死刑囚の難
貴方は死刑制度に賛成ですか?
第一章 独居房の死刑囚
俺は上杉拓実、29歳、東京拘置所に収監された死刑囚だ。
俺は2011年11月、2012年8月に強姦殺人を、2012年9月に強盗殺人を犯した。
2件の強姦殺人では足がつかなかったが、強盗殺人を犯した際、複数の人に目撃され俺の面は割れ逮捕となった。俺はDNA採取をされ
前に犯した強姦殺人の被害者の体内に残っていた精液のDNAと一致した。その為2件の強姦殺人でも再逮捕となった。
俺の裁判は裁判員制度で行われ裁判官3人、裁判員6人、全員一致で死刑判決となった。俺は犯行時、心神耗弱の状態にもなく情状酌量の余地は全く無いとされた。
俺は控訴しなかった。3人も殺した。おまけに弁護士は国選弁護人、控訴しても判決は変わらないと考えた。
死刑が確定してからこの拘置所に移送された。
早いものでここへ来てからもう2年になる。
拘置所の独居房の生活は死刑囚から喜怒哀楽の表情を奪う。
独居房は四畳足らずの狭い部屋、流し台、洋式の簡素な便器、机、鉄パイプの錆びたベッドがある。回りは薄汚れたコンクリートの壁だ。
狭い窓が1つあるが鉄格子と窓の間には複数の穴が空いた鉄板があり通気性は極めて悪い。おそらく自殺防止用の鉄板なのだろう。
そして天井には24時間体制の監視カメラがある。
決まって聞く声は 『出房』と言う刑務官の言葉。
この声を聞く時は入浴、運動、面会人が来た時だけだ。
死刑囚に面会が許されるのは家族のみ。俺には家族はいない。
俺が房を出られるのは週2、3回の入浴と、同じく週2、3回の運動の時だけだ。
運動は2メートル×5メートルほどのコンクリートのベランダで行う。2年以上の独房生活で気力を失った俺は深呼吸とストレッチくらいしかしない。運動は一人で行う。30分程だ。
入浴も一人で入る。15分程だ。
刑務官との会話は全く無い。死刑囚が最後の瞬間を迎える時に備え情が移るのを避けているのだろう。それくらいは馬鹿な俺にも解る。
囚人同士の交流も刑務官との会話も全く無い孤独な独房生活が2年続いている。今の俺は表情筋が固まってしまったかのように能面のような顔をしている。
2015年の夏がやってきた。暑い!独居房には冷暖房設備は一切無い。
灼熱の太陽に熱せられたコンクリートの独房は夜になっても冷める事をしらない。
眠れない夜が続いた。食欲も落ち朝、昼、夕の食事も半分以上残すようになった。俺の心は完全に折れていた。
いつしか俺は死刑執行を待ち遠しく思うようになった。
そんなある日の午前
「出房!」と 刑務官の声が聞こえた。
房を出ると いつもは平の刑務官2人がいるのだが、今日は刑務官幹部がいる。そしてその後には10名ほどの刑務官が従っている。
『ついに来たか』俺はそう思った。
「地下エリアへ移動!」刑務官幹部の声が響く。
俺は両脇を抱えられ刑務官に四方を囲まれ拘置所の中心部辺りと思われる場所に連れていかれた。そこには大きなエレベータ―があった。
エレベーターの扉が開いた。俺の脇を抱える刑務官の腕に力が入る。エレベーターに乗るとすぐに下降し始めた。
地下三階で止まった。
扉が開くと一本の広い通路が目に入った。刑務官に抱えられエレベーターを降りて歩く。地下三階はエレベーターから直線に延びるこの通路一本だけのようだ。
通路はコンクリートの打放しでかなり古い。通路側面には配管が剥き出しになっている。
通路を50メートル程歩くと行き止まりになっていて右側に扉がある。刑務官幹部が扉を開けて俺を部屋に入れた。
そこは教誨室と呼ばれる部屋だった。祭壇があり応接セットが備わっている。俺は刑務官幹部に促されソファーに腰を下ろした。
この部屋は冷房も効いている。
『死刑囚に対しての最後の情けって訳か』俺はそう思った。
刑務官幹部が俺の向かいに座った。
「君が希望すれば教誨士にお経を上げて貰い、祈りを捧げて貰うことができるが、どうするかね?」
「結構です。宗教とかには全く縁がないですから。」
刑務官幹部は続けた。
「そうかね、これも君が希望すればだが、酒と菓子を振る舞う事もできるが、どうするかね?」
「それも結構です。執行の時、吐いたりしたらみっともないですから。」
刑務官幹部は暫く上を見てため息をつくと言った。
「随分と痩せたようだね。独居房の暮らしは辛かったろう。特に夏、冬はね、私も死刑囚の処遇は酷すぎると思っている。上には改善を求めて掛け合っているんだが中々取り上げて貰えなくてね。」
「いえ、仕方ありません。人を3人も殺したんですから。」
「そうかね、最後に遺書を書く事も出来るが........?」
「いえ それも結構です。書いても読んでくれる人がいませんから。」
「そうかね、了解した。」 こう言うと刑務官幹部は立ち上がり扉の脇にいる刑務官に合図をした。
刑務官が扉を開けるとスーツ姿の胸に見覚えのあるバッジを付けた男が入ってきた。検察官だ。
検察官は俺の前に立つと死刑執行指揮書を読み上げる。
そして最後にこう締めくくった。
「よって2015年8月10日午前11時30分 上杉拓実の死刑を執行するものとする。」
刑務官幹部が立ち上がり大きな声をあげた。
「前室へ移動!」
刑務官の一人が奥の部屋へと続く扉を開けた。
刑務官二人が俺の両脇を抱えようとすると刑務官幹部が声をあげた。
「彼は覚悟ができている、必要ない。」
刑務官二人は俺から腕を離した。
俺は前室と呼ばれる部屋に入った。背もたれもない丸椅子が1つ置かれているだけの小さな部屋だ。
俺は刑務官に促され丸椅子に座った。
後ろ手に手錠をかけられ目隠しをされた。
いよいよだなと思うと、さすがに足が小刻みに震えだす。
『俺自身が望んでいた事だろ、男らしくしろ!』自分にそう言い聞かせた。
その時だった。教誨室に誰か飛び込んでくる音が聞こえた。
「法務大臣から追加指示が出ました!」
そう聞こえた。
暫くすると誰かが前室へ入ってきた。
刑務官幹部の声が聞こえた。
「上杉拓実 君の死刑執行は試験的な試みとして絞首刑ではなく薬殺刑で行われる事になった。当拘置所には薬殺刑の設備が無いため然るべき施設へ君を移送する事になった。」
第二章 死刑執行
俺は手錠を外され目隠しも取られた。何故か私服に着替えさせられ、刑務官も全員スーツに着替えた。半袖Tシャツにジーンズ姿となった俺は拘置所の車専用の出入り門まで連れていかれた。
そこに停まっていたのは囚人用の護送車ではなく普通の三台の黒いセダンだった。
前後の車に刑務官4人づつが乗り込み、俺は真ん中の車の後部座席中央に座らされ両脇を刑務官が固めた。前席の助手席には刑務官幹部が乗った。
出入り門を出るとすぐに目隠しをされた。
『今さら何故目隠しするんだ?これから死刑執行される者に見られて困るものなど無いだろ。』
そう思ったが口には出さない。
車は30分程走ると信号待ちだろうか、よく止まるようになり辺りが騒がしくなった。
回りからは車のエンジン音や、ロードノイズ、人の声、横断歩道のものとと思われるピヨッピヨッという音などが聞こえるようになった。『あぁ 都心を走ってるんだな。』と分かる。
そして更に5分程走ると車は止まった。
車から降りたが両脇を抱えられる事はなかった。
一人の刑務官が俺の肩に手を掛け誘導する。
「階段だぞ、気を付けろ。」と刑務官の声。
階段を5段程上り少し歩くと自動扉の開く音がした。
何処か分からないがビルの中に入ったようだ。
涼しい空気が俺の体を包む。
また暫く進んで止まった。ドアの鍵を開ける音がした。ドアが開く音がして俺は部屋に入れられた。
ここで目隠しを外された。
殺風景な部屋だった。ドアの反対側の壁の中央にエレベーターの扉がある。他には何もない、窓さえ無い。
刑務官に促されエレベーターに乗る。上昇と下降の2つのボタンしかない。エレベーターは下降を始めた。
俺は考えた。
『薬殺刑とはたしかアメリカでやられてる死刑のやり方だったな。たしか第一薬で意識を奪い、第二薬で呼吸を止め、第三薬で心臓を止めるっていうやり方だ。絞首刑よりは楽に死ねそうだ。』
エレベーターは長い間下降を続け止まった。
エレベーターを降りるとかなり広い空間が広がっている。
エレベーターの前にはロビーと思われる場所がある。ソファーと自販機が並んでいる。テレビもある。
ロビーから3方向に通路が延びている。
通路は向こう側が霞んで見えないほど長い。
誰もいない通路を右に左に曲がりながら歩いた。通路の左右には沢山の部屋の扉がある。窓越しに白衣の男が働いているのが見えた。
10分程歩いた頃だろうか、あるドアの前に白衣の長身の男が立っていた。男は刑務官幹部に話しかけた。
「お待ちしてました。マーブルの小林と言います、網膜認証をして扉を開けますので少々お待ち下さい。」
「刑務部長の岡崎です。宜しくお願いします。」と刑務官幹部。
男が小さな機器のレンズの部分に目を当てるとピーという電子音がして扉が開いた。入った部屋を通り過ぎ次の部屋に入った。
そこは医療機器が全て揃ったような、まるで集中治療室のような20畳くらいの広さの部屋だった。
真ん中にはステンレスで出来ていると思われる台がある。
小林の他に2名の白衣の男達が待機していた。
刑務官幹部が声をあげる。
「ではこれより上杉拓実の死刑執行を行う!先生方、宜しくお願いします。」
俺は台の上に寝かされ刑務官達によって両手首と両足首をバンドで固定された。
白衣の男が俺の両腕の静脈にカテーテルを刺し込んだ。
刑務官幹部が俺の耳元で囁く。
「いよいよお別れだ、君が今度はもっといい環境の元に生まれ変われる事を祈るよ。」
「ありがとうございます。お世話になりました。」
「それでは第一薬を投与します。」と白衣の男。
白衣の男は俺に薬を投与した。
俺の意識は急激に遠のき、無くなった。.....................
どれくらい時間が経ったのだろう。
『何だ? 何なんだ! 俺は意識があるぞ! おかしいだろ! 俺は死んだ筈だぞ! なのに考えてる! ここは何処だ⁉ 真っ暗じゃねぇか!』
俺は真っ暗闇の中、仰向けに寝ているようだ。手に何か感触がある。枯れ葉か?だが真上に一点の白い光が見える。
暫くすると白い光が暗闇を放射状に侵食するように明るくなった。
「まっ 眩しい!」
少しすると光に目が慣れ回りの状況が見えてきた。ここは枯れ葉が地面を覆っている。広葉樹が立ち並んでいる。少し頭を上げると向こうに歩道が見える。公園の林のようだ。
一人の女が上から俺の顔を覗きこんだ。女の顔の左頬がみるみる腫れ上がってきた。
『そうだ!この女は俺が強姦して殺した吉岡由実だ。公園の歩道脇にある林の中へ連れ込んで強姦した。彼女が激しく抵抗したから俺は彼女の頬を何回も殴った。彼女は静かになった。事を終えた時には彼女はもう死んでいたかもしれない。こんな秋の日だった。』
女はゆっくりと左頬の腫れた顔を右左に振り始めた。その速度は段々速くなりブルブルブルっと顔が分からない程速くなったかと思うと俺の正面でいきなり止まった。彼女の顔はドクロと化していた。
「うわっ!!」
俺は立ち上がると走って逃げた。どれだけ走っても振り返ると彼女がいる。長い間走り続けた。
段々暗くなってきた。すぐに真っ暗闇となった。
「うっ!」 俺は足を滑らせると下に転げ落ちた。
俺が立ち上がると光の点滅が始まった。暗闇の中、0.5秒おきくらいにフラッシュする。向こうの方から人がこちらに向かって歩いてくるのが見える。前のフラッシュの残像が残って複数の人が歩いてくるようにも見える。
20メートル程に近づいた時 彼が初老の男で全裸であることが分かった。
5メートルまで近づいた。彼の腹部にはナイフが刺さり血が流れている。
『彼は俺が強盗して刺し殺した上田五郎だ。彼のバッグを奪おうとしたが抵抗されたので刺し殺した。そうだ、あの時 道路の街灯が壊れていて点滅を繰り返していた。』
彼は更に俺の真ん前まで近づくと刺さったナイフを引き抜いた。
血が吹き出し俺の顔は血まみれになった。
彼が口を開いた。
「何故俺を殺した?俺はセックスだけが楽しみだったんだ。もうセックできねぇじゃねぇか! お前がしゃぶれ、しゃぶって俺をイカせろ!」
彼はそう言うと赤黒いぺニスを俺の前につきだした。
彼の青白い顔は怒りでひきつっている。
俺は怖くなり走って逃げた。彼は追って来ない。
光の点滅が止んだ。再び暗闇になった。俺は暗闇の中を歩き続ける。
『何故なんだ? 何故俺に意識があるんだ?俺はもう死んでる筈だ。あの世なのか? いや俺はあの世の存在なんて信じない。』
どのくらい歩いただろう。暗闇の向こうに明かりが見えてきた。
近づくとそれは見覚えのある二階建ての木造アパートだった。
二階の真ん中の部屋にだけ明かりがついている。
俺は階段を昇り部屋のドアを開けた。
「お帰りなさーい。」と女が出てきた。
『彼女は山口恵美、俺が唯一愛した女性だ。二十代始めに2年程一緒に暮らした。俺と彼女は境遇が似ていた。二人とも親がいなくて施設で育った。看護士になろうと働きながら学校に通う彼女の努力を見て俺も頑張らねばと工場で働いた。」
「ご飯できてるよ。」と彼女。
俺は黙って彼女を抱きしめた。
「どうしたの?早く食べないと おかず冷めちゃうよ。」
俺はキッチンのテーブルの椅子に腰をおろした。
彼女が食事を運んできた。彼女は食事の載ったおぼんをテーブルに置くと 固まったかのように動かなくなった。
彼女の体がジグソーパズルのようにカラカラと崩れて消えた。
『そうだ。彼女は俺と結婚を誓い合った丁度その頃 癌になり闘病生活の末死んだ。』
「あーっ!」
部屋が急に傾き出し俺は窓からアパートの外へ放り出された。
地面につくとゴロゴロと転がり続けた。........
やっと止まった。
立ち上がるとそこは夕暮れ時の川原だ。上を見上げると川沿いに道がある。一人の女性がジョギングしている。女性は急に止まると、こっちを向き俺の方へ向かって土手を下りてきた。
長い髪がかかっていて顔がよく見えない。俺から数メートルの所で彼女は止まった。
ピンクのTシャツに黒の短パン、黒のジョギングシューズを履いている。
『そうか、そうなのか。彼女は俺が強姦して殺した立石ゆかりだ。俺が、そう、この土手の上の道を歩いている時 彼女がジョギングしていて俺を抜かした。プルプルと揺れる彼女の尻を見て俺はムラムラした。俺は彼女を追いかけ抱きかかえると下の川原の草むらの中へ連れ込み衣服を全て剥がし素っ裸にして犯した。
彼女が大声で泣き出した為首を締めて殺した。彼女の顔をよく見ると、15、16歳くらいにしか見えなかった。
俺は後悔した。』
彼女は前髪をかきあげた。悲しそうな顔をしている、まだ幼さが残る顔だ。
「悪かった!本当に悪かった! この通り謝る、君にはすまない事をした。」
俺は土下座して謝った。
彼女は俺のすぐ近くまで来ると、俺の頭の上に右手を置いた。
その瞬間、辺りは暗闇となり 俺はどこまでも落ちていった......................
第三章 裸の脳
随分と時間が流れたのを感じる。
『眩しい!一体どうなってる?今度は何だ? 一体いつまで俺の意識は続くんだ!ちゃんと殺してくれ!無にしてくれ!もう沢山だ!』
目が慣れてきた。俺の前にはガラスの仕切り板がある。
その向こうには大勢の白衣を着た男女が見える。ある者は端末に向かい、ある者達はテーブルを挟んで会議のような事をしている。コピーを取っている女も見える。
『おかしいぞ!手も足も動かない、まばたきも出来ないぞ!まぁいいか、どうせこれも現実じゃない。』俺は思った。
右側から白衣の男が俺の前に現れた。長身で眼鏡をかけている。白髪混じりで五十代前半くらいだろうか、優しい笑顔を浮かべている。二人の助手らしき若い男を従えている。
彼が50センチ角程のホワイトボードを俺に見せた。
それにはこう書かれていた。
[我々は政府直属の脳科学技術研究所、通称マーブルのメンバーです。
私は所長の岩井健太といいます。
残念ながら日本の脳科学技術は欧米に比べるとかなり遅れている。
そこで政府が秘密裏に立ち上げたのがマーブルです。
何故 秘密裏に立ち上げたかというと 外部からのハッキングを避ける為です。
そこでですが、我々は研究の為、生きた若い単体の脳を必要としていました。そんな時 法務大臣から上杉拓実君、君の死刑執行命令が出されたと聞きました。
我々マーブルは政府に君の脳を譲って貰えないかと掛け合い了承されました。
君には騙し討ちのような形になってしまい本当に申し訳ないと思っています。君にはかなり酷な事ですが、まずは今の君の状態を認識して貰わなければなりません。そうしないと我々に協力して貰えないと考えるからです。今の貴方自身をご覧になりますか?
YESなら目を上に上げて下さい。]
俺はあまりに生々しい話に当惑したが目を上に上げた。
助手が等身大の鏡を腕で抱えている。
彼はその鏡を俺の前に置き固定した。
鏡に写ったもの、それは四角い水槽の中に浮かんだむき出しの脳だった、かろうじて左右の眼球だけが付いている。脳の表面には迷路の如く複雑に走る深いシワが刻まれている。脳は淡いピンク色を帯びた灰白色で、脳下部にはだらしなく延髄が垂れている。
延髄の後ろには小脳が見えている。悩下部から出た複数の動脈、静脈は脳の下10センチ程で切断され透明なチューブと繋がれている。
複数のチューブは水槽の中で一つにまとめられ水槽の外へと出ている。
脳の表面には無数の電極やセンサーと思われる物が刺し込まれている。電極、センサーから出たリード線は脳の上部15センチ程の所で一つに束ねられ水槽の蓋を抜け上部へと出ている。
『何だこれは! 嘘だろ‼ なんてグロテスクなんだ、脳みそと目玉だけじゃねぇか! それに脳みそにいっぱい刺さってる針みたいなのは何なんだ! 夢だ、夢に決まってる‼............?
ちょっと待てよ、俺が殺した人達の夢はどこかボケていて画像が鮮明じゃなかった。だが今 俺が見ている景色はどうだ?岩井という男にしろ、ガラスの仕切り板の向こうに見える白衣の人達もあまりに鮮明だ。それに岩井という男の言う事には何の矛盾もない。ひょっとしたらこれは現実なのか......。』
俺の眼球は動揺の為、上下左右に激しく動いた。
それを見た岩井所長はまたホワイトボードに何か書き込み俺に見せた。
[君が動揺する気持ちはよく解ります。だがこれは現実なんです。
どうか受け止めて下さい。何か言いたい事、聞きたい事があれば何にでも答えます。聞きたい事があるなら目を上に上げて下さい。]
『こんな合理的な筋書きで、こんなに鮮明な画像の夢などあるわけないよな。辛いけどこれは現実に間違いないようだ。』
そう考えて俺は目を上に上げた。
岩井所長は助手から分厚いボードのような物を受けとると床に固定した。どうやらひらがな表のようだ。
彼はまたホワイトボードに文字を書き込むと俺に見せた。
[これは ひらがな五十音表の電子パネルです。君が同じ文字を二秒間見続けるとその文字が点灯し上にあるディスプレイに表示されます。その行為を繰り返す事によって文章を作り君の言いたい事、聞きたい事を我々に伝えてください。]
俺は岩井所長に言われた通りに電子パネルの文字を選び文章を作った。
[のうにささってる はりのようなものはでんきょくですか あとおれはしぬまでここにいるんですか]
岩井所長はホワイトボードに書き込み俺に見せた。
[よく素人の君が電極だとわかりましたね。そうです、この無数の針のように見えるものは電極と各種のセンサーです。
人間の脳は体のいたるところから情報となる電気信号を受け取りその情報をまとめ考えて、また体の各部位に命令となる電気信号を発信します。それが脳の役割です。とごろが体からの電気信号が全く来なくなると脳は急速に退化しやがては死んでしまいます。
そこで我々は脳に電極を刺し込み 体からの情報信号に似た電気信号を常に脳に流す事によって脳の退化を防いでいるんです。
そしてセンサーは君の脳の脳波を検知したり脳の中の神経細胞間の電気信号の流れなどを検知しています。
さて次の質問に答えます。
喜んでください、君がここにいるのは1年だけです。それは政府に君の脳を譲って貰えないかと掛け合った際に政府から出された条件です。政府も死刑囚といえど健康な君の体から脳を摘出する事にはいささか倫理的に抵抗があったのでしょう。
脳を摘出された君の体は、少し難しい言葉ですが、核磁気共鳴反応を使った過冷却という方法によって完全な形で保存されています。君の脳は1年後には自分の体に返れます。
脳を体に戻す手術は複雑なものですが、マーブルには優秀な外科医、脳外科医が揃っていますから100%大丈夫です。
そこでですが、君はもう死刑執行されて世間では死んだ事になっています。
君は顔を整形され新しい名前と戸籍を政府からもらい社会復帰する事となります。]
俺は続けて聞いた。
[ほんとうですか ほんとうにいちねんでしゃかいにもどれるんですか しけいしゅうのおれがしゃかいにもどることがゆるされるんですか]
[君はあまり良くない境遇の元に育ったと聞いています。それに大切な恋人も失ったそうですね。拘置所の生活も過酷だったでしょう。3人の方を殺めたとはいえ、君にも辛い事が沢山あったと推察します。これから1年マーブルに協力して下さい。そして社会復帰してからは出会う人達全てに誠実に接して下さい。
それで十分だと思いますよ。]
[ありがとうございます そういってもらえてうれしいです]
それから俺の悩だけの生活が始まった。
睡眠時は必ずと言っていいほど夢の中に上田五郎、吉岡由実、立石ゆかり、俺の殺した3人が現れうなされた。
動脈に投与された薬のせいだろうか覚醒時にも度々白昼夢を見た。
「お前が殺した吉岡由実は俺の恋人だ!」と白衣の男が言った、男は水槽の蓋を外しナイフを俺の脳に突き刺そうとした。
俺は目をそらした。目を戻すと男の姿は消えていた。
大蛇が近づいて来る。器用に頭で水槽の蓋を外すと、大蛇は牙を剥き出し俺の眼球に噛みつこうとした。俺は目をそむけた。
目を戻すと大蛇の姿は消えていた。
こんな白昼夢と悪夢の繰り返しだ。
ただ恋人だった山口恵美の夢を見る時が救いだった。俺は優しさに包まれ、ふかふかなベッドで寝ているようなリラックスした気持ちになれる。俺自身も優しい気持ちになれた。
俺が不思議に思う事が一つあった。
覚醒時に限っての事だが 色々な人の存在を感じたのだ。悲しい気持ち、寂しい気持ち、嬉しい気持ち、時には俺に対する強い憎しみの感情も伝わってくる。そして一際大きい俺への優しい気持ちも。
具体的な言葉ではないが抽象的な感情、考えを俺に送ってくる複数の人物の存在を確かに感じる。
そして優しい気持ちを送ってくる人が誰なのか、強く知りたいと思った。
苦痛な出来事の連続で1年はかなり長く感じるだろうと思っていたが、割合と早く1年は過ぎた。
岩井所長がホワイトボードと電子パネルを持って俺の前に現れた。
[早いものだね、もう君が来てから1年だ。約束通り脳を君の体に返す手術を明日午前9時から行う事が決まったよ、手術後にまた会おう。君の協力には心から感謝してるよ。]
「こちらこそ ありがとうございます]
俺の脳は薬剤を投与されかなりの時間 眠っていたらしい。.......
気が付くと俺はベッドの上に寝ている。手術が終わってもう二日間経っている事をマーブル所属の看護士から聞かされた。
まだ思い通りには動かないが、確かに腕も足もある。
まばたきも出来る。俺は嬉しくて10年ぶりぐらいに一人で涙を流した。
鏡を見たが頭に包帯もない。頭は丸坊主だ。眉毛の上に水平に頭蓋を切開した跡が僅かに残っているが殆ど目立たない。脳を戻す手術と同時進行で顔の整形も行われたらしい、目と鼻だけが変えられたらしいがまるで別人だ。以前よりも優しい面立ちになっている。
マーブルの医療チームの腕の凄さに驚いた。
岩井所長がやって来た。
「どうかね 気分は?手術は成功したよ。全く問題はない。暫く思い通りには体が動かないと思うが、君はまだ若い、10日程リハビリすれば すぐに社会復帰できるよ。リハビリの施設もマーブルは完備してるんだよ。」
「とても気分がいいです。でも死刑囚だった俺がこんな風にマーブルさんに良くして貰って、何だか殺してしまった人に申し訳ないような気がします。」と俺。
「そういう気持ちがあれば社会復帰しても君は大丈夫だ。新しく出会う人達に誠実に優しく接して下さい。そうすれば新しい友達もきっと大勢できるだろう。
とにかくこうして君とホワイトボードも電子パネルも無しで話す事が出来て私も嬉しいよ。」
「社会復帰したら殺してしまった方達への謝罪の念も込めて人の役に立てるような人間になりたいと思います。」
岩井所長は部屋を出て行った。
俺は一週間程リハビリを続けると以前のように普通に体が動くようになった。
そして10日後、俺は社会復帰する事となった。
黒いスーツ姿の若い女性が俺の病室に入ってきた。
「初めまして、私は岩井所長の秘書をしております星崎智子と申します。上杉さんが社会復帰するに当たりマーブルは全ての準備を済ませております。まずは上杉さんの新しい住まいにご案内します。」
「初めまして、宜しくお願いします。」
星崎智子は大きめのバッグを持ち俺を案内する。
暫く通路を歩くと見覚えのあるロビーがありその前にエレベーターがある。
『あぁここは薬殺刑の為俺が連れて来られたエレベーターだな。』と思い出した。
エレベーターに乗り上に上がると、ダークスーツ姿の二人のガタイのいい男性が待機していた。俺はその内の一人に目隠しされた。誘導されビルの外に出た。待機していたと思われる車に乗せられ30分程走ると、俺は目隠しを外され星崎智子と二人車を降りた。
マンションと思われる建物の前だ。
星崎と共に建物に入りエレベーターに乗ると、彼女は三階のボタンを押した。三階で降りすぐ左側にある部屋の前で星崎は止まった。カードキーで部屋の扉を開ける。
「さぁ、上杉さん、ここが貴方の新居ですよ。まずは入りましょう。」
星崎と共に部屋に入ると十畳程のワンルームマンションだった。
必要な家電は全て揃っている。ベッドがありその上には下着、夏用の衣服、靴下まで置いてある。
「上杉さん、必要だと思われる物は全て揃えました。後は....」
と言うと彼女はバッグの中から色々取り出した。
そして続けた。
「これが貴方の新しい戸籍ですよ。そしてこれがこの部屋のカードキー、これは当座の貴方の生活費です。」
俺は戸籍謄本とカードキーと封筒に入った100万程のお金を受け取った。
戸籍謄本を見ると、この部屋の住所と俺の新しい名前が書いてある。
「浅井真治.....ですか?」
「そうです、浅井真治、しっかり住所と名前を覚えて下さいね。
あと これもしっかり覚えて下さい。」
と言うと彼女はA4版の封筒を俺に渡した。
封筒から紙を取り出すとそれは履歴書だった。
読んで見ると浅井真治は2016年8月、つまり今月に12年働いた会社を辞めた事になっている。
「これで全てです。後これは私の携帯番号です。何か困った事ができたら いつでも連絡して下さい。デートの誘いはNGですよ。」
そういうと彼女は笑った。
『女性の笑う顔なんて久し振りに見たな、いいもんだなあ』
俺はそう思った。
彼女は「頑張って下さいね。」と言った。
「至れり尽くせりの心遣い本当にありがとうございます。」
俺がそう言うと彼女は帰って行った。
第四章 再会
俺の社会生活が始まった。
色々考えた末、介護の仕事に就く事にした。実務経験を積み研修を受ければ、介護福祉士の試験資格も取得出来るようだ。
俺は早速、都内の介護施設で従業員を募集している所を探して就職面接を受けた。
何とか合格して働き始めた。
結構きつい仕事ではあるが、俺はやりがいを感じた。
だが仕事を終え部屋に帰ると、いつも思うのはマーブルにいた頃の、俺の心に伝わってくる複数の人の思い、感情、特に俺を優しい気持ちで包んでくれた人の存在。
苦痛が続くマーブルでの生活で俺の疲れた心の内をを理解し優しい気持ちで癒してくれた人が誰なのか知りたいという気持ちが日毎に強くなっていった。
だが マーブルは飽くまで秘密組織、俺の勝手な疑問をぶつけていいものか、俺が知りたいこともマーブルにとっては秘密なのではないかと思うと行動に移れない。
そんな状態が10ヶ月程続いた。
俺は意を決して星崎智子に電話してみる事にした。
非番の日に、俺は星崎に電話した。
「もしもし、星崎さんですか?」
「はい、星崎ですが。」
「浅井真治ですが、わかりますか?」
「勿論ですよ。貴方はマーブルから出られたたった一人の人なんですから。何か困った事でもあるんですか?」
そして俺は思いの丈を全て話した。すると
「うーん....それは岩井所長に聞いてみないと何とも言えませんが、とにかく岩井に報告して判断をしてもらい、後程 私の方から電話をさせて頂きます。」
「お手数をかけますが宜しくお願いします、」
そして三時間ほど後に星崎から電話が入った。
「浅井さん、貴方になら話してもいいと岩井から許可が出ました。岩井は自身で貴方に直接話したいようなのですが、何分彼は多忙なものですから、私からお話するということで宜しいですか?」
「よろしくお願いします。」
「そこでですが何分マーブルの秘密に関わる事ですから、レストランや喫茶店でお話するわけにはいきません。私が直接浅井さんの部屋にお邪魔するということで宜しいですか?」
「はい、お願いします。」
「私も 大学で脳科学を専攻し1年前まではマーブルの研究員でしたから ちゃんと話しますからね。
ところで明日の午後6時が都合がいいですが如何ですか?」
「はい 部屋にいます。お待ちしてます。」
翌日、俺は早めに仕事を切り上げ部屋に帰り星崎智子を待った。
6時丁度に部屋のチャイムが鳴る。
星崎を招き入れると買ったばかりのガラスのテーブルを挟んで向かい合って椅子に座った。
彼女はバッグのの中から分厚い資料を取り出すと口を開いた。
「まず最初に、浅井さんはマーブルには貴方の脳一つだけしかなかったとお思いでしょうが実は1200体余りの脳があったんです。」
「そっ、そうだったんですか?」
「そうです。実は都内にある大規模な総合病院の救急救命には全てに二人づつマーブル所属の外科医がいるんです。
彼らは運ばれてきた患者の体がもうどんな処置をしても駄目だと判断し脳が無傷である場合は基本的に脳を摘出してマーブルに移送する事になっています。一人の外科医が脳を保存ケースに入れマーブルに届けます。保存ケースには脳に血液を循環させる小型の装置が備わっているんですよ。そしてもう一人の外科医が切り取った半球体の頭蓋を特殊な接着剤で元に戻し、義眼を入れます。その技術は秀逸で遺体を遺族に引き渡した後も気付かれた事は一度もありません。
そうした訳でマーブルに1200体もの脳が集まったんです。
健康な体から脳を摘出したのは後にも先にも浅井さん、貴方だけなんですよ。何故マーブルが貴方の脳を欲しがったかというと、浅井さんには失礼ですが犯罪を犯した人の脳に何か他の脳との違いがあるかどうかを検証したかったんです。
ですが安心して下さい、何も違いなど無かったんです。
ここまでは理解して頂けましたか?」
「はい、驚きましたが。」
「そうですよね、驚かれて当然です。普通の人から見れば浮世離れした話ですからね、では次の話に移ります。
まず脳は千数百億個の神経細胞で構成されています。
そして神経細胞にはニューロンと呼ばれる物とシナプスと呼ばれる物の二種類があります。まずこれを覚えて下さいね。
主に人は前頭葉にある前頭前野というところで理性的な思考を行っています。
そこには数百億個のニューロンがありニューロン同士が複雑に電気信号をやりとりする事によって思考が行われていると考えられています。私達マーブルはその夥しい数のニューロンの中に一つだけ巨大なニューロンがあるのを発見しました。そして思考した末の結論というか意思のような電気信号がそのニューロンに集中する事をつき止めました。
更に巨大ニューロンがシナプスに出す電気信号をキャッチする事に成功しました、この電気信号は考電気信号と名付けました。
続けますよ、人の感情は側頭葉にある大脳辺縁系で生まれす。大脳辺縁系は感情脳とも呼ばれます。
感情脳も多数のニューロンで構成され感情の結論とも言える電気信号が一つの巨大ニューロンに集約される事が分かりました。
その巨大ニューロンがシナプスに出す電気信号もマーブルはキャッチする事に成功しました。この電気信号を感情電気信号と名付けました。
考電気信号と感情電気信号を合わせて考感電気信号と名付けました。
さてこれからが浅井さんの知りたい事に繋がって行きますよ。
我々マーブルはこの考感電気信号を増幅させ核交流中枢と呼ばれる、いわば大きな配電盤のような物ですが、そこへ回線で繋ぎました。
簡単に言えば各脳から出た考感電気信号が核交流中枢に集まったという事です。
そしてマーブルは各考感電気信号の端子を複雑な網目状の回路で繋ぎました。
するとどうでしょう、脳同士が感情や思いの交流を始めたんです。
浅井さん、貴方が他の存在からの感情や思いを感じたのはこのせいだったんですよ。」
「なるほど、そういう事だったんですね。マーブルはそんな事もできちゃうんですね、驚きました。
でも俺に対する優しい感情や、憎しみの感情を送ってきたのは誰なんでしょう?」
「それはですねぇ....」そう言うと星崎はテーブルの上に置かれた分厚い資料を捲ると続けた。
「落ち着いて聞いて下さいね。実は浅井さんが殺したとされる3人の方の脳もマーブルにあるんです。」
「えっ! それは本当なんですか?」
「はい、そうなんです。上田五郎さんは貴方に強盗された後すぐに都内のある救急救命に搬送されました。その時点では彼はまだ生きていたんです。ですが大動脈が激しい損傷を受けており救命は不可能でした。そこでマーブル所属の外科医が彼の脳を摘出してマーブルに届けたんです。
吉岡由実さんも貴方に強姦された後すぐに人に発見され救急救命に搬送されました。彼女は貴方に殴られた為、重度の硬膜下血腫を起こしていました。このままでは脳が圧迫され損傷を受けることは必至でした。その為マーブル所属の外科医が脳を摘出してマーブルに届けた訳です。
立石ゆかりさんも救急救命に運ばれた時、まだ生きていたんです。しかしながら貴方に首を絞められた事により頸椎を骨折していて頸椎内を走る神経がかなり損傷していました。命が助かったとしても植物状態になることは確実でした。そこで脳を摘出しマーブルに届けたんです。
貴方に殺されたとされる3人の考感電気信号は核交流中枢を経て貴方の脳の大脳皮質にある記憶中枢に侵入したものと考えられます。そこで貴方が自分達をこんな目に合わせた犯人だと知ったんでしょう。
貴方の夢の中に3人が現れたのも偶然ではなく3人が意図して現れたものと考えられます。
覚醒中に貴方に強い怒りの感情を送って来たのもその3人です。」
「そういう事だったんですか、自業自得だったんですね。上田さん、吉岡さん、立石さんには本当に酷いことをしてしまいました。でも3人は脳だけでも生きていてくれて良かったです。完全に殺したものと思ってましたから.......」
俺は何故か分からないが涙が止まらなくなった。
「浅井さん、貴方は随分、変わられたようですね。」
「はい、介護の仕事をしていてお年寄りや体の不自由な方のお世話をしているんですが、仕事で当たり前にしてるだけなんですが、妙に感謝されて、俺に優しい笑顔を向けてくれるんですよ。
それが嬉しくて、人の優しさに触れたというか、何だか家族ができたような気がしてるんです。」
「そうですか、良かったですね。本当に。」
そう言うと彼女は黙って俺にハンカチを差し出した。
俺はそれを受け取った。
「有り難うございます、ところで、じゃあ俺を優しく包んでくれるような感情を送ってくれたのは誰なんでしょう?」
彼女は暫く俺の目を見ると続けた。
「驚かないで下さいね。それは山口恵美さんなんです。」
「えっ!? それは確かに恵美なんですか?本当なんですか?」
「はい 山口恵美さんは7年前、末期の肝臓癌の為、都内の総合病院に入院してましたね。その病院の救急救命にもマーブル所属の外科医がいました。その外科医は覚えていましたよ、貴方は毎晩のように仕事帰りに恵美さんを見舞っていたそうですね。時には付き添って泊まっていく事もあったと聞きました。その外科医はあなた達二人の様子を見て、『何とか彼女の脳だけでも救ってやれないか、マーブルではクローン技術の研究も行っている。彼女の脳だけでも生かせれば将来彼女のクローンを作り、そのクローンに彼女の脳を移植する事によって彼女は生き返れるかもしれない。』とそう思ったそうです。その外科医は恵美さんの担当医に掛け合い、暗にマーブルの存在もほのめかし彼女の脳を摘出する事に同意してもらったそうです。
やがて彼女は危篤状態に陥った為、脳は摘出されマーブルへ送られました。
貴方は駆け付け彼女の遺体にすがって男泣きしたそうですね。その時には彼女の体に、もう脳は無かったんですよ。」
「うっ、うっ、ううーっ」
言葉にならなかった、俺の目からまた大粒の涙が溢れた。星崎から借りたハンカチで涙を拭った。
星崎は続けた。
「彼女の考感電気信号も貴方の記憶中枢に入り込み、彼女が亡くなった後の貴方の荒んだ生活の事、やがて三件の殺人事件を起こしてしまった事、死刑囚となり独居房での過酷な生活を送った事、そしてマーブルへ来て悪夢に苦しんでいる事、それら全てを知ったんだと思われます。
だから貴方に出来る限りの優しい気持ちを送ったんだと思いますよ。」
「そうですか、恵美の脳は生きていたんですね。それだけで本当に嬉しいです。」
俺の声は涙声になっていた。
星崎は更に続けた。
「実は浅井さんが社会復帰してからマーブルに画期的な事が起こったんですよ。考感電気信号を音声電気信号に変換するソフトを
開発する事に成功したんです。考感電気信号を音声電気信号に変換し核交流中枢に集め各端子に小型無線LANを取り付け直接聴覚中枢に音声信号を入力出来るようにしました。そして各端子を網目状回路で繋いだんです。それによって脳同士が会話出来るようになりました。脳同士だけじゃなく、脳と研究員との会話も出来るようになったんですよ。
もうマーブルは脳科学技術研究において欧米と肩を並べたんです。」
「本当なんですか?じゃあ俺もマーブルに行けば恵美と話せるんですか?......いやそれは無理ですよね。」
「浅井さんはそう言うと思ってましたよ。」
星崎はそう言うとバッグから1枚の紙を取りだし俺の前に置いた。そして続けた。
「これは誓約書です。マーブル内で見聞きした事は絶対に他人に口外しない、そしてインターネットにもアップしない事を誓うといった内容の誓約書です。誓約書に署名捺印すれば、浅井さん、貴方が一度だけマーブルを見学という形で訪れてもいいと岩井所長からの許可を貰ってあります。」
「本当なんですか!? 嬉しいです。恵美に会えるんですね‼」
俺は早速 誓約書に署名捺印して星崎に渡した。
星崎は続けた。
「見学は 一時間程に限られています。今まで政府要人達も見学という形で訪れているんですよ。浅井さん、貴方の都合のいい日時を教えて下さい。」
「明日、木曜日が丁度非番なんです。明日の朝9時からでも宜しいですか?」
「分かりました、では明日8時半くらいに車でお迎えに来ます。
その時間にはマンションの前に立っていて下さいね。」
「はい、分かりました。」
「浅井さん、良かったですね。明日はもっと驚く事があるかもしれませんよ。」
そう言うと星崎は満面の笑みを浮かべた。
「本当にマーブルさんには感謝の気持ちでいっぱいです。恵美とまた会えるなんて夢みたいです。」
「私も嬉しいんですよ。それじゃ今日はこれで失礼しますね。」
「今日は本当に有り難うございました。明日8時半にお待ちしています」
俺がそう言うと星崎は帰っていった。
その夜ベッドに横になると色々な思いが俺の脳裏に浮かぶ。
山口恵美と暮らしていた時の事、殺人を犯してしまった時の事、拘置所での暮らしの事、そしてマーブルでの裸の脳となった時の体験。
全てが介護の仕事をしている今の俺に繋がっていると感じる。
殺人を犯した時の俺には、誰も理解者がいなかった。だが今は仕事仲間、介護施設の沢山のお年寄りや体の不自由な人達、そしてマーブルの星崎智子、岩井所長、俺を解ってくれる人が大勢いる。俺はその人達のおかげで荒んだ心を洗われ、優しい気持ちを取り戻せたと思える。
俺は眠りについた。
翌日の朝、
俺は滅多に着ないスーツ姿でマンション前で星崎智子を待った。
8時半丁度に俺の前に黒いセダンが止まった。
若いスーツ姿の男性が運転席にいる。星崎は後部座席の右側にいた。俺は後部座席に乗り込んだ。
「星崎さん、おはようございます。」と俺。
「おはようございます、よく眠れましたか?」と星崎。
「はい、興奮気味でしたが眠れましたよ。目隠しはしないんですか?」
「はい しませんよ。マーブルが貴方を信頼したという事です。」
車は30分程走ると大通りから左の脇道へと入っていく。そこから更に少し走ると、昭和に戻ったかのような古いビルが沢山 立ち並んでいる。4階建ての古い雑居ビルのような建物の前で車は止まった。
俺と星崎は車を降りた、
「こんなところにあったんですか、マーブルは?」
「そうですよ、これは目眩ましなんです。誰もこんな古いビルの地下深くにマーブルのような研究施設があるとは思いませんからね。」
「なるほど そういう訳ですか。」
俺と星崎はエレベーターで地下に降りると通路を20分程歩いた。
大きめのドアが見えてきた。星崎がドアの右側にある網膜認証機に目を当てるとドアは開いた。
星崎に促され俺は部屋に入った。
俺は驚きの余り目を疑った。
その部屋は巨大だった。部屋の巾は100メートルはあるだろう、床から天井までも10メートルはゆうにある。部屋の奥行きは....遠すぎて向こう側が見えない。
部屋の中央にはシルバーの仕切り板で囲まれた巾10メートル程の空間
がある。この空間も奥行きは遠すぎて向こうの端が見えない。
部屋の左右には夥しい数の端末、机が整然と並んでいる。等間隔に壁に接した透明なガラス板で仕切られた薬剤の保管庫のようなものも見える。部屋の床にはカバーの取り付けられた電気回線か複雑に走っている。その中で白衣の男女達が働いている。
そして 俺の居るところからだと100メートル程先の左側に、赤色の円筒形のかなり大きな搭のようなものが見える。
「星崎さん、この部屋の奥行きはどのくらいあるんですか?」
俺は聞いた。
「5000メートルくらいあるんですよ。だから研究員の移動が大変で、左右の壁の外側には電動歩道が走ってるんですよ。」
『そんなにあるんですか、驚きました。左側の100メートル程先にある赤い搭のような物が、ひょっとして核交流中枢ですか?」
「そうですよ、当たりです。じゃあ山口恵美さんに会いますか?
心の準備はいいですか?」
「はい 緊張してますが大丈夫です。お願いします。」
星崎は中央にあるシルバーの仕切り板の一つをスライドさせ俺を中に入れた。奥行きに沿って裸の脳が横一列に並んでいる。
中からは外が見える。シルバーの仕切り板は偏光板だったようだ。
星崎とともに奥へと歩いていく。左側に並ぶ脳達の眼球が俺を見ているのが分かる。
暫く歩くと星崎が止まった。
「これが 山口恵美さんですよ。」
それは淡いピンク色を帯びた肌色の少し小ぶりな脳だった。
恵美の目が俺を見つめている。
俺は目頭が熱くなった。だが必死に泣くまいと耐えた。
「この小型端末で恵美さんと話せますよ。」
そう言って星崎は端末を俺に渡した。
俺は話しかけた。
「恵美 俺だよ、分かるかい?」
「どんなに顔が変わっても私には分かるよ、拓実でしょ。」
合成音声の為、声は違うが確かに恵美の話し方だ。
「さすがは恵美だな、そうだよ拓実だよ。」
俺の声は涙声になってしまった。
「何泣いてるのよ、私と暮らしてた時は涙なんか見せた事無かったのに。」
『ごめんな 泣かないつもりで来たんだけど恵美の声聞いたら嬉しくてさあ。」
「結婚の約束したばかりだったのに死んじゃってごめんね。」
「何言ってんだよ。恵美は生きてるよ。こうして話してるじゃないか。」
「この7年間 拓実の事ばっかり考えてたんだよ。どうしてるだろうかって、貴方がマーブルに来たの分かった時、同時に貴方が3人も人を殺めた事も知っちゃって悲しかった。
でもね貴方が凄く後悔してて苦しんでるのも分かったよ。
だから貴方を思いっきり優しい気持ちで包んであげたいと思ったの。」
「有り難う、恵美、その気持ちはずーっと俺に伝わってたよ。だから悪夢にうなされても耐えられたんだ。」
星崎が俺に話しかけた。
「浅井さん、実は朗報があるんですよ。恵美さんは後1年足らずで社会復帰するんですよ。」
「えっ?!」
「実は恵美さんのクローンを今成長させてるんです。クローンは後1年足らずで二十歳くらいの体にまで成長します。その時にクローンに恵美さんの脳を移植する事が決まってるんですよ。」
「本当なんですね‼ 夢みたいです」
俺はまた端末に向かい恵美に話しかけた。
「恵美、どうして早く言わないんだよ、お前も知ってた筈だろ。」
「てへへ ばれたか。」
「恵美? 頼む❗ 社会復帰したらすぐに俺と結婚してくれ。」
「頼まれなくてもこっちから押し掛けて行くよ。」
こんな事も起こるんだなと俺は思った。生きていてよかった。
心からそう思った。
恵美との会話を終えて俺は帰る事になった。
星崎と共に雑居ビルの入り口まで来た。
「星崎さん、本当に有り難う、ございました。」
俺は深々と一礼した。
「車で送りますよ。」と星崎。
「いえ 歩いて帰ります。歩きたい気分なんです。星崎さん、また電話してもいいですか?」
「デートの誘い以外ならいいですよ。」
そう言うと星崎は笑った。
俺は今度は軽く一礼すると歩き出した。
東京の景色が美しく感じられる。
奇しくも今日は俺の31歳の誕生日だ。
恵美の為、俺の回りの全ての人達の為に自分の命を使いきろうと強く思った。
終
私は死刑制度に反対です。
死刑囚は教誨室、前室を経て、やがて死刑台の階段を上ります。
殆どの死刑囚は泣き叫び暴れるそうです。刑務官達10名余りは死刑囚の両脇を抱え、上から引っ張りあげ、下から押し上げるようにしてやっと死刑台の上に死刑囚を立たせます。
暴れる死刑囚の首にロープを巻き付け、3人の刑務官が同時にボタンを押すと死刑台の床が開き死刑囚は下に落ち死刑執行となります。落ちた死刑囚の体は痙攣を何分か続けるそうです。中には嘔吐する者もいるそうです。
私には国が殺された方の遺族に変わって仇討ちをしているとしか思えません。
遺族の方達の溜飲は下がるかもしれません。でもそれ以上のものが何かありますか?
それよりも囚人に反省、悔恨、懺悔の念を思い起こさせる事の方がずっと重要で意味のあることなのではないでしょうか?
私は原始的で残忍な絞首刑による死刑制度には反対です。