高血圧症患者 下編
「ほんと、薬を飲めばよかったと思ったんだよ。心の底からね。本気で死ぬと思ったよ」
そもそも生きてもいない悪魔アスタロトは、少し恥ずかしそうに腕に巻き付いた蛇の頭を人差し指で撫でながら言った。
「だから言ったでしょう。僕は”飲んでほしい”って。で、そのあとはどうなったの?」
棚から集めた血圧を下げる薬の錠剤を、一つ一つ手にとって数えながら彼は言った。
アイスティーを口に含み深く味わってから喉を通したアスタロトは言った。
「ラウルが迎えにきてくれたんだ。僕のドラゴンさ」ラウルーアスタロトのドラゴンーは、帰りが遅い主人ーアスタロトーを探しに出たところ、急激な血圧の上昇によって気を失っていた主人を暗い路地裏で見つけ、家まで運んでくれたとアスタロトは言った。「あの日は会社の飲み会があってね。ほら、薬飲んだあとってお酒飲んじゃだめとか言うでしょ。あれが気になってさ、1回くらいいっかな、なんて思って飲まなかったんだ。そうしたらこのザマだよ」
アスタロトは笑った。
「そうだったんだ。それならそうと相談してくれればよかったのに」数えた14錠の錠剤を薬袋にしまい、一緒に中に入れるはずの薬の説明書を広げて言った。「この薬は少々だったらお酒を飲むことができるんだよ。でも、飲みすぎたり悪魔によっては頭痛とか吐き気がでることもあるから、一概に問題ないとは言えないんだけどね」
「お大事に」
アスタロトが薬局を出ると、薬局内に静かに流れるオルゴールの音と彼の後ろ姿だけになった。そのことを調剤室から注意深く確認した私は、調剤室から出て、待合室に誰もいないことを把握した。彼は、昼のレジの点検をしていた。私は、氷だけ残った透明のグラスを流し台に持っていこうとした。
「なんであの悪魔が薬を飲まないとわかったの?」
この世界の紙幣を手際よく数える彼に、私は聞いた。
「手帳だよ」彼は細かい金貨や銀貨を一枚一枚数えては、必要な分あることを確かめ、それを決められたコンピュータで決められた操作によって記録した。「書いてあったんだ。"会社 飲み会"って」
アスタロトは確かに手帳を確認していたことを私は思い出した。
「でも、彼が行くかどうかまでは分からないじゃない。もしかしたら、予定は誰か別の人の予定で、本人は行かないかもしれないわ」
「それはそうだね。行かない可能性だって、もちろんあった」
彼は、点検が終わったレジを閉めた。彼が離れると、画面は自動的にスリープモードになった。
「じゃあ、言われた通りに薬を飲んでいたとしても路地裏で倒れることになった可能性もあるってこと?」私はグラスの中の氷を流しに出した。溶けきっていない硬い氷が、ステンレスに覆われたシンクに落ちる音がした。空になったグラスはシンクに置いた。
「まさか。そんなことをしたらかわいそうじゃないか」
彼は椅子に腰かけ、パソコンの操作を始めた。パソコンの画面には、"アスタロト"の詳細な情報が映っていた。そこに、今回の記録を入力していた。
「彼はきっと飲み会に行くと思ったんだ。その可能性の方が高いと、僕は思った」
画面から目を離さずに彼は言った。
「どうして?」
「会社で指定された期日内に、指定された病院で、指定された項目の健康診断を受け、高血圧の疑いがあると言われたから、その翌日に病院に受診し、当日に薬局へ薬をもらいに来ている」
「別に普通じゃない?」
私は、私にとっては大きめの椅子に腰掛け、足をぶらぶらと揺らしながら言った。
「君の世界ではね。この世界では、よっぽどと言っていいほどそれは真面目な行為だ」
それは確かにと、私は心の中で思った。
「なるほど。だからあなたは、彼がその飲み会に行くから薬は飲まないだろうと考えて、血圧が一気に上がる薬をアイスティーに混ぜた。薬を飲まなかったことで、血圧が上がったことを装うために。以後、反省した彼にちゃんと薬を飲んでもらおうとしたのね?」
タイピングをしていた彼の手がピタリと止まった。私は、棚に並んだミドドリンの粉末剤が入った容器を見つめていた。
「御明察」
彼が立ち上がると、パソコンの画面は自動的にスリープモードになった。
昼休憩の時刻になり、彼はあたたかいコーヒーを淹れた。
「はい。これどうぞ」
「ありがとう。今日は何かしら」
昼休憩になると、彼は必ずお菓子をひとつ私にくれた。昨日は、青と紫色のぐるぐるのキャンディーだった。見た目は可愛いもので、パッケージにはリボンが施されていてハロウィンに似合いそうなお菓子だった。お味は、多分甘かった。というのも、果実のようなフルーティーな感じはせず、かといって、しつこい甘さが押し寄せてくるわけでもない。でも、口の中から離されてしまえば寂しくなるそんな甘さだった。
「まあ!クッキーだわ!」
小さな青い花が添えられた小さな箱を開けると、箱の中には缶の底くらいの大きさの丸いクッキーが入っていた。私はクッキーが大好物なのである。クッキーの中心には、青色の花のイラストがあった。
再び椅子に腰掛けた彼は淹れたてのコーヒー啜った。穏やかに笑っていた。
「さて、今回のお味はいかがかな?」
大好物のクッキーを目の前に私は少し躊躇ったあと、思い切ってクッキーを一口かじった。分厚いクッキーはかじった瞬間にふんわりとバターの香りがして、バターと卵の甘みが口に広がったあと、甘いお茶のような香りが鼻から抜けるのを感じた。
「マスター。非常に美味ぞよ」
「それはよかったぞよ」
彼は満足そうに微笑んだ。
「美味しかったわ。ごちそうさま」
彼が淹れてくれた紅茶のカップは空になり、彼のコーヒーが入っていたカップも空になっていた。
この世界は、昼も夜も真っ暗な空で、星も月もなかった。暗い空は、どこまでも続いているような気がした。私の知らない世界。
彼は本を読んでいた。橙色のランプの灯りは、彼の髪の毛の上で小さく揺れていた。白衣姿で足を組み、本を読んでいる彼の姿は非常に様になっていた。
「ねえ、ルシファー」
私が彼の名前を呼ぶと、彼はこちらに顔を向けた。
「あなたは、彼がお酒を飲むから薬を飲まないって思ったのよね?だから、”わざと”血圧を上げるような薬を飲ませたのよね?」
彼は頷いた。
「でも結局あなたは、あの血圧を下げる薬はお酒と飲んでも平気ってことを知っていたのよね?」
彼は表情を変えずに頷いた。
「なんで、お酒を飲むことが分かった時点で薬はお酒と一緒に飲めることを言わなかったの?そうすれば、血圧を上げる薬を混ぜる必要もないし、彼が倒れるようなことはなかったんじゃないかしら」
彼は穏やかに微笑んだ。
「さあ、なぜだろうね」
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次話、「黄色い目の相談者 上編」今週水曜夜更新予定。
本症例は、フィクションです。薬の取扱、法規等、現実世界とは一切関係ございません。
参考症例:薬剤師国家試験第104回問314
2023/8/6 後書き更新