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第219話 まだわからない黒幕

 

 雨脚が強まる中、俺たちは官庁街を抜け、東へと広がる工業地帯へとひた走っていた。  バシャ、バシャ、と革靴が水溜まりを蹴る音が、無機質なコンクリートの壁に反響する。


「……くそっ、やっぱり走りにくいな、この革靴は!」


 俺は滑りやすい靴底に舌打ちをした。  叔父さんから借りた勝負服スーツは、雨を吸って重くなり、鍛え上げた筋肉の動きをじわじわと阻害してくる。肩周りが窮屈で、腕を大きく振れないのがもどかしい。


「お兄ちゃん、大丈夫? 結界で雨除けしようか?」


 隣を走るヒナルが、心配そうに俺の顔を覗き込む。彼女の制服も雨でしっとりと濡れ、肌に張り付いているが、聖女としての身体能力のおかげか息一つ切らしていない。


「いや、魔力の無駄遣いはよそう。敵がいつ出てくるか分からないからな。……それよりアレックス、まだ匂うか?」


 俺が空を見上げると、アレックスが必死の形相(幽霊だが)で先行していた。


「匂イマス! 匂イマスヨォ! コノ雨デモ消エナイ、腐ッタ卵ト安物ノ香水ヲ煮詰メタヨウナ悪臭デス! コッチノ倉庫街ノ方デス!」


 アレックスが指差したのは、古びた赤煉瓦の倉庫や、トタン屋根の町工場が密集するエリアだった。  かつては物流の拠点として賑わっていたのだろうが、今は半数以上がシャッターを下ろし、錆びついた鉄骨が墓標のように雨に打たれている。


「……人気ひとけがないな」


 俺は足を緩め、周囲を警戒しながら歩き出した。  機械の稼働音もしない。人の話し声もしない。  ただ、雨音だけがサーッというホワイトノイズとなって、世界を覆い尽くしている。


「……気をつけて、お兄ちゃん。ここ、なんだか嫌な感じがする」


 ヒナルが俺の袖を掴み、身を寄せた。


「魔力の反応はないわ。……でも、すごく『人工的』な気配がする。油と、鉄と……それから、薬品のような?」


「ああ。俺も鼻が利く方だが、これは……」


 俺たちは、アレックスの先導で、一際大きな廃倉庫の前へと辿り着いた。  塗装が剥げ落ちたシャッターは固く閉ざされ、錆びた南京錠がかけられている。  だが、俺たちが追ってきた「軍用ブーツの足跡」は、この倉庫の前でピタリと途絶えていた。


「ココデス! ココデ匂イガ拡散シテマス! マルデ煙ミタイニ……」


 アレックスが倉庫の前でクルクルと回りながら困惑している。


「……中に入ったのか?」


 俺はシャッターに近づき、手をかけた。  鍵がかかっているが、今の俺の握力ならねじ切ることは造作もない。  俺はヒナルに目配せし、一気にシャッターを持ち上げようと力を込めた。


「ふんっ!」


 ガガガガッ……!


 錆びついたレールが悲鳴を上げ、重い鉄の扉が持ち上がる。  ――その時だった。


 ビリィッ!!


 盛大な、布が裂ける音が俺の背中から響き渡った。


「ああっ!?」


 俺は動きを止めた。  背中が涼しい。  広背筋に力を入れすぎたせいで、叔父さんのスーツの背中の縫い目が、限界突破して弾け飛んだのだ。


「……やっちまった」


「お、お兄ちゃん……! 大丈夫!? 怪我は!?」


「怪我はないが……心が痛い。叔父さんの勝負服が……」


 俺はガックリと項垂れたが、今は感傷に浸っている場合ではない。  持ち上がったシャッターの隙間から、俺たちは倉庫の中へと滑り込んだ。


 倉庫の中は、薄暗く、埃っぽい匂いに満ちていた。  だが、俺たちが予想していたような「敵のアジト」や「魔導儀式の祭壇」といったものは、そこにはなかった。


 あるのは、がらんどうの空間と、コンクリートの床に残された**「タイヤの痕」**だけ。


「……なるほどな」


 俺は床にしゃがみ込み、泥のついたタイヤ痕を指でなぞった。


「ここだ。……足跡の主は、ここまで歩いてきて、ここで待機していた『車』に乗り込んだんだ」


「車……ですか?」


 ヒナルがタイヤ痕を覗き込む。


「ああ。それも、大型の四輪駆動車だ。タイヤの溝が深い。……おそらく、あの官庁街での『実験(真空崩壊)』を見届けた後、ここへ来て逃走用車両で去った」


「ジャア、モウ追エナイッテコトデスカ!?」


 アレックスが悔しそうに叫ぶ。


「……残念ながらな。雨で一般道のタイヤ痕までは追えない。匂いも排気ガスで誤魔化されてるだろう」


 俺は立ち上がり、悔しげに拳を握った。  完全に空振りだ。  敵は魔法を使うだけでなく、極めて現代的で、周到な移動手段を用意していた。  これは、単なる狂信者の暴走ではない。もっと組織的で、計画的な犯行だ。


「……でも、お兄ちゃん。見て」


 ヒナルが倉庫の隅、古びた木箱の上に置かれていた「何か」を見つけた。  それは、コンビニで売っているような透明なビニール傘と、飲みかけの缶コーヒーだった。


「……まだ温かい」


 ヒナルが缶コーヒーに触れ、呟く。


「ついさっきまで、ここに誰かがいた証拠だよ。……私たちが来る直前まで、ここで雨宿りしながら、誰かと待ち合わせしてたのかもしれないね」


「待ち合わせ、か」


 俺は缶コーヒーのプルタブを見た。  指紋は……雨気と結露で期待できないかもしれないが、唾液からDNAが取れる可能性はある。  だが、俺たちにはそれを解析する術がない。


「……奴らは、確実にこの近くにいた。そして、俺たちが嗅ぎ回っていることにも気づいているはずだ」


 俺は、誰もいない倉庫の暗闇に向かって、鋭い視線を投げかけた。


「逃げ足の速い連中だな。……けど、尻尾は見えた」


 軍用ブーツ。大型車。そして組織的な行動。  これだけの情報があれば、絞り込めるかもしれない。


「……一旦引くか。これ以上ここにいても、情報は出尽くした」


「そうだね。……それに、お兄ちゃんのスーツ、もう限界みたいだしね」


 ヒナルが俺の背中を見て、クスリと笑った。  背中がパックリと割れ、鍛え上げられた筋肉が露わになっている姿は、ハードボイルドというよりはコメディに近い。


「うっ……。叔母さんに縫ってもらうしかないか……。いや、弁償もんだな」


 俺は破れた上着を脱ぎ、ワイシャツ姿(こちらも筋肉でパツパツだが)になった。


「帰ろう。今日は『戸籍を取り戻した』だけで良しとするしかない」


「ハイ……。無念デスガ、仕方アリマセン。……アノ悪臭、絶対ニ忘レマセンカラネ!」


 アレックスが鼻息荒く宣言する。


 俺たちは、雨の降り続く倉庫街を後にした。  確信に至る証拠は掴めなかった。  だが、「敵」がただの幽霊や魔物ではなく、知恵と文明の利器を使う「人間」であることを確認できたのは、大きな収穫だった。


 冷たい雨が、俺の火照った筋肉を冷やしていく。  この街の闇は、思った以上に深く、そして現実的だ。


 俺は濡れたワイシャツの袖を絞りながら、叔父さんの家へと続く道を急いだ。  まずは、この無惨なスーツの言い訳を考えるところから始めなければならない。

 

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