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第213話 鏡合わせの兄弟

 脱衣所の鏡に映ったのは、奇妙なほどによく似た、しかし決定的に違う二人の男の姿だった。  湯気で白く曇った浴室のドアを開けると、カポーンという桶の音と、石鹸の甘い香りが鼻腔をくすぐる。  日本の風呂。  異世界のアスガルドにも公衆浴場はあったし、ルイスとしての権力で豪華な風呂も作らせた。だが、この狭くて生活感のあるユニットバスが醸し出す「安心感」は、何物にも代えがたい。


「……背中、流すよ。兄貴」


 湯船にお湯を張りながら、コウが少し照れくさそうに言った。  高校のジャージを脱いだ弟の体は、部活で鍛えているのかそれなりに引き締まっているが、やはりまだ少年のあどけなさが残っている。  対して俺の体は、無数の傷跡と、鋼鉄のように鍛え上げられた筋肉の塊だ。並ぶと、その差は歴然としている。


「ああ……頼む。弟に背中を流してもらうなんて、いつぶりだろうな。……いや、初めてか」


 俺は風呂椅子に腰掛け、無防備な背中を弟に預けた。  背後で、コウがスポンジにボディソープを含ませる音がする。  そして、温かい泡と共に、弟の手が俺の背中に触れた。


「……すげぇな、兄貴の背中。岩みたいだ」


 コウの手が、俺の広背筋をなぞる。  その手が、ある一点で止まった。  右肩から腰にかけて斜めに走る、大きく盛り上がった古傷。  かつて、凶暴なドラゴン種と死闘を繰り広げた時に負った、名誉の負傷だ。


「……これ、なんの傷だよ。……ただの怪我じゃねぇよな?」


 コウの声が震えている。  当然だ。日本でこんな傷を見ることはまずない。刀傷や銃創に見えなくもないその痕跡は、俺がくぐり抜けてきた修羅場の証明そのものだからだ。


「……ああ。向こうでの、生活の証だ」


 俺は、ヒナルとの打ち合わせを思い出していた。


 『いい? お兄ちゃん。本当のこと……異世界で魔王軍と戦ってたとか言っちゃダメだよ? 絶対に変な宗教に入ったと思われちゃうから』  


『じゃあ、なんて言えばいいんだ?』


 『外国の……そう、治安の悪い紛争地帯にいたってことにしておいて。少年兵みたいな感じで、生きるために必死だったって』


 ……妹ながら、なかなかハードな設定を考えたものだ。だが、この傷を説明するにはそれしかない。


「……俺が拾われた国はな、常にどこかで銃声が聞こえるような場所だったんだ」


 俺は静かに語り始めた。嘘を真実に混ぜ込んで。


「法の及ばない無法地帯だ。夜になれば、略奪者たちが村を襲いに来る。俺たちは……家族を守るために、子供の頃から武器を持つしかなかった」


「武器って……銃か?」


「銃も、ナイフも、鉄パイプも……使えるものは何でも使ったさ。……この傷は、俺たちの食料を奪いに来た奴らとやり合った時のものだ。相手は大人数で、俺は一人だった。……死ぬかと思ったよ」


 実際には、相手は黒いカマキリみたいな化け物の集団で、俺はガッシュから譲り受けたミスリルソード一本で立ち向かったのだが。


 コウの手が、優しく傷跡を洗っていく。  その感触は、異世界で受けたどんな回復魔法よりも、俺の心を癒やしてくれた。


「……怖く、なかったのかよ?」


「怖かったさ。いつ寝首を掻かれるか分からない。枕元に武器がないと眠れない日々だ。……泥水をすすることは日常茶飯事だし、カエルやネズミを食って飢えをしのいだこともある」


 これも事実だ。アレックスに無能と言われ続けたあの苦い日々……ダンジョンので遭難した時、魔物の肉を食って生き延びた経験は一度や二度ではない。


「……ごめん」


 不意に、コウが掠れた声で謝った。


「え?」


「俺……兄貴がそんな地獄みたいな場所で戦ってる間……日本で、のほほんと生きてた。部活がキツイとか、テストがだるいとか……そんなくだらねぇことで悩んで……。兄貴はずっと、命がけだったのに……」


 背中から伝わる弟の体温が、熱くなる。  彼が流しているのは、お湯だけではないのかもしれない。


 俺は振り返り、コウの手を掴んだ。


「……謝るな、コウ。それが正解なんだ」


「兄貴……?」


「俺が必死で生き抜いてきたのは、いつか日本に帰るためだ。……お前たちが暮らす、この平和な日常に戻るためだ。お前が『部活がキツイ』なんて文句を言える平和な世界に生きていてくれたこと……それが、俺にとっては何よりの救いなんだよ」


 俺はコウの目を見て、力強く頷いた。


「お前が俺の分まで、平和な日本を謳歌してくれていてよかった。……ありがとうな、生きててくれて」


「……っ、兄貴ぃ……」


 コウが鼻をすすり、乱暴に顔をこすった。


「……かっこよすぎだろ、バカ野郎。……そんなこと言われたら、俺、兄貴に一生勝てねぇじゃんか」


「ははっ、勝負なんかしてないさ。……さあ、次は俺が洗ってやる。交代だ」


 俺はコウを座らせ、スポンジを受け取った。  弟の背中は、俺よりは小さいが、それでも男らしく広くなっていた。


「……それにしても、本当によく似てるな。俺たち」


 俺はコウの背中を流しながら、正面の鏡越しに弟の顔を見た。  濡れた黒髪。意志の強そうな眉。  そこにあるのは、16年前の俺――もし日本で平和に暮らしていたら、こうなっていたであろう「可能性の姿」そのものだった。


「だろ? 母さんもよく言ってたよ。『コウはレイジにそっくりね』って。……声まで似てるなんて思わなかったけどさ」


「ああ。自分の声を録音して聞いてるみたいだ。……不思議だな。一緒に育ったわけじゃないのに」


 血の濃さ。遺伝子の神秘。  俺が異世界で人の限界を超えるほどの肉体改造レベルアップを経てもなお、根本的な「スガ レイジ」としての因子は消えていなかったのだ。


「……なあ、兄貴」


 コウが、鏡越しに俺と目を合わせた。


「姉ちゃん……ヒナル姉ちゃんのこと、頼むよ」


「ん?」


「姉ちゃん、凄く良い笑顔だった。事故で記憶が飛んだりしてたけど……兄貴と再会したからなのかな? 姉ちゃん、今まで見たことないくらい幸せそうな顔してるんだ。って言いながら俺もなんだけどね!」


 コウは少し恥ずかしそうに、でも真剣な顔で言った。


「俺にはよく分かんねぇ事情もあるのかもしれないけど……あの人が笑ってるなら、俺はそれでいい。……だからさ、もう二度と、姉ちゃんを泣かせないでくれよな。もちろん俺もだぞ!!」


 弟からの、不器用で、男らしいお願い。  俺は泡だらけの手で、ワシャワシャとコウの頭を撫で回した。


「……約束する。俺の命に代えても、ヒナルとコウ…お前たち家族は、俺が絶対に守る」


「うわっ、ちょ、泡だらけ! やめろって!」


「いいじゃないか。初めての兄弟のスキンシップだ」


「子供扱いすんなよ! 俺だってもう高校生だぞ!」


 コウが笑いながら抵抗する。  浴室に響く笑い声。湯気の中で交わされる、他愛のない会話。


 俺は、心の底から思った。  帰ってきたんだな……と。  女神を倒した時の栄誉よりも、世界を救った時の歓声よりも。  今、この狭いユニットバスで、弟と背中を流し合っているこの瞬間こそが、俺が16年間求め続けた「報酬」なのだと。もちろん嫁たちもだけど…。それとはまた別で心地が良い…。


「よし、流すぞ。お湯かけるから目をつぶれ」


「おう! ……あー、気持ちいい」


 ザバーッとお湯をかける。  泡と共に、俺の中に澱んでいた異世界の孤独も、洗い流されていくようだった。


 風呂上がりに、二人で冷蔵庫の牛乳を飲む約束をして、俺たちは湯船に肩まで浸かった。  隣に並ぶ、自分と同じ顔をした弟。  この平穏を守るためなら、俺は再び修羅になることも厭わない。  ……たとえ、この平和な日本の裏側で、女神アーテーのような奴らの魔手が蠢き始めていたとしても。


 俺は熱いお湯の中で、静かに拳を握りしめた。

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