黄色い目の相談者 上編
「海の仕事は楽しいけど、お金かかるのよねー。人間に憑依すると食費も交通費も宿泊費もかかるし、掛け持ちはやめられないわー。ーあらやだ。あたし、なんだか疲れ気味?目も黄色い気がするわ。やだー、ストレス?最近おなかがすごく痛くなるのもそのせいなのかしら」
「まったくもうー、嫌になっちゃうわー」
赤色のハイビスカス柄のアロハシャツを羽織ったとある悪魔は、今日も職場の印刷工場に出社していた。
「また何か変なもの食べちゃったのかしらー」手のひらで腹を摩りながら、校正印刷用の印刷機がある操作室に入った。「まさか、また人間ってことはないわよねー。もうー」
操作室の窓は、全て閉されていた。
「あ、レヴィヤタンさん。おはようございます」
事務用のデスクで、今週末締め切りの提出物の整理をしていた悪魔アスタロトは挨拶をした。腕に巻き付いていた蛇は、お辞儀をした。パソコンの画面左上には”減塩”と手書きで大きく書かれた付箋が一枚貼ってあった。
「おはよう、アスタロト。今日も早いわね」
悪魔の名前は、レヴィヤタン。性別不詳。
「どうしたんです?顔色が優れないようですが」印刷された用紙を丁寧に揃えながら、アスタロトは訊いた。デスクの上は整頓されていて、仕事に関係ないものはひとつもない。いくつか付箋がはみ出したファイルは色分けされて並んでいて、カレンダーには提出物の期限や会議の予定時刻が書き込まれていた。「どこか調子悪いんですか?」
「そうなのよ。聞いてよ、アスタロト」レヴィヤタンは、アスタロトの隣の空いていたパイプ椅子にゆっくりと腰かけた。そして、苦いものを食べたような顔をして手のひらで腹部をおさえて言った。「最近ね、時々おなかがすごく痛くなることがあるのよ」
「え?レヴィヤタンさんもですか?」最近、工場内の同じ作業をする従業員でレヴィヤタンと同じようなひどい腹痛がある悪魔がいるという噂をアスタロトは耳にしたらしい。「流行り病か何かですかね?」
「えー。あたしが何したっていうのよー」レヴィヤタンは、深いため息をつきながらデスクに伏せるように項垂れた。「そういえば、あなた健康診断は行ったの?」
「ええ。先日。高血圧なんて言われちゃいましたよ」アスタロトは少し恥ずかしそうに言った。「まだ行ってないんですか?」
「行くわけないじゃない。めんどくさい」
「確かに。健診は面倒でした。でも、薬局は悪くなかったですよ」複数の書類を念入りに目視で確認しながらアスタロトは言った。「薬の説明だけじゃなくて、紅茶も出してくれるし。これがまた美味いんですよ」確認済の書類は山積みにされていった。
「紅茶?」レヴィヤタンはデスクに伏せたまま、顔だけをアスタロトに向けて言った。「でも、薬局に処方箋もないのに行くのってなんだか変じゃない?」
アスタロトは作業をしていた手を止めた。そして、上の空でも見るように宙を見つめたあと言った。
「ーそういえば」
”処方箋がなくてもお立ち寄りください”と書かれたイーゼルを、悪魔ルシファーは薬局の外に出した。薬局前の掃き掃除を終えたところだった。彼はその後、花壇の花に水遣りをする。それが、開局前の日課だった。
「いつもありがとう」
だから私は先回りして、彼がイーゼルを出すタイミングで、水遣りを手伝うことにしている。
「いいえ。私も何かしなくちゃね」私は言った。水差しの注ぎ口から出た水が、色とりどりに咲いた花に潤いを与えた。「この先、いつまでここに居させてもらうかわからないから」
花壇には、アジサイやアサガオのほかに、ユリやチューリップ、キンギョソウ、ペパーミントが、太陽の昇ることのないこの暗闇の空の下でその場所を望んでいるみたいに咲いていた。
私は仕事を終えた水差しを薬局の裏の倉庫に戻しに行った。
彼は湿った土と潤った花弁を一枚一枚確かめるように花を眺めた。
「ごめんください」
男性の声に、彼は振り返った。
苦しい表情を浮かべたレヴィヤタンは、腹部を両手でおさえながら言った。
「ちょっと相談に乗ってほしいんだけど」
「なるほど。腹痛か」
彼はレヴィヤタンから症状について詳しい話を聞いた。レヴィヤタンの前には、コースターに乗ったカップが置かれていた。
話を聞いている間、彼は彼の澄んだ瞳でレヴィヤタンの目を見つめていた。レヴィヤタンの目の白い部分は、黄色を帯びていた。
「そのことをアスタロトに相談したら、工場内の一部で流行っているみたいなのよ。そうしたら、一度相談してみたらってこの薬局を紹介してくれたの」
「アスタロトくん?」彼は、何かを思いついたように言った。「失礼だが、職場は印刷工場で?」
レヴィヤタンは頷いた。「ええ。そうよ」レヴィヤタンは出されたカップの縁に唇をつけ啜った。ただの白湯じゃないアスタロトの嘘つき、と心の中で思った。カップの縁に赤い口紅がついた。
彼は立ち上がり、振り返って調剤室に入った。パソコンを操作し、検索したページが表示されると、”印刷”をクリックした。印刷機が起動する音が調剤室に静かに響く間、彼は試験管に無色透明な液体を入れて専用のゴム栓をした。
「病院に受診した方がいいかもしれないね」調剤室から戻った彼は、印刷した地図の用紙を広げて一箇所を指差した。「ここに君に行ってほしい専門科があるから、できるだけ早く行くといいよ」
「そうなの?めんどくさいわねー」
「そう言わずに。おなか痛いんだろう?一度診てもらった方がいいよ」彼は地図の用紙を折りたたんで、ビニール袋に入れた。それと一緒に、透明な液体が入った試験管を入れた。「特別に、いいお土産もあげるからさ」
「お土産?」
レヴィヤタンはカップの中の白湯を飲み干し、彼が持つビニール袋を見つめた。
「今日はたまたまハーブの葉を切らしていてね。お茶を振る舞うことができなかったんだ。お詫びに、いい香りのする芳香剤を作ったんだ。加熱すると、香りが広がるのが早いよ。職場で使ってくれると嬉しい」
「あら。ほんと?何から何までありがとね」
レヴィヤタンは、彼から病院への地図と試験管が入ったビニール袋を受け取った。
「いい知らせを待っているよ」
薬局を出ていく前、レヴィヤタンは振り返って小さく手を振った。
レヴィヤタンが出て行ったのを確認すると、私はすぐに調剤室から逃げるように飛び出した。
「ちょっと!あれ早くどうにかして!」
「行ってきます。ラウル」
翌日、ドラゴンから降りたアスタロトはいつも通り工場に向かっていた。
「えっと。今日の指示は。ー」
工場のドアを開けると、アスタロトは思わず手で、鼻、口を覆った。
多勢の従業員が、床や稼働中の機械の上に倒れていた。気を失っているようだった。
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次話「黄色い目の相談者 下編」、来週水曜夜更新予定。
本症例は、フィクションです。薬の取扱、法規等、現実世界とは一切関係ございません。
参考症例:薬剤師国家試験第99回問242.243