるくらいしか、やれることがなかった。
しかして、敗北なんて俺にお似合いではないか。変なプライドで頼みごとが出来ないくらいなら、床を舐めて敗北を認めよう。それが、敗者たる俺の、最後のプライドだ。
「おいおい、頭上げてくれって!」
「いや!俺は靴を舐める!その覚悟は昨日お風呂に入ってる時に決めてきた!」
「風呂入ってる時くらいリラックスしろよ!てか、靴舐められても嬉しくねえよ汚ねえし!買ったばっかのバッシュ舐めようとするな!」
俺が屈んで伊那の靴に顔を近づけようとすると、伊那は慌てて飛び退いた。
「じゃあどうすればいいんだ!何を舐めたらいいんだ!」
「なんで舐める以外の選択肢がないんだよ!別に何もしなくていいわ!」
俺は駄犬の如くケツを振って媚びへつらう覚悟を決めて来たのだが、どうやら要らなかったらしい。クソ、靴をペロペロするイメトレした時間返せ。
「じゃあ、仲裁してくれるのか?」
「……うーん」
俺が救世主を目の当たりにしたみたいな尊敬に満ちた目線を向けると、伊那はまた難しい顔をして唸った。
「その……すまん!ちょっと難しい!」
「……やっぱり、靴を」
「あー違う違う、そういうことじゃなくて!」
伊那は慌てて俺から距離を取った後、言いづらそうに話し始めた。
「その……紗奈がマジであの後キレちゃってさ、カラオケの時も機嫌を取るのに必死だったんだよ。俺なんて上裸で踊ってさ」
すごい、とはいえカラオケ上裸は陽キャのエピソードだ。それを撮ってストーリーで回してるのとか、陽キャすぎるだろコイツのコミュニティ。
「だから、その、ちょっと仲裁は無理かもしれない、すまん……」
「そんなに無理そうなのか?」
「俺たち全員、紗奈の前じゃ双葉ちゃんの話は禁句だからな……力になりたいのは山々なんだが」
伊那は申し訳なさそうに頭をかいた。
俺の浅知恵で考えた蜘蛛の糸が、プツリと切れた。はて、どうしたものか。
「あ!いたいたー!なんでそんなとこいんのー!」
俺と伊那に流れた刹那の沈黙を破って、遠くから走ってくる足音がこだました。
「おお、芽衣!」
「聡が体育館にいなかったから聞いたら、よくわかんないやつと2人で出てったって聞いたから」
よくわかんないやつって。ちょっと傷つくぞその言い方は。
俺と伊那の前で前屈みで息を切らすこの少女は、塩尻芽衣。バスケ部マネージャーであり、2組のマドンナであり、そして伊那の彼女である。俺が信長なら羨ましすぎて焼き払ってるほどに、キラキラしたカップルだ。
「えっと、この人は?」
「コイツは須坂雄太、俺のクラスの友達だ!」
勘弁してくれ。なんでこんなに友達のハードル低いんだよ陽キャは。休み時間にたまに話すくらいの仲で、なんで恥ずかしげもなく友達なんて言えるんだよ。
「へー!そうなんだ!私は2組の塩尻芽衣!よろしく!」
「あ、ど、どうも」
塩尻は明るい笑顔を向けて、手を差し出して握手を求めてきた。
ま、眩しい、眩しすぎる。もう太陽の生まれ変わりとかだろこの人。
俺が差し出された手を前にモジモジしていると、塩尻は少しだけ訝しげな顔をして手を引っ込めた。あぶねー、こんな太陽の化身みたいな女の子に触ったら、焼け死んで灰になるところだった。
「てか、こんなとこで何してたの?」
「えっと、まぁ、込み入った話があってな」
「込み入った話?なにそれ?聞かせて聞かせて!」
「えー、いやー、そのー」
伊那が答えに窮しているので、俺はなんらかフォローをせねばいかんと割って入った。
「あのー、まぁ、朝貢と言いますか、天子様である伊那様に、謁見を賜っておりまして、願わくばこの愚か者の頼みを聞いていただきたく、その……はい」
走り出したは良いものの、特に考えもせずにスタートしてしまったため、事故ってしまった。ごめん伊那。
こわばった空気が俺を包み込む。もう、その、消滅したい。
「雄太くんって……面白いね!」
「はい?」
淀んだ空気を切り裂くように、塩尻は明るく笑って俺の背中をバシバシ叩いた。
てか、いつのまにファーストネームで呼ばれた?流れるように呼ばれたから最初気付かなかったんだけど、陰キャを極めた俺でなきゃ見逃しちゃうね。
「意味わかんない!雄太くんほんと面白い」
「あ、いや、どうも……」
塩尻は俺の顔を見て、もー、とばかりに肩を叩いた。あんまそう気安くボディタッチするな、うっかり好きになっちゃったらどうする。
あー、なるほど、この屈託のない笑顔、ボディタッチ、これはモテるわ。で、結局はバスケ部の副キャプテンと付き合うと。しゃらくせえ。
「な?雄太意外と面白いだろ?」
「ホントだね!」
意外ってなんだ意外って。見た感じ面白くなさそうなのかよ。
「それより、芽衣はなんで来たんだよ?俺になんか用があったのか?」
「ちょ、メッセ送ったじゃん!文理選択の紙、一緒に書こうって!」
「あ、ごめん、見てなかった」
「もー!このバスケバカ!」
「ちょ、バカとはなんだバカとは!」
「だってそうじゃん!私にいっつも勉強教わってるくせに!」
「くっそー、次のテストで、芽衣に勝ってやるからな!」
「ふーんだ!聡には絶対負けないもんねー!」
あの、すいません、いちおう俺もいるんで、いつもの2人だけのノリやるのやめてもらって良いですか?羨ましすぎて死にそうになるので。
「けど、次のテストって文理選択離れたら、もう同じテストじゃなくなるからなー」
「え、私は文系にするけど、聡もそうじゃないの?」
「え?俺はスポーツ推薦狙いだから、正直どっちでも良いんだよなー」
「えー!聡が理系って、なんか似合わない!」
「そんなことないだろ!ほら、九九とか早く言えるぞ俺!」
「小学生の自慢じゃん!子供だなー聡は!けど、聡が理系だったら、ギャップあってちょっとカッコいいかも」
なにがギャップだ。イケメン以外の意外性にはギャップとか言わないくせにコイツら。俺の妹好きの一面見て恋に落ちろよクソが。
「じゃあさ!学校帰りにフードコートで一緒に書こうよ!それまでに文理決めといてね!」
「おう!わかった!」
塩尻は伊那に手を振って、踵を返して走り去っていく。
ふと、塩尻は立ち止まって振り返った。
「雄太くんも!じゃあね!」
「ど、ども……」
ニッコリと微笑みをこちらに投げかけ、塩尻は軽やかに走り去って行った。
「……すげえなありゃ、超絶陽キャじゃん、性格も良いし」
俺が感心したように脱力すると、伊那は得意げになってグッと親指を立てた。
「ああ、最高の彼女だ!」
「そ、そりゃようござんしたね……」
そんなこと恥ずかしげもなく言えるお前も、最高の彼氏だよ。いいなー羨ましいなー人生が違いすぎるなー。
「てか、なんの話してたんだっけ俺たち?」
「あー、だから、千曲のことを……なるほど、そうか俺たちはもう2年生なのか」
ふと、俺の中に一筋の光が差した。
我が野中東高校では、2年生の頭に文理選択があり、以降はそれに則って授業が展開される。英語や国語などの必須科目を除いて、クラス単位での授業は著しく減少するのだ。
「……伊那は、文理選択どっちにするんだ?」
「え、うーん、俺勉強で大学行くつもりないし、どっちでも良いんだよなー」
「なるほど、ならオススメは、文系だな」
「え、そうなのか?」
首を傾げて尋ねてくる伊那に、俺はすまし顔で説明を始める。
「ああ、まず、ハッキリ言うが文系の方が楽だ」
「まぁ、なんとなくそのイメージはあるけど、けど俺そもそも勉強する気ないしなー」
「だからこそだよ。理系の方が比較的意識の高いやつが入ってくる傾向にある。つまり、定期テストで勉強しなかったら、文系より理系の方が差がついて、校内偏差値は低く出る。そうするとどうなる?」
「え、どうなるんだ?」
「つまり、成績が下がるんだ。通知表の成績は悪く出るようになる。いくらスポーツ推薦でも、成績があまりに悪ければ、学校側は推薦できないよな?」
「な、なるほど……頭良いな」
別に大したことは言っていないのだが、俺が雰囲気だけ取り繕って、怪しいセミナー講師みたいに核心をついてます感を演出すると、伊那は真剣な表情で頷いた。
「それに、文系の方が私立大学が沢山あるから、最悪推薦が貰えなかった時に、3教科入試で潰しが効きやすい。それに、数学や理科を最初から勉強するより国英社の方が勝率は高い。おまけに、私立は文系の方が理系より学費が安いし、授業も簡単だ」
「そ、そうなのか……知らなかった」
俺の口八丁に、伊那は感心しきったように聞き入っていた。
ここで誘導しきるしかない。俺は最後のダメ押しとばかりに、両手を広げて言った。
「それに、お前の彼女も文系なんだよな。もしお前が理系にしたら、教科が被らないから勉強教えて貰う時間も減っちゃうぞ。もちろん……イチャイチャする時間もな」
「マスター!文系にします!」
「よろしい、ならば今日の文理選択の紙、彼女と一緒に文系に丸をつけるのじゃ」
「はい!そしてもっと、芽衣とイチャイチャします!」
「それは勝手にしろ」
さて、なんとか俺のフラッシュアイデアを遂行するための、第一段階はクリアである。
もう、この計画にかけるしかない。俺は深呼吸して、覚悟を決めた。
「……そういえば、大町紗奈は文理選択どうするか、聞いたのか?」
「あー、そういえば知らないな。教室戻ったら、ちょっと聞いてみるわ」
「ああ、そうしてくれ。さて、教室戻るか、悪いな、バスケの邪魔して」
「こっちこそ、せっかく来てくれたのに何にも力になれずに、ごめんな」
「大丈夫だ、すでにお前は力になってるよ、ありがとう」
「え?ああ、そうか?」
「ほら、早く教室戻ろうぜ」
俺は教室に歩き出して、伊那を手招きした。
果たして、上手くいくだろうか。そんな不安が、俺の心を包む。
しかして、もう俺は踏み出してしまったのだ。あるいは、告白されたあの日から、不可抗力にも踏み出していたのかもしれない。
以前晴れ間の覗かない曇天をちらと見上げ、俺は教室へと向かった。




