高血圧症患者 上編
「血圧少し高いですね」
「えぇ。そうですか」
「BMI32、運動習慣なし、長年の喫煙習慣あり、塩辛いものが好き、と」
「はい」
「わかりました。いいですよ。次の方ー」
「上が152、下が96」
「健康診断かなんかあったの?」
「うん。昨日行ってきたんだ。会社に言われてね。別に俺自身には気になるようなこともないし、副作用なんか嫌だし、薬は飲まないでおこうと思ってる」
先ほど病院で”高血圧症”と診断された悪魔は、長く鋭い爪の間に入ったインクの汚れを、もう片方のそれも長く鋭い爪で器用に取りながらボソボソと呟くように言った。片腕には、蛇が巻き付いていた。
「それならそれで僕は構わないけど、君のからだのことを考えると薬は飲んでもらいたいと思うよ」紙でできた薬袋に、万年筆で”アスタロト”と書き、棚から集めた錠剤を一つ一つ数えた。
「そんなに飲めないよ。いつまで飲めばいいんだい?」
アスタロトは相変わらずボソボソと言った。
「明日の朝から、2週間分出ているよ。次は、再来週に来てくれって言われなかった?」数え終わった14錠の錠剤を薬袋にしまい、封を閉じた。
「そういえばそんなこと言っていたかもしれない。ーって明日から飲むの?」
「そうだよ」と言って立ち上がり、アスタロトが忙しそうに手帳を捲るのを横目に、2人分の茶を入れた。薬袋の隣にコースターを置き、その上に透明の氷を山ほど入れたアイスティーを置いた。
手帳を凝視していたアスタロトは、どこかばつが悪そうにちらちらとこちらを見てきた。
「ー明日から飲まないとだめ?」
サイコロくらいの大きさの小さなミルクピッチャーに入った液体をアイスティーに注いだ。鮮やかな飴色に、入道雲のような白が溶け込んだ。
「僕としては飲んでもらいたいなと思っているよ」
アイスティーが乗ったコースターを少しだけアスタロトに近づけて言った。
「ありがとう。ーわかったよ」
アスタロトはアイスティーを飲んだ。
「お大事に」
会計を済ませたアスタロトは、薬が入った薬袋を抱えて薬局を出て行った。
「ねえ、薬局長はあなたなの?」
調剤室から待合室の様子を見ていた私はアイスティーが入ったグラスを大事に両手で持って、彼に聞いた。
「薬局長は僕ではないよ。ずっと不在にしているんだ」
「ふうん」私は空になった小さなミルクピッチャーを見つめながらアイスティーを飲んだ。私のアイスティーは透き通った飴色で、白い色の濁りはなかった。「薬局長ってずっと薬局にいなきゃいけない人だと思っていたわ。法律じゃなかったかしら?」
翌日の真夜中。一歩また一歩と引きずるような重たい足音が、暗い路地裏に響いていた。
「ーせいだ。ーーったのだ」
激しく息を切らしたとある悪魔は、黒黒しい紫色の吐息を漏らしながら蛇を強く握りしめ、苦しみに耐えていた。ひどい頭痛と吐き気が襲った。それに、恐ろしいほどの動機と目眩で、気が遠くなるのを感じた。
「ーー飲まなかったせいだ。ーー薬を。ーー飲めばよかったのだ」
空になったグラスとミルクピッチャーを流し台に置いて彼は言った。流し台には、”ミドドリン”と書かれた粉末剤の容器とスパーテル、小さめのスポイトがあった。
「この世界に法律なんてものはないよ。ルールなんて、守るわけないじゃないか。悪魔が」
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次話「高血圧症患者 下編」、来週水曜夜更新予定。
本症例は、フィクションです。薬の取扱、法規等、現実世界とは一切関係ございません。
参考症例:薬剤師国家試験第104回問314