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第209話 帰郷、あるいは異界・日本


 ールイス 視点ー


 視界を埋め尽くしていた極彩色の光の奔流が、唐突に途切れた。  三半規管をかき乱される浮遊感と、内臓が裏返るような吐き気。次元転移特有の不快感が全身を駆け巡る。


「……ッ、全員、無事か!?」


 俺は着地と同時に身構え、即座に周囲へ鋭い視線を走らせた。  背中には温かな重み――愛する妹であり、最愛の恋人であるヒナルが、俺の服をギュッと掴んでしがみついている。


「ん……っ、お兄ちゃん……? 大丈夫、私は平気だよ……」


「うぅ……酔いました……。ジェットコースターより酷いです……」


 少し離れた場所で、ユミカが口元を押さえてしゃがみ込んでいた。  そして、その背後には恐怖で震え上がっているカナとリサ。  さらに、宙を漂う青白い人魂――アレックス。


「ヒィッ! ル、ルイス様ぁ! 僕ノマイホームガ! 僕ノ安息ノ地、ゴミ箱ガ消エテマスゥゥッ! ココハドコデスカァ!?」


 アレックスが情けない悲鳴を上げながら、俺の周りを飛び回る。どうやら転移の衝撃で、彼が憑依していたあの薄汚いゴミ箱だけがどこかへ消滅してしまったらしい。  だが、そんな戯言に構っている暇はなかった。


「……静かにしろ、発情猿。状況を確認する」


 俺の声に、場が凍り付く。  俺たちが立っていたのは、薄暗く、埃っぽい巨大な空間だった。  天井は高く、鉄骨がむき出しになっている。窓は高い位置にあり、そこから差し込む月明かりだけが光源だ。  どこかの……倉庫か? 廃工場のような場所に見える。


 だが、それよりも異様なのは――匂いだ。  鼻をつく、濃厚な鉄錆の臭気。  戦場で何度も嗅いできた、死と暴力の匂い。


「……ひっ! な、なんですか、これ……!?」


 リサが短く悲鳴を上げ、カナの背中に隠れる。  目が慣れてくるにつれ、その惨状が明らかになった。


 血だ。  コンクリートの床、壁、そして放置された木箱に至るまで。  おびただしい量の鮮血が、ペンキをぶちまけたように撒き散らされていた。  それも、時間はそれほど経っていない。まだ生々しい赤黒さが残っている。


「……誰かがここで、殺し合いをしたのか? いや、これは……」


 俺は床の血痕に近づき、指先で触れた。  争った跡というよりは、一方的な蹂躙じゅうりん。  逃げ惑う者を、圧倒的な力で切り伏せたような凄惨な痕跡だ。


「……お兄ちゃん。この魔力の残滓……微かだけど、誰かの強い『怨念』を感じるわ」


 ヒナルが俺の袖を引き、不安そうに眉を寄せる。  彼女の聖女としての勘が、この場に染み付いた情念を感じ取っているようだ。


「ああ。ただの殺し合いじゃないな。……おい、カナ、リサ。お前たちは俺の後ろから離れるな。ユミカもだ」


「は、はいっ! 一生ついていきますルイス様っ!」


「わ、分かりました……。で、でもここ、どこなんでしょう……?」


 カナが顔面蒼白で頷き、ユミカが眼鏡の位置を直しながら周囲を見渡す。  俺は右手を軽く掲げ、意識を集中させた。  ここはレプリカの世界とは違う、未知の場所だ。まずは俺たちの力が通じるか確認しなければならない。


「……《身体強化フィジカル・ブースト》。……《聖域結界サンクチュアリ》」


 ブォン、と低い音と共に、俺の体を金色のオーラが包み、周囲に薄い光の膜が展開された。  体の中を巡る魔力回路に異常はない。ステータスも、スキルも、問題なく機能している。


「よし、魔法は使えるみたいだ。これなら何が来てもお前たちを守れる」


「さすがはお兄ちゃん! その光、とっても暖かい……♡」


 ヒナルがうっとりとした表情で俺の腕に頬を擦り付ける。  どんな陰惨な場所でも、彼女の体温だけが俺の癒やしだ。  だが、ユミカだけは何かを察したように、血痕ではなく「建物」の方を凝視していた。


「……ねえ、ルイスさん。この建物の構造……鉄骨の組み方とか、あのシャッター……」


「ん? どうしたユミカ。何か知っているのか?」


「いえ、知っているというか……まさかとは思いますけど……」


 ユミカがゴクリと喉を鳴らす。  俺は警戒を最大レベルに引き上げつつ、出口と思しき巨大な鉄製の扉へと向かった。  重厚な扉は少しだけ開いており、そこから外の空気が流れ込んでいる。


「出るぞ。何がいるか分からない。全員、戦闘態勢……いや、俺の後ろで待機だ」


 俺は《聖剣エクスカリバー》の柄に手を掛け、錆びついた鉄扉をゆっくりと押し開けた。


 ギギギギギィィィッ……。


 不快な金属音と共に、視界が開ける。  夜の湿った風が、俺の頬を撫でた。  そして、目に飛び込んできた光景に――俺は息を呑んだ。


「……なんだ、ここは」


 そこは、俺の知るエルドアスの石造りの街並みでも、アスガルドの幻想的な風景でもなかった。  見渡す限りに広がる、無機質なコンクリートの地面。  規則正しく並び、人工的な橙色の光を放つ街灯。  遠くに見える、光の粒を散りばめたような高層ビル群。  そして、耳に届くのは、魔物の咆哮ではなく……遠くを走る車の走行音と、サイレンの音。


 俺の記憶の底にある、おぼろげな原風景。  4歳の時に別れたはずの、「故郷」の残像がフラッシュバックする。


「……嘘……。嘘でしょ……?」


 背後で、ユミカが絶句した。  彼女は震える手で口元を覆い、その瞳を見開いている。


「こ、ここ……見覚えがある……。あの看板……『株)TOTI不動産』……? あそこのコンビニ……」


 リサとカナもまた、へたり込むようにその場に崩れ落ちた。


「ま、間違いありません……! ここ、私達がよく溜まってた……駅裏の倉庫街です……!」


「えっ、じゃあ……まさか……本当に……?」


 彼女たちの反応は劇的だった。  恐怖ではなく、信じられないものを見るような驚愕と、そして深い安堵。


 そして、誰よりも早く、その事実を叫んだのは――空気を読まないあの幽霊だった。


「ア、アアアアアッ……!! アノ看板! アノ自動販売機! そしてコノ湿気ッ!! 間違イナイデスゥゥッ!!」


 アレックスが、血の涙を流しながら夜空に向かって絶叫した。


「ジャ、ジャパーーーーーンッ!!!!! 日本ダァァァァァッ!!!! 帰ッテキタァァァァッ!!!」


「……日本、だと?」


 俺は呆然と呟いた。  ここが、日本?  俺が生まれ、そして奪われた故郷。  ヒナルやユミカたちが育った世界。


「……お兄ちゃん」


 ヒナルが、俺の手を強く、強く握りしめた。  彼女の瞳には、涙が溜まっている。


「間違いないわ。この空気、この匂い……。私達、帰ってきたのよ。……お兄ちゃんと私が生まれた、日本に」


「ヒナル……」


「ルイスさん……信じられませんけど……本当に、戻ってきたみたいです。私達の世界に」


 ユミカが眼鏡を外し、涙を拭った。


 俺たちは、戻ってきたのだ。  剣と魔法の世界から。  科学と文明、そして俺たちが失った「日常」がある世界へ。


 だが、俺の警戒心は解けなかった。  背後の倉庫に残された、おびただしい血痕。  ここが平和な日本だと言うのなら、あの惨劇は何だ?  まるで、魔物が暴れ回ったかのようなあの痕跡は。


「……喜ぶのはまだ早いぞ、全員」


 俺は静かに、しかし力強く告げた。


「ここが日本だとしても、俺たちの知っている日本とは限らない。それに……あの血の跡だ。何かが起きている可能性がある」


 俺は視線を、遠くに輝く街の灯りに向けた。  平和そうに見えるその光の影に、何かが潜んでいる予感がした。


「行くぞ。まずは情報収集だ。……ヒナル、ユミカ。案内を頼めるか? 俺には、この世界の常識が欠けている」


「……うん! 任せて、お兄ちゃん! 私の家……すぐ近くだから!」


「はい、ルイスさん。……でも、私の制服とか、ルイスさんのその鎧……この世界だと完全に『不審者』ですよ?」


 ユミカが苦笑いしながら、俺の全身を見回した。  言われてみればそうだ。俺は今、フルプレートの鎧に聖剣を背負っている。  この世界では、コスプレか狂人扱いだろう。


「……フッ、違いない。まずは着替える服の調達からか」


 俺は苦笑し、一歩を踏み出した。  アスファルトの硬い感触が、足の裏に伝わる。


 帰ってきた。  だが、ただの帰郷ではない。  俺たちにはまだ、やるべきことがある。  次元を超えて俺たちを弄ぶ「何か」との決着をつけるために。


 現代日本。  ここが、俺たちの新たな戦場だ。

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