54話 海送り
それを見て、最初に思ったのは『セツ、大丈夫かな』だ。
あんなに心配だとか思って連れてきたのに、やっぱり近くに私はいられなかった。
まぁ、それも考えてブランに頼んだのだけれど。
私よりもブランの方に、素直に甘えていたから大丈夫かな。それにテントあるし。
でもあの、死のトラウマを共有できるのは私だけ。
……もしかしたら、助けて欲しいのは私なのかもしれない。だって怖いって、思ってしまう。
気づけば屋台の光は全て消えて、その黒い怪物から放たれる強烈な光だけが、目に映った。
あの賑やかさが嘘のようだ。
あまり海を見ないようにしていたのに。
いやでも海しか目に入らない。
あの日ーー弟を連れて行った、体に纏わり付いて息を奪う、冷たくて波がすごくて体の自由が効かなくなる、あの海が怖い。
感覚を思い出せてしまうのが、恐ろしい。
「ティア? 少し顔が青いようですが、大丈夫ですか?」
「あ……いえ。初めて見たので、圧倒されてしまって」
そう言いながら、顔が硬っているのを自覚した。瞬きを忘れていた目を、ぱちぱちと動かす。口が乾いている。ぎゅっと手を握ると、汗が滲んでいた。
いけない。ここには、アルがいる。
小さい子に心配なんて、させられない。
私はお姉ちゃんなんだから。
そう思って、少し持ち直す。意図的に、明るい声を出そうとする。
「あれが海送りですか?」
「いえ、あれは門が開いただけです。ここからですよ、ほら打ち上がる」
何が、と聞くより先に海を囲むようにして、光が上がる。
「あれは、魔法ーー?」
「雨が降っている時はそういう時もあります。けれどあれは、空飛ぶランタンですよ。魂が迷わないように、ここが分かるように浮かべるんです」
「……綺麗ですね」
それは浜辺からふわふわと、温かな光を宿してゆっくりと上がるスカイランタンだった。その揺らめきは止めどなくあがる。誘導灯の役割なのか。
綺麗だと思う。
思っているのに。
震えてくる手は、何故なのか。
もう片方の手を重ねて、強く胸に押し当てる。
不安が、そこから漏れてしまわないように。
たらりとこめかみから、頬へ汗が伝うのを感じた。
少し経つと、それまで何もなかったところからも光が上がり始めるーーランタンの温かな光とは違う、どこか冷たい、様々な色のその光は。
「魂……?」
淡く発光する、色とりどりの玉状の物が浮遊している。
大人なら片手に乗せられそうなそれは、ひとつの場所へ集まっていくーーあの黒い海から覗いている、強い光を放つ場所へ。
それらはやがて流れを作り、滝壺に流れる水のように消えていく。
帰るのか。あの海に。あの光の中に。
しかしそこへたどり着く前の魂は、それぞれ意志でもあるかのように不思議な動きをしている。
真っ直ぐ光へ向かうものもあれば、迷っているかのように、うろうろとなかなか向かわない光もあった。
怖いのだろうか。
私と同じように。
いや、魂に感情なんて、あるわけないのだけれど……。
私が考える精神とは、肉体に宿るものである。
何故なら記憶が、その人を作ると思うからだ。
生まれた時に人はなんの記憶も持たない。
自我の形成は、その人の置かれた環境によって変わる。どう考えるか、何が正しいと思うかーー経験から学ぶのだ。その中で、感情が生まれるのである。
だから肉体を手放した、記憶のない魂に感情なんてあるわけない、と思うのだが。
思わず息を深く吸い込んだ。
海の匂いがする。
どうも、息を止めていたらしいことに気付く。
海風が吹いて体を冷やす、服が体に張り付いているのが分かる。
ちゃんとしなきゃ、と足に力を入れる。
だけどゴクリと喉を動かしても。
少しも唾は飲み込めなかった。
そうやって何も言わずに、ただその光景に魅入り続けていた。そんな私達の所に、1つの光が漂ってくる。
「……えっなに?」
くっついた舌を剥がして、声を出す。
目の前には止まったまま、その場で漂って動かない黄緑がかった光。これはーー。
「お……とう、さん?」
分からない。
分かるわけがない。
だって、ただの光だ。
姿も形も、あったもんじゃない。
頭ではそう思っている。
なのに、口からは言葉が漏れる。
「お父さん……!」
その光は何も喋らない。
ただ、浮かんでいるだけ。
それだけなのに。
「ティア……?」
アルの声なんか、耳に入らない。
「お父さん、お父さん! どうして置いてっちゃったの……? 私、待ってた、待ってたんだよ……」
口が勝手に動き出す。
「なのに、帰ってこなくて、先に寝ててもいいって言われたけど、なんだか嫌な感じがしたから起きてたのに、おきて、まってたのに……!」
待って! これは私じゃない!
私じゃないのに、言葉が、涙が、止まらない、止められない。
どんどん溢れて、抑えられない。
これは、誰なの?
クリスティアのものなの?
「おとうさん……やだ、やだ、おいていっちゃやだ……!」
手を伸ばして、掬うように捕まえる。
掴めているかと言えば、そうではないと思う。
けれど、その光はこんなに冷たい光なのに。
触れれば温かさを。熱を感じる。
思わず、それに頬を寄せる。
視界が滲んでいる。
こめかみのあたりが、冷たくなる。
「やだよおとうさん……さびしい、さびしいの……! ひとりはやだよ、おいていくくらいなら……!」
「ティア‼︎」
ーー置いて行くくらいなら、連れて行って。
そう口に出す前に、意識が遠退く。
潮の匂いに包まれる。
近くで、遠くで、誰かが呼んでいる。
揺られている。
ゆらゆら。運ばれていく。沈んでいく。
そこで私の意識は途絶えた。