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第215話 ジャージ姿の英雄と嫉妬の聖女

 

 叔父さんの家を出る前、俺はコウから借りた服に着替えるために洗面所へ向かった。  鏡に映るのは、昨日までの重厚なフルプレート・メイルを纏った「勇者」ではない。  紺色の生地に白のラインが入った、どこにでもある高校指定のジャージ。  それを身につけた俺の姿だった。


「……ふむ。少し肩周りがきついか? でも、サイズは何とかなりそうだな」


 俺は腕を回し、着心地を確かめた。  異世界での鍛錬により、俺の筋肉はコウよりも二回りほど太くなっている。そのせいで、ジャージの胸元や上腕二頭筋のあたりがパツパツに張ってしまい、身体のラインが浮き彫りになっていた。  だが、それが逆に「鍛え上げられたアスリート」のような雰囲気を醸し出している。


 俺は軽く髪を整え、リビングへと戻った。


「待たせたな。……どうだ? これなら変に目立たないと思うんだが」


 俺がリビングの扉を開け、女性陣の前に姿を現した瞬間。  場の空気が、ピタリと止まった。


「……っ」


 ソファで待っていたユミカが、俺を見た瞬間に眼鏡をずり落ちさせそうになり、慌てて口元を手で覆った。


(う、嘘……。な、何これ……反則ですよ、レイジさん……!)


 彼女の頬が、みるみるうちに林檎のように赤く染まっていく。


「……昨日までの『鎧姿の勇者様』も素敵でしたけど……その、今の姿……完全に『爽やかスポーツマンなイケメン』じゃないですか……! ジャージなのに、その胸板の厚さと、筋肉で張り詰めた生地の感じが……ああっ、目のやり場が……っ!」


 ユミカが眼鏡の奥で目を回している。  そして、その横で床に正座して待機していたカナとリサに至っては、もっと露骨な反応を見せた。


「は、はわわ……っ! レ、レイジ様……いえ、先輩……ッ!?」


 カナが顔を両手で覆い、指の隙間から熱っぽい視線を送ってくる。


「か、かっこいい……。鎧を脱いだら、こんなに普通の男の子っぽいなんて……。なのに、あふれ出る大人の色気と強者のオーラ……。こ、これって『ギャップ萌え』の最高峰じゃ……!」


「やばいですぅ……! 私、ジャージフェチかもしれません……! その、パツパツの太ももとか、腕まくりした血管とか……! ああんっ、それで罵られたいですぅ……!」


 リサがクネクネと身をよじらせ、恍惚の表情を浮かべる。  昨夜の「優しさ」に加え、この「親しみやすい外見(中身は最強)」という劇薬。  二人の更生労働員としての忠誠心は、急速に歪んだ恋心へと変質しつつあった。


 だが。  そんな黄色い歓声(?)を一瞬で凍り付かせる、絶対零度の殺気がリビングを支配した。


「……へぇ。みんな、お兄ちゃんのその格好が、そ・ん・な・に・気に入ったんだ?」


 ヒナルだった。  彼女は満面の笑みを浮かべていた。天使のような、慈愛に満ちた笑顔だ。  だが、その背後には、不動明王も裸足で逃げ出すほどのどす黒いオーラが揺らめいている。


「お兄ちゃん、かっこいいね♡ その服、すごく似合ってるよ。……でもね、その筋肉も、その血管も、服の下の素肌も……ぜーんぶ、**『私の』**だよね? ね?」


 ヒナルが俺の腕に絡みつき、まるで所有印を押すかのように頬を擦り付ける。


「他の女が、お兄ちゃんの体をいやらしい目で見るなんて……。眼球を漂白クリーニングしてあげた方がいいかな? それとも、視神経ごと遮断シャットダウンがお望み?」


「「ヒィッ!! ご、ごめんなさいぃぃッ!! 地面見ます! ミジンコ見ますぅ!!」」


 カナとリサが即座に土下座し、床の木目だけを凝視し始めた。  ユミカも「あ、あの、私は健全な鑑賞ですので!」と必死に弁解している。


 そんな修羅場を、窓の外から見ていたアレックスが、血の涙を流しながら窓ガラスをバンバンと叩いた。


(不公平ダァァァッ!! ナンデアイツハ、ジャージ着タダケデモテるンデスカァァ!! 僕ナンテ生前、転移スル前ナンテ、ジャージ着タラ『不審者』ッテ言ワレタノニィィ! 爆発シロ! 筋肉爆発シロォォッ!)


「……やかましいぞ、アレックス。行くぞ」


 俺は幽霊の嫉妬を無視し、一行を連れて家を出た。



………。

……。

…。



 俺たちが向かった先は、叔父さんの家から徒歩で15分ほどの場所にある、駅前の大型ショッピングモールだった。  休日の午前中ということもあり、通りは多くの人で賑わっていた。  家族連れ、制服姿の学生、買い出しの主婦たち。  平和な日本の風景。  だが、その光景は、俺の目にはまったく別のものとして映っていた。


「……酷いな、これは」


 俺は足を止め、モールの巨大な建物を仰ぎ見た。  一般人には見えないだろう。  だが、俺とヒナル、そして魔力を持つ者たちの目には、その建物全体が、紫色のドス黒いもやに覆われているのがはっきりと見えた。


「空気が……淀んでいます。まるで、水槽の水が腐ったような……」


 ユミカが気持ち悪そうに胸元を押さえる。


「レイジ様……。あそこから、凄く嫌な匂いがします。鉄の錆びたような、血が乾いたような……」


 カナが怯えて俺の背中に隠れる。


「あそこにいる人たち……気づいてないんですねぇ。毒ガスの中を歩いてるみたいに見えますぅ……」


 リサの言う通りだ。  買い物客たちは、笑顔でその「靄」の中を出入りしている。  だが、よく見れば、彼らの顔色は少し優れず、足取りはどこか重い。微弱な魔力が、彼らの生気ライフ・フォースを少しずつ、気づかれないレベルで吸い上げているのだ。


「……あの靄の中心。魔力の発生源ソースは、あのモールの地下だ」


 俺は《魔力感知》の精度を上げ、発生源を特定した。  地下駐車場か、あるいはそのさらに下か。  そこから、アスガルドの遺跡で感じたのと同じ、無機質で冷たい魔力が、心臓の鼓動のように脈打っている。


「……行きましょう、お兄ちゃん。これ以上、この街の人たちを餌にさせるわけにはいかないわ」


 ヒナルの瞳から、ハイライトが消える。  家族(俺)との平穏な日常を邪魔するモノは、彼女にとっては全て駆除対象だ。


 俺たちは人混みに紛れ、モールの中へと足を踏み入れた。  自動ドアが開くと、冷房の風と共に、濃厚な魔力の残滓が肌にまとわりつく。


 明るい店内。流行の音楽。  だが、視界の端々には、異世界の痕跡が見え隠れしていた。  壁のシミが人の顔に見えたり、ショーウィンドウのマネキンの首が微妙にずれていたり。  そして、すれ違う人々の肩に、小さな黒い影――低級な**悪霊レイス**の幼体のようなものが憑りついているのが見える。


「オ、オイ、ルイス様! 見エマスカ!? アソコ!」


 アレックス(認識阻害中)が、怯えた声で指を差した。  指差す先は、エスカレーターの脇にある、何の変哲もない「ガチャガチャコーナー」だった。  だが、その一角だけ、空間が歪んでいる。


 無数のガチャガチャの筐体の中に、一台だけ、真っ黒な筐体が混ざっていた。  中身が見えない。商品ポップもない。  ただ、黒い鉄の箱が、ブォン……ブォン……と低い重低音を響かせている。


「……あれか」


 俺は周囲を警戒しながら、その黒い筐体に近づいた。  一般人は、その筐体を避けるように歩いている。おそらく、無意識に「認識したくないもの」として脳が処理しているのだろう。


「ビンゴですね。……あれ、ただのガチャガチャじゃありません。魔導回路が埋め込まれてます」


 ユミカが眼鏡の位置を直し、冷静に分析する。


「しかも、この魔力パターン……。微弱な電波で人の深層心理に干渉して、不安や恐怖を煽るタイプの……」


「そんなものが、どうして日本のショッピングモールに?」


 俺は筐体の前に立ち、手をかざした。  冷たい。まるで氷に触れているようだ。  そして、その奥から微かに聞こえる、機械的な駆動音。


 『……座標、確立……』  『……浸食率、0.8%……』  『……勇者ノ、反応ヲ、感知……』


 頭の中に、ノイズ交じりの機械音声が響いた。  俺は舌打ちをし、ヒナルに目配せをした。


「ヒナル。……やれるか?」


「うん、お兄ちゃん。……こんな汚いオモチャ、壊しちゃうね」


 ヒナルがニッコリと笑い、俺の影に隠れるようにして指先を向けた。  周囲の客には見えない角度で、極小だが高密度の聖魔法を練り上げる。


「《聖なる浄化ホーリー・パージ局所ピンポイント》」


 シュンッ!


 ヒナルの指先から放たれた白い閃光が、黒い筐体を貫いた。  音もなく、衝撃もなく。  ただ、筐体の中にあった「核」だけを正確に焼き切った。


 プシュウゥゥ……。  筐体から黒い煙が上がり、周囲を覆っていた紫色の靄が霧散していく。


「……よし。反応が消えた」


 俺が確認すると同時に、すれ違う人々の顔色が少し良くなったように見えた。憑りついていた黒い影も消滅している。


「さすがですね、ヒナルちゃん。外科手術みたいな精密さです」


「えへへ、お兄ちゃんのためなら、これくらい朝飯前だよ♡」


 ヒナルが俺に抱きつき、褒めてアピールをする。俺はよしよしと頭を撫でてやった。


 だが、俺の表情は晴れなかった。  これは、氷山の一角に過ぎない。  この黒い筐体のような「楔」が、この街にはまだ無数に埋め込まれている。  そして、それらを設置し、管理している「何者か」が、必ずこの近くにいるはずだ。


「……ねぇ、レイジ様」


 リサが、怯えた声で俺の袖を引いた。


「な、なんか……視線を感じますぅ。こっちを見てる、嫌な視線が……」


「ああ。俺も感じてる」


 俺は鋭い視線を、吹き抜けの上階、3階のテラス部分へと向けた。  そこには、誰もいない。  だが、一瞬だけ――黒いローブを纏った人影が、こちらを見下ろして笑ったような気がした。


「……尻尾を掴んだな」


 俺はジャージのポケットに手を突っ込み、ニヤリと笑った。


「鬼ごっこの始まりだ。……平和な日本で戦争を仕掛けようなんて馬鹿な真似をしたことを、たっぷりと後悔させてやる」


 日常の中に潜む非日常。  俺たちの戦いは、このモールの喧騒の中で、静かに、しかし確実に幕を開けた。

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