第212話 空白と真実の証拠、拡張される家族の食卓
通されたリビングは、記憶の底にある「日本の家庭」そのものだった。 温かみのある照明。大型のテレビ。生活感のある家具。そして、テーブルから立ち上る緑茶の湯気。 俺は、ガチャガチャと音を立てないよう慎重に鎧の肩当てを外し、ソファに深く腰掛けた。隣にはヒナルが、片時も離れまいとぴったりと体を寄せて座っている。 向かいには、まだ信じられないといった顔をしている叔父さんと叔母さん。そして、俺を食い入るように見つめている弟のコウ。 ユミカは、俺たちの少し後ろで、温かく、しかし鋭い観察眼で見守ってくれている。
「……まずは、お茶をどうぞ。粗茶だけど」
叔母さんが震える手で湯呑みを差し出してくれた。
「あ、ありがとうございます。……いただきます」
俺が両手で湯呑みを包み込み、一口すすると、体に染み渡るような渋みと香りが広がった。 ああ、日本だ。俺は本当に帰ってきたんだ。
「……それで、レイジ君。いや、レイジ……でいいのかな」
叔父さんが、意を決したように口を開いた。
「君がレイジだということは、その顔を見れば嫌でも分かる。コウと瓜二つだ。遺伝子検査なんて必要ないくらいにな。……だが、一つだけ聞かせてくれ。どうして、ヒナルちゃんとお前が……『兄妹』だと分かったんだい?」
その問いに、場の空気が張り詰めた。 当然の疑問だ。16年前に別れ、成長してから再会した男女。顔が似ているとはいえ、確証がなければ兄妹だと断定はできない。 俺は、膝の上に置いていた拳を握りしめた。 本当のこと――異世界のダンジョンで、ヒナルが持っていた写真を見たことや、俺のステータス画面に『スガ レイジ』と表示されていたこと――を話すわけにはいかない。
「……これを、見ていただけますか」
俺はテーブルの下で、こっそりと《異空間収納》を発動させた。 空間を歪めないよう、魔力を極限まで絞り、手元に「ある物」を出現させる。 それは、異世界で大切に保管していた、俺のルーツを示す数少ない遺品たちだ。
コトッ。 俺はテーブルの上に、古ぼけた手帳と、一枚の写真を置いた。
「これは……」
叔母さんが息を呑み、震える手でその手帳を手に取った。 それは、俺が4歳の時に持たされていた、幼稚園の連絡帳だった。表紙には、拙いひらがなで『すが れいじ』と書かれている。
「……間違いないわ。これ、私が書いた字だもの……。あの日、レイジが持っていったリュックに入っていた……」
叔母さんの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。 そして、もう一枚の写真。 それは、俺が異世界でずっと大事に持っていた、実の母親と幼い俺が写った写真だ。端はボロボロになり、色は褪せているが、そこに写る女性の笑顔は鮮明に残っている。
「……僕が失踪した時、着ていた服のポケットに入っていたんです。記憶が曖昧な時も、これだけはずっと……肌身離さず持っていました」
俺は静かに語りかけた。
「ヒナルと出会って……彼女が『兄を探している』と言った時、彼女も同じ写真を持っていたんです。そして、僕が持っていたこの手帳の筆跡と、写真に写る母さんの顔……全てが一致しました」
「……そう、だったのか」
叔父さんが、深いため息と共に天井を仰いだ。 物理的な証拠。そして、血の繋がりを示すこの顔。もはや疑う余地はない。
「兄貴……。その写真、大事にしてたんだな……」
コウが、ボロボロになった写真を指先で撫でた。
「俺、母さんから聞いてたよ。兄貴は、いなくなる直前まで『ママを守るんだ』って言ってたって。……記憶がなくなっても、大事なもんは忘れてなかったんだな」
「……ああ。これだけが、俺の唯一の道標だったからな」
俺はコウの真っ直ぐな瞳を見つめ返した。 弟に認められた気がして、胸が熱くなる。
「それで……レイジ。今まで、一体どこで何をしていたんだ? 16年間も……」
叔父さんが、心配そうに、しかし核心を突く質問を投げかけてきた。 ここからが正念場だ。 「異世界で勇者をやってました」なんて言えば、即座に精神病院送りだろう。 俺は、事前にヒナルやユミカと擦り合わせた「設定」を、慎重に口にした。
「……正直に話します。4歳で迷子になったあの日……僕は、どうやら誘拐に近い形で連れ去られたみたいなんです」
「ゆ、誘拐だって!?」
「はい。気がついた時には……日本ではない、遠い外国の……紛争地域に近い、貧しい村にいました」
半分嘘で、半分本当だ。アスガルドは日本ではないし、常に戦いが絶えない場所だった。
「言葉も通じない、自分が誰かも分からない。恐怖で泣き叫んでいた僕を……ある夫婦が拾ってくれたんです。厳しい人たちでしたが、血の繋がらない僕を、実の息子のように育ててくれました」
脳裏に浮かぶのは、養父アスガルドと、養母ユミルの顔。 魔王と元王妃。彼らの愛は本物だった。
「そこで生きるために、僕は必死で働きました。肉体労働も、警備の仕事も……。この体や傷は、その時のものです」
俺は服の上からでも分かる筋肉と、腕に走る古傷を隠すように撫でた。 コウが息を呑む。平和な日本では考えられない過酷な生活を想像したのだろう。
「そんな……。そんな酷い環境で……よく無事で……」
叔母さんが涙ぐみながら俺の手を握る。
「でも、どうしても日本に帰りたかった。微かな記憶を頼りに、必死でお金を貯めて……ようやく日本に戻ってきたのが、数ヶ月前だったんです」
そして、俺は隣のヒナルを見た。 彼女は、俺の言葉に合わせてコクリと頷く。
「日本に戻ってきて、僕は偶然……事故に遭いそうになったヒナルを助けました。その時は、まさか自分の妹だなんて夢にも思いませんでした」
「えっ……? じゃあ、最初は兄妹だと知らずに?」
「はい。ヒナルは事故のショックで記憶が混乱していて……行き場がなかった。僕も、日本に身寄りがなかった。だから……」
俺は少し言い淀み、そして意を決して言った。
「……一緒に、暮らしていました。狭いアパートで、二人きりで」
「に、二人きりで……!?」
叔父さんが目を丸くする。年頃の男女が、兄妹だと知らずに同棲していた。 その事実に、場がざわめく。
「はい。私は……レイジさんに助けられて、リハビリも、食事も、全部お世話してもらって……。とっても優しくて、強くて……。お兄ちゃんだって分かる前から、私にとって一番大切な人になってました」
ヒナルが、俺の腕をさらに強く抱きしめ、うっとりとした表情で語る。 そこには嘘はない。だが、その「大切」の意味が、親愛の情を遥かに超えていることを、叔父さんたちはまだ知らない。
「それに、驚かないでくださいね。……私たちが住んでいたアパート、実はここから凄く近くだったんです」
「ええっ!?」
叔母さんが声を上げる。
「隣町……電車で二駅くらいのところにある、古いアパートでした。まさか、こんなに近くに親戚の家があるなんて知らなくて……」
俺が補足すると、叔父さんは頭を抱えた。
「なんてことだ……。そんな近くにいたのに、私たちは気づけなかったのか……。灯台下暗しとはこのことか……」
「……でも、だからこそ会えたのかもしれません。運命が、引き寄せてくれたんだと思います」
俺は優しい嘘を重ねた。本当は、異世界の座標が偶然重なっただけなのだが、今は「運命」と言っておく方が美しいだろう。
「そうか……。すごいな、ドラマみたいだ」
コウは納得したように見えたが、その瞳には「兄貴、すげぇ」という尊敬と、「姉ちゃん、兄貴のこと好きすぎじゃないか?」という微かな疑念が混じっていた。
「……まあ、詳しい話はまた明日ゆっくり聞こう。今日はもう遅い。二人とも疲れているだろう?」
叔父さんがパンと手を叩き、空気を切り替えた。
「部屋はあるから、今日は泊まっていきなさい。レイジ、お前もだ。……ここは、お前の家でもあるんだから」
「……っ。はい。ありがとうございます、叔父さん」
「お前の家」。その言葉が胸に染みる。 その時だった。ヒナルが、何かを思い出したようにハッとして、叔父さんと叔母さんに頭を下げた。
「あ、あの! おばさん、おじさん! お願いがあるの!」
「ん? どうしたの、ヒナルちゃん」
「実は……外に、友達が二人待っているの! ……その、私の高校の同級生なんだけど……」
「えっ? 同級生? こんな時間に?」
「うん。……あの子たち、家庭の事情で家出をしてて……行く場所がないの。私と一緒にずっと行動してたんだけど、外ですごく寒がってて……。お願い、あの子たちも泊めてあげて!」
ヒナルの言葉に、俺は内心で舌を巻いた。 カナとリサ。かつてヒナルを酷くいじめていた主犯格と取り巻き。 それを「同級生(友達)」として紹介し、家に招き入れようとする。 これは慈悲か、それとも「逃さない」という意思表示か。
「まあっ! ヒナルちゃんのお友達なの!?」
事情を知らない叔母さんは、目を丸くして立ち上がった。
「なんてこと! こんな寒い夜に外で待たせてるの!? 早く呼んでらっしゃい! 部屋なら余ってるから、みんなで泊まればいいわ!」
「い、いいんですか……?」
「当たり前じゃないか。ヒナルちゃんの友達なら、大歓迎だよ。遠慮なんてするな」
叔父さんも力強く頷いてくれた。……日本の情け、ここにありだ。
「ありがとう、おじさん、おばさん! ……お兄ちゃん、呼んできてあげて?」
ヒナルが俺を見上げ、ニコリと微笑む。その笑顔は天使のようだが、瞳の奥には「私の所有物を外で凍死させるわけにはいかないから」という冷徹な計算が見え隠れしていた。
「あ、ああ……分かった」
俺は急いで玄関へと向かい、ドアを開けた。 そこには、門の影で身を寄せ合い、ガタガタと震えているカナとリサ、そして宙に浮いて「サムイ……心ガサムイ……」と呟いているアレックスがいた。
「おい、カナ、リサ。入れ。泊めてくれるそうだ」
「えっ……!?」
二人は驚愕の表情で顔を見合わせた。
「ほ、本当ですか……? 私みたいな……薄汚い奴隷が、お屋敷に入っても……?」
「奴隷じゃない。ヒナルが『同級生だから』って口を利いてくれたんだ。今日は『お客様』だぞ。ほら、早く来い」
俺が促すと、二人は恐る恐る玄関をくぐり、リビングへと入ってきた。 温かい部屋。明るい照明。そして、優しそうな叔父さんと叔母さん。 その光景を見た瞬間、カナとリサはその場に膝をつき、深々と頭を下げた。
「あ、あの……! お、お邪魔します……! 私、カナといいます……! こっちはリサです……! ご迷惑をおかけして申し訳ありません……!」
「あ、ありがとうございますぅ……! 地べたで寝ますから……! トイレ掃除でもなんでもしますからぁ……!」
更生労働員としての習性が抜けきらない二人の卑屈すぎる態度に、叔母さんは目を丸くしたが、すぐに慈愛に満ちた笑顔を向けた。
「まあまあ、そんなに畏まらなくていいのよ。大変だったわねぇ。さあ、こっちへいらっしゃい。温かいお茶とお菓子があるわよ」
「お、お茶……? お菓子……? わ、私たちに……?」
カナの目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。 かつて自分が虐めていたヒナルの親戚から、こんなに優しくされるなんて。その罪悪感と、安堵感が彼女の心をかき乱しているのだろう。
「うぅぅ……天国だぁ……。ヒナル様……いえ、ヒナルちゃん、ありがとう……」
リサも泣き崩れながら、ヒナルに向かって拝むように手を合わせた。 ヒナルは、そんな二人を見て、「うふふ、よかったね二人とも♡」と微笑んでいる。……完全に掌握している顔だ。
そんな感動的(?)な光景の外で、アレックスだけが窓に張り付き、血の涙を流していた。
(ルイス様ァァァ……! 僕ハ!? 僕ノ分ノお茶ハ!? 同級生ジャナイケド、元・勇者デスヨ!? 幽霊差別ハンターイ!!)
俺は窓越しの彼を無視し、ユミカに視線を送った。
「ユミカちゃんも、遅くまで付き合わせちゃってごめんね。家まで送るよ」
「いえ! 私は……あ、でも、そうですね。一度帰って、親に顔を見せないと」
ユミカが立ち上がり、俺とヒナル、そして泣きながらお菓子を頬張るカナたちを見て、安心したように微笑んだ。
「レイジさん、ヒナルちゃん。また明日、来ますからね。……絶対ですよ?」
「ああ。待ってるよ、ユミカ」
ユミカが去り、リビングには拡張された「家族」と「居候」たちが残された。
「兄貴! 風呂、一緒に入ろうぜ! 背中流すよ!」
コウが目を輝かせて俺の腕を引く。
「お、おいコウ。いきなりかよ」
「いいじゃんか! 16年分、話したいこと山ほどあるんだからさ!」
弟の無邪気な笑顔。 温かいお茶を飲んで泣いているカナとリサ。 俺の横で幸せそうに微笑むヒナル。
俺は苦笑しつつ、この奇妙で温かい平和を守るためなら、どんな嘘でもつき、どんな敵でも倒してみせると、改めて心に誓った。 たとえ、窓の外で幽霊が騒いでいようとも、今夜だけは、ただの「兄」として過ごそう。




