京都の冬物語
京都の”春””夏””秋”に続く”冬”の最終の物語です。
冬の京都は、”底冷え”という独特の言葉に表現される。
雪化粧するお寺の瓦屋根や細い路地は、そこはかとない趣があるが、
雪に慣れていない京都の人は、車の交通渋滞を巻き起こす事もある。
私は雪が降って音のなくなった、モノトーンの京都の町並みが好きだった。
”杉本安奈”27歳。7年勤めた会社を辞めた、私の名前だった。
11月の末に、私は短大卒業後に勤務していた会社を円満退職した。
来年の2月に、25歳の秋から付き合っていた陶芸家の”村岡新太郎”と結婚が決まったからだ。
私は2年間の恋愛を経て、京都で新たな彼との生活をスタートさせることになった。
彼との交際は、私が趣味で通っていた信楽焼の陶芸教室から始まった。
彼は教室の先生であったが、同じ過去の痛みを持つ者同士として、
ささやかな交流が始まり、いつの間にか将来の設計図を二人で見つめていた。
情熱的に燃え上がった恋愛ではなかったが、大人と男女の分別ある恋だった。
今年の六月に彼は、私の両親に結婚の承諾を得に家を訪れ、
無言の父に手を焼きながらも、承諾を受けた。
両親の承諾を取るのに、陰で後押しをしたのが私の祖母だった。
祖母は、彼の性格や才能、そして同じ痛みがわかる若者として結婚に賛成した。
年が明ければ、彼と私は新居のマンションを探し、
これからの彼の活動の基盤となる、工房やギャラリーを数年掛けて探す予定だった。
工房で作った作品を亀岡で焼き、ギャラリーに展示して売る事が夢だった。
勿論、今迄の陶芸教室も継続するつもりで考えていた。
12月31日、彼と私は東山の祖母の家に来ていた。
正月の餅や飾り物などを母から頼まれ、彼と一緒に持って来ていた。
ここ2年の歳月は、祖母の家の中に多くの信楽焼きの壷や皿や置物を増やさせていた。
それは、私の作品もさることながら彼の作品も多く含んでいた。
祖母は、ホーム炬燵を囲んで座る二人に言った。
「あんさんら、二人の新居はどないしやはりますんや?」
私は、祖母に答えた。
「年明けに、手ごろなマンションを、どこかで探そうと思ってるんよ」
祖母は、頷き言った。
「ほんなら、村岡はんの仕事場とお店は、どないしやはりますのんや?」
私は、祖母に説明した。
「陶芸教室も借りてるから、いっぺんに無理やし、余裕が出来てからにしようと思ってる」
彼と私は話し合って、ギャラリーの開店は5年計画で考えていた。
陶芸教室は今迄通りに行う事で、食べるだけならやって行ける。
新居を借りることで発生する家賃は、私が再就職することでやっていける。
二人で5年働いて、彼の工房とギャラリーを市内に借りることを考えていた。
祖母は、突然二人に命令するように言った。
「二人とも、ようお聞きやす。あんたらは、結婚しやはったら、この家に住みなはれ」
「ほんなら家賃は、要らんようになりますやろ?」
「それから、この家の前半分を改築して、仕事場とお店を作りなはれ」
「それぐらいの広さは充分あるし、わてが、改築費くらいは持ってますさけ、大丈夫だす」
彼と私は、あっけに取られて祖母の顔を見ているだけだった。
確かに、この家の玄関と下座敷と納戸を店に改築して、
中座敷を仕事場にすれば立派なギャラリーと工房になる。
そして、祖母の部屋と奥座敷を残しても、2階に2部屋あるので住むには十分である。
奥に続く土間を改造すればキッチンも、新しく使いやすいものになる。
私は、彼の驚いている顔を見ながら、祖母に言った。
「おばあちゃん。私等に気遣わんでもええしな。ここは、おばあちゃんの家やん」
祖母は私を見ながら笑顔で言った。
「わては、安奈に以前に言いましたやろ?この家は、安奈にあげる家どす」
「わざわざ、外でしんどい目して家賃払わんでも、此処に住んだら宜しおす」
「何れは、安奈の家でっさかいな。・・・そうおしやす。」
確かに、そうすることによって、マンションを借りる家賃も、
工房やギャラリーを借りる家賃も要らなくなる。
そして、この東山の町家造りは、ギャラリーにすることは面白い発想かも知れない。
また、陶芸教室に借りているビルにも歩いて5分の距離であるのは捨てがたい。
祖母は、何度も、そうするように二人に言った。
彼と私は、余りにも好都合な話だったが、祖母の事を案じて迷っていた。
夜遅くまで三人で話し合った結果、祖母の言う通りにすることで話は決まった。
祖母は、大晦日の夜遅くに私の両親に電話を掛け、その計画を無理やり両親に承諾させた。
彼と私の新生活は、東山の祖母の家を改築して、
新居と工房とギャラリーを作ることになった。
そして、祖母の部屋と奥座敷はそのまま残し、祖母と同居することに決めた。
彼は、祖母の提案に深く感謝し、祖母と暮らせることを喜んでいた。
彼と私は祖母と共に、今日の大晦日と明日の元旦は、祖母の家で過ごすことにしていた。
祖母は、二人が自分の提案に同意したことが嬉しそうで上機嫌だった。
やがて、大晦日の除夜の鐘があちこちで鳴り響き、辺りは鐘の音だけの静寂に包まれた。
部屋の障子を開くと、中庭に大粒の牡丹雪がしきりに舞い落ちていた。
私は、祖母に感謝の念を込めながら、除夜の鐘を一つ一つ数えるように聞いていた。
私は彼が風呂に入っている間に、思い出深い奥座敷から中庭に落ちる雪を見ていた。
今年も、こうして一年が暮れて行くんだなと、感慨深く座敷を見渡した。
それとなく見回した部屋の中で、視線の先にキラリと光る反射物を見つけた。
それは、座敷に置いてある茶箪笥の棚の上で輝いていた。
私は光る物を手にとって、懐かしい眼差しで、じっと見つめていた。
それは、棒の先に止まって羽を広げている蝶を模った”かんざし”だった。
忘れもしない、5年前の祇園祭で亮太に買って貰ったものだった。
その”かんざし”を髪に挿して、五山の送り火に彼を見送った記憶は消せはしない。
祖母の家の奥座敷で、眠っていた亮太の”かんざし”は、
私に何かを語りかけるために、光っていたのだと私は思った。
”かんざし”を両手の上に置いて、長い時間眺めている自分を別の自分が見ていた。
5年前に亡くなった亮太は、今の私を天国から見て、どう思っているのだろうと私は思った。
奥座敷に入ってくる祖母の声がした。
「安奈はん。年越しのお蕎麦でも作ったらどうどすいな?・・・」
じっと”かんざし”見て、黙って座っている私を見下ろして、祖母が言った。
「あら、それは・・・遠い夏の日から、飛んできた綺麗な蝶どすなあ」
私は、祖母を見上げて言った。
「キラッと光ったんで、何やろって思ったら、これやったわ・・・」
祖母は暫く立ったままで、そっと私に言った。
「亮太はんが遠いとこから、蝶になって、あんたに、お祝い言いに来はったんどっしゃろな」
私は祖母の言葉を聞きながら、そうかもしれないと思った。
そういうことは信じない私だったが、そう思ったほうが素直な感覚だと思った。
もし本当に亮太が、私に”おめでとう”と言ってくれているなら、
亮太は、どんな微笑で、どんな声で、どんな目で言っているのだろうと思った。
私は、蝶の”かんざし”を、暫く見つめてから、静かに言った。
「亮太、お祝い言いに来てくれたんか? 私、幸せになるしな。安心してな」
「ほんなら、もう、帰ってええんやで・・・亮太、有難うな。気付けて帰りや・・・」
私は、そう言って祖母に亮太の残した”かんざし”を渡した。
祖母は、”かんざし”を小さな桐の箱に入れて水引で結んだ。
祖母は、桐の箱を初詣に行く八坂神社に、お返しするようにと小声で私に言った。
私は頷いて、桐の箱を手に取り中庭に落ちてくる雪を見上げていた。
私の見つめる中庭の暗い空間を、綺麗に光る七色の蝶が、金色の粉を撒き散らしながら、
天を目指して飛んでいく姿が、私の瞼に見えたような気がした。
その蝶は、ゆらゆらと頼りない軌跡を残しながら、
名残惜しそうに一度だけ舞い戻って羽を羽ばたかせ、そして優雅に飛び去って行った。
年が明けて、結婚式の日が近づく慌しさと共に、
祖母の家も、増改築の業者の出入りで慌しく賑やかだった。
祖母の事を考えて、出来る限りバリアフリーに補修し、
新しいフローリングや、ホルマリンの出ない和紙のクロスなどが張られた。
ギャラリーや工房も、京都で伐採された地元の杉材や檜材で仕上げられ、
北山杉の化粧柱も、アクセントに数本使われた。
シックな木調のギャラリーに、明るい先端の照明器具が配置され、
外観は以前の町家の風情を残し、内観はモダンな建物となった。
二月の末に彼と私は、ささやかな挙式を挙げて、祖母の家で新婚生活をスタートさせた。
彼は、従来の陶芸教室を存続させながら、精力的にギャラリーの充実を図った。
自分の作品以外にも、自分の師匠の作品や友人の作品も展示するスペースを作り、
彼の友人の西陣織の作家の作品も並べられた。
噂を聞いてやってきた、清水焼の作家や京都の版画家などの作品も並べられた。
京都の伝統を継承する作家や、京都で活動する色んな芸術家の作品を、
このギャラリーに並べる事によって、相乗効果も期待できると思った。
単なる彼の信楽焼きだけのギャラリーでは無くなった。
彼と私は、このギャラリーに色んな人たちが集まり、語り合える空間として、
そして情報交換と交流できる空間になれば、素晴らしい事だと思っていた。
インターネットのホームページも作成し、京都へ来る観光客の人々や、
京都に住む若者達にギャラリーの存在を伝える手筈も取った。
私は彼に、ギャラリーの片隅に小さなスペースを貰って、
自分で焼いた陶器の小物を並べる事にした。
その小さなスペースは、女性が好みそうな小物やアクセサリーを中心に並べた。
その小物の評判が良く、焼いても焼いても追いつかないほどだった。
私は、彼が陶芸教室に行っている間は、ギャラリーを見守り、
彼がギャラリーに居る時は、家事をしたり祖母と話をしたりして過ごした。
そして、その間を縫って自分の小物の作品を工房で作っていった。
箸置、携帯ストラップ、陶器のワイングラス、ブローチ・ペンダントなども作った。
私の作った小物には共通のデザインが施されていた。
それは、全ての作品に”蝶”がデザインされているか、作品そのものが蝶の形をしていた。
その蝶は、時にはシックなデザインだったり、時には七色に輝いていたりした。
私の作品の”蝶”は、優雅な羽を広げ休んでいたり、華やかに作品の中を舞っていた。
私は、ギャラリーで観光客と話をする彼が、可笑しくてたまらなかった。
何故なら、京都古来の伝統や京都のアイデンティティーを語る彼の言葉は、
京都弁ではなく、生まれ育った東京の標準語だったからだ。
彼の言葉は標準語だったが、心は京都の住人より京都らしいのかもしれなかった。
水を得た魚のように創作に没頭し、京都や陶器を熱心に語る彼は、
とても良い顔と眼差しをしていると私は思った。
そんな、彼の横顔を見ながら一日が過ぎて行く事が、私にはとても幸せだった。
二月最後の日、午後から京都の街に最後の雪がちらついた。
彼は、ギャラリーに足を運んでくれた客と、信楽焼きの話をしていた。
私は底冷えのする奥座敷から、火鉢に手をかざしている祖母と番茶を飲みながら、
満開に咲いている中庭の梅の花を眺めていた。
祖母は、火鉢の炭を見ながら言った。
「安奈はん。あの時の”蝶”は、あんさんの心に、まだ飛んどるんどすか?」
私は、梅の花から目を離さずに祖母に答えた。
「あの”蝶”は、あの晩に天に帰って行ったし、私の心には居てへんよ」
祖母は、私の横顔を見て言った。
「そうどすか・・・それやったら、良いんどす」
祖母は、私の顔を見つめて微笑んでいた。
私は祖母に微笑を返し、梅の花に目を戻した。
梅の花は、誰のためにでは無く、自分のために咲き誇っているのだと私は思った。
私も誰のためでも無く、私のために生きなければと改めて強く心に思った。
そして私は、さっきの祖母の言葉を心の中で自分自身に確認してみた。
今、私の作品の中に飛んでいる”蝶”は、あの晩の蝶ではないと確信した。
彼と私が新しい生活をスタートさせた冬の終わりに、
春の予感を感じた”蝶”が、何処からか私の心に舞い降りて来たのだと思った。
私は、中庭の梅の花を見ながら祖母に言った。
「おばあちゃん。中庭の梅も満開やし、あした北野の天神さんに、お参り行こか?」
祖母はニッコリ微笑んで頷いた。
<完>
最後まで読んで頂き有難うございました。