おおカトレア、猫になってしまうとはすばらしい
朝だった。
晴れだった。
快晴だった。
春で、日向で、花の匂いがした。
ふわふわのタオルが敷かれた籐の籠の中で目を覚ます。
「にゃー」
くわっと大きくあくびをして、体をぐいーんと伸ばす。
後ろ足で頭の後ろをカカカッと掻く。
うーん、よく寝た。
籠が置かれた机からトッと床に着地する。
さて、これから朝ご飯でも捕りにいこうかなー。
………………………………。
「にゃっ! にゃあああああああああああああっっっ!(って! なんじゃこりゃあああああああああああああっっっ!)」
前足! 明るいオレンジ色の毛に、足の先だけが白い。
肉球! きゃわいいピンク色。
尻尾! 自在に動く!オレンジ色。
背中! 明るいオレンジ色!
おなか! 白い! モフモフ! ……ちょっと毛並みなおしとこ。 ペロペロ。
声! 「にゃー」 にゃーだ!
顔! 見えない!
見えないんだけど! これは! たぶん! いや絶対!
「にゃーーーーーーーっっ!!(猫になってるでしょーーーーーーーっっ!!)」
なんでなんでどうしてどうしてっっ!
尻尾を追いかけてその場でぐるぐる回る。
「……うーん……」
ベッドの上からかすかに声が聞こえてビクッとする。
誰!? そこわたくしのベッドなんだけど!
ぴょんっとベッドの上に飛び乗ると、そこにいたのはベルトルードだった。
眠そうに目をこすって寝返りを打つ。
白い麻のシャツのボタンが上だけはずれていて、隙間から意外に引き締まった体がのぞく。
かつてはわたくしよりも小さかったはずの少年が大きく育っていて、わたくしは固まってしまった。
………………いやいや、今はわたくしが小さくなっているのよね。
「にゃなななーご、にゃー、にゃおおん?(ベルトルード、ねえ、起きて)」
わたくしが呼びかけるとベルトルードは目を少しだけ開けたのに、ボーっとわたくしを見たまま動かない。
どうしよう……、わたくしだって気付いてないのだわ。
ただのかわいい猫ちゃんだと思ってるのだわ。
どうやって状況を説明したらいいのかしらとわたくしが考えていると、ふいにベルトルードはとろけるような笑みを浮かべてわたくしをベッドに引きづり込んだ。
「にゃーーーーーーっっ!!」
わたくしはめちゃくちゃに暴れて逃れようとしたのに、白いものをかぶされてしまう。
「にゃーーーーっっ! フーッ! ふにゃあああっっ!」
「もう……暴れないでくださいよ……。まさか、心まで猫になっちゃったんですか? レア様」
「にゃ?」
『レア様』と呼ばれて暴れるのをやめる。
「にゃにゃにゃにゃんにゃにゃにゃなーご? にゃなななーご?(わたくしのことがわかるの? ベルトルード)」
「もちろんですよ。俺がレア様の事わからないわけないでしょう?」
白いものが取り払われてベルトルードの顔が見えた。
「にゃっにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃなーご? にゃなななーご?(いったい何が起こっているの? ベルトルード)」
「それがですねぇ……、呪い返しを受けたみたいなんですよ」
ベルトルードは眠そうにあくびをしながら体を起こす。
「にゃにゃにゃにゃにゃにゃう?(呪い返し?)」
「ええ……。こっちがしようとした呪いはレア様もご存じの、かかった者に不幸が訪れる呪いです。これが成功すると対象者が不幸になると同時にかけた本人にも同等の不幸が訪れます。これは経験済みですね?」
「にゃう(ええ)」
わたくしは一度、お父様を殺そうとした暗殺者に呪いをかけたことがある。その時はわたくしは高熱にかかってしばらく寝込んでしまった。
辛かったのだけれど、暗殺者も同じだけ辛い思いをしていたと思えば溜飲が下がった。あれが成功例。
「今回はあちらに強力な……というか変な系統の魔法を使う術者がいたみたいで、そのせいでレア様が猫になっちゃったみたいです」
ベルトルードはふうっと息をついてサイドテーブルに置いた水差しから水を飲む。
下から見上げるわたくしは、ベルトルードののどが動くのをうらやましく見つめる。
わたくしものどがかわいたわ。
その視線に気づいて、ベルトルードはわたくしが元いたテーブルを指さす。
さっきは気付かなかったけど、そっちに水のお皿があった。
わたくしはベッドからストッと飛び降りて絨毯の敷き詰められた床を四本足で歩いて、水の置かれたテーブルの上にぴょんと飛び乗る。
さっきは無意識で動いてたけど、意識してみると猫の体ってやわらかくてバネがきいて運動するのがすごく気持ちいいわ。
人間だったころは体が固いのが悩みだったけれど、猫ならそんな悩みからはおさらばなのね。
水面に映った自分を見る。
やっぱり猫だった。
白地に明るいオレンジ色の模様。ピンと立った耳。ラブリーなヘーゼル色の目。
うっとりと自分の顔をながめる。
「どうしたんですか?」
「にゃにゃにゃにゃっにゃ、なごなごーん(わたくしって、かわいい)」」
わたくしがそう言うと、ベルトルードはぶはっと笑い出す。
ついでに本物の鏡を出してくれた。
「どーぞ。ご自分のかわいらしさを存分に愛でてください」
「にゃにゃにゃにゃん(ありがとう)」
鏡で見るわたくしはさらにかわいかった。
猫は昔から好きだった。けれど、自分が猫になると……、うん、好き。かなり好き。人間だった時の自分はそれはそれで好きだったけれど、猫のわたくしも捨てがたい。
ひげの先までかわいいわ。
ポーズを変えつつ鏡に映った自分を堪能してから、水をペロペロとなめて喉を潤す。その様子も鏡でチラチラと見る。
水を飲んでもわたくしってかわいい。
自分で自分をなでたいくらいよ。
そう思っていたのはわたくしだけではないようで、ベルトルードもそわそわと手を組んだり離したりしている。
分かりやすい子ね。
「にゃにゃにゃにゃなごなごなごーん?(なでてもよろしくてよ?)」
わたくしがそう言うとベルトルードはヒマワリの花のような笑みを浮かべて、わたくしを抱っこして膝の上に置いた。(抱っこしていいなんて言っていないけど、わたくしの可愛らしさに目がくらんでいるのでしょうから仕方がないわ)
背中を丁寧になでられる。
あ、これ気持ちいいわ……。
わたくしは目をつむってなでられるにまかせる。
「はー、俺、これまで生きてきた中で一番幸せかも……」
猫をなでる幸せに浸るベルトルード。
しばらくなでられていたのだけど、お腹がすいてわたくしはベルトルードの膝から飛び降りる。
「ああ……」
残念そうな声が上がる。
「にゃにゃにゃにゃ(行くわよ)」
わたくしは食堂へ向かった。
食堂ではお父様とお母様がすでにいらしていた。
わたくしを見つけると、お父様はわたくしを大きな手で抱っこしてくれた。
「話はベルトルードから聞いた。おおカトレア、猫になってしまうとはなんとすばらしい」
お父様はわたくしをなでなでする。
「わ……わたくしもなでさせてくださいまし」
お母様もわたくしをなでなでする。
二人ともわたくしが猫になっていることをすんなりと受け入れている。さすが公爵と公爵夫人ともなれば肝が据わっている。
わたくしも見習わなくては。
猫に変わってしまったことぐらいで驚き慌てふためいてしまった自分をちょっぴり恥じ入る。
それにしてもなでられるのってうれしいけど、いっぺんに触られるとちょっと疲れるわ。おなかもすいたし。
「公爵様、奥様、カトレア様はおなかがすいたそうですよ」
ベルトルードが助け船を出してくれて、わたくしはようやく席につくことができた。
給仕がわたくしにご飯の乗ったお皿を出してくれる。ツナのかぐわしい匂いが食欲をそそる。
白いお皿に猫型にツナが盛られていてその横にカリカリが添えられている。見た目もパーフェクト。
「なごなごなごーん(いただきます)」
猫用の食事もいいものだった。
ペロリと平らげたわたくしに、食後の猫ケーキが出されてそれもおいしくいただいた。
食後はお母様の膝に抱かれた。
使用人たちもわたくしのことをなでたそうな顔で見ている。でもダメよ。誰にでも触らせるわけにはいかないわ。わたくしは公爵令嬢、軽い女ではないの。
ツンと澄ましてあごを上げると、使用人たちはほわわーんと皆一様に笑顔になった。
「それでベルトルード、カトレアはこのまま一生猫なのか?」
朝食後の紅茶をいただきながら、お父様がベルトルードに尋ねる。
そうだった! お母様の膝の上が気持ち良くて大事なことを聞くのを忘れていたわ!
「呪いが解けなければそうなります」
ベルトルードは肩をすくめてみせる。
「ふむ。解く方法はあるのか?」
「もちろんでございます。呪いを解くには術者を捕まえる必要がありますが……」
そうなんだ! そうとなればこうはしてられないわ!
「にゃにゃっにゃにゃ! なごなごにゃにゃーん。にゃにゃーにゃにゃん、にゃにゃにゃにゃにゃにゃんにゃんにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃ(わかったわ! じゃあすぐに行きましょう。お父様、夕食は人間のものをおねがいしますわ)」
わたくしはシュタッとお母様の膝から降りてお父様に不敵に笑って見せる。
「……ベルトルード、カトレアはなんと言ってるんだ?」
お父様にはわたくしの言葉がわからないみたいで困ったようにベルトルードに尋ねる。
「夕食までにはカタをつけてくるそうです。では行ってまいります」
「うむ、頼んだぞ」