第六話:崩れる予想
次の日。時刻は十一時三十分を示していた。結局中道、楽座、伏木は「道楽遊戯」に泊まった(中道も楽座も自宅から通っている)。
「可南子さん、あの部屋の鍵をくれ!」
中道は伏木に部屋の鍵を渡すように指示をした。その言葉に青いヘアピンで前髪をまとめていた伏木はキョトンとした。
「私は、どうすればいいんですか?」
伏木は中道にあの部屋の鍵を渡しながら聞いた。
「外に出りゃあ、また月代が襲い掛かってくるかも知れねぇからよ、ここに居りゃあ安全だ。陽ちゃん! 行くぞ!」
中道は部屋の鍵を楽座に放り投げた。
「え? 俺もですか?」
「ゴリラズ」の「Left Hand」を聴きながら、コーヒーを飲んでいた楽座は慌てて空中を舞う鍵を取った。
「伏木さんはどうするんですか?」
「だから、ここに置いてくっつの。今、月代に遭遇してみろ。また奔る破目になんぞ」
「確かにそうですけど、あの部屋に連れて行けば他に何か分かるかもしれないじゃないですか」
「いや、もっとちゃんとした証拠があるはずだ。留守電も聴いてみっけどよ、その留守電を聴く前にあるはずだ。『白波荘』から慧んちのとこまでの間に見かけたあれがよ。大丈夫。この事務所――いや、ビル自体案外頑丈だからよ。ここはちょっとした秘密を抱えてるビルに入ってる事務所だから、ちょっとやそっとのことじゃ簡単には入れねぇ仕組みなんよ。可南子さんを置いていっても何の支障もねぇ」
中道は自信たっぷりに話す。その自信は何処からやってくるのか楽座には理解できなかった。
「結局、月代に遭おうが遭うまいが奔るんだけどよ。ここから『琴原駅』までと『久佐木駅』から『白波荘』までは奔んぞ」
中道はいつの間にか冷蔵庫から出してきたコカ・コーラZEROを一気に飲み干し、ニヤリと笑った。
「奔れるとこまで奔ってやんよ。壁とか全部打ち破って絶対ゴールまでたどり着いてやんよ。24時間テレビのマラソン以上の感動を与えてやんよ」
中道、楽座は椅子から立ち上がり、ドアの方へと向かった。
「鍵はちゃんと閉めていくからな。誰が来ても出ないように」
と言い聞かせ、「暇だったらDSでもやってれば?」と付け加えた。だが、中道の持っているDSのソフトは麻雀しかない。楽座に至ってはDS自体持っていない。
「道楽遊戯」を出て、鍵を閉めた。
黒いTシャツを着て、黒い膝上丈のパンツを履き、黒いリュックを背負い、黒いスニーカーを履いた中道。
黄色いメッシュキャップを被り、黄色いTシャツを着て、黄色いハーフパンツを履き、黄色いリュックを背負い、黄色いスニーカーを履いた楽座。
「準備体操はやったか? 増分値?」
足首をぐりぐり回しながら中道は楽座に聞いた。
「さっきの奔りが準備体操ですよ。絶対値さん」
楽座は笑いながらそう応えた。
絶対の「Absolute」。
増分の「Incremental」。
予想を予想とせず、絶対にそうであると言い切る自信のある中道と予想の上で疑問が増えていき、新たな道を開いていく楽座。この二人が「道楽遊戯」という事務所を作ったのにはこういう二人の性格や行動が切欠となっている。
「さて……行くか」
「行きましょう」
二人は歩き出し、階段を下った。[絶対値]中道凛と[増分値]楽座陽太郎は「傘ビル」を出ると、琴原駅の方へと――奔り出した。
その二人を「道楽遊戯」の窓から見る伏木。その顔は素敵で不敵な笑みを浮かべていた。あの二人なら大丈夫だという自信がその笑顔を作り出したのかもしれない。伏木は奔っていく二人が小さくなるまで見送った。
「傘ビル」を出てから五分ほどで「琴原駅」に着いた。こういう急いでいるときにカードは便利だ。改札にピッと触れれば後は入るだけ。切符を買う手間が省けたのは実に素晴らしい。
丁度、中道と楽座が駅のホームへと階段を下っているときに電車が来た。「久佐木・砂原」方面行きの電車。二人がホームに降り立ったのと時を同じくして電車のドアが開いた。二人はその電車に飛び乗る。平日の昼下がり。電車に乗っている人は疎らだった。シートには十分座れるが、二人は立っていた。
電車に揺られること十分弱。電車の窓から見える外の景色は既に見飽きており、中吊り広告も特に目を引くものもなく、中道と楽座は沈黙を保っていた。聞こえるのは電車の走る音と車掌の放送だけ。二人はiPodを持ってこなかったことを少し後悔していた。「琴原駅」から「久佐木駅」までは十五分で着く。その間、一曲平均約三分半の音楽を五曲は聴ける計算になる。二人の後悔の点はそこだった。
「まもなく久佐木〜久佐木です」と車掌の放送があり、中道と楽座は奔る準備を始めている、そんなことしなくてもいつでも奔れる状態だった。丁度ドアの真ん中に立っている。電車がゆっくりと止まり始める。
電車が完全に止まり、ドアが開いた瞬間。中道と楽座は再び奔り始めた。階段を一段飛ばしで上っていき、改札でTouch and Go! 二人は「大学方面」と書かれている東口の方へと奔っていった。
中道と楽座は警戒心を強めた。ついさっきナイフを持った男に追いかけられたこともあり、辺りを見回しながら奔った。
大学の方へと向かい、そんなに経たないうちに「白波荘」が見えてきた。何故か新しく綺麗なアパートなのに、凄く穢れて汚い雰囲気を醸し出していた。今までに二人の死人が出ているこのアパート。変な空気が漂うのも無理はない。
アパートの前には黒い車が止まっている。
「これだ。この車だ」
中道は車を見て言う。昨日、榛葉の家まで奔ったときに見たという例の車だ。
「この車が止まってたんですか」
「そうだ。この車に七瀬が乗ってやがったんだ」
「ここにあるということは」
「たぶん、月代の車なんだろうな」
車を確認した後、中道と楽座は階段を上り、二〇一号室の前へ立った。中道は早速、伏木から預かった鍵をドアノブの鍵穴に差し込んだ。
「ん?」
中道が違和を感じて声を上げる。
「どうしたんですか?」
楽座がそれを見て聞く。
「鍵が開いてやがる」
「でも、伏木さんの話だと今日は月代が仕事で居ないはず」
「だよな?」
中道はゆっくりとドアを開けた。
「空気が重ぇな……いやな予感がすんぞ」
中道と楽座は部屋へ入った。ドアを音がしないように静かに閉めた。部屋の中はしんとしており、誰もいないような感じがした。だが、鍵が開いていた。無用心極まりない。
「血腥ぇ……」
廊下を進んで奥の部屋の方へと進む。部屋の入り口のところで中道はそっと中を見た。そこには壁の奥にかよっかかっている、今日いないはずの月代の姿があった。
「月代がいんぞ」
と中道は非常に小さな声で楽座に言う。
「そんな……」
と楽座が肩を落とす。
「けどよ……なんか様子が変だぜ」
中道は頭を掻いた。楽座がそっと中を見る。やはり、月代の姿がある――だが、その月代は項垂れている。ふと楽座が床を見た。
「中道さん」
楽座は頭を掻いている中道を呼び。
「あそこ見てください」
と床を見るように言った。中道は床を見る。そこには赤い液体――血が落ちていた。
「っ!」
中道がばっと部屋に入る。項垂れる月代の胸元にはナイフが刺さっており、そこから赤い血が伝って、柄からポタポタと落ちていた。
「くそっ!」
中道は急いで月代に近づき口元に手をかざし、呼吸を確認。続いて首に手を当て脈をとる。
「死んでやがる」
「そんな……」
ふと、中道は電話の方に目をやる。電話には液晶の画面がついており、留守電の件数が表示されるのだが……。
「誰か消しやがったな」
電話の液晶画面には「ルス0ケン」と表示されていた。
「誰が、こんなことを」
楽座が部屋を見渡しながら言う。すると、楽座の目にあるものが飛び込んできた。
「中道さん! これ見てください」
「ん? なんだ?」
中道は楽座の指をさす方を見た。
「これは……」
床に落ちていたのは青いヘアピン。口が開いている。中道はふと考え始めた。
「このヘアピン……どこかで見たな」
昨日の事からついさっきの事まで中道は記憶をめぐらす。脳の海馬をフル活動させているのが端から見ても分かる。そして、
「ふっ……あたしたちはまんまと騙された様だ」
と中道はニヤリと笑って言う。
「騙された? 誰にですか?」
楽座は中道をそんな見て聞く。
「伏木可南子……依頼人にだよ」
と中道は落ちているヘアピンを再び見てそう言った。