トイレの花子さん
とある高校のトイレ。
全体的に小綺麗なその中にある個室の便器に、一人の少女が座っていた。
彼女の名前は花子。特に目立つこともない地味な女の子。それこそ誰も相手にしてくれないような、そんな空気みたいな、幽霊みたいな娘。
「あー、今日も誰ともしゃべれなかったよ……。明日こそ頑張らないとーっ」
落ち込んだ気持ちを無理矢理奮い立たせて発破をかける。
だがこんなことをトイレに引き込もってしている以上、次もまた上手くいかないだろうことは想像に難くない。便所飯もしているのではないかという疑惑が浮上してくる。仮にその疑惑が真実だとすると救いようがない。
「次こそ誰かに声をかけて貰うんだ!」
あまりにも受け身な姿勢の彼女にツッこむものは誰一人として居なかった。
ハズだった。
「ふげっ!」
座っていた便器から飛び降りて勢いよく開けた扉の向こうから、踏まれた蛙のような悲鳴が聞こえた。
「へっ!? あれ!? 大丈夫ですかー!?」
そこに倒れていたのは一人の少年だった。彼はどちらかと言うと大人しそうな、格好いいか可愛いかで言えば可愛いに分類されるタイプの容姿をしていた。
服を見なければ性別の判断はつかなかったかもしれない。
花子さんは初対面でありながら、失礼にもそんな彼がアグレッシヴムッツリスケベだと勘で感じた。どんな勘だ。
さすがの花子さんも、それを口に出すほど失礼ではなかったが。
ちなみにアグレッシヴは、英語では攻撃的とか好戦的と訳されかなりマイナスなイメージがあるので使い方に注意すべき単語だ。日本語のイメージはかなりプラスよりであるが。
「えーと、あの……大丈夫ですか……?」
あまりに予想外の出来事に、花子さんはただ声をかけることしか出来なかった。もっと他にやることがあっただろうに。
迷った末、取り敢えず少年の頬をぺちぺち叩いてみる。女の子が嫉妬するような柔らかくてハリのある肌だった。
花子さんは全女子を代表して少年の頬を引っ張った。伸びる伸びる。
「おっと手が滑ったー」
棒読みと共に引っ張っていた頬を捻り上げる。女子の嫉妬がなせる技だった。
恐ろしい。
「痛っ!? えっ、何!? って痛い痛い痛い痛いッ!」
「あら、ごめんなさい。つい……」
「つい!?」
何故か加害者の少女から恨みがましい目で見られている少年が、混乱しつつも非難の声をあげた。
「えーと、あなたは?」
取り敢えず少年は、深く考えるより前に状況確認をすることにした。
まずは目の前の女の子の身元確認だ。
「花子って言います……。ちゃんと居るのにみんなから居ないと思われているような私のことなんか知らないと思いますが……」
「えっ、花子さん? あの有名な!?」
「そんな有名だなんて……。そんなことありませんよ。おほほほほ」
さっきまでの出来事が無かったかのように仲良く会話しだす二人。なかなか良い雰囲気である。場所はトイレだが。
ちなみに花子さんの口調が最初と変わっているのはきっと緊張のためだろう。
「会えるなんて光栄です! 握手してください!!」
「え、あ……ども」
「ついでに三回回ってワンってやっててください!」
「何で!?」
スターに会ったかのような反応の後に謎の振りがきて困惑する花子さん。
彼の知る花子さんとは芸人か何かなのだろうか。
「……………………わん」
逡巡の末、花子さんは恥ずかしそうに三回回り、小さくワンと鳴いた。
鳴いて顔を真っ赤にした。
鳴く前から赤かった顔がさらに赤くなった。
「じゃあ次はブヒィと」
「あなたの中の私って何なの!?」
花子さんは泣いた。無茶ぶりだった。
この振りに耐えるには彼女の経験値は足りなさすぎた。ついでにMPもさっきので尽きていた。HPももうゼロだった。つまりは瀕死だった。ジョ○イさんの元へ持っていかないと。
「あ、縄要りますか?」
さめざめと泣く彼女に止めが刺された。縄を何に使うというのか。今の会話の流れから考えると残念な結論しか思い浮かばなかった。
「使いますよぉー! 吊ってやりますよぉ首ぃ!」
「惜しい、"首ぃ"じゃなくて"ブヒィ"です!」
自棄になった花子さんを迎え入れたのは無慈悲なまでの追い討ちだった。
何故トイレで豚真似をしなければならないと言うのか。
彼女は菩薩になった。
同じ豚真似を強要される者たちに救いを。
大乗の精神である。
「そもそもあなたは誰なのよ!」
悟りを開けそうな彼女はふと気が付いた。
まだ少年の名前を知らない。
それは不公平だ。あまりに不平等ではないか。違うか? 違わないに違いない。
と自己完結的に結論を出す。全花子さんの中で満場一致で可決、成立した。
「僕は……」
少年は言い淀む、何か言いづらい原因でもあるのか。ごくりと花子さんが生唾を飲み込む。
トイレが妙な緊張感に覆われる。
勘弁してくれと思う便器。
意を決して少年が口を開く。
「―――山田太郎です」
超普通だった。普通すぎてむしろ居ないレベルだった。
「あ! 何ですかその顔! うわっでら普通だって思ったでしょ絶対!!」
図星を突かれて目を逸らす花子さん。
山田太郎名古屋人説はこの際無視する。
花子さんは必死に考える。どうにか誤魔化さなければ。経験値の少ない脳がオーバーワークの必要に迫られる。
今、花子さんの全コミュニケーション力が集結した。
さあ、どう答える。
「……」
「……」
花子さんは自分のコミュニケーション力の無さに絶望した。そもそもコミュニケーション力があったなら、今頃こんなところに居ないのだ。
しかしだからと言って何もしないわけにもいかない。どうにか手を打たねばならないのだ。
灰色を通り越して色の抜けた真っ白な脳細胞をフル回転させる。そして花子さんは言った。
「あー、空が青いねー!」
逃げの一手だった。
ちなみに空は曇っていた。青と言うより黒だった。
外の天気と同じように二人の間にも暗雲が立ち込める。
お互いに黙りこむ。トイレを沈黙が支配した。ただでさえ辛気臭い空気がさらに悪くなる。
「くあー! 普通で悪かったな!!」
先に口を開いたのは山田太郎氏であった。少年Tは八つ当たり気味に叫ぶ。
「あんただって田中花子のくせに!」
「違うよ!?」
ちなみに花子さんは花子さんとしか名乗っていない。
「じゃあ何て苗字なんだ!」
太郎くんはだいぶ荒ぶっていた。自棄っぱちというやつか。トイレで荒ぶる男子高校生。何だか不純な臭いがする。
「……、……き」
「何だ? 聞こえないぞ?」
花子さんが小さい声で呟く。
俯いていて顔は見えないが、髪の隙間から真っ赤な耳が見えた。
「…………なこ」
「だから聞こえない」
首筋までをも赤くした花子さんを太郎くんはさらに追い詰める。
花子さんの羞恥心が限界値に達した。
MPが尽きた花子さんの頭はオーバーヒートし、ついにパニックに陥る。
頭の中がぐちゃぐちゃになった花子さんは叫んだ。
「鈴木花子です!」
大して変わらないじゃん。太郎はそう思った。
だが口には出さない。自分だって言いづらかった。そう、普通過ぎる名前の者同士、通じるものがあった。同調とも、同情とも呼べるそれは、ふたりを強く結びつける。
気付けば二人は固く握手していた。
二人は何とも無しに、お互いに同志だと認めあっていたのだ。
彼らはこれからも長く、末長く、同志として人生の道を歩んでいくに違いない。
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それから数分後。
トイレに入ってきた生徒に見付かり、太郎くんは女子校のトイレに侵入したとして警察のお世話になり、花子さんはその被害者として周りのみんなから心配され、それを機に仲良く輪に混じることが出来るようになった。
太郎くんは花子さんに忘れられた。