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第219話 雨の工業地帯と途切れた足跡

 

 降り始めた雨が、アスファルトを黒く濡らしていく。  官庁街の裏路地は、表通りの無機質な静けさとは異なり、まるで生き物の内臓のような湿った空気を孕んでいた。


 俺たちは「抜け殻」となった魔力の痕跡を辿り、人気の絶えた雑居ビルの狭間へと進んでいく。  スーツの革靴が水溜まりを踏むたび、チャプッという音が不気味に響く。


「……お兄ちゃん。あそこ」


 俺の背中に張り付くように歩いていたヒナルが、足を止め、前方を指差した。


「……警察の規制線だよ」


「警察のきせいせん??」


『立入禁止デスッテ意味デスヨ!注意警告デスネ。日本デハワカリマセ~ンガ……』


 薄暗い路地の入口。  そこには、雨に打たれて重たげに垂れ下がった黄色い規制テープが、何重にも張り巡らされていた。  テープには黒字で**『KEEP OUT』『立入禁止』『北海道警』**の文字。  それが風に煽られ、バタバタと不穏な音を立てている。


「警察も、ここを見つけてはいたみたいだな」


 俺はテープの前で立ち止まった。  だが、警官の姿はない。見張りすらいない。  おそらく、中の状況が「常識」の範疇を超えすぎていて、手に負えずに封鎖だけして放置したか、あるいは恐怖で近づけないかだ。


「オイオイオイ……。ココ、僕ノ幽霊センサーガ警報鳴ラシテマスヨォ……。コノ黄色イ帯ノ先、絶対ヤバイ奴ガ住ンデマスヨォ……」


 頭上を浮遊するアレックスが、いつになく真剣な顔(血の涙付き)で警告してくる。  だが、引き返すわけにはいかない。  ここが、消えた人々――そして俺たちを巻き込む巨大な陰謀の「震源地」であることは間違いないのだから。


「……行くぞ」


 俺は躊躇なく、黄色いテープを持ち上げ、その下をくぐり抜けた。  ヒナルも無言で続く。  法による境界線を越え、俺たちは「異界」の領域へと足を踏み入れた。


 角を曲がった、その先。  俺たちは息を呑んだ。


「……なんだ、これは」


 そこは、何の変哲もない路地裏の行き止まり……のはずだった。  古いブロック塀に囲まれ、放置された自転車やゴミ箱が散乱しているような、よくある都市の吹き溜まり。


 だが、その中心だけが、決定的に異常だった。


 「無い」のだ。


 直径3メートルほどの球状の空間。  そこには、ゴミ箱も、自転車も、ブロック塀も、地面のアスファルトさえも存在していなかった。  破壊されたのではない。  爆発で吹き飛んだのでもない。  まるで、神の巨人がスプーンでそこだけを「抉り取った」かのように、全てが消失していた。


 黄色い規制テープは、この「穴」を囲むように四角く張られていたが、その一部は穴に触れたのか、スパッと綺麗に切断されて地面に落ちていた。


 断面は鏡のように滑らかで、分子レベルで切断されているように見える。  地面には半円状のクレーターができているが、そこには土すらなく、ただ虚無のような闇が薄っすらと漂っているだけだ。


「……嘘でしょ。何これ……」


 ヒナルが口元を手で覆い、後ずさった。  彼女の聖女としての本能が、この現象を「自然界にあってはならないもの」だと告げているのだろう。


「人工的に作られた破壊痕じゃない。……それに、魔法による消滅とも違う」


 俺は慎重にクレーターのふちに近づき、しゃがみ込んだ。  切断面に指を近づける。  触れていないのに、指先の皮膚がピリピリと粟立つ。  これは、魔力ではない。**「次元の断裂」**の名残だ。


「……真空崩壊バキューム・ディケイ……いや、局所的な**『事象の消失』**か」


 俺が呟くと、アレックスが恐る恐る降りてきて、クレーターの中を覗き込んだ。


「ヒィッ! ナ、ナンデスカソレ!? SF映画ノ話デスカ!?」


「似たようなもんだ。……ここにあった物質、空気、そしておそらく『空間そのもの』が、一瞬にして別の座標へ引き抜かれたんだ」


「あっ!!!」


 俺はスーツの内にあったポケットから、ハンカチを落としてしまった、ハンカチはそのままひらひらとクレーターの内部へ落ちていく。 落ちたハンカチは、地面(と思われる虚無)に触れた瞬間、音もなくジュッと消失した。


「「「ッ!!」」」


 俺とヒナルとアレックスが悲鳴を上げる。


「冗談キツイなぁ……」


俺はクレーターを見ながら目を細める。


「まだ残っているな……。空間が閉じきっていない。これじゃあ、まるで……」


「……まるで、世界の裏側に繋がる『穴』が開いたままになってるみたい」


 ヒナルが俺の言葉を引き継いだ。その顔は蒼白だ。


「お兄ちゃん。この穴……私たちがこっち戻ってくる時に通った『召喚陣』なんかより、ずっと乱暴で、ずっと危険なものだよ。……無理やり、世界と世界を繋げようとして、失敗したエラーなんじゃないかな」


「……失敗した跡、か」


 俺は立ち上がり、周囲を見渡した。  この異常な消失現象。  そして、警察が怯えて近寄れないほどの異様さ。  点と点が繋がり、一つの恐ろしい仮説が脳裏に浮かび上がる。


「……おそらく、ここで行われたのは『人間を触媒にした強制転移』だ」


「人間を……触媒に?」


「ああ。昨日破壊した魔導装置で精神を弱らせ、認識を阻害した人間を……この場所へ誘導する。そして、何らかの術式で、肉体ごと異世界へ送り込む。……だが、正規の手順じゃない。強引すぎて、空間そのものが耐えきれずに崩壊したんだ」


 俺は虚無の穴を睨みつけた。


「ここで消えた30人以上の人々は、誘拐されたんじゃない。……この穴に飲み込まれて、向こう側へ落ちたんだ」


「ソ、ソンナ……! ジャア、ミンナ死ンジャッタッテコトデスカ!?」


 アレックスが叫ぶ。


「……運が良ければ、異世界のどこかに放り出されて生きているかもしれない。だが、この乱暴な転移だ。途中の次元の狭間で消滅したか、あるいは……肉体が変質してしまっている可能性もある」


 重苦しい沈黙が路地裏を支配した。  雨音だけが、ザアザアと降り続く。  これは災害だ。  人為的に引き起こされた、空間災害。


「……許せない」


 ヒナルが、ギリリと歯を食いしばる音が聞こえた。  彼女の双眸に、激しい怒りの炎が宿る。


「関係ない人たちを巻き込んで……こんな使い捨てみたいな真似をして……! お兄ちゃん、私、絶対にこの犯人を許さない! 神様に代わって、私が地獄へ送ってやるわ!」


 普段は俺への愛に生きる彼女だが、根は慈悲深い聖女だ。無辜むこの民を犠牲にする外道に対しては、容赦がない。


「ああ、同感だ。……だが、今は迂闊に手を出せない」


 俺はヒナルの肩を抱き寄せ、冷静さを取り戻させた。


「この穴は、まだ不安定だ。警察がテープを張っただけで放置したのも賢明な判断だ。下手に触れれば、連鎖的に崩壊が広がって、この官庁街ごと消し飛びかねない」


「っ……!」


「まずは、ここを封鎖する。……ヒナル、お前の『聖域結界サンクチュアリ』で、この路地全体を覆えるか? 黄色いテープの内側ごと、一般人が認識できないように隔離するんだ」


「……うん、やってみる。お兄ちゃんのためなら、これくらい……!」


 ヒナルが深呼吸をし、両手を広げた。  彼女の身体から、柔らかな金色の光が溢れ出す。


「《聖域結界・認識遮断ホーリー・フィールド・インビジブル》……!」


 静かな波紋のように光が広がり、路地裏全体を包み込んだ。  これで、外からはこの「虚無の穴」は見えなくなり、誰も近づこうとは思わなくなるはずだ。


「お見事。……さすが俺の妹だ」


「えへへ……♡」


 俺が頭を撫でると、ヒナルは嬉しそうに頬を染めたが、すぐに表情を引き締めた。


「でもお兄ちゃん、これからどうするの? ここはあくまで『跡地』だよ。犯人はもう、ここにはいないわ」


「そうだな。……だが、手掛かりはある」


 俺は足元の濡れたアスファルトに視線を落とした。  黄色い規制テープの外側。  そこに、雨に流されかけてはいるが、微かに残る**「靴跡」**があった。


「……これだ」


 俺は指差した。  それは、この異常な空間崩壊の中でも消滅せず、むしろその縁に立って崩壊を見届けていた者の足跡だ。


「この足跡……。サイズは27センチ前後。革靴じゃない。……ブーツだ。それも、軍用のような底の厚い」


「軍用ブーツ……?」


「そして、この足跡から漂う魔力……。薄いが、確かに感じるぞ」


 俺はニヤリと笑った。


「奴は、この崩壊を確認した後、東の方角へ歩き去っている。……わざわざ徒歩で移動したってことは、転移魔法が使えない状態だったか、あるいは足跡を残すことで俺たちを誘っているか」


「誘ってる……?」


「どちらにせよ、追う価値はある。……アレックス、お前の出番だ」


「エッ!? 僕デスカ!?」


「お前は幽霊だ。物理的な足跡じゃなく、この足跡に残った『残留思念』の匂いを追えるか?」


 俺の問いに、アレックスはしばらく足跡の周りをクンクンと嗅ぎ回り(鼻はないが)、やがてハッと顔を上げた。


「……匂イマス! コイツ……凄ク嫌ナ匂イガシマス! 腐ッタ卵ト、香水ヲ混ゼタミタイナ……! コッチデス、レイジ様!」


 アレックスが東の空を指差して飛び上がった。


「よし、追跡開始だ。……雨で匂いが消える前に、尻尾を掴むぞ」


 俺たちは「虚無の穴」と黄色いテープに背を向け、走り出した。  スーツと制服が雨に濡れるのも構わず、見えない敵の影を追って。


 官庁街の無機質なビルの向こう側。  そこには、古くからある工業地帯の煙突が、墓標のように並んでいた。

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