売られた異国で野牛は頑張る
日本に渡ったバッファローの開発と活躍の様子をお送りします。
■1938年(昭和十三年)12月 AAC本社 社長室
「まずい事になった」
アルフレッドが深刻そうに受話器を置いた。
「またかよ?今度は一体何の厄介事だ?モグモグ……」
ついさっき昼食を済ませた所だというに、またタコスをパクついているイグナシオが尋ねる。
「いいか落ち着いて聞け。セバスキーとブリュースターの件がバレた。明日には新聞に記事が載る」
「ブーーーーッ!!」
イグナシオは頬張っていたタコスを噴き出した。
ミランダ兄弟は日本へのセバスキー2PAとブリュースターXF2Aの輸出をダミー会社を介して密かに行っていた。しかし情報がどこからか漏れたのか、ニューヨークタイムズ紙にすっぱ抜かれてしまったのである。
「俺たちは何も悪い事はしてないぞ!契約どおりに商品を送っただけだぞ!」
イグナシオが机をバンバン叩いて文句を言った。
「だから落ち着け!」
アルフレッドのかがと落としでイグナシオは床にめり込んだ。
「日本の件に限れば、それで俺たちが逮捕される事は無いだろう。だが不採用とはいえ自国の新型機を他国へ流した人間への心証は最悪だろうな……」
ボリビアへの武器不正輸出の裁判は今も続いていた。ふんだんに賄賂をばら撒いたおかげで下級裁判所では無罪を勝ち取ったものの、連邦政府がすぐに上告したため今は最高裁判所で係争中である。
今回の暴露記事が裁判に与える影響は大きい。負ける可能性が出てきた。もし負ければ彼らは投獄されるかもしれない。
「やばくなったら南米にでも逃げるか……」
床でまだピクピク痙攣しているイグナシオを横目で見ながら、アルフレッドはため息をついた。
ニューヨークタイムズ紙の記事の影響は、ミランダ兄弟だけに留まらなかった。
セバスキー社と陸軍の関係は最悪となった。創業者のアレクサンダー・セバスキーはこの事件の影響もあって社長の座を追われ、セバスキー社はリパブリックと名を変えることとなる。
ブリュースター社の方はもっと酷かった。こちらも当然ながら海軍との関係は最悪となり、新型攻撃機の開発契約(XSB2A)をはじめ海軍関係の仕事の多くがキャンセルされてしまう。
そんな状況では日本との取引で得た金なぞ焼け石に水に過ぎない。ブリュースター社の経営はすぐに行き詰まり、翌年には哀れ倒産してしまった。
■1939年(昭和十四年)日本
一方、日本に渡ったXF2Aは試作機ならではの不具合は多数あったものの、おおむね事前情報通りの性能であることが確認され関係者を安堵させた。
なにしろ本命だったはずのセバスキー2PA(A8V1)も、別に購入していたハインケル He112(A7He1)も、戦闘機として使い物にならなかったからである。
だが渡洋爆撃の護衛は喫緊の課題であった。このためXF2Aの採用がすぐに決定され、その生産は三菱に命じられた。
しかしここで問題となったのが発動機と機銃であった。ライセンスにこの両者は含まれていなかったためである。
発動機については、幸いセバスキー2PAがXF2Aと同系統であるライトR-1820を装備していたため、これを取り外して搭載することとした。このため初期量産型の数は2PAの輸入数と同じ20機に留まっている。
機銃についても当時の日本海軍は適当な12.7mm機銃を有していなかったので、海軍は仕方なく九七式7.7mm機銃を搭載することにした。ただ少しでも攻撃力を稼ぐため主翼の機銃を4丁とし、機首と合わせて合計6丁の機銃を装備する事とした。
本機は陸上のみでの運用を想定していたため着艦フックと救命筏の装備は削除された。これによりわずかながら軽量化されている。
こうした改良を経てXF2Aの量産型は、九九式B号 陸上戦闘機(A9BM1)として制式化された。
■1940年(昭和十五年)1月 中国 漢口基地
昨年末に受領した新型機を坂井三郎二等航空兵曹は気に入っていた。
前に乗っていた九六式艦戦も良い機体ではあったが、それとは何から何まで違っていた。噂では米国から買った機体らしいが、そんな些細な事など坂井は気にしていない。とにかく坂井の好みと完全に合致していた。
九九式B号陸戦、隊内ではB号と愛称されるこの機体は、九六式艦戦より遥かに高速である。航続距離も長く陸攻の護衛を十分果たせる。機体も頑丈で、どんなに無茶に振り回してもびくともしない。防弾板と防漏タンクを備えているので生き残れる確率も高い。
そして何より良いのが強力な武装と、急降下性能・横転性能であった。
機銃は残念ながら九六式艦戦と同じ7.7mmだったが、なんと6丁もある。敵機をハチの巣にする勢いで撃ち込めるのが実に良い。欲を言えばもっと大きな、せめて12.7mmくらいの機銃が欲しいところだが。
そしてもっと良いのが急降下性能と横転性能だった。
九六式艦戦の頃は敵が急降下で逃げると追いかける術が無かった。だがこのB号は違う。
横転速度は九六式艦戦の倍はある。そして急降下で310ノット(580km/h)を超えてもビクともしない。260ノット(480km/h)を超えるとヒヤヒヤした九六式艦戦とは訳が違う。
これならあの逃げ足の速いI-16を躊躇なく追いかける事ができる。高空でなければ舵の効きも良い。最高だった。
なのに隊内では、格闘戦なら九六式艦戦の方が上だと馬鹿にする搭乗員がまだまだ多い。坂井に言わせれば、まったく笑止千万な話だった。
格闘戦なぞ敵に背後を取られたときに逃げを打つ手段の一つに過ぎない。そもそも逃げるなら旋回するよりさっさと急降下する方が早い。敵の背後をとるのも、ちんたらと旋回を繰り返すより最短距離で射点を占めた方が確実だ。
だから坂井は、この機体に惚れ込んでいた。繰り返すが機銃さえ12.7mmなら満点だったのだが。
そして今日も坂井はB号に乗って漢口基地の上空警戒を行っていた。最近は陸攻の護衛に出ても敵機はほとんど出てこない。中華民国空軍はこの機体に怯えて戦闘を避ける様になっていた。
おかげで最近は少し気が抜けている。これはいかんと気を引き締めてふと上を見ると黒い点が見えた。敵機だ。3機のI-16にSB、おそらく強行偵察か嫌がらせの爆撃が目的だろう。
小隊長機や列機はまだ気づいていない。坂井はすぐに機体を振って報せた。九六式艦戦と違いB号はピッと鋭く機体が揺れる。すぐに小隊長が気づいて急上昇をかけた。坂井も追随する。敵機の方も気づかれた事が分かったのかI-16が降下をはじめている。かぶられているが仕方がない。
「二空曹、先に発見した事は誉めてやる。だが無線があるんだ。次はそっちを使え」
「はっ、失礼しました」
上昇しながら坂井は小隊長から無線でお叱りを受けた。身に沁みついた癖という物はなかなか抜けない。
敵のI-16は射撃しながら降下してきた。しかし距離が遠い上に狙いも適当だ。当たる気配はない。SBの方は既に反転して逃げに入っている。I-16もこのまま降下して逃げるつもりだろう。今までならそれも通用したがこのB号相手では悪手だ。
小隊は一旦編隊を開いて敵機をやり過ごした。操縦桿を倒すと同時にフットバーを蹴る。B号は坂井の意思どおりに機敏に反応する。九六式艦戦の頃は横転の鈍さにイライラしたものだが今は違う。
素早く反転した小隊は降下追撃に入った。速度計がみるみる300ノットに迫る。だが頑丈な二本桁の主翼には歪みも振動も起きない。この桁のせいで主翼に大きな機銃を積めないそうだが今は逆に頼もしい。小隊は、あっという間に敵機との距離を詰めていく。
先頭の小隊長機が射撃を開始した。同時に坂井も操縦桿の発射釦を押し込む。3機合計18条もの火線に絡み取られた敵機はすぐに煙を引くと石のように落ちていった。残りの2機も間を置かず同じ運命を辿る。
「うん、やっぱりB号は最高だ」
また一つB号最強の証明を積み重ねた坂井は満足げにうなずいた。
昭和十四年(1939年)より中国漢口に進出した九九式B号陸戦は中華民国空軍のI-15やI-16を相手に圧勝し、日本海軍の期待どおり陸攻の護衛任務を十二分に果たした。
また、これまで九六式艦戦に慣れ格闘戦一辺倒だった搭乗員らに、一撃離脱、ダイブアンドズーム戦法の有効性と対処法を認識させる事になる。それは十二試艦戦以降の要求性能にも影響を与えた。
■1940年(昭和十五年)1月 AAC本社 社長室
「まずい事になった」
アルフレッドが深刻そうに受話器を置いた。
「おいおいまたかよ……?今度は何なんだ?」
さすがに三回目ともなれば、イグナシオも真剣な顔で兄に尋ねる。
「シェンノートの奴が余計な事をチクりやがった」
「は?」
「ブリュースターのXF2Aを売りつけた日本だがな、どうやら連中あの機体を中国で上手く戦力化したらしい。それをシェンノートの奴が政府に報告した」
「はぁ!?」
「あのXF2Aが、信じられんことに中国で大活躍してるそうだ」
「はぁぁぁーーーっ!?」
「これで司法当局の心証は更に悪くなったな」
「なーんだ、それなら今までと何も変わりないじゃん」
鼻をホジホジして楽観するイグナシオを見ても、アルフレッドの不安は消えなかった。
「これが裁判に影響しなければ良いが……」
アルフレッドの悪い予感は不幸にも的中する事になる。
「懲役1年の刑に処する」
「「ええーー!!」」
1940年(昭和十五年)2月、ミランダ兄弟は武器不正輸出の罪を問われ、1年の懲役刑を言い渡された。そしてペンシルベニア州ルイスバーグ連邦刑務所に収監された。
1941年(昭和十六年)2月、刑期を終え釈放された彼らは当然ながら反省も後悔もしていなかった。さっそく以前のように商売を始めようとした彼らだったが、世間はそう甘くはなかった。
「うーん、なかなか上手くいかんな……」
「陸軍も海軍も冷たすぎだ!済んだことなんか水に流せばいいのに!」
世界大戦という稼ぎ時にも関わらず、陸海両軍との関係を悪化させていたミランダ兄弟の商売は振るわなかった。
■日本 追加生産の決定
一方日本海軍では、九九式B号陸戦の追加生産を決定していた。B号はあくまで一時的な追加戦力のはずだったのだが。思いのほか前線で好評だったためである。
そこでまず問題となったのは発動機であった。既に米国との関係は悪化しておりライトR-1820を入手する事は不可能である。このため三菱重工からの提案もあり発動機は金星40型に変更された。
武装についても既に7.7mm機銃の攻撃力不足が認識されていたため、昭和一三年(1938年)より海軍は新型13mm級機銃の開発を指示している。
開発にあたって参考とされたのは、イタリア製ブレダSAFATと米国製ブローニングAN/M2であった。当時はまだイタリア本国と交流可能であったため、開発の早い段階でブレダSAFATをモデルとする事が決定されている。
この点ついて、実は陸軍がブローニングをモデルにするという情報を得たから海軍はブレダにしたという噂もある。もし本当だとすれば、海軍はどうしても陸軍と同じ事はしたくなかったらしい。
その真偽はともかく、銃弾に九三式13mm機銃と同じオチキス弾を使えるように改設計したものが零式13mm固定機銃として制式化された。
本機銃は威力が高い上に弾道性能も良く、九九式B号戦闘機や零式艦上戦闘機をはじめ、以後多くの海軍機に搭載される事となる。
こうして発動機に金星40型、機首に零式13mm固定機銃2門、そして着艦装置を追加した機体が二二型(A9BM2)として生産された。機体各部も強化され、もともと強固な主翼構造であった事もあり急降下制限速度も大幅に上昇している。
この型は九六式艦戦を置き換える形で配備が進められ、開戦時も龍驤などの小型空母に搭載され南方作戦に参加している。
1942年以降、連合国は本機に『BUFFALO (BUFF)』の識別コードを与えた。最初に中国で遭遇した機体と区別するため、一一型を『BUFFALO』、二二型以降の金星搭載型を『BUFFALO-II』としている。
日本海軍では命名規則以前の機体だったため、単に『B号』と通称されていた。このため本機は海外では一般に『バッファロー』と呼ばれるようになる。
戦争中盤には発動機が金星50型となりわずかながら性能も上がった(A9BM3)。頑丈でそれなりに強力な武装と防御をもつ本機は、中低空であれば機動性も高く、戦争終盤の連合国機に対しても限られた条件下であれば十分対抗可能であったという。
「もしP-51と一対一で戦うとしたら、どの機体を使いますか?」
戦後の取材で、そう記者に問われたある撃墜王は、迷わずこう答えたという。
「紫電改よりもB号の三型を選びます。負けませんよ」
■1959年(昭和三四年)8月 ワシントンD.C.
ミランダ兄弟のAAC社は、軍に睨まれたおかげで商売もあがったりだった。だが大戦が終わり世界各地で新たな紛争が起きる様になると、ようやく以前のように稼げるようになっていた。
だが二人は(全くの自業自得なのだが)グラマン社に受けた屈辱を決して忘れる事は無かった。コンペで負け大儲けの機会を逃し、更に牢屋に入れられた事をずっと根に持っていたのである。
ミランダ兄弟は、復讐の機会を辛抱強く、虎視眈々と狙っていた。そしてついにその機会は訪れた。
終戦から14年目の夏のある日、ポトマック川に面したホテルの一室で、ミランダ兄弟は東洋人の男達と会っていた。奇しくもその部屋は20年ほど前にも彼らが日本の駐在武官と会談したのと同じ部屋だった。
「「ジェネラル・ゲンダ、お会いできて光栄です」」
「こちらこそだ」
ミランダ兄弟が差し出した手をにこやかに握り返す男は、旧日本海軍の大佐、現在は自衛隊の航空幕僚長を務める、源田実空将であった。
日本は現在、第1次防衛力整備計画に基づき旧式化したF-86の後継機(次期F-X)の選定を行っていた。当時候補として挙げられていたのは、グラマンG-98J-11(F-11の発展型)とロッキードF-104 の2機種である。
その機種選定にまつわるゴタゴタの結果、源田を中心とした調査団が「乗ってみなければわからない」と直接米国に乗り込んできていたのである。その忙しい日程の合間を縫って、ミランダ兄弟は源田とアポを取る事に成功していた。
「あなた方に直接会うのは初めてだが……戦前には随分と世話になったと聞いている。旧海軍を代表して改めて礼を言わせてもらおう」
そう言って源田は一見人懐っこそうな笑顔をみせた。だがその目は決して笑っていない。猛禽類のように鋭い光を放っている。
「我々のお売りした商品が少しでも貴国のお役に立てたのなら誠に嬉しい限りです。商品に国境はありませんからね」
「なるほど噂どおりの死の商人ぶりだな。国家への忠誠など端から有りもしないか」
源田の顔から笑みが消え侮蔑の表情が浮かぶ。
「そんなもの1セントにもなりませんよ。くそくらえ、ですな」
「なっ……!」
アルフレッドの暴言に護衛の若い自衛官が怒りを露わにした。源田はそれを片手を上げて制する。ミランダ兄弟の方も気にした風もない。
「それで今日お渡したいのはこちらです」
アルフレッドは何事も無かったかのように源田に一束の書類を手渡した。源田は受け取った書類を興味なさげにペラペラとめくる。
「これはっ……!?」
読み進めるうちに源田は目を剥いた。そして改めて最初からじっくりと書類を読み始めた。
2か月後、次期F-XはロッキードF-104に決定した。これによりグラマンは200機以上の大口契約を失う事となる。
そのニュースを聞きながらミランダ兄弟は祝杯をあげていた。
「グラマンの奴らめ、ざまあみろだ」
イグナシオがテキーラを煽ってゲラゲラ笑う。
「あの時、もしブリュースターが勝っていれば、F2Aは7000機以上売れたはずだからな。まったく大損だった。このくらいの仕返しは当然だろう?常識的に考えて」
アルフレッドも杯を掲げて中身を飲み干す。
あの時、ホテルで二人が源田に渡したのはグラマンG-98J-11の実情を記した資料だった。そこにはグラマン社や米政府が話したがらない事実が事細かに書かれていたのである。
調査の過程でミランダ兄弟の情報に間違いない事を確認した源田らは、帰国後に「グラマンは次期F-Xに不適格」との最終報告を上げた。これが次期F-X選定の決定打となった。
こうしてミランダ兄弟のグラマン社に対する復讐は為されたのだった(全くの逆恨みだが)。
「さて、我らも次の仕事にとりかかろうか。世界に争いは尽きないからな」
「おう、もっともっと稼ごうぜ!」
バッファローでも機尾を尖らせると三菱っぽくなりますね。なんとなく。
F2Aが英国に送られないので「BUFFALO」の名前は付きません。かわりに連合国識別コードが「BUFFALO」になってます。これが歴史の修正力ってやつでしょうか!?
(戦闘機には男性名が割り当てられますが、BUFFALOも実は男性名です)
本当は中翼形式でカッコ悪い引き込み脚の架空零戦も考えたのですが、さすがに1940年で大幅な変更は無理だと諦めました。代わりに雷電がF2Aの拡大強化版に……(描きません)
次話でWiki風の解説をお送りします。