黄色い目の相談者 下編
「すまない。芳香剤に入れる薬をうっかり間違えてしまったんだ」
白衣の袖を捲った悪魔ルシファーは笑った。
「うっかりじゃないわよ。まったく」透明なカップに入ったミントティーを一口飲み、ため息まじりに悪魔レヴィヤタンは言った。前がはだけたアロハシャツには、サーフィンをしている人の姿と波の柄が施されていた。
「薬局の帰りに職場に寄って、いただいた芳香剤を置いといたのよ。言われた通りに加熱もしたわ。次の日出勤した時の楽しみを作っておいたのよ」再び、レヴィヤタンは深いため息をついた。「それがなあに?出勤したら、臭い臭い。工場の窓という窓、ドアというドアは全部開放されてて。しかも、みんなしてマスクなんかしちゃって。げっそりしてて」
あちゃー、と調剤室からこっそり話を聞いていた私は心の中で思った。
「そうしたら、マスクをしたアスタロトが寄ってきたのよ」アスタロトは、工場に入った瞬間に襲ってきた刺激臭で気を失いそうになったが、ハンカチで鼻と口を塞ぎ、工場の窓をできるだけ開放した。少しづつ意識を取り戻していく従業員とともに全ての窓とドアを開放し、台所にあった原因を突き止めた。「とんでもなく叱られたんだから」
透明のカップに入ったエメラルドグリーンのミントティーには、スライスされたレモンとミントの葉が沈んでいた。まるで、海の中のハンモックのようだった。
「いやー、すまない。作り直したのを帰りに渡すから、持って帰ってよ。それはそうと、病院ではどうだった?」彼は訊いた。
「そうそう。あなたに言われて行ってよかったわ。胆管がんだったのよ」
レヴィヤタンは、自分でも驚いたと言わんばかりに、目を丸くして言った。
「そうだったんだ。それは見つけられてよかったね」
「そうなの」今度手術よ、とレヴィヤタンは言った。「なんだか印刷業者でなっちゃう人が多いみたい。近々、工場に衛生環境のなんとかかんとかの見直しがされることになったわ」
「あなたに相談してよかったわ。また遊びにくるわね」レヴィヤタンは、手作りの芳香剤が入った試験管と数本のリードスティックが入ったビニール袋を彼から受け取った。「今度はあたしもお土産のお返しを持ってこないとね。お返しは、2人分でいいかしら?」
レヴィヤタンは、彼の表情をみてウインクをした。
「お大事に」
レヴィヤタンは、今日も振り返って小さく手を振った。
私は調剤室から出て、ポットに残ったミントティーを2人分のカップに注いだ。顔を近づけると、スッキリとした香りに包まれた。片方のカップを、彼に渡した。
「うまくいったみたいね」
「なんのことだい?」彼は一口ミントティーを飲み、調剤室のデスクにカップを置いた。それから、調剤台の上にあった無水エタノールとグリセリンを元あった調剤棚に戻した。調剤棚にはアンモニア水と書かれた容器もあった。「今日も、君の推理を聞かせてくれるのかい?」
「最初に気になったのは、あなたが彼の職場を確認したところ」レヴィヤタンは、アスタロトの同僚で印刷工場で働いている。「次に、彼の目。白いところが黄色になっているようだった。おそらく、黄疸ね」
彼は頷きながら、オリーブオイルが入ったガラス瓶を台所の棚にしまったあと、ミントをすり潰すのに使ったすり鉢とすり棒を流し台で洗った。
「黄疸の原因であるビリルビンの代謝障害が腹痛に影響しているとすると、胆嚢や胆管や肝臓に機能障害がある可能性がある」私はカップに残ったスライスされたレモンを口の中に入れて、空になったカップを水が流れるシンクに置いた。「胆管がんの原因に、ジクロロメタン、1,2-ジクロロプロパンがあるけど、これらは換気が不十分になりがちな印刷業従事者で曝露されやすい」
私は、台所に残っていたミントの葉を拾い鼻に近づけて嗅いだ。小さくてギザギザした形の葉からは爽やかな香りがした。「だから、あなたはアンモニア水を芳香剤と嘘をついて彼に渡した。アンモニア水には強い刺激臭があって、失神することもあるわ。私の世界では、特定悪臭物質として法律で指定されているくらい。そんな臭いが工場中に充満すれば、当然窓を開けて換気をするわよね。胆管がんと診断を受けることを想定し、原因環境である印刷工場の換気をしてもらいたかったから」
水道の蛇口をキュッと閉めることがした。
「御明察」
正午になって、私は読んでいた本のページに栞を挟んで閉じた。彼はゆっくりと背伸びをして立ち上がった。
「今日は何かな?」彼は冷蔵庫に向かいながら言った。
彼が私の手のひらに置いたのは、水色と白のストライプ柄のケーキ箱だった。ケーキ箱には、青色のスターのステッカーが貼ってあった。
「ケーキ?」
冷蔵庫を閉めた彼は、デザート皿の上にフォークを置き、次にコーヒーを淹れる準備を始めた。「開けてごらん」
私は、中身がわからないケーキ箱をテーブルに持っていった。持っていく間のわずかな時間、わくわくする感じが私は好きだった。もちろん、開けたあとに中身を眺めるのも好きだし、もちろん、食べるのも好き。それでも、この冷えた紙の箱の中のデザートがどんな見た目をしていて、どんな香りがして、どんな味がするのか、想像を膨らますこともこの時間の楽しみであることは間違いなかった。
「レモンのケーキ!」
丸くスライスされたレモンが黄色のゼラチンの中に浮かんで、降り積もった雪のように真っ白なケーキの上に乗っている。一番下はビスケットを砕いたようなクッキー生地になっていて、カットされた断面は美しい三層になっていた。
彼は、ケーキをデザート皿にそっと置き、その隣にフォークを添えた。
「さて、お味はいかがかな?」
私は、皿に乗ったケーキをじっと見つめた。ケーキは、レモンの香りと少しだけはちみつの甘い香りがした。
いただきます、といってフォークでカットした一口分のケーキを頬張った。口に入れると、ケーキはチーズケーキだとわかった。チーズケーキの控えめな甘さを、鼻を抜けていくはちみつの香りが包み、それをクッキー生地のザクザクとした食感とレモンの皮の弾力感が追ってきた。次に、一層一層フォークの先でつついては別々に食べてみた。それぞれ美味しいが、やっぱり一緒に食べるのが一番美味しかった。
「大変美味ぞよ〜」
「それはよかった」
彼がデスクに置いたコーヒーからは、湯気がたっていた。淹れたてのコーヒーの香りがした。
「ごちそうさまでした」
私は、手を合わせた。口の中に残る余韻を味わいながら、空になったケーキ箱に貼ってあったスターのステッカーを剥がした。彼のデスクの上にあったメモ用紙を一枚切り取り、剥がしたステッカーを貼った。それに万年筆で、今日の日付とお菓子の感想を残した。ロッカーから取り出した木製の宝箱には、これまでに集めたものがいくつか入っていた。青色のリボン、一輪の青色の花もそのひとつだった。そのなかへ一緒に、ステッカーを貼ったメモ用紙を入れた。
彼はコーヒーが入ったカップを片手に、カレンダーを見つめていた。
「今日のケーキね、チーズケーキだったのよ」
「よかったね」彼は言った。「宝物はしまったのかい?」
私は親指を立てた。彼はにっこりと微笑んだ。
カレンダーの日付を確認した後、彼は調剤室に入った。引き出しを開けては、必要な薬の箱を開け、必要な錠数を調剤台に出した。
「そういえば、お菓子はあなたが作ってくれているの?」私は訊いた。
「僕じゃないよ」彼は集めた薬を籠に入れ、メモ用紙に”リリス”と書き、籠に貼った。「僕は、そんな器用じゃないからね」
「ふうん」私はいった。器用な者は、薬を飲んでもらうために症状が悪化させる薬をアイスティーに盛らないし、換気してもらうために悪臭を放つなんてことはしない。彼は、不器用なのである。
評価、いいね、ブクマいつもありがとうございます。
次話、希望、好評価があれば書きたいです。続編まではしばらくかかります。
本症例は、フィクションです。薬の取扱、法規等、現実世界とは一切関係ございません。
参考症例:薬剤師国家試験第99回問242.243
2023/8/26 後書き更新
次話、「骨粗鬆症患者 上編」来週水曜夜更新予定。
2023/8/28 誤った内容の文章を訂正