骨粗鬆症患者 下編
「ほんとだ」私は、彼ー悪魔ルシファーーの白衣を掴み不自然に赤い頬をつねっていた。「本当にファンデーションだわ!それに赤いチーク!」
頬をつねられた彼は苦笑を浮かべていた。「御明察」
「御明察じゃないわ!事実よ!」私は言った。
悪魔リリスは透き通った黄土色のジンジャーティー越しにふたりの様子を眺めていた。ルシファーに顔を近づけたときファンデーションの香りがしたので、てっきりあのルシファーが女性との関係をもつようになったと思ったのだ。「胸ポケットにカイロも入ってるわよ」人間がいるってレヴィちゃんー悪魔レヴィヤタンーに言われて気になって来てみたら、幼い女の子じゃない。もちろんお化粧なんてしてないわ。じゃあファンデーションは、彼が塗っているってこと?なに?そういう趣味でも芽生えたわけ?確かに彼は昔から変わったところはあるけど、とリリスは考えを巡らせていた。この薬局で茶が出ないのはおかしいことに気づくまでは。何しろこの薬局で茶が出なかった日は、今の今まで一度もないからだ。ちなみにここで出す茶は茶葉も果実も、ミルクもシュガーもリリスが納品している。茶菓子はその時に届けている。
ファンデーションに乗ったチークが所々消えかけた彼は、シャツの胸ポケットから使用済みの使い捨てカイロを取り出した。私がそれを取り上げると、カイロは高熱を保っていた。当然、40度以上はある。
「熱は嘘だったのね!乾いた咳はわざと出していたの?」
彼はもう苦笑ではなく、いつもの柔らかな笑顔で頷いた。
心配して損した、と私は言おうとしたが、ため息だけが力なく抜けていった。
「美味しかったよ」彼は言った。
返す言葉は、ありがとう、しか見当たらなかった。調子が狂う。
「それが目的ね」空になったカップを置いて、リリスが言った。「患者さんへの茶、あなたが淹れたらいいじゃない」
リリスは優しく微笑んでいた。彼もリリスの提案に頷いていた。
「患者が来たら僕は薬を集めたりデータの確認をしたりしなくちゃいけないし、君にそうしてもらえると助かるな。もちろん、淹れてくれた茶は僕が患者に出すから君は表に出なくて大丈夫だよ」
そうやって彼は、私に存在理由をくれるのだ。
「この容器、もらってもいい?」
私は食器の片付けをするリリスに訊いた。
「いいわよ」リリスは洗い終わったカップの水気を取り棚にしまったあと、持ってきた茶葉や果物を適当な場所に揃えて並べた。「何に使うの?」
「集めているの」
私はロッカーから木製の宝箱を持ってくると、今までに集めた宝物をリリスに見せた。
「まあ。嬉しい」リリスは宝箱を覗き込んだ。喜んでいるようだった。「大切にしてくれているのね」
「ルシファーが言ったの。”忘れないように”って」私はひとつひとつ宝物を手にとって、その時のお菓子の感想をリリスに言った。「これはこんな味がした」「好みだった」「不思議だった」「これは見た目がかわいくて、食べるのが勿体なかった」「これは感想文だけ、何もついてなかったから」「これはー」そう私が伝えると、リリスはそれに答えた。「これはあれを使ったの。あれを入れることであの色になったのよ」「これは気合い入れて作った時ね。大分凝ったの」「この時は材料不足だったわ。でも代わりに入れたのが正解だったみたいね」まるで答え合わせをしているみたいに。
「花がね。枯れそうなの」
私は萎れかけた一輪の青い花をリリスに見せた。
「あらほんとね」リリスは花弁にそっと触れた。「今度またお菓子につけてあげるわ」
私は頷いた。花は脆く、儚い。私は萎れかけた花をまた宝箱にしまった。
「新しいのをあげるのに」リリスは不思議そうに私を見た。
私は頷いた。
リリスは少しの間考えたあと言った。
「あなた本は読む?」
リリスは納品した茶葉とそれで作るハーブティーの作り方を彼に簡単に教えた。彼の頬の赤みはもうなかった。
「じゃあまたくるわ」
リリスは言った。帰り際に、唯一身につけていた白いバスタオルを脱ぎ捨て行った。
「派手なやつだな」
彼は脱ぎ捨てられたバスタオルを拾い、薬局を閉めた。
振り返ると、いつになく新鮮な日だった。彼の高熱の嘘はともかくとして、悪魔と直接関わったのは彼以外でリリスが初めてだった。しかも、これからは私が悪魔に茶を淹れることになってしまった。
彼はレジの最終点検をして、調剤室の自動分包機や自動水剤分注機などのコンピュータ類の電源を全て落とし、退勤前の最終チェックをした。
「悪魔に性別はないのかと思っていたわ」私は言った。リリスが女性ホルモン製剤を使っていたからだ。
「ないよ」彼は言った。「正確には」
彼はパソコンに今回のリリスに関する薬の情報を打ち込んだ。
「その悪魔の身体にあった薬を使うんだ。でも、例外を除けば見た目通りだよ」
私はリリスの女体を思い出した。丸く盛り上がった乳房は、どれほどの悪魔を虜にしてきたのだろう。それに比べ私は、どうやらここに来る前にどこかで落としてきてしまったらしい。この世界で目が覚めたのは、幼少の頃の私だったのだから。しかしながら、どこかの名探偵ではないので、怪しげな取引現場は目撃してないし変な薬を飲まされた覚えもない。ーいや。そもそも、私は誇れるほどの膨らみを持ち合わせてなかったのかもしれない。
「おやすみ」
薬局内の電気を消し、出入り口の戸締りをしたあと彼は帰っていった。
私は薬局で寝泊まりをしている。ここへきてまだ日は浅いし、しばらくはここで暮らすよう彼に言われたのだ。ここは、彼によって厳重に管理された建物で低級から中級もしくは低俗な悪魔くらいでは侵入できないらしい。
ソファに倒れ込むと、一気に疲れが襲った。この最後の照明の電源を切れば、すぐに深い眠りに落ちていくだろう。窓から見えるのは、雨がやんだあとの代わり映えのない真っ暗な空。目が覚めて、そこに光がある日はきっとこない。ここは悪魔が暮らす世界だから。
明日は休み。週という概念はこの世界にもあって、明日は”赤い日”なのだ。つまり、人間世界でいう日曜日。この薬局は、週に一度だけ週末の赤い日が休業日となっている。創世記に関する書物には、神が世界を作り終えて7日目に安息したとされている。そのため、宗教によっては日曜日は仕事を休む安息日となっている。この悪魔の世界に神への信仰に倣った概念があることなど、ここに来るまでは思いもしなかった。
患者に茶を淹れるのはいつからだろう。週明けだろうか。明日は茶を淹れる練習をしようか。リリスから教わった茶の淹れ方を思い起こしていると、私は眠りについていた。
「それにしても、まさかあの子がお菓子を食べちゃってるとはね」
傘を薬局に忘れたリリスは薬局へ戻っていた。暗闇の空の中で、翼を広げて背伸びをした。「”忘れないように”ね」
薬局に戻ったが、薬局内はすでに消灯していた。仕方なく引き返そうとしたが、奥の部屋にぼんやりと小さな灯りが見えた。近づいて中を覗いてみると、すやすやと眠る少女の姿があった。
リリスは昔に神から受けた罰を思い出していた。
「いい夢を見れますように」
リリスは生涯赤子を授かっても、その子が生きて生まれることはないのだ。
帰路の途中、リリスは道端に座った一体の老悪魔を見つけると側に寄った。
老悪魔は麻の布切れ一枚だけを身につけて、腐った壁にもたれるようにして冷たい地面に座っていた。リリスが近づいても、まるでそれを知っていたかのようにただぼうっと地面を見つめていた。
「教えて」リリスは言った。
老悪魔は黙ったまま、右の手のひらを差し出した。リリスは、銀貨数枚を老悪魔の手のひらに置いた。老悪魔は、銀貨を懐にしまった。
「人間の子がこの世界を来ることは可能なの?」
老悪魔は頷いた。
「へえ」少なくともわたしが知る限りでは類を見ない出来事だけど、とリリスは思った。
「どうして、人間の子がこの世界に存在しているの?」
老悪魔は首を振った。リリスは質問の聞き方を変えた。
「人間の子がこの世界に存在していることは許されることなの?」
少し間があって、老悪魔はまた右の手のひらを差し出した。リリスはまた銀貨を数枚老悪魔の手のひらに置いた。しかし今度は、老悪魔は銀貨を懐にしまわなかった。リリスは舌打ちをして、さらに金貨を一枚置いた。老悪魔は、銀貨と金貨を懐にしまった。
老悪魔は首を振った。
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次話、希望、好評価があれば書きたいです。続編まではしばらくかかります。
本症例は、フィクションです。薬の取扱、法規等、現実世界とは一切関係ございません。
参考症例:薬剤師国家試験第108回問250、251(前話)