第五話:離れる疑問
中道、楽座は辺りに注意しながら伏木を「傘ビル」まで連れて行った。一番緊張したのは電車内。密閉された状況で襲われでもしたら回避はもちろんの事、防御でさえも危うい。
伏木は榛葉の家を出てから「傘ビル」に付くまでの間、一言も喋らなかった。榛葉と別れるときですら挨拶もしないほど、沈黙を保っていた。榛葉は悲しそうな顔を浮かべて伏木を見送ったが、伏木と榛葉の間には目に見えない壁があった。だが、何かの拍子でその壁は崩れそうな感じがした。その壁を崩すことを拒むように伏木の方が榛葉に抵抗があるらしかった。榛葉が悲しそうな表情をして見送ったのにはそういう背景があった。
榛葉にしてみれば、同じ高校の同じクラスに通っていた仲の良い友達が、全身傷だらけで人生を楽しんでいないように見えたのだから、相当心配をしているはず。だが、伏木にしてみればそれほどまでに親しい榛葉に対して、心配を掛けさせたくないという気持ちが働いていたらしい。もっとも、伏木がずっと沈黙を保ってしまったので、逆に榛葉には心配の念が大きく積み重なってしまった。
「傘ビル」三階――「道楽遊戯」。中道は鍵を外しドアを開く。中道の手には公共料金の請求書と何通かの封筒があった。中道、楽座、伏木は中に入る。ドアは……やはり完全には閉まらなかった。楽座が手で引いて無理矢理閉めた。
中道は自分の机に請求書と何通かの封筒をドサッと置き、更衣室へと入っていった。楽座は事務所の真ん中においてある長椅子に伏木を座らせた。
「コーヒーと紅茶、どちらが良いですか?」
と伏木に聞いた。伏木は小さな声で「コーヒーを」と言った。楽座は給湯室に入り早速コーヒーの用意を始めた。中道がインスタントコーヒーを嫌うため、コーヒー豆をミルで挽く所からはじめた。
事務所の中心には伏木が一人、ポツンと座っているだけになった。
「可南子さんさぁ」
と更衣室の方から中道の声がした。
「はい」
と反応する伏木。すると、再び更衣室の方から、
「ちょっと、こっち来てくんねぇかな?」
と中道が言う。伏木は長椅子から立ち上がり、更衣室の方へと向かって行った。更衣室の扉は開いていた。伏木がその入り口に立つと、バサッと何かが被さった。
「え?」
驚く伏木。
「お? あっはっはっはっは!」
笑う中道。
「あれ? 伏木さん?」
探す楽座。
「な、何ですか? これ」
伏木は頭に被さったものを取って見る。それはショーツ。
「え?」
「ああ、服も汗とか血とかで汚れてっから、着替えた方が良いんじゃねぇかなって」
「でも、着替え持ってませんよ? 私」
「いいよ、あたしの貸すから……っつっても、殆ど黒いのしかねぇけどな」
さっき伏木の頭に被さったショーツも黒だったりする。
「良いんですか?」
「気にすんなよ。ほら、入った入った」
中道は手招きをして伏木を中に入れた。
「あの……ドアは?」
開きっぱなしの扉を見て伏木は中道に聞いた。
「ああ、それぶっ壊れてっから。気にしねぇの」
気にしてください。と心の中で伏木が呟いたのは言うまでもない。
「大丈夫だって。陽ちゃんは覗きなんかしねぇって。なぁ? 陽ちゃん?」
中道は自分の椅子に座っている楽座に皮肉を込めたような言い方をした。楽座は口に含んでいたコーヒーを盛大に吹き出す。
「の、の、覗きませんよ!!!」
楽座は慌てふためいて言った。どうやら、過去に何かあったらしい。まぁ、それはまたの機会に。
中道と伏木は着替え終わって長椅子に座り、楽座は盛大に吹き出したコーヒーの後処理をして自分の席に座った。
黒い無地のTシャツに膝上ぐらいの丈の黒いパンツを履いた中道が、真剣な顔をして伏木のほうを見た。
「さっきの、七瀬って奴について、もうちょっと教えてくんねぇかな」
その中道の言葉に対する答えを言おうと、まるで姉妹のように同じ服装の伏木が口を開く。
「七瀬……僚子ちゃんは、同じ高校に通っていた友達なんです」
「じゃあ、慧とも同じ高校だったってことか」
「はい……榛葉さんとは高校に入ってからの付き合いなんですけど、僚子ちゃんとは小学校と中学校は違いましたけど、小さい頃からの付き合いなんです」
「最近、その七瀬には会った?」
「いいえ」
「最後にあったのはいつ?」
「去年の大晦日です。その日は彼も一緒にドライブに出かけてたんです。私も僚子ちゃんも免許を持っていなかったので、彼の運転で」
「彼ってのは月代の事か?」
「はい……」
「よく、暴力振るってる奴とドライブなんかに行けたな」
「あ、その時はまだ暴力は振るわれていなかったんです……」
「? じゃあ、月代が可南子さんに暴力を振るい始めたのは何時ごろなんだ?」
「今年の二月です」
「そうか……じゃあ、話を戻す。さっき言ってた月代が『ブラック・デビル』の匂いをさせていたのは、去年の大晦日の前? 後?」
「後です。そもそも、彼と僚子ちゃんは大晦日の日に初めて会ったんです」
「と、言うことは……月代と七瀬が可南子さんに内緒で会っていたってのも有り得なくはねぇのか」
中道の頭の中には二つのことが気にかかっていた。一つは月代と七瀬が会っていたとして、その目的はなんだったのか。不倫と言う線が一番濃い気がするが、別の線も俄かに感じる。一概に不倫と断言は出来ない。
二つ目は月代と七瀬のことではなく、伏木のことだ。DVを受けていたのにも拘らず、何故、月代のことを淡々と喋れるのだろうか。しかも、月代と七瀬が密かに会っていたことに対しても別に気にも留めていないような感じで喋っている。不倫だとして知っていて黙認しているのか、はたまた……。
「あれ?」
中道が考えに耽っていると、端で楽座が声を上げた。
「どうした? 陽ちゃん」
「あ、いえ。さっき中道さん、指示を出したのは榛葉さんの家の近くに止まっていた車の運転手だって予想しましたよね?」
「ああ、それがどうした?」
「伏木さん。七瀬って人は免許を持っていないんですよね?」
「ええ、持っていません」
「っ!」
中道はハッとした。免許を持っていない七瀬が運転手のはずがない。運転が出来ないのだから運転席に座っているはずがない。いや、ただ単にフェイント掛けるためか?
待てよ? あの車……。
中道はニヤリと笑った。
「はぁ、吃驚したわぁ……でも、陽ちゃんのその言葉がなけりゃ、変なところで突っかかちまうところだった」
「え?」
「陽ちゃん。日本にある車は全部が全部右ハンドルだとは限らないんだぜ」
「……外国車!」
「その通り。だとすれば、七瀬が助手席に座っていたことになるな」
「それでも指示を出すことは……」
「断然可能だな」
「でも、月代と七瀬が会っていた証拠はありませんよ?」
「ああ、それくらい知ってるっつの……可南子さん、何か、こう……月代と七瀬が会っていたって証拠はねぇかな?」
「……彼の携帯を見れば分かるかもしれませんけど……」
「あいつが持ってる可能性がデカイな……他にはなんかねぇかなぁ」
「…………」
伏木はありとあらゆることを考え始めた。あの忌まわしき部屋の隅から隅までを頭の中で探していた。一体、何がある。
「電話……」
「だから、電話は」
「固定電話」
「家の電話ってことか!」
「彼、固定電話の使い方がよく分からないって言ってました。留守電の消し方も分からないみたいです。彼、機械音痴なので」
「もしかしたら、電話に留守電とか入ってるかも知れねぇな……いや、待てよ?」
中道はまたもや引っかかってしまった。携帯電話を持っているにも拘らず、わざわざ家の電話に留守電を入れることがあるのか?
「月代の携帯が壊れたってことはねぇか?」
「……そういえば、一ヶ月ぐらい前に携帯をトイレに落としたって言ってました」
「壊れてるのか……その時、既に可南子さんは拘束されていたんだよな?」
「はい。あのベルトでガチガチに縛られて身動きが取れませんでした」
一ヶ月くらい前に月代の携帯が壊れている。
七瀬に携帯が壊れたことを伝えたとする。用があれば七瀬は月代の家の電話にかけてくる。
家の電話の操作をよく理解していない。留守電が残っている可能性がある。
伏木は既に拘束されていて身動きが取れない状況にあった。ということは伏木が家の留守電を聞くことは出来なかったということになる。
そういうこともあってか、月代は家の電話にかけてくるなと七瀬に言っていない可能性がある。
「よっしゃ、陽ちゃん! 行くぞ!」
「行くぞって? 何処へです?」
「白波荘だ!」
「待って下さい!」
伏木が中道と楽座を止める。
「明日にしましょう。明日は彼、仕事ありますし、長い時間家を留守にしています。私、鍵を持っていますから、彼がいない間に入ってみましょう」
伏木は笑顔を零して言った。その笑顔には何が込められているのだろう。