タロウは住民と遭遇する1
ふわふわと、意識が少しずつ戻るのが分かる。
タロウが閉じた目を薄っすら開けるとそこは―――
いやいや、さっぱり意味が分からない。
――――緑の空間だった。
「………?」
草木花の匂い。土の匂い。
特に甘い花の匂いではっきりとタロウの意識が戻る。
先ずは、武器の確認からだ。
――ちゃんとある。
触れると長年使ってきた相棒の独特の感触を確認できた。
ふう、っとタロウの息が漏れた。
もう一度ゆっくりと目を開ける。改めて視力を失っていないことを確認する。
次に両の手で地面の確認し、身体を起こす。
「生きてる……」
すぐに周囲を警戒し、周囲の情報を再度確認する。
森であった。
――あれは高度な移転陣だったのか…馬鹿野郎!!
誰が移転陣に5つ同時起動使うか!!
あれは完全に中都破壊規模だったぞ!!
「まあ、いい、か……怒った所でどうにもならん
むしろよく生きてたなあ俺……」
タロウは頭を抱え迷宮に悪態をつける。
生きているだけで儲けものだ。
罠の中には、壁の中や石の中に埋まったり、魔獣の住処といった初見殺しが数多くある。
なのに生きていて無傷。
商売道具も無事と来ている。まさに奇跡だ。
そして最初に花の匂いがやけに強いと感じていたが、その理由がすぐに分かった。
「なんだありゃ…」
緑の中に一際目立つ大きく真っ赤な花。
それはタロウが生きてきて初めて見る花だった。
周りの木々を、それの周辺を自身の棘の蔦で巻き込み、まるで自身が花の女王とで言いたげに美しく咲き誇っている。
それほどこの緑の空間では異色であり主張していた。
「クソがッツ!!
とにかく、安全を確保しないと。
この森から抜ければどこかに道が見つかるだろ……」
今の時間がよくわからないが、夜の気配が近いのは長年の経験でタロウには分かっていた。
夜の森が危険性なのは身を持って十分理解している。
魔狼どもと森の中を一人で一晩中追いかけっこした日には、死ぬほどの思いをしたものだ。
森を抜けるのにどの程度時間がかかるかも分からない。
タロウは見慣れない道を警戒しながら進んでいった。
―― ―― ――
進んでいくにつれ、タロウはすぐ違和感に気づいた。
「木々がデカ過ぎる……なんだ此処は。
俺はとうとう巨人の国でも迷い込んだのか?」
夢でも見ているようだった。
自分が知っている森とは異なりすぎている。
何もかも規模が違い過ぎるのだ。
違和感があるも移転した場所からある程度距離を稼げたため、休憩のために木々の窪んでいる所でタロウは足を休めた。
迷宮遭難のために残しておいた水筒と携帯食料を食べる。
「…………」
そもそもそんなに美味くはないのだが、今のタロウは味など分からなかった。
どこか遠くで遠吠えがあったくらいで、他は森にしては“あまりに”静かすぎた。
――本当に静かすぎる。
これではまるで……
「……っ!?」
突然大きな気配を感じ、タロウは言葉に詰まる。
警戒は十分にしていた。
それでもタロウにはその気配が一切感じ取れなかった。
今まで、何も感じなかったところから突然湧いた、そんな感じだ。
タロウの頬から汗が落ちた。
全身に鳥肌が立ち、汗も止まらない。
身体が、脳が、己の経験が警告する。
生きてきてここまでの恐怖は感じたことがなかった。
「……は?」
もう遅かったのだ。
重苦しい空気がタロウを襲う。
その身体は放たれるプレッシャーから動けず、いつの間にか呼吸は荒く、汗も先ほどから止まらない。
先程水を飲んだばかりなのだが、喉はすでに乾いていた。
それでも、何かを飲まずにはいられず、少ししかでない唾を必死に飲み込んだ。
どうして見えなかったのか。
どうして気づけなかったのか。
突然目の前に現れたのは体長が人の3倍から4倍の巨躯。
その巨躯を支える腕は、オーガという人型魔獣の腕をさらに一回り以上大きい。
その太い青血管が腕には浮かび上がっているのが見える。
身体は黒いような茶色いような剛毛に覆われ、ここからでも非常に獣臭い。
それはタロウの視線を釘づけにする。
頭に浮かんだのは『猿帝』という言葉。
これほど、この言葉が似合う魔物もいないだろう。
タロウはその生き物を知らないし、見たこともなかった。
己の心臓が早鐘を打つのが分かる。
「―――――!!」
経験ではない。
ほとんど本能の域でそれを理解する。
それがにやりと笑うように。
その目がタロウを捉えた。
そいつの口からぼとり、と塊が落ちた。
涎だった。
それが合図だったのか、急に猿帝が吠える。
威嚇だったのか、それとも久しぶりの得物に喜んでそうしたのか。
一吠え。
そして、タロウが感知するとほぼ同時に――――
轟。
――――世界が反転した。
否。
それだけ、たったそれだけなのにタロウの身体が吹き飛ばされる。
吹き荒れる風。
衝撃波が炸裂する爆弾だった。
「ああ、あああ……」
それによって混乱していた自分の頭が急激に冷めたのが分かる。
意識が飛ぶような激痛がタロウに走った。
吹き飛ばされるタロウは、咄嗟に受け身をして大きくそれから離れる。
咄嗟に受け身を取ったのはかなり良い判断だった。
致命傷にならずに済んだのだ。
耳はキンキンと響いているが。
タロウは武器だけは今もしっかりと握ってはいた。
思考の切り替え。
それを受け切りその場から脱出する。
――何がどうなってやがる!!
「クソ、クソッ!! 」
一体に何に対する怒声なのか、タロウは自覚していなかった。
その爆弾で体が引き裂かれそうだった。
たったの一吠え。
それだけでタロウは瀕死に落ちいった。
必死で開けた高級回復薬は秘蔵の一本のみ。
もう一発ももらえない。
「ヤバイ、ヤバイ―――!!」
タロウは焦りを露わに速度を上げるが、魔獣を振り切ることは出来ない。
何より猿型の魔獣。
得意の森という場でタロウに後れを取ることは決してない。
気配はないがそこにいるのだけは分かる。
遊ばれている。
タロウの胸に募る焦燥感。
状況を打開するための手段を考えるが妙案は何一つとして浮かばなかった。
今日。
たった一日があまりにも無茶ぶり過ぎてタロウは逆に笑いがこみ上げきていた。
追い詰められすぎてタロウの中に沸々と湧いてくる気持ち。
そうだ。これは―――
「…このまま、無様に終わってたまるかッツ!!
この猿公!!」
―――怒りだ。
己の力で道を切り開くしかないのだ。
何時もそうしてきたではないか。
「よし。よし。よしッツ!
やるぞ、やってやるこの猿うぅぅぅ!!」
この追跡劇が始まってからまだほんの数刻しか時間が経過していない。
タロウは既に時間感覚は消滅しているため、その恐怖体験から何時間と走っている感覚だった。
いくら決意を固めたところで疲弊した心と体でやれることは余りに少ない。
魔力の循環は滞りを見せており、鼓舞したところで身体の震えは隠せていなかった。
威勢を張るだけ。
ギリギリどころではないのが今のタロウの状態である。
「集中しろ…集中だ」
相手を倒す。
その一点に意識を集中させる。
研ぎ澄ます必殺の刃。
タロウは死の淵、極限の中にいた。
生への執着。
それが極まった集中に達しようとしていた。
背後から感じるプレッシャーはすでに近い。
森を知り尽くしている魔獣がタロウの速度に劣るわけないのだ。
まだ相手は遊んでいるつもりなのだ。
なけなしの魔力で身体を強化できるのはほんの一瞬。
そして練り上げる。今出せる全力を。
吹き出る汗、高鳴る心臓。
タロウの目の前に闇が落ちる。
それを感知すると同時に刃が走る。
そして――――
ニヤリと笑った魔獣と視線が合った。
―――気付くと再び世界が反転した。
タロウは余りにも無力だった。
圧倒的な実力差に急速に冷静さを失う。
―――クソ、クソ、クソがあああああああ!!!!
悪態つけた束の間、吹き飛んだ衝撃とともに受け身もどきを取る。
地面が冷たい。
もはや俺に残された体力はなかった。
間違いなく全力だった。
その全力をいとも容易く魔獣は超えていっただけ。
顔を上げると同時に目の前に闇が落ちる。
魔獣との力の差は歴然で、それ程タロウと遊んでいたのだ。
タロウはそれが腕だと気付くのにさほど時間もかからなかった。
死。
目に浮かぶ強烈なイメージ。
この腕が一振りされるだけで身体が千切れて死んでしまう。
タロウは周りが酷くゆっくりに見えた。
そう、派手な爆発音が聞こえるまでは。
急に周りが、タロウの景色が加速する。
タロウはもはや言葉にならない言葉を口に出す。
さっきまで自分を襲っていた魔獣が半分吹き飛んで、血の大輪を咲かせているのだ。
酷い血臭がタロウの鼻につく。
何度も嗅いだことがある臭いだった。
――助かったのか……まるでわけがわからん……
もう限界だ……
そう思い気が抜けた瞬間、辛うじて半立ち身だったタロウの身体がその場に崩れ落ちる。
その恐怖は失禁と脱糞という形でタロウに表れた。
タロウはまるで身体が地面に溶けていくような感じがした。
すでに精神は限界を迎えていたのだ。
――ああ、今日はとんでもなく、いや。
なんて人生最悪最低な日だ!!
地面の生温かさを感じた後、誰かの声が聞こえた気がした。
しかし、タロウはもう意識が飛んでいた。