第一話:戯れる序説
某県某市某町某番地――ここに、一つのビルがある。四階建てで相当年期の入ったビル。外装に所々雨によるシミと罅割れがあり、入り口の上部にあるビルの看板も「傘倉ビル」の「倉」の字が無くなっている。そういう理由からか近所では「傘ビル」と呼ばれている。某電話帳で調べてみても、「傘倉ビル」とは載っておらず「傘ビル」となってしまっている。役所も黙認しており、正式名称「傘倉ビル」は正式な名前ではなく、「傘ビル」が正式名称という意味と訳が分からない状況になっている。
そんなボロビル――失礼、「傘ビル」の三階に「道楽遊戯」というビルと相まって、訳の分からない名称の事務所が入っている。「傘ビル」入り口を入ってすぐの階段を上り三階へ。階段を上ったら左へ曲がる。すると、目の前に以前この場所に入っていた企業や事務所の看板が貼ってあったのだろう。無理矢理剥がした跡が至る所にあった。接着剤の痕が残っていたり、無理矢理剥がしたせいでドアの塗装が剥げ、中の錆びた鉄がむき出しになっている所もあった。そのドアの下には小皿に盛られた塩……曰く付きの事務所らしい。
《トントントントン》。
と、階段を上る音が聞こえた。その音の主は小柄で童顔の青年。
青年は背中に青いリュックを背負い、手に持っている原付のキーをチャラチャラ鳴らしながら上ってきた。髪は黒くて長い。「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」が描かれた白いTシャツを着ていて、黒いハーフパンツを履いている。
青年は三階まで上ると、例の「道楽遊戯」へと向かっていった。そしておもむろにドアを開ける。
「こんにちは〜」
と少々気だるそうに挨拶をして入っていった。
ドアがバタンと閉ま……らない。しばらくして青年が引いたのだろうか、今度はちゃんとドアが閉まった。相当なボロビルだということが分かる。
さて、青年は中に入って広々とした事務所にポツンと置かれた二つの机のほうに向かった。その二つの机、向かい合って置いてあるのだが、机の状態が両極端だった。比喩的に言えば磁石のN極とS極が見事にくっ付いている感じだ。
片方は書類をちゃんと立てて置き、筆記具をペン立てに入れ、パソコン周りも髪の毛一本も落ちていないほど綺麗な机。
もう片方は、書類を乱雑に置き、ボールペンの蓋は開きっぱなしで、パソコン周りは書類の山でキーボードを押せない状態でとことん汚い机。
どうやら、青年の机は前者のほうらしい。身なりは若者らしい格好をしているが、綺麗好きらしい。人間、外見で判断してはいけないという戒めになっている。先ほどから青年は「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」の「Breaking The Girl」を口ずさんでいる。
「中道さん、まだ来てないのかなぁ」
青年は椅子に荷物を置いてから、目の前にある汚い机を見ながら呟いた。どうやら、汚い机は「中道」という人の机らしい。
「中道さーん?」
と青年は「道楽遊戯」入り口の横にあるドアに向かって呼びかけた。
「お? 陽ちゃんか?」
と中からは女性の声がした。しかし、その言い方は若干乱暴な感じがした。
「またシャワーですか?」
陽ちゃんと呼ばれた青年――楽座陽太郎は少々呆れた感じに言った。
「シャワーを浴びちゃいけねぇってのか? ったく、シャワーぐらいでケチケチすんじゃねぇよ」
と中の女性――中道凛が言う。汚い机の持ち主がまさか女性だったとは……。
それより、このボロビル…………「傘ビル」。シャワーが付いているとはなかなか洒落ている。やはり外見で判断してはいけない。
「ケチケチはしていませんが、イライラはしています。シャワーを付けたからって、そんな毎日ここで浴びなくても良いんじゃないですか? っていうか、もう仕事の時間ですよ。」
「いいじゃねぇか。減るもんじゃ無ぇんだからよ……ってもう八時半か!?」
「減ります。水道光熱費を取られてお金が減ります。それより時間、とっくに過ぎてますよ。九時十分前です」
「やっぱり、ケチじゃねぇかよ……ってか、んなこと言っててお前も遅刻じゃねぇか……」
どうやら、楽座は時間にルーズ――いや、中道も楽座も時間にルーズな性格らしい。中道はズボラな性格だというのはヒシヒシと伝わってくるが、楽座のほうは几帳面なのかズボラなのかよく分からない。
だが、器用だ。二つの会話を同時に成立させている。
「ま、いいや。もう体拭いてるから、もう少しで出るよ」
「なるべく早めにお願いします」
楽座はそう言うと、椅子に置いたリュックを床に置き、座った。そして、パソコンの電源を入れる。
〔未読メールが一件あります〕
「ん? 未読メール?」
楽座は早速メールを確認してみる。
「お?」
メールを開いた瞬間。画面が真っ黒になり、右上から赤い字で。
殺殺殺殺殺殺殺……。
と一文字ずつ、結構速いスピードで表示され始めた。
「くそっ! ウィルスか!?」
楽座が何とかしようと焦っていると、後ろから綺麗な手が伸びてきた。そして、片手なのにも関わらず、目にも留まらぬ速さで何かを打ち始めた。打った内容はあまりに早過ぎて解読不可能。だが、その手がEnterキーを押した瞬間。画面は通常に戻り、先ほどまでのことが何も無かったかのようになった。
「まだまだ甘めぇなぁ。陽ちゃんは」
楽座が後ろを振り返ると、そこには牛乳瓶を片手にニヤリと笑う中道の姿――体はまだタオルを巻いた状態だが――。
「な、中道さん!」
「これぐらいのウィルスで焦ってるようじゃ。まだ勉強が足りねぇな」
楽座は顔を真っ赤にしている。中道からはボディソープの香りがする。
「服を着てください」
「お?」
楽座は顔を真っ赤にしたまま、書類を取り出し、先日の事件に関しての報告書を作成し始めた。
中道は裸足でひたひたと、脱衣所の方へ向かっていき、牛乳を一口飲んで。
「まだまだ、初心だね〜」
と笑いながら脱衣所へ入った。