蜜柑の木と少女
ああ、暑い。
夜の蒸し暑さも堪えるが、全てが干上がるような昼の日射が何より辛い。
樹木にとって太陽の光はなくてはならないものだし、暖かい気候が得意な蜜柑の木ではあるが、あまりにも強い陽射しは毒になる。
しかし網戸越しに見える少女を見ていれば暑さなどさして気にならない。
夕方頃に外出から戻った少女の姿を認めるだけで、昼の過酷な陽射しのことなど一瞬で忘れてしまうのだ。
少女のために自分は暑さを吸収し、緑の香を含んだ涼やかな風を届けよう。
夜は好きだ。ミカが家にいる。
ミカはあまりカーテンをしめることがないので、ガラス・網戸越しではあるがずっと彼女を見ていられる。
でもただ見ているだけでは満足出来ないのはいつものこと。声をかけるタイミングを探す。
少女は何分か前までレポートに集中していたようだが、ふと見ると彼が送った風の温度に心地よさを感じ、ウトウトとしているようだ。
「何ボーッとしてるの?せっかく風を運んでるのに」
声をかけると少女はハッとして目をこすりながらアイスが食べたいので外出するという。
まさか、その格好で?そんな服装で外出する君の気が知れない。
だって、いまブラジャーつけていないだろう。薄いピンク色のTシャツの生地は…なんというか、その、透けて見えるよ。俺だけが見る分にはいいけど、暗い道で襲われたらどうするつもり。
危機感の無さに少し呆れて、着替えてからの外出を勧めたが彼女はガン無視。
嫌われるのが怖くて、それ以上強く言うことが出来ない自分が恨めしい。
これは、ついて行くしかない。
・・・・・・・
お揃いのサンダルで、彼女の後ろを歩く。
ミカは気付いているだろう。いつものことだ。
後ろ姿を見ながら歩調を合わせてゆっくりついて行く。
キュロットからのびる足は少しむっちりしていて、地面を蹴るたび太ももやふくらはぎが無邪気に揺れる。
それと同時にTシャツのシワの下にひそむ腰のくびれが軽くねじられて。
本来は滑らかなポニーテールについた、無防備な髪の毛の絡まりすら。
男をどんなにときめかせるか、君は知らないんだろう。
「別についてこなくていいのに」
ミカから声をかけられ、ハッとした青年は、必死に心配そうな顔を取りつくろい少女の横に並んだ。
「だってそんな格好で深夜に出歩くなんて…ミカはもう子供じゃないんだから自覚すべき」
それを聞いて少しムッとした少女は黙り、2人は無言で夜の道を行く。
少女は、子供のままで居たいような大人になりたいような複雑な気持ちで。
蜜柑の木は、少女が大人になっていく寂しさと期待の思いを胸に。
夜道では誰ともすれ違うことの無いままコンビニへついた。
ミカはアイスの棚へ直行している。極度に機嫌の良いときか、極度に機嫌の悪いときにはアズキ色の蓋がされた濃厚なアイスクリームを買うことが偶にあるが、今日の感じだとお気に入りのコーヒー味のアイスを買うのだろう。
そんなことを思いながら蜜柑の木は園芸コーナーに向かう。
このコンビニは駅から離れており、大手スーパーなども付近に無いため、植物用の腐葉土やら除草剤やらを扱っているのだ。
植物用栄養剤を見ると、みごとに埃がかかっている。売れすじ商品では無いのだろう。以前購入したときから全く触れられていないようだ。
前回、一番奥の商品をうっかり倒してしまい、面倒で直さなかったものが倒れたままである。これを買うのはもしかしたら俺らだけなんじゃないだろうか。
栄養剤の埃を払いながら、ふとレジに目線を向けるとミカが会計をしていた。
いけ好かない。
いや、会計をしているのは良い。何がいけ好かないって、店員の目線だ。
ミカの胸から目をそらせないみたいだ。そりゃあ、あんな格好で出歩くミカが悪いが、とにかくいけ好かない。ミカがそれに気付いてないのも全くいけ好かない。
青年は一気に不機嫌になり早歩きでレジまで直行し、少し強めの力で植物用栄養剤をレジ台に置いた。
そして青年の方を見た店員に、かなり強めのガンをとばした。
「ねえミカ、俺はこれがいい」
そう言う彼の声色は優しい。彼女はいま、後ろにいる彼がどんな表情をしているか知る由もないだろう。
店員は青年の謎の迫力に気圧されずいぶん混乱しているようで、彼と彼女を交互にチラッチラ見ながら超速でバーコードを打ち、ミカのアイスをレンジで温めるか尋ねている。
蜜柑の木は無言で腕組みをしながら会計が終了するのを待った。
・・・・・・・
クーラーのきいたコンビニから外に出ると、ぶわっとした夜風が2人を取り囲む。
「ふくろ貸して、持つよ。俺の方が体温低いからアイス溶けにくいでしょ」
あ、うん……と言いながら袋を渡してくる彼女は何か思い出したように、植物栄養剤を会計に滑り込ませたことについてのお小言を言う。
「いいじゃん、クロレラ入りで元気でるんだこれ」
蜜柑の木はそう言いながら早々とコンビニ袋から植物用栄養剤を取り出し、パッケージを開けて一本取り、飲み始める。
本当はクロレラ入りとか関係ない。別のメーカーのモノの方がおいしいんだけど、ミカと一緒に飲むのなら、どんな栄養剤だっておいしく感じるんだ。
彼はそれを口に出さず、ただ感謝の言葉を彼女に伝える。
彼が美味しそうに緑色の液体を飲むのを見て、ミカは喉をゴクリと鳴らし、彼の持つ袋を覗き込む。
真上から見る彼女のつむじや、睫毛の長さ、薄いまぶたや赤みがかった唇のきらめきが一瞬で彼の脳裏に記憶される。
果たして彼女は俺のこんな気持ちを知っているのだろうか。
いっそ伝えてしまおうかと何度も思った。
しかしそのたびに、断られたらどんな顔をして話せばいいのだとブレーキがかかる。
彼女の部屋の前にはえている蜜柑の木は、どんな状況になっても逃げることがかなわないのだ。
そんなことを考えている彼を知ってか知らでか、ミカは笑いながら新味のブドウは取っておくと言って、いつものチョココーヒー味のアイスを一本食べ始めた。
切り取ったフタの方を差し出すので、彼はありがたく頂いて、ちょっぴり吸って袋に入れた。
「あまいね」
「つめたくて美味しい」
たわいない会話をしながら彼が手の甲で彼女の手の甲に触れると、彼女は彼の手を握る。小さい頃からの癖のようなものだ。いつもと同じミカの体温。
蒸し暑い夏の夜のはずなのに、繋いだ手に不快感は無い。そこから彼女の体温が流れ込むようで、彼の心を温かくする。
正面に見える蜜柑色の満月に照らされ、手を繋いで2人で歩く。
蜜柑の木は、今年も彼女のために甘い果実を実らせようと心に誓った。