第211話 16年越しのインターホン、あるいは双子の幻影
深夜の住宅街は、俺たちの歩く足音だけが響くほどに静まり返っていた。 アスファルトに伸びる街灯の影。どこかの家から聞こえるテレビの音。 かつて俺が4歳まで過ごし、そしてヒナルやユミカが暮らしていた「日常」がそこにあった。
俺たちは、ユミカの家を経由した後、ヒナルが身を寄せているという親戚の家へと向かっていた。 俺の背後には、未だに周囲を警戒してビクついているカナとリサ。そして、首輪(呪い)をつけられて大人しくなった幽霊のアレックス。 隣には、俺の腕を絶対に離さないとばかりにしがみつくヒナル。 そして反対側には、案内役を買って出たユミカが並んで歩いていた。
「……ここです。ここが、私がお世話になっていたおじさんの家……」
ヒナルが足を止めた。 目の前には、手入れの行き届いた庭を持つ、立派な二階建ての一軒家があった。表札には**『菅』**という文字。 俺の記憶にはない場所だ。だが、ここから漂う空気には、どこか懐かしい「血」の匂いを感じる。
「……緊張するか、ヒナル」
「うん……。だって、私……突然いなくなっちゃったから。もう数ヶ月も経ってるし……凄く心配かけちゃってると思う」
ヒナルが不安そうに身を縮める。 俺は彼女の肩を抱き寄せ、力強く頷いた。
「大丈夫だ。俺がついている。それに……どんなに時間が経っても、家族が生きて帰ってくることほど嬉しいことはないはずだ」
「ルイスさん……」
ユミカが、眼鏡の奥の瞳を優しく細めた。 彼女はそっと俺たちの背中に手を添える。
「行きましょう。私が証人になります。ヒナルちゃんは事故に巻き込まれて、記憶が混乱していただけだって……そう説明しましょう。……私が二人を守りますから。おじさんやおばさんが、もし怒っても」
「ユミカちゃん……ありがとう」
ユミカの言葉には、以前のような事務的な響きではなく、温かな慈愛と、そして俺たち兄妹を守ろうとする強い意志が宿っていた。
俺は意を決して、門扉を開けた。 カナとリサ、アレックスには門の外で待機するように目配せをする。フルプレートの鎧を着た不審者(俺)だけでも怪しいのに、さらに怪しい連中を連れて行くわけにはいかない。
砂利を踏みしめ、玄関の前へ。 ヒナルが震える指で、インターホンのボタンを押した。
ピンポォォォン……。
静寂を破る電子音が、やけに大きく響いた。 数秒の沈黙。 心臓の鼓動が早くなる。俺は「魔王」と対峙した時でさえ、こんなに緊張しなかったはずだ。
ガチャッ。 インターホンの通話口から、少し疲れたような、しかし切迫した女性の声が響いた。
『……はい。どなたですか? こんな夜分に……』
「……お、おばさん。……私。……ヒナルです」
ヒナルが、絞り出すように声を上げた。 その瞬間、向こう側で「えっ!?」という息を呑む音が聞こえ、ドタドタドタッ! と慌ただしい足音が廊下を駆ける音が響いてきた。
ガチャリ。 鍵が開く音と共に、玄関のドアが勢いよく開かれた。
「ヒナルちゃんッ!? ヒナルちゃんなのッ!?」
飛び出してきたのは、エプロン姿の中年女性――俺たちの叔母にあたる人だろうか。そしてその後ろから、ジャージ姿の男性――叔父さんも顔を出した。 二人は、ボロボロの服を着たヒナルを見るなり、その場に泣き崩れるようにして抱きついた。
「よかったぁ……! 本当によかった……! 警察にも届けて、ずっと探してたのよ……! 一体どこに行ってたの……!」
「無事でよかった……! 神様、仏様……!」
「おばさん、おじさん……ごめんなさい、心配かけて……。うぅっ……」
ヒナルもまた、堪えきれずに涙を流す。 感動の再会。 俺はそれを、少し離れた場所で静かに見守っていた。温かい。これが、本来あるべき家族の姿なのだろう。
だが、その空気は、叔父さんが俺の存在に気づいた瞬間に凍り付いた。
「……ん? 君は……?」
叔父さんが怪訝な顔をする。無理もない。 夜中に姪っ子を連れて帰ってきた男が、全身鎧にマント、背中には巨大な剣を背負ったコスプレ不審者なのだから。
「あ、あの……不審者じゃありません! この人は……!」
ヒナルが慌てて涙を拭い、俺の前に立ちはだかった。 そして、真っ直ぐに叔父さんと叔母さんを見つめ、用意していた「真実」を告げた。
「私が……交通事故に遭ったとき、助けてくれたの。車に撥ねられそうになった私を、この人が身を挺して守ってくれて……」
「こ、交通事故だって!? じゃあ、今まで連絡が取れなかったのは……」
「うん……頭を打って、少し混乱してて……。でも、この人がずっと守ってくれたの。リハビリも、生活も、全部支えてくれて……」
ヒナルが、俺の手をギュッと握りしめる。 その言葉は半分嘘で、半分は真実だ。俺たちは別の世界で、確かに支え合って生きてきたのだから。
「そ、そうだったのか……。君が、ヒナルちゃんを……」
叔父さんが、改めて俺を見た。 その視線が、俺の「顔」に留まった瞬間。叔父さんの目が点になった。
「……え?」
「紹介します。この人は……私を助けてくれた、命の恩人。……そしてね」
ヒナルが、震える声で告げた。
「……生きてたの。16年前に行方不明になった……私の本当のお兄ちゃん。レイジお兄ちゃんなの!」
「…………は?」
時が止まった。 叔父さんも、叔母さんも、口をポカンと開けて固まっている。 門の外で聞き耳を立てていたアレックスでさえ、「エッ!? マジデスカ!?」と声を上げているのが聞こえた。
「ヒ、ヒナルちゃん……? 何を言ってるんだい? レイジ君は……16年前に……」
「違うの! お兄ちゃんはずっと生きてたの! 事故の時、偶然通りかかって私を助けてくれたのが、レイジお兄ちゃんだったの! ほら、見て! この目、お父さんにそっくりでしょう!?」
ヒナルが必死に訴える。 俺は兜は被っていなかったが、今の俺は20歳の青年だ。4歳で失踪した時の面影など、そう簡単には分からないだろう。 俺は意を決して、一歩前に出た。そして、日本式の礼儀で深く頭を下げた。
「……突然申し訳ありません。菅レイジです。……長い間、ご心配をおかけしました。ただいま戻りました」
俺の声。俺の視線。 それを受けた叔母さんが、ハッとしたように口元を押さえた。
「その声……コウくんと……まさか……。でも、そんな……」
その時だった。 家の奥、二階からドタドタドタッ!! という、さらに激しい足音が近づいてきたのは。
「母さん! 父さん! 玄関で何騒いでんだよ! 近所迷惑だろ!」
若い少年の声。 玄関の奥から、一人の少年が不機嫌そうに飛び出してきた。 高校のジャージを着た、15、6歳くらいの少年。 ボサボサの黒髪に、強い意志を感じさせる茶色の瞳。
その顔を見た瞬間。 俺は、鏡を見ているのかと錯覚した。
「……あ? ヒナル姉ちゃん……!? 姉ちゃん、無事だったのかよ!!」
コウ。ヒナルの弟。 そして、俺の実の弟。 ヒナルから話には聞いていたが、まさかここまで似ているとは。
コウはヒナルに駆け寄ろうとして――そこで、俺の姿を見て急ブレーキをかけた。 彼もまた、鎧姿の俺に驚いた……のではない。 俺の「顔」を見て、彫像のように硬直したのだ。
「……は? え?」
コウが目を見開き、俺を凝視する。 俺もまた、彼を見つめ返す。
黒髪の色艶。鼻筋のライン。瞳の色。 俺の方が数歳年上で、体格も鍛え抜かれて一回り大きいし、顔には歴戦の傷跡がある。 だが、その骨格は、恐ろしいほどに瓜二つだった。 それは、他人の空似などでは説明がつかない。 同じ血が流れている者同士の、絶対的な証明。
「……だ、誰だよ、アンタ……?姉ちゃんの彼氏……?」
コウが震える声で呟いた。 警戒心と、混乱と、そして得体の知れない親近感が入り混じった表情。 彼は俺を知らない。俺が失踪したとき、彼はまだ生まれていなかったか、赤ん坊だったのだから。
「……お前が、コウだな?」
俺は静かに、その名前を呼んだ。 ヒナルから何度も聞かされた名前。初めて会うはずなのに、魂が震えるほどに「懐かしさ」を感じる。
「なんで……俺の名前を……? ていうか、なんだよその顔……まるで、俺の……」
コウが後ずさり、叔父さんたちの方を見る。 叔父さんが、震える声でコウに告げた。
「コウ……。信じられないかもしれないが……。彼が、レイジだ」
「……レイジ……?」
コウが眉を寄せて反芻し、そしてハッと息を呑んだ。
「レイジって……死んだはずの……俺の、兄貴……?」
「死んでない。こうして、戻ってきた」
俺は真っ直ぐに弟の目を見て、一歩近づいた。
「初めましてだな、コウ。俺が……お前の兄、レイジだ」
コウの目が極限まで見開かれる。 死んだと聞かされていた兄。写真でしか見たことのなかった幻影。 それが今、圧倒的な存在感を放って目の前に立っている。しかも、自分と瓜二つの顔をして。
「嘘だろ……。兄貴が生きてたなんて……。でも……」
コウは俺の顔を見つめ続け、やがて唇を震わせた。 疑おうにも、目の前の男からは、自分と同じ「血」の共鳴を感じざるを得ない。
「……本当に、兄貴なのか……?」
「ああ。今まで留守にしてすまなかった。……大きくなったな」
俺が手を差し伸べると、コウはその手を恐る恐る掴み――そして、堪えきれずに俺の胸に飛び込んできた。
「兄貴……ッ! 兄貴ぃぃぃッ!!」
コウが俺の鎧にしがみつき、子供のように泣きじゃくる。 初対面のはずの男に、彼は本能で「兄」を感じ取ったのだ。 俺は、震える手でその背中を抱きしめた。
温かい。 これが、血の繋がり。これが、俺が守るべき本当の世界。
「ずっと……会いたかった……! 写真でしか知らなかったけど……父さんも母さんも、ずっと兄貴の話をしてたんだぞ……!!」
「そうか……。俺もだ。ヒナルからお前の話を聞いて、ずっと会いたかった」
俺もまた、目頭が熱くなるのを止められなかった。 異世界で「勇者」として戦い、数多の修羅場をくぐり抜けてきた俺が、今、日本の玄関先で、初めて会う弟を抱きしめて泣いている。
ヒナルが、幸せそうに俺たち二人に抱きついた。 ユミカが、涙をぬぐいながら、優しく微笑んでいる。
異世界の話などいらない。 ただ、失われた家族が帰ってきた。 奇跡のような偶然で、姉を守って帰ってきた兄がいる。 その事実だけで、この夜は十分だった。
最強の勇者(兄)と、勇者に瓜二つの弟。 この運命的な初対面が、この世界に潜む「闇」への反撃の狼煙となることを、今はまだ、誰も知らない。




