解決2
『今日は全県的に曇り空でしたが、明日以降も北信を中心に曇り空が続く模様で……』
リビングの中で垂れ流されるテレビの音。
俺はソファに項垂れながら座って、その夕方の天気予報を見るでもなく聞くでもなく、ただぼーっとなんでもない景色みたいに眺めていた。
「はい弟くん、どいたどいた」
俺がまるで人形ほどに生気を失った状態で佇んでいると、姉が勢いよく俺を押し退けてソファに割り込んできた。
「今からお姉ちゃんは今日配信開始の推しの動画をテレビの大画面で見るから、ソファの真ん中を譲りたまえ」
「……うい」
俺が大人しくソファの隅っこに移動すると、姉は眉を顰めて俺を見た。
「な、なんか大人しくない?いっつもならゴニョゴニョごねた挙句にどくのに」
「まぁ、結局どかされるなら何を抗弁しても無駄だからな」
「ふーん、まぁいいけど」
姉はそう言ってスマホ画面をテレビにミラーリングして、両手拳を振って応援するみたいな体制に入った。
「きゃー!オッパー!」
「え、なに?おっぱい?」
「ちょ、マジ最低、ホントどっか行ってくんない?」
俺が聞き間違いかと思って尋ねると、なぜだか姉はすこぶるげんなりした表情を浮かべた。
「いや、だってそんなようなこと言ったろ今あんた」
「いや、これ韓国語だから!マジでホント無理」
「だーごめん悪かったよ!」
俺は心底不愉快そうにしている姉を見て平謝りした。とはいえ、SNSのプロフィールにハングル書いてるのアレなんなんだよ、普通に読めないだろ。
「なに?韓国語でなんていう意味なんだそれは?」
「これはだから韓国語で……なんだっけ?まぁ、好きな人に?使う?的な?」
アンタも分かってないで使ってんのかい。絶対答え丸暗記の帰納法タイプだろこの人。理由とか仕組みとか、そういうのにはもっぱら興味がないらしい。
しかして、こういうタイプの方が生きる意味とか社会のおかしさとか、そういう考えてもどうにもならないことを微塵も考えていないから、むしろ生きるのが上手だったりするのだ。
「まぁ、お邪魔だったら失礼するよ」
俺がソファからのっそりと立ち上がって、2階にある自室に向かおうとすると、姉はまた眉を顰めて俺の腕を引っ張った。
「え、いやいや、別にいても良いけど……」
「だって俺いたら集中できないだろ?今日はお父さんもお母さんも帰りが遅いし、1人のリビングで存分に金切り声を上げてくれ」
「そんな騒ぐつもりないっての!……雄太、大丈夫?」
俺の声がやたら力ないことに気付いたのか、姉は心配そうな表情を浮かべて見つめてきた。
「いや、別になんでもねえよ」
「なんでもないって言ったって、雄太……もしかして」
俺が目を逸らしながら俯き加減でいると、姉は何かを思い出したかのように目を見開いた。
「……金、取られた?」
「はぁ?」
「だから!あの仮交際の女の子に!金銭を要求されたんでしょ!あちゃー!それで今人間不信なんだ!大丈夫!その子は雄太の魅力をわかんなかっただけよ!そもそも、JKに雄太の魅力は伝わらな……」
「おい勝手に話を進めて勝手に慰めるな!あと、男子高校生の俺の魅力がJKに伝わらなかったらダメだろ!」
「え、お金取られたんじゃないの?」
「取られてねえよ!1文も!」
キョトンとする姉に向かって、俺は不服そうな表情でツッコんだ。
「じゃあなに?実はクラスのイケメンの指示で嘘の告白してきてたとか?」
「そんな創作ではよく見るけど現実でやってるやつ見たことないこともされてない」
「えっと……シンプルに振られた?」
「それが1番傷つくだろうけど、それもされてない」
「えー、じゃあどんな酷いことされたのよ……」
「まずなんで元々好かれてなかったり嫌われたりしてる前提で話が進んでるの?そんなにモテなそう俺?」
「うん」
「躊躇なく認めるな!」
俺が姉の見立てに憤慨すると、姉はテレビを消して、ソファの隣をポンポン叩いて座るように促した。
「ほら、座んなさい、話聞いたげるから」
「……別に、話すことなんて」
「雄太、私との約束忘れたの?その子となんかあったら第三者の冷静な私に逐一報告するって、そういう話だったでしょ?」
「……もう、報告義務なんて無くなったんだよ」
「は?どういう意味よ、早く座って」
「これ以上話しても意味が」
「いいから!」
姉がやたらと真剣な眼差しで俺を捉えるので、俺は渋々ソファに座った。
「ほら、あったかい紅茶あるから、これ飲んで」
「……俺が淹れたやつだけどなこれ」
姉が慈悲深い目で、さも自分が用意したかのように紅茶を差し出して優しい姉を演出するので、俺は苦笑いを浮かべながら紅茶をズズッとすすった。
「……で、何があったの?」
「なんか、まぁ、その、仮交際は解消だよ」
「どうして?」
「……」
俺がまた口籠ると、姉は俺の背中に手を回して優しくさすった。
「あのね?確かに、思春期の多感で敏感な時期の男子高校生にしてみたら、それはプライドをとても傷つけることかもしれない。けど、女の子にこっぴどく振られるってことは、決して恥ずかしいことじゃ……」
「あ、まだその前提で話してたんだこの人」
どうやら、この人は俺が失恋したと思い込んでいるらしい。
まぁ、外的要因で離れざるを得なくなったのであれば、それは失恋と言ってもいいのかもしれないが。
「ホントに違うの?」
「さっき否定しただろそれ、話聞いてないじゃんあんた」
「いや、プライドが邪魔して、振られたって素直に言えないのかと思って」
「あいにく、俺は非モテの自意識で既に確立されてるから、仮に振られてもそのくらい簡単に開示できる」
「それ良いのか悪いのか分かんないんだけど……」
俺が少し得意げに紅茶をすすると、姉は左の口角だけ上げて首を横に振った。
「……じゃあ、何があったのよ」
「……」
「報告義務!自分だけで判断したら危険だから、私に話すって約束だったんじゃん!」
確かに、俺は姉と協定を結んだ。もし、千曲双葉が悪巧みをしていたら、そしてまんまと俺がそれに引っかかっていたら、即座に対処できるように。
しかし、この状況は、報告する必要があるのだろうか。
「まぁ、でも、言っても意味が」
「それじゃダメだから約束したんじゃん!むしろ、1人で考えようとしている今が1番危険でしょ!勝手に雄太が判断して、勝手に話すのをやめたら、もう何があっても第三者の私は対処できないもん!なんのための約束だったのアレ!」
確かに、姉の意見は至極筋が通っている。俺だけで判断するのは危険だから、リスクヘッジとして姉にも共有するというのが俺の目的だったのに、俺が自己判断で話さなかったら、もはや何のリスクヘッジにもなっていない。
「……」
「はい!じゃあもう1人で判断してください!エスポワール号出航!」
「まだ破産してないから俺!乗らねえよそんな怪しい船!」
未成年の俺はまだ破産できないだろ。あと、俺船苦手だから乗らねえよ、酔っちゃうから。
しかして、俺だけで判断するのは良くないというのは、ごもっともだった。仮に、それが話してもどうにもならないことだと感じられたとしても。
「……カーストが上の人間からするとさ、下の人間ってどう見えるんだ?」
「なに?今の話に関係あるの?」
「……まぁ」
俺が前後のつながりが無いような話だしをしたが、姉は俺がちゃんと話そうとしている意を汲み取ったようで、頬杖をついて俺の質問を思案した。
「てか、それって私が上だって言ってんの?」
「そうだろ?」
「いや、その認識がそもそも…まぁいっか」
姉は何か呆れた表情を浮かべたのち、考えながら言葉を紡ぎ始めた。
「……確かに、クラスの輪の中心と、そうでない人はいるね。クラス全体の意思決定に積極的に関わってる人と、そうでない人、というか」
「なるほど、カースト制度じゃなくて、中華思想に当てはめて学校を考えることもできるのか。クラスをインドとして捉えるのか、中国として捉えるのか」
「ごめん、意味わかんないけど、とにかく私はクラスの決め事には積極的に関わってたし、自分で言うのもアレだけど、そこへの影響力はあった方だと思う。それを上って表現するのが正しいかはともかくね」
姉は語弊がないように、いつもより言葉を丁寧に紡いだ。こういう込み入った話をする時だけは、姉弟だなと感じることがある。
「だとしたら、夷狄、というかクラスの周縁にいる、意思決定に関わらない人を、あんたはどう思うんだ?」
「うーん…なんで関わらないんだろう、とかかな。ほら、文化祭とかの学校行事って、積極的に頑張った方が楽しいじゃん」
「……溝だな」
俺が姉の如何ともし難い、下手すれば残酷とさえ思える言葉に、失意を込めて思わずため息をついた。
「溝?」
「周縁部にいるやつは、そんなこと思ってない。文化祭ごときに、学校行事ごときにマジになるなんて、バカじゃないかと思ってる。俺もその1人だし、なんなら学校行事なんて陽キャが楽しいだけなんだから無くなれとさえ思ってる」
「それは雄太が楽しもうとしてないからじゃないの?」
「そんな単純な話じゃないんだよ、これは」
訝しい顔をする姉に、俺は苦悶の表情を浮かべながら話した。
「クラスの端にいるやつは、もう諦めてるんだよ。今さらマジになって何かに参加しても、周りから調子乗ってると思われて疎まれるかもしれないだろ」
「そんなこと、別に誰も思ってないよ」
「思われてるかもしれない、その可能性自体に、人は恐怖するんだよ。空き巣に入られたことが無くても、人は鍵を閉めるだろ?国家ですら、他国の武力に怯えて先制攻撃をするんだ、まだ攻撃されてもいないのに」
「そんな規模のデカい話をされても……」
「一緒だよ、いじめも、犯罪も、戦争も、結局ヒトだ。ヒトは虚像の悪意に怯えて、攻撃したり、防御したり、回避したりするんだ。ましてや、自分が悪意の標的になる可能性があることなんてしない。1度周縁を住み家にした俺たちは、リスクを取ってまで中心になんて行こうと思わないんだよ」
俺がカランとティーカップを持ち上げたが、既に空になってしまっていた。
「けど、戸締りとかは、自分が危険な目に遭いそうになった経験があるからしてる人もいるんじゃない?」
「まさにその『経験』があるんだよ。きっと、アンタから見て外側にいる人間は、他人の悪意に触れた経験があるんだ。陰口を言われたり、仲間はずれにされたり、良かれと思ってやった行動が、裏目に出た経験が少なからずあるんだ。だから、怯えるし、身の丈に合わないことはしなくなるんだ」
「身の丈って……そんなに怯えてたら、ずっと外側のまま、つまらない学校生活になっちゃうじゃん。私だって積極的にやった結果、なぜか嫌われることもあったけど、それでもそれ以上に楽しかったよ」
「なるほどな、そうやってアンタが作られていったのか……」
俺が感心したように頷くと、姉は眉を顰めて尋ねてきた。
「どういうこと?」
「つまり、アンタは積極的にやった経験が、成功体験として記憶されてるんだ。リザルトがプラマイプラなんだよ、だからまたやろうってなるし、自ずと中心に行くんだ」
「そんなの、当たり前じゃん」
「当たり前じゃねえよ。さっきも言ったろ、端にいるやつは、良かれと思ってやったことが裏目に出たことがあったりするって。そういう体験を積み上げたら、誰も積極的にやろうなんて思わねえよ」
俺は虚な目をして天井を仰いだ。リビングを照らす光が、目に入って、眩しかった。
「俺たちは、学校空間に、成功体験なんてない。意味のない失敗が、その時に向けられた悪意が、俺たちから積極性を奪って、中心から遠ざけるんだ。俺はもはや学校に何の期待もしていない。しかして身を投じなければならないのであれば、せめて、安息を願って何もせず、慎ましく端にいるのは、愚かな選択ではないだろ」
結局、姉と俺では、学校空間で体験してきたことが、根本的に異なっているのだ。そして、それはクラスカーストが上の人間と、下の人間も同じことである。
両者には埋め難い溝がある。あちら側と同じ体験がない俺は、あちら側の言い分に共感できない。それは、きっとあちら側もそうなのだろう。
「……けど、雄太だって告白されたりしてんじゃん。受け身とはいえ、クラスの輪に参加しちゃってんじゃん」
「そう、俺は今までクラスで慎ましくしていたのに、不可抗力的に目立ってしまった。当然、悪意に晒される可能性がある」
「え、なに、つまりそれが嫌だってこと?」
「俺はそこまで小さくねえよ」
「そうなの?」
「そうだよ。そもそも、クラスの連中に疎まれても、美少女と付き合えるならプラマイプラだしな。そいつら見下せるし」
「小さ」
「うるせえ!」
ポツリと呟く姉に、俺は声を荒げた。男なんてこんなもんだろ普通に。いい年こいた港区のオッサンですら若くて綺麗な女の子を見せつけるように侍らせてんだから。
「じゃあ、女の子に告白されて目立っちゃうことの何が問題なわけ?」
「……悪意に晒されるのが俺だけなら、別に問題はなかったんだよ」
ガックリと項垂れる俺を見て、姉はなんとなく事情を察したらしく、声とも判然としない息を漏らした。
ふと、姉を見やると、なぜか目を細めて微笑んでいる。
「やっぱ、JKには雄太の魅力は分からないかもね」
「は、え、急になに」
「もうちょっと、あざとくても良いと思うけどなぁ。優しさは出過ぎてると引いちゃうけど、見えなきゃ意味ないからね」
何を言ってるんだこの人は。この姉は、なんだか時々よく分からないことを言うことがある。
「まぁでも、お姉ちゃん事情は分かりました。皆までは言わなくてよろしい」
「はぁ、どうも」
「でもそれって、雄太が要らない気を回してるだけなんじゃないの?もしかしたら、その女の子は、そんなこと求めてないかもよ」
「いや、でも、現に俺のせいでその子はコミュニティ形成に支障が出てて……」
「じゃあ、雄太はその子に振られたの?もう私と仲良くしないでって、その子から言われたの?」
「いや、言われてはないけど……」
俺が歯切れ悪く口籠ると、姉は真っ直ぐに俺の目を見て言った。
「まぁ、耳の痛い話にはなるけど。勝手に相手の幸せを推測って、勝手に相手から離れるのは、自分としては優しさだとしても、相手にとってはそうじゃないかもしれないよ」
俺の心臓がビクッとした。俺が覆い隠して見ないふりをした真実を、姉は見逃さなかった。きっとこの人は、たとえ自分が当事者だとしても、この真実から目を背けないのだろう。
「自分のせいで迷惑をかけたくないから離れるってのは、責任からの逃げとも言えるの。もちろん、負えない責任を無理して負う必要はないけどね。けど、けっこう人って、他人の責任を負ったり、負わされたりするの。恋人とか、夫婦とかって、まさに責任の共有でしょ?」
そうだ、この姉の、俺にない強さは、ここにある。
結局、俺は自分の責任を他人に負わせることに耐えられないだけなのだ。他人に迷惑をかけてしまう可能性に耐えられないから、結局1人を選んでいるのだ。
俺のコレは、優しさや勇気なんて褒められたものではない。ただ、責任を共有するという無責任さがないという、それだけなのだ。
「……俺は、俺の責任を他人に負わせたくないし、他人の責任を負いたくもないぞ」
「良いやつなのか悪いやつなのか分からない発言すぎるでしょソレ。まぁ、少しずつ、負って負わされて、そうやってヒトと少しずつ関わっていけたら、何か違う見えかたがあるかもね」
姉はそう言うと、ソファを立って、俺の頭をポンポンの撫でるように優しく触った。
「まぁ、では、人生の先輩から、1つ忠告です」
「はぁ、なんでしょうか、あやめ先輩」
姉は俺の頭に手を置いたまま、屈んで顔を近づけて来たかと思うと、目の前でウィンクした。
「たとえ怖かったとしても、次に踏み出した一歩が、雄太の未来を明るくするかもしれないよ」
「……JPOPで言い古された言葉をありがとう」
姉は頷くと、軽やかな足取りでリビングの扉に向かっていく。
「案外言い古された言葉って捨てたもんじゃないよ。共感してる人がいっぱいいるから、売れてるんだもん」
「それは、まぁ、そうかもな。てか、推しの動画見なくて良いのかよ」
「やっぱ部屋で見ることにした!雄太はそのソファで、思いっきり何が正解なのかもう一度よく考えなさい!あの、考える人の彫刻みたいに!」
「アイツがソファに座ってたら、ちょっとムカつくけどな。考える人じゃなくて、考えるフリしてくつろいでる人だろそれ。そんな像作んねえよロダン」
「何言ってるか意味わかんない!」
姉は扉を勢いよく開けて、こちらにまたウィンクしてリビングを出ていった。
俺はまたテレビをつけて、夕方のニュース番組を垂れ流した。
先ほどと同じく、物思いに耽る。しかして、その面持ちは、もしかしたらさっきとは違っていたかもしれない。




