第二話:現れる胎動
平和な日が多いほど、いざ非常事態に陥ったときに対応できないことがある。いくら訓練をしていても、その場面に立ってみれば何も出来ずにあたふたする。間違ったことをして被害が大きくなったらどうしようと言う考えと、突然のことで頭の中が真っ白になってしまうことが原因。
逆に非常事態に関わることが多いと、平和なときでも常に警戒する。いつ非常事態が起きてもいいようにと万全の準備をするし、訓練もする。微かな物音でも反応してしまうほど――というと少し過言かもしれないが、非常事態での被害がどれほど大きくなるかも予想が出来るしその被害に対する対処法も分かる。それらが頭の中に入っているということは、被害が少なく済むこともある。
そう考えてみると、平和が多いよりも非常事態が多いほうが良いのでは。と思えるが、実際のところはそんなことは無い。平和すぎて非常事態発生時に何も出来ないのと非常事態が多すぎて平和なときも警戒する。これでは両極端すぎる。その間へうまい具合に入れないものか。その間へ入った人はいるのだろうか。
模範解答としては「いたとしても極僅か」が正解。
では、常に暴力を振るわれている人と常に暴力を振るっている人。
これは先ほどの例とは全く持って関係が無いこと。先ほどの例はあくまで例であって、両極端のことを考えるというためだけの前振りである。
この場合、傷を負う人と傷を負わせる人に置き換えることも可能。
なぜ、暴力を振るわれる人(傷を負う人)と暴力を振るう人(傷を負わせる人)がいるのだろうか。人間の欠点の一つに力関係で上下関係が分かれるということがある。力よりも能力で分かれる方が良いのだが、力と能力。同じ「力」が入っているが、全く違う二つ。要は頭を働かせているかいないかということ。当然、頭を働かす必要が無いのは「力」であり、頭を働かす必要があるのは「能力」。
力と能力。同じようで違う二つ。どちらに利点があるのかは言わずもがな。
■ ■ ■
黒いキャミソールに黒いジーンズ。黒い口紅が輝く唇と黒いマニキュアを塗った爪。コカ・コーラZEROを片手に汚い机に座った中道は、一通の手紙を読んでいた。
黄色いTシャツに黄色いハーフパンツ。黄色いヘッドホンをして「リンキン・パーク」の「Given Up」を聞き、エネルゲンを飲みながら、綺麗な机に座った楽座は、メールのチェックをしていた。
ふと、楽座は顔を上げ手紙を読んでいる中道を見た。窓から入る日差しで中道の読んでいる手紙が透けて、若干内容が見えた。ほんの一説しか見えないが、
――助けてください。お願いします。
と、綺麗な字で書かれいる。女性特有の流れが良い文字。滞りの無いような文字であるのだが、時折インクの強く滲んでいる部分がある。事情は分からないが思い悩んでいる節がある。
「中道さん、それ」
楽座はその手紙が気になったのか、中道に声をかけた。
「ん?」
中道はコーラを飲みながら楽座のほうを見る。楽座の方はまだ曲の途中だが、黄色いヘッドホンをはずしている(かすかにヘッドホンから音が漏れている)。
「ああ、これか? 今度の依頼主だよ」
手紙をひらひらさせながら中道は応えた。
「依頼主?」
「ああDV――ドメスティックバイオレンスだよ。依頼主は伏木可南子さん、二十三歳。彼氏がいて同棲をしているんだが、その彼が最近可南子さんに対して暴力を振るうらしい。拳やバットで叩く暴力と性的な暴力があるんだと」
「DV……酷いですね」
「ああ、男の風上にも置けねぇな」
「それで、その依頼主はいつこちらにいらっしゃるんですか?」
「来ねぇよ」
「え?」
楽座は驚いた顔をした。来ない。これが何を意味しているのか楽座には最初、分からなかった。だが――。
「じゃあ、行くか」
中道は立ち上がると、手紙を封筒に仕舞い、黒いリュックに入れた。
「行くって、どこへですか?」
急に立ち上がった中道に、少々混乱していた楽座は中道に聞いた。
「依頼主のところだよ」
「え?」
「ほら、行くぞ」
中道はリュックを背負い、ドアの方へ向かう。楽座は慌てて自分の黄色いリュックを背負って中道のあとへ続いた。
「傘ビル」から歩いて十分のところに駅がある。「琴原駅」という駅でこの駅も「傘ビル」同様にボロい。ちゃんと駅員がいて自動券売機も自動改札機もある立派な駅なのだが、どうも「廃れている」感が否めない。外装と内装を綺麗にしたらまた一段と違うはずなのだが。
中道と楽座は基本的に県内の移動に関して車を使うことは少ない。電車で移動することが多い。楽座は車の免許を持っていないが、中道は免許を持っている。しかし、移動するときは専ら電車である。過去に一度、楽座が「何故車で移動しないんですか?」と尋ねたところ、「自分で景色を楽しめないだろ」と答えが返ってきたという。余所見をしないという所では、優良ドライバーである。
依頼主、伏木可南子が彼氏と同棲しているアパートは「琴原駅」から四駅ほど離れた「久佐木駅」が最寄り駅。その駅から某大学の方へ向かい、しばらく歩くと右手に最近立てられたばかりの新しいアパートがある。「白波荘」という名前の二階建て六部屋のアパート。
そのアパートの二階、二〇一号室が依頼主、伏木可南子と彼氏が同棲している部屋だという。
「し、白波荘……」
楽座の顔が引きつる。楽座と中道は丁度その部屋のまん前にいる。
「何だ、陽ちゃん知ってるのか、このアパート」
中道は意外という感じで楽座の顔を見た。
「実は、前にこのアパートのこの部屋で殺人事件があったんですよ。この近くにある大学に通っていた女の子が、下の階に住んでた男に殺されたって事件なんですが」
「ああ、知ってるよ。だが、下の階の男は何者かに殺され、真相は有耶無耶になっちまって、警察も捜査をお手上げ状態。途中で打ち切った――確か、そんな事件だったよな」
楽座は緊張した顔で部屋のネームプレートを見る。
「ネームプレートぐらい変えたら良いのに……」
そのネームプレートには可愛らしい字で「片里」と書いてある。
「あ、本当だ。確か、殺されたのは『片里悠美』とか言う子だったな」
「住んでる本人たちは知らないんですかね、この部屋のこと」
「まぁ、まず知ってたら、真っ先に入居しねぇだろうな」
それもそうである。殺人事件のあった部屋にはなるべく住みたくない。被疑者も死亡していて真相が分からない事件だったらなおさらである。
中道はドアの横につけられているインターホンを押した。
しかし、何の反応も無い。
「いないじゃないですか」
楽座が帰ろうとすると、グイっと中道は楽座のリュックを引っ張る。
「待て。依頼主はそう簡単に出られるような人じゃねぇ」
「は?」
しばらくすると、ドアの鍵が開くのが分かった。中道はその音を聞いた途端にドアをゆっくりあけた。すると、そこにいたのは――全身をベルトで縛られた女性がいた。どうやら、鍵は口で開けたらしい。さすがに疲れたのか玄関の所で座り込んでいた。
「な、中道さん!」
「大きな声を出すな」
中道は全身をベルトで縛られた女性――伏木可南子を自分の体で受け止めた。
「中道……凛さんですか?」
伏木の息は上がっていた。さすがに玄関まで出るのは苦労したらしい。汗が止めども無く流れている。
「もう、大丈夫。今はずしてやるからな」
中道はそう言って伏木の体に縛られたベルトをはずし始めた。
「な、中道さん?」
楽座が中道を呼ぶ。しかしその声は少々震えている。
「何だ? 今忙しいんだ……ってお前も手伝え!」
「いえ、階段に……」
楽座が階段のほうを指差す。
「ちっ」
中道は舌打ちをした。
「白波荘」の階段に一人の男が立っていた。男の手にはナイフが乱暴に輝いていた。