少女と蜜柑の木
今日の夜風は涼しいものだった。
夏の夜風は昼の日差しの熱を含み、大概は暑苦しいものである。
だが夕立や雷雨が過ぎた夜半はときたまこんな風に過ごしやすい夜もある。
特にミカの部屋は過ごしやすい温度に保たれる。
南向きのミカの部屋は日当たりがよく、夏はさぞかし暑くなるかと思いきや、ミカが生まれたときに庭に植えられた蜜柑の木が陽射しをちょうど良い具合に遮るので、夏もそれなりに涼やかなのである。
蜜柑の木はミカの部屋に風を運ぶ。
「何ボーッとしてるの?せっかく風を運んでるのに」
網戸越しに声が聞こえた。幼い頃からおなじみの、蜜柑の木の声だ。
「アイス食べたすぎて集中力途切れた〜!ちょっとコンビニ行ってくる!」
ミカは取り組んでいたレポートを放り出し、財布をつかみ網戸をあけサンダルを履いた。ノーブラTシャツ短パンという格好である。蜜柑の木から、着替えてから行ったら…という呆れた声がするが、気にせず庭の勝手口を開けて道に出た。
・・・・・・・
後ろから誰かがつけてくる足音がする。
しかしこれも慣れた足音。いつものこと。
「別についてこなくていいのに」
背後へ声をかけると、心配そうな顔をした青年がミカの横に並んだ。
月の光に照らされて滑らかに光るオレンジがかった髪の毛が目を引くが、それ以外は特にこれといって特徴のない、中肉中背より少し細身の青年だ。
「だってそんな格好で深夜に出歩くなんて…ミカはもう子供じゃないんだから自覚すべき」
半眼で口を尖らせ、少し責めるような口ぶりで言うのは先程の蜜柑の木である。
ノーブラとかセクシーすぎるし、フトモモ出し過ぎで、とっても一人で出歩かせられない、襲われたりしたらどうするんだ…という小さい声は、ミカの耳には届かない。
2人は無言で夜の道を歩いた。
ミカはまっすぐ夜道を見ながら。蜜柑の木はチラチラと横の少女を気にしながら。
ミカの家は閑静な住宅街にあるが、閑静ということは家の周囲に家しかないということである。ともあれ一番近くのコンビニに着いた2人はそれぞれ興味のある場所へ散った。
ミカの興味はもちろん冷凍庫だ。
オーソドックスなバニラアイス、あたり付き水色アイスキャンディー、フルーツが入ったカキ氷…
ミカは、新しい味が発売されたエンジ色の蓋の高級なアイスにしようか迷い、結局2本で100円程度のコーヒー味のラクトアイスを選び、レジへ来た。
「ねえミカ、俺はこれがいい」
そう言って彼は後ろから、会計をする丁度良いタイミングで《ハイポアラケルX(クロレラ入り)今だけ2本増量》と紙パッケージに印刷されている緑色の液体が入った商品をレジ台に置く。と同時に、すかさずコンビニの店員がバーコードを打った。
買うって承知した覚えは無いんだけど。神のようなタイミングの良さ。こいつらグルか。
アイスを持って「あたためますか?」ときいてくる店員と、勝手に植物用栄養剤を会計に滑り込ませる彼をなんとかあしらって(…いや、とにかくアイスを温められないように死守して)無事に2人はコンビニから出た。
夜風が蒸し暑い。ミカの家だけ涼やかなのだろうか。
一瞬そんなことを考えたが、ミカはお構いなしに不服を口にする。
「ちょっと…真剣に何見てたのかと思ったら、またこれ?私のより高いんですけど」
「いいじゃん、クロレラ入りで元気でるんだこれ」
蜜柑の木はそう言いながら早々とコンビニ袋から植物用栄養剤を取り出し、パッケージを開けて一本取り、飲み始めた。
それを見たミカもつられて思い出したように2本組になっている容器のうち1本を取り出し、アイスを食べ始める。少し歩いて火照った身体に、柔らかく口溶けのよいチョココーヒー味がひんやり流れ落ちて心地良い。機嫌などすぐになおってしまう。
2人でそれぞれ別のものをちゅうちゅうしながら歩く帰路は、幼い頃と変わらなくて。
この関係性に変化が訪れることなんて2人には想像出来なくて。
しかし2人とも本心では関係性の変化を望んでいたりして。
「植物用栄養剤飲みすぎると身体に良く無いんじゃないの?前、栄養剤やりすぎて枯らしたことあるんだけど」
「俺は自分の身体のこと良くわかってるから大丈夫!ミカこそアイス食べ過ぎじゃない?」
そんな会話を交わしながら、どちらともなく手をつなぎ歩く。
正面に見える蜜柑色の満月に照らされ、いつものように。