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第五話 [冒険者ギルド]

 神託の勇者であるランスロット・ハウエルは、宿屋の裏庭で一心に剣を振るっていた。いや、正確には一心不乱になるためにガムシャラに剣を振るっていた……というのが正しい。


 手にしているのは己の守護天使である第二大天使(ラキア)様から下賜された神剣《至高の栄光(ル・ソレイユ)》ではない。練習用に使っている魔鋼製の剣で、特に業物というわけではないが、特別な加工をしてあり、使用者の意志に従って、通常の重さから最大で五倍の重さまで重量を変えることができる特別製であった。


 幼い頃は大人用の剣で。体が成長してからは大剣で。勇者となってからはこの特別製の剣で、血肉刺(まめ)ができて、その肉刺(まめ)が破れるまで、剣を振って型を体に覚え込ませるのが常だった。


 近くには誰もいない。十日前の一件を話して以来、パーティの仲間たちは気を使って、ランスがひとりになれるよう日中は宿を出払って、時間を潰すようにしている。

 どうやらその間に問題を片付けようとしているらしいが、幸か不幸かいまのところ現状に変化はなく、日々は刻々と過ぎているだけだった。


(不甲斐ないな。皆に心配をかけて、気遣われて……)


 その間、自分はこうやって剣を振るって自問自答をしているだけである。

 我ながら情けないとは思うが、だからといって何をすればいいのかわからない。

 だから剣を振るって、心を研ぎ澄ませて考える。


 無論、考えるのは行方不明になっていたルシアのことだ。あの日、思いがけずルシアと再会できたのも束の間、彼女が魔族――それもよりにもよって魔王(シャイタン)第九番目(エナトス)の魔王の憑代よりしろと化していたことを知った。


 あの時の絶望と悲哀が再び蘇って、心と魂とをかき乱す。

 仲間たちと旅の間に魔族に取り憑かれた者、生贄となった者の姿は何度も見た。


 いずれもその末路は悲惨である。魔族にとっては人間など食事兼使い捨ての道具にしか過ぎない。一時的に人の姿をしていても、やがては身も心も魂すら魔族本体に吸い尽くされ、最後にはおぞましい化け物に変異するのだ。


 一度憑依されては、もはや助ける(すべ)はない。魔族とともに神剣で滅ぼすことが、人としての尊厳を護るただひとつの救いなのだ。


 つまり、魔王に憑依されたルシアは、もはや死んだも同然である。

 あれはルシアの皮をかぶった魔王に過ぎない。

 惑わされてはいけない。

 見誤ってはいけない。

 いまのルシアは滅ぼすべき神敵なのだ。


 そう自分に言い聞かせるために剣を振るう。だが、いつまで経っても心は晴れない。それどころか余計な雑念がどんどんと膨らんでくるだけであった。


「――くっ……!」


 十年以上、無意識に体に馴染ませたはずの一番基本の剣の型が、気がつけば崩れて雑な作業の繰り返しになっていた。そのことに気付いて、ランスは唇を噛む。


 こんなことは何年振りだろう。

 まるで子供の頃に毎日八つ当たりのように剣の練習をしていたあの頃のようだ。


 そうあの頃――。

 いまでこそ順風満帆。『光剣の勇者』などという華々しい名が通っているランスだが、子供の頃はいつも出来の良い一つ年下の実弟と比較され、ずっとコンプレックスを抱えていた。

 神学にしろ神術にしろ何事にも如才ない弟レナウスと、剣術一辺倒で可愛げのないランス(当事は非常に愛想が悪かった)。

 どちらが侯爵家の後継としてふさわしいのか、口さがない者たちは噂し合い、そうした雑音はいくら両親が遮断しようとしても、自然と当人の耳にも届くものであった。

 あるいは弟のレナウスがどうしようもない嫌な性格であるとか、次期当主の座を虎視眈々と狙う野心家であれば、ランスも正面切って戦うことを選んだかも知れない。

 だが、レナウスは弟としても非常にできた人格者であり、常に兄を敬って、事あるごとに兄を立てることを忘れなかった。


 自分が当主になれば、この弟はどこか分家あたりに養子に出されるか、或いは下級貴族の娘婿になるしか道はないだろう。

 心苦しかった。この才能と将来を潰すことが。


 身分。立場。才能。どうしようもないそこから逃げ出すように、当時のランスは剣を振るっていた。


『誰しもが相応しい器というものがあります。向き不向きで言えば、おそらくはレナウスの方が侯爵家を継ぐのに相応しいでしょう。けれどランス、あなたはもっと大きな事を成せる人です。侯爵家などという小さな枠に囚われることはありません。もっと自分を信じて羽ばたいてください』


 そのルシアの一言で、ガムシャラに鍛えていた剣の道が見えた気がした。


 焦りの消えたランスの傍には、いつもルシアがいるのが当たり前になり。いつしか仲間が増えて……そうして『光剣の勇者』と誉れ高い呼び名を与えられた。


 もう、あの当時抱えていた渇望も挫折も忘れかけていた。だというのに、いままた雑念を抱えて剣を握っている。


 なぜこうなった!? いや、わかっている。何もかも忘れて剣に没頭できたのは、自分に自信ができたからじゃない。いつも傍でルシアが僕を信じて微笑んでいたからだっ!!


 ルシア。僕の光。僕の希望。僕を救いたもうた女神。

 君がいてくれればどんな暗闇の中でも怖くはなかった。その眩しい微笑みと暖かな手が、いつも僕を導いてくれたからだ。


 だけど……だけど、もうルシアはいない! ルシアはいなくなってしまった! 君のいない世界に何の意味があるんだ!?


 千々に乱れる心を落ち着かせるべく、ランスはため息をついて、剣とともに宿の壁にもたれかかった。

 これ以上やっても無駄だろう。ただただ手の皮を剥くだけだ。


(いや、それもいいかも知れない。皮が破れ、血が流れ、骨が見えるくらい鍛錬すれば、少しは気がまぎれるかも知れない)

 半ば自暴自棄になり、そう黄昏るランスの脳裏を、少年の日の苦い思い出とルシアと出会ってからの充実した日々がよぎる。


「……ルシア。こんな僕のありさまを見たら、君ならなんて言うだろう?」

「――情けないですね。まだグチグチと悩んでいるのですか?」


 俯いて足元を見ながら、思わず自問するランスに向かって、すぐ傍らから聞き慣れた叱責が聞こえた気がした。

 はっとして顔を上げたランスの目に、無表情ながらどこか憮然とした雰囲気のルシアの姿が飛び込んできた。


「「………」」


 半信半疑……どころか夢心地のまま、ランスはルシアへ向かって手を延ばした。


「「………」」


 ペタペタと二の腕を掴んで感触を確かめる。


「「………」」


 感触まであるのか、いよいよ重症だな。と諦観をにじませた表情になったランスは、さらに手を動かしルシアのて胸のあたりをムニュムニュ押す。


「「………」」


 やたらリアルな幻覚だなあ。欲求不満なんだろうか? と思いながら、ランスはグニグニとルシアの頬に手をやって、頬っぺたを伸ばしたり引っ込めたりしてみる。


 変顔しても可愛いとか反則だよなぁ……と、慨嘆した途端、

「……いい加減にしなさいっ」

 さすがに堪忍袋の緒が切れたのか、怒気を含んだルシアの肉声に、

「――うわっ!?!」

 と、ランスは反射的に両手を放してその場から跳び退り、すぐ後ろの壁にしたたか背中を壁に打ち付けた。


「――痛たたたっ!? ――って、現実?! 本物……?!」


 唖然としたのも一瞬、ランスは喜悦の表情を浮かべ反射的にルシアに抱き締めて、それからすぐに現実の立場に思い至り、慌てて身を放して、代わりに壁に立てかけてあった練習用の剣を掴んだ。


「くっ。危うく騙されるところだった!」


 神剣ではないもののそれなりに手に馴染んでいる剣の切っ先をルシアに向けるランス。


「騙すって、何をです?」


「………」

 小首を傾げて心底不思議そうに尋ねられ、一瞬、ランスは言葉に詰まった。

「えーと……そう。それだよ、それ!」


「ソレソレ詐欺ですか?」

「ルシアのその声で、その姿で、僕を誑かすつもりなんだろう、魔王め! 本当の姿を見せろ!!」

「この場で脱げってことですか?」

「違うっ! 魔王としての本当の姿を見せろって言ってるんだ!」


「ルシア姉ちゃん、本当の姿とかあるの?」


 ルシアの背後にいた少年――魔族に誘拐され行方不明のはずの水網都市マレントゥス首席の孫であるフェリオ・バウア――が、驚いたようにルシアの幻想的な姿を見直す。


「成長分を除けばほぼプリセットですよ。それは確かに、純魔族や高位の妖人、妖獣は見た目に関しては変幻自在ですから、ちょくちょく変える者もいますけど」


 ちなみに男の魔族は聖職者を堕落させるために、男性器を体内に収納して、美女に化けて誘惑するらしいですけど、それってコツカケですよねー、とか訳のわからない話を付け足すルシア。


「あー、なるほど。文字通りの『化物(バケモノ)』ってわけか。――あ、姉ちゃんは違うよ」

「一応、私はその化物の親分なのですけどね。ですが、正直好き好んで怪物のような姿になる気持ちは理解できませんね」

「ウソをつけ!」


 苛立たしげに剣先をルシアの心臓のあたりへ突きつけるランス。


「私がいままでランスに嘘をついたことってありましたか?」

「……。いや、ない……な? あれ?」


 そもそも黙っていればいいものを、魔王になったことも誤魔化さずに正直に話したくらいである。


「だったらなんでルシア姉ちゃんに剣を向けるんだよ、勇者の兄ちゃんっ! ルシア姉ちゃんは恋人なんだろう!? 兄ちゃんは好きな女に剣を向けて平気なのかよ!!」


 フェリオの怒りと失望がない交ぜになった叫びを受けて、

「――くっ……!? うっ……」

 ランスの剣を握る手がぶるぶると振るえ、やがてその重さに耐えかねたかのように、剣先が下がって地面へ這うことになった。


「はぁ、相変わらずですね。どうせ優柔不断に悩んでいるのだろうと思っていたら、案の定でしたね」

「俺、勇者ってもっとズバッと決めるもんだと思っていたけど……」


 なんかイメージと違うなァという少年の他意のない、その分、情け容赦のない評価を受けて、ただでさえダウナーだったランスの気持ちがドツボに嵌る。


「昔からこうなんですよ。基本優柔不断であれもこれもと考え過ぎるんです。6~7歳当時でさえ、弟の方が家督を継ぐのに相応しいとか、バカなことで悩んで手の皮が擦り剥けるまで素振りをしたり」

「そうなの? 貴族だったらどこも同じだろうに、バカじゃねー」

「まったくです。どちらかを選ぶのではなく、家督も弟もまとめて面倒を見るくらいの男気を見せるべきだったでしょうに」

「まあ、確かにこの兄ちゃん、生真面目過ぎて人生、不器用そうだからなぁ」

「別に単細胞をオブラートに包まなくてもいいですよ」

「つーか、姉ちゃん。この兄ちゃんのどこが良くて付き合ったんだ? 弟の方が良かったんじゃね?」

「そうですね。弟のレナウスはなんと言うか優等生タイプで、脇で見ていて面白くないというか。逆にランスは決断力に欠ける反面、いざという時の爆発力がとんでもなく、傍らで見ていて飽きそうになかったので」

「うわぁ。姉ちゃん身も蓋もねえなぁ……」

「魔王ですから」

「でも、それで『光剣の勇者様』か。いろいろとスゲーな」


 淡々としたルシアと喜怒哀楽の激しいフェリオの掛け合いを、呆然と聞き流していたランスだが、どうにか我に返ったらしい。悲痛な面持ちでルシアに問いかける。


「くぅ……。ルシア、ひとつ聞きたい。いまの君には、本来のルシアとしての意識が残っているのか? 僕の知っている人間としてのルシアの魂は健在なのか? どうなんだい?!」

「その質問には答えられません」

「なぜだ!?」

「そもそも質問の前提条件が間違っているからです。矛盾を孕んだ質問には回答できません」


 ルシアの端的な物言いに、ランスが困惑を深める。


「どういうこと、姉ちゃん?」


「言葉通りです」

 同じく疑問に思ったらしいフェリオの問い掛けにも素っ気なく返したルシアは、煩悶するランスをじっと見詰めた。

「そもそも私が肯定したり否定した場合、ランスはどうするのか決めているのですか?」


「………」

 沈黙がその答えであった。


「まったく……。では、まだ答えが出ないのなら、実際の私を見て判断してはどうですか?」

「……どういうことだ?」

「実は私がここに来たのはランスにお願いがあってのことでして」

「願い? いくら君の頼みでも正義に反することは……」

「悪いことではありません。ちょっとしたお願いです。なんでしたら、神に誓ってもいいですよ」


 興味を引かれた表情でルシアの言葉に耳を傾けるランス。

 一方、ルシアの『存在しない全能神(アルコーン)に対する祈りなど、単なる音の羅列とポージングにしか過ぎません。無意味です』という台詞を思い出して、これくらい白々しい言葉もないだろうなぁ、と思うフェリオであった。


     ◆ ◇ ◆ ◇


 冒険者ギルドは、本来は国家に所属しない流れ者たちが、情報交換や助け合いのために作られた互助組織である。

 それがいつしか国家間をつなぐ動脈の役目を果たすこととなり、物流、人材、情報、すべてに渡ってなくてはならない超法規的組織と化した。


 ホウチーの町にある冒険者ギルド支部の窓口嬢エマ(普人族。24歳。既婚)は、人目をはばかるように出入り口から入ってきて、こそこそとこちらの窓口へ向かってきたローブにフードを被った三人組を前にして、机の下に設置してある緊急時に用心棒を召喚するためのベルに手を当てたまま、表面上はにこやかに笑いかけた。


「いらっしゃいませ。当ギルドに御用でしょうか?」


 草原国家オーガスタの民は、全体的におおらかで朴訥だが、それでも中にはギルドに強盗に入る馬鹿や、若い女とみれば邪まなことを考えて行動する下種(げす)もいる。

 たまにやってくるそうした困った客を想定して、エマは内心で辟易しながらもビジネススマイルを貫くのだった。


 と――。

 三人組の先頭に立っていた大柄の――いや、残りふたりが小柄なせいで相対的に大きく見えていたが、こうして見てみれば、そこそこ長身といったところだろう――男性が、少しだけフードをずらした。


「勇――!」


 ちらりとその下から現れた端正な顔を確認して、思わずエマが大声を出しそうになったのを、「しー!」と、口元に指をあてて止める勇者ランスロット。

 エマは慌てて周囲を見回し、こちらに注意を払っている外野がいないのを確認して、ほっと安堵の吐息を漏らした。

 それから、カウンターへ身を乗り出すようにして、ランスへ向かって声を潜めて話しかける。


「ど、どうされたのですか、勇者様。支部長へお取次ぎいたしましょうか?」


「いや、そうじゃないんだ。ちょっと冒険者登録をお願いしたくてきたんだ」

「――は? 聖銀(ミスリル)級の勇者様がですか???」

「いや、僕じゃなくて――」


 背後のふたり組へ視線を巡らされ、「ああ、なるほど」とエマは納得した。


「冒険者登録には、都市の市民証か十万ボル以上の保証金、さもなくば白銀(シルバー)級以上の冒険者からの推薦が必要ですからね」


 聖銀(ミスリル)級の勇者ランスロット・ハウエルの推薦なら文句なしである。

 もっとも、勇者が顔を出したなどと知られれば、大騒ぎになるのは間違いない。先日はそのために、特別室で支部長が直接相手をしたのだ。

 顔を隠してお忍びで来たのも当然と言えば当然である。


「登録はお二人様ともですか?」


 視線を向けるとふたりとも頷いた。


「ええ、そうです」

「よろしく~っ」


 片方は十代半ばほどのやたら落ち着いた綺麗なソプラノで、もう片方はどうにか変声期が終わったくらいの快活な少年の声。

 姉弟かしら? と思いながら、テンプレートに従って所定の用紙と、筆記用具を出してカウンターに置くエマ。


「それではこちらの申請書にお名前と出身地、特技を書いてください。字が書けない場合は代筆をいたしますが?」


「大丈夫です」「俺も」

 文字が書けない層がおよそ九割近いこの世界において、字が書けるということは一割の特権階級の出身だと言っているようなものであった。


 もしかして、どこか貴族の子女、子弟が道楽で冒険者登録するつもりなのかしら? と思いつつ、すらすら書いて返却された申請書の、どちらも高い教養と慣れを感じさせる文字を確認する。


「シア様は勇者様と同じ聖堂都市レナトゥスのご出身で、フェイ様は水網都市マレントゥスのご出身ですか。ご姉弟ではなかったのですか?」

「ええ、血のつながりはありません」

「でも、俺にとっては姉ちゃんみたいなもんだ」

「……なるほど」


 おそらくは何か事情があるのだろう。もっともこの世界においては、よくあることと言えばよくあることでもある。


 深く詮索しないで、エマは受け取った用紙と鉛色の『冒険者プレート』を二枚手に取って、

「それではお二人の情報を魔術で刻印してまいりますので、しばらくお待ちください。その間に、よろしければガイド用の小冊子を読んで、冒険者ギルドの概要に目を通してください。それとこちらの別冊はこの町の近辺で採れる薬草や鉱物、討伐対象について記載がありますので、参考までにどうぞ」

 かなり使い込まれた手書きの概要本と、ガイド本をまとめてカウンターに置いた。


 フェイ少年が興味深そうに、別冊のガイド本を手に取る。

「おおっ、やっぱ冒険者って言えば魔物退治だもんな。一匹倒すと幾らくらいになるんだい?」


 子供らしい好奇心を前に苦笑するエマ。

「ピンからキリまでですね。安いものなら妖鼠の退治で一匹十ボル、最高額は魔王の討伐で一柱でも倒せば五十億ボルになります」


「ご……五十億!?」

 ちょっとした国家の十年分の予算にも匹敵するその額に、フェイ少年は絶句して、義理の姉らしいシアを振り返った。

 なぜか勇者も微妙な顔でシアを横目で窺っている。


「まあ、あくまで成功報酬ですし、勇者様ご本人を前にして何ですが、これまで確認された限り、魔王(シャイタン)を倒したという事例はありませんからねえ。勇者様には頑張っていただきたいですけど、どれほどの苦難の果てに魔王を斃すことができるのか、五十億ボルでも果たして割に合うのか、私などには想像もできませんね」


 さぞかし壮大な冒険の旅を想像しているのだろう。遠い目をする受付嬢のエマを前にして、肩が触れ合う距離にいる勇者と魔王が居心地悪そうにそっと視線を逸らせた。


 長年連れ添った夫婦のように、無意識の行動であっても息の合ったふたりの仕草を見て、エマの脳裏にひらめくものがあった。


 ああ、そういうこと……。と、微笑ましく思いながら席を立つ。

 と、カウンター越しでいままで見えなかったエマのずいぶんと膨らんできたお腹が、三人の目にあらわになった。


「あれ? おめでたですか?」

 一瞬、虚をつかれたような顔をした勇者であったが、すぐに屈託のない笑みを浮かべて、「おめでとうございます」と、祝辞を述べてくれた。


「ありがとうございます。そろそろ産休に入れって上司からも言われいるんですけど、その前に勇者様のお役に立てて光栄でした。あ、そうだ、生まれてくる子が勇者様のように立派な人間になれるように、お腹を触ってくれませんか?」


「エッ!? で、でも、夫でもないのに妊婦さんのお腹を触るなんて……」


 及び腰の勇者に、「ぜひお願いします!」と、重ねて言いながら、エマはちらりとその傍らでフードの下から興味深そうな視線をお腹の子に注いでいる少女――シアに目配せをした。


「私も赤ちゃんを触っていいですか?」

 エマの意図を察したのか、シアが小首を傾げた。


「ええ、是非お願いします」

 快く応じるエマのお腹に、清々しいほど無造作にシアは細い繊手を延ばした。


「……ああ、動いている気配がしますね。母子ともに元気そうですね」

「ありがとうございます」

「さ、ランスも手を出して祝福してください。私だとちょっとまずいので」


 促されて勇者ランスロットも恐る恐る手を延ばして、壊れ物を扱うようにそっとエマのお腹に手を当てた。


「ああ、本当だ。元気に動いている。――この子の将来に幸あることを願います」


 厳かに祝福の言葉を紡ぐ勇者と、無言で掌を当てたままのシアとを、エマは交互に見比べ微笑を強くした。


「なあなあ、俺も触っていい?」

 うずうずして順番を待っていたフィルにも、「ええ、どうぞ」と、エマは微笑みかけ、それに合わせてランスとシアは手を離して場所を譲った。


「……この光景を護らなきゃな」


 お腹の子供が動くたびに歓声をあげるフィルと、幸せそうなエマを眩しげに眺めながら、ランスは小さくも力強く呟いた。


「そうですね」

 そんなランスの横顔を見ながら、ルシアも小さく頷いた。それから、淡々とした口調で付け加える。

「少しは戻りましたね、以前の貴方に」

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