骨粗鬆症患者 上編
「これでよし、と。レヴィちゃんの分も作っちゃった。ー午後から雨なのね。それなら病院も空いているだろうし、早く行けそうかしら。でも少し肌寒くなりそうだわ。あ、いたた。ーよいしょ。お薬手帳、お薬手帳。人間の子、楽しみだわー」
「ねえ。今日はお休みにしたら?」
体温計に表示されたデジタルな数字が、40を超えたところで私は言った。彼ー悪魔ルシファーーは、いまだに数字が上昇を続ける体温計を腋から離すと電源を切った。体温計はピッと音を発して眠りについた。
「いや。開けよう」彼は言った。「患者が来るんだ」
彼は立ち上がると、白衣がかかったクローゼットを開け身支度をした。ばさっと音を立てて白衣を着ると、クローゼットに備わった鏡に向かって簡単に髪を整えた。鏡にうつった彼の頬は赤みを帯びていた。体温が40度を超えていると、側から見ても高熱があることが分かるほどに赤かった。身支度を終えた彼は、何事もなかったかのように調剤室へ向かった。
いつも通りの朝が訪れたことに呆れた私も、いつも通りの水遣りのために水差しを取りに裏の倉庫へ向かった。
この薬局には、基本的に”悪魔”と呼ばれる一族が来局する。1日に大体3、4体の、高血圧や糖尿病、脂質異常症などの主に生活習慣病を患った悪魔が処方箋を持って薬局に訪れる。私が暮らしていた世界とほとんど変わらない。運動不足、食生活の乱れ、過度な飲酒にタバコの吸いすぎ。この悪魔社会にもストレスが存在するようだ。悪魔も私の知らないところで知らない苦労をしているのだ。
「お大事に」
薬局を出ていく悪魔の背中に向かって彼は言った。コースターの上に乗った空のコーヒーカップを持って調剤室に戻った。
今日は全員に白湯を出していた。今までにも白湯を出す患者はいたが、お腹の調子が悪かったり原因不明の病状であったりと、来局者に理由があって白湯を選択しているふうに見えていた。けれども今日に限っては、来局者を凝った茶でもてなすほどの余裕が彼自身にないのかもしれない。
「今日のお菓子、少し遅くなってしまうけどいいかい?」彼は私に訊いた。私は頷いた。
午後になると、雨が降った。予報通りだった。雨が降ると、患者はピタリと来なくなる。外へ出るのが億劫なのだろうか。翼が生えた悪魔は濡れた翼の手入れが面倒などという悩みがあるのだろうか。いつもよりどんよりと重たい気がする暗闇の空を窓越しに眺めながら私は考えていた。ここは一体どこなのだろう。私はこの世界のことについて全くといっていいほど無知なのだ。
彼は時々、咳をした。乾いた咳だった。
患者がいない間、彼は事務的な作業をした。見た目はパソコンのようなこの世界のコンピュータを適切に操作し、山積みになった書類に一枚一枚目を通し、蛍光ペンやボールペンを使って印をつけたりそれをクリップでまとめたりした。卸売業者が薬の納品に来ると納品書に判子を押して薬を受け取り、帽子を外して頭を下げた卸の悪魔を笑顔で見送った。
ようやく、午後の営業時間も終わろうとしていた。パソコンの画面を見つめる彼の頬は今朝と変わらず赤いし、時々思い出したかのように咳をした。静かな薬局内に比して私の心は一日中どこか落ち着きがなかった。
薬局のドアが開く音がした。彼は待合室に向かおうとしたが、踵を返し、準備してあった薬が入った籠を手に取ると再び待合室に向かった。雨の日に患者が来るなんて珍しいことだった。
「早いじゃないか」彼は言った。
「久しぶりね。ルシファー」
雨で濡れた傘を傘立てに入れた彼女は、一糸纏わぬ生まれたままの姿だった。
「この天気じゃあ病院も空いていたわ」彼女は言った。濡れた翼からは雫が滴っていた。「あの男はいないの?」
彼はタオルを彼女に渡した。「しばらく戻ってないよ」
「じゃああなたでいいわ」彼女は濡れた翼を広げタオルを持ったままの彼を手繰り寄せた。彼の体は隙間なく彼女の裸体に引き寄せられた。
「最近、なんだか寂しくなるの。誰かの肌が恋しいというか。温もりが欲しいの」
彼女の細い指は彼の耳に触れ、首筋に触れた。
「あなたから人間の匂いがするわ」彼女は彼の耳元で囁いた。「それも女ね」
身動き一つせず何も言わずに彼は彼女の瞳を見つめていた。
「秘密なんてつれないわ。わたしたちの仲じゃない」彼女は言った。「お仕置きが必要ね。今夜ーー」
私は耳を塞いだ。なぜそんなことをしているのかは自分でも分からなかった。同時に、なぜこんなところにいるのかも分からないことをふと思い出した。
「まあ。可愛らしいお嬢さんね」
しっとりと上品な声に顔をあげると、白いバスタオルで身を包んだ女がいた。
私は彼以外で初めて悪魔と遭遇した。
「お皿に盛り付けましょうね」
私の目の前には、白い容器に入ったクリームのように淡い黄色のプリンが置かれていた。
これまで毎日のように彼からもらっていたお菓子は、全て彼女の手作りだった。彼女は、まるで自分の家のキッチンを探るようにデザート皿と銀色のスプーンを取り出して私のほうへ持ってきた。出してみて、と彼女は私に言った。
皿の上で白い容器を逆さにすると、忽ちにプリンは音もなくその白い容器から産まれ、容器の底に溜まっていたであろう焦げ茶色のカラメルソースのドレスを纏った。
「ありがとう。いただきます」私は言った。
「召し上がれ」
彼女から受け取った処方箋の内容を確認した彼は、薬袋に”リリス”と書き、籠の中の薬を薬袋の中に入れた。薬は女性ホルモン製剤とビタミン剤だった。「いつもの薬だね。何か変わったことはない?」
「大丈夫よ。強いて言えば、腰が痛いくらい」悪魔リリスは、骨粗鬆症なのである。「今度湿布も貰おうらしら」
「無理をしないで。おばあちゃん」彼は言った。いまだに頬は今朝と変わらない赤みを帯びていた。今も高熱があるのだろうか。
「何か言ったかしら?」リリスは微笑んでいたが、乱暴にお薬手帳を彼に渡した。「そういえば。この前ふくらはぎが痛くなってね、病院に行ったの。そしたら薬が増えちゃったの」
「薬が増えた?」
彼はリリスからお薬手帳を受け取ると、ページを捲った。
「これ、病院で見せなかったでしょ」
あるページを見つめる彼に、リリスは頷いた。
「どうやら君は、今回の薬は飲まなくていいみたいだ」
彼が開いていたページには、抗凝固薬の薬物名が記載されていた。血液をさらさらにする薬だ。ふくらはぎの痛みから察するに、リリスは深部静脈血栓症と診断された可能性がある。しかし、以前から使用している女性ホルモン製剤は深部静脈血栓症の発症を助長することがあり、投与は禁忌となっている。
彼はリリスが受診した整形外科に連絡した。女性ホルモン製剤は一時中止となった。薬が中止になった理由をリリスに説明し、リリスはそれに納得したようだった。
「美味だった」私はプリンを平らげた。
ごちそうさま、と私が手を合わせるとリリスはにっこり笑った。お粗末さまでした、とリリスは言った。
「それにしても今日は、茶は出ないの?」
リリスの言葉に彼は返事をしなかった。
「今日はないの」私は言った。「体調が良くないから」
「誰の?」リリスは訊いた。
私は彼に目線を送った。リリスもそれを追うように彼に目線を送った。彼はまた思い出したかのように咳をした。
少しの間沈黙があって、リリスが言った。
「じゃあ、あなたに淹れていただこうかしら」
リリスは持参した紙袋からハーブの葉と生姜を取り出した。
私はリリスから茶の淹れ方を教わった。教え方は懇切丁寧で、自然とその分野に興味すら湧くほどに細かい知識まで私に与えた。
「ルシファーたちに茶の淹れ方を教えたのは、この私よ」
私は生姜を言われた通りに薄くスライスしながら、生姜がもたらす作用や今回使うハーブについてリリスから話を聞いた。生姜には、健胃、代謝促進、発汗、去痰、解熱など様々な作用がある。解熱、ね。
淹れたてのジンジャーティーには、ハーブの葉とスライスした生姜が沈んでいた。
「いい香りね」リリスは言った。「雨が降って少し寒かったでしょ?温まるものが飲みたいなって」
服を着ればいい、と私は心の中で思ったが口には出さなかった。
彼は静寂の中で揺れる生姜を見つめたあと、カップの縁に唇をつけジンジャーティーを啜った。そして、感心した表情で頷いた。「申し分ないね」
私は一安心した。ハーブティーなど淹れたことがなかった。人間世界では特にこだわりもなかったから、スーパーに売っているティーバッグの紅茶かインスタントのコーヒーしか飲まなかった。
彼やリリスが、私が淹れたジンジャーティーを飲んでくれている様子を見ると心に落ち着きが戻ってきた。ここへきて、自分が存在する意味を見つけられずくよくよする日を過ごすこともあった。でも、できることから、見つけられることから少しづつここの世界での自分を形成していこうと思っていた。花の水遣りもそのひとつだった。彼がこの世界に居場所をくれたから、彼の助けになりたかった。
「解熱作用もあるんだって。明日は休みだけど、熱、ひいてるといいね」
私は言った。彼は頷いた。
「ところで、なんであなたはファンデーションなんか塗っているの?」
リリスのその一言で、薬局内にはっきりと見えるほどの沈黙が訪れた。
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次話、「骨粗鬆症患者 下編」来週水曜夜更新予定。
本症例は、フィクションです。薬の取扱、法規等、現実世界とは一切関係ございません。
参考症例:薬剤師国家試験第108回問250、251
2023/8/31 前書き修正、後書き訂正