真実
誰かがののしる声が聞こえてくる。
「……でしょ。いいからやりなさい!」
「でも、僕は一応医者だし、そんなこと……」
「わかった。私がやるわよ。私だってカニクイザル相手に何度も採血してきたんだから」
この二人の声には聞きおぼえがある。ゆっくりと薄眼を開けてみた。
ここはどこかの家のダイニングのようだ。しゃれたテーブルの上には菓子パンの袋やカップ麺が雑然と積み上げられている。そのテーブルの脇に言い争う二人がいた。
一人はジーンズに白いシャツ姿でショートボブの若い女性。もう一人は三十歳くらいの茶色のシャツに鼠色のチノパンの男性。女性の手には注射器が握られている。
「由希、止めておこうよ。傷害罪になるよ」
「久則! スタンガン使った時点で傷害罪でしょうが」
女性は黒崎だ。男性は田上だった。お互いのことを名前で呼んでいるということは、もしかして田上の恋人というのは黒崎なのだろうか。黒崎も趣味が良くない。しかし、つまりはこの二人が組んで妹の研究を狙っていたということだろうか。
体を動かそうとして縛られていることに気がついた。椅子に座らされていて、両腕をひじ掛けに、両足を椅子の脚に縛られている。ついでにいえば、口には布を噛まされている。猿ぐつわというやつだ。
「久則もデーターが欲しいんでしょう。アデノウィルスについてのプロジェクトが終わってしまってから、次のテーマを早く決めて研究に入らないと五年の期限が来て、大学にいられなくなるっていつも言ってるじゃない」
「それはそうだけど、しかしやっぱりこれはまずいよ。今のうちにこの人を元の場所に戻してこよう」
「ダメよ。こんなチャンスを逃す手はないわ」
黒崎が注射器を手に近づいてくる。俺は思わず身じろぎをした。
「あーら。目がさめちゃったのね」
黒崎はにやりと口をゆがめた。田上があわてたように手を振る。
「こ、これは、そ、そのだな」
「久則。観念しなさい。もうやるしかないの」
黒崎はそう言うと俺の腕をなでた。
「大人しくしててね。ちょっと血をもらうだけだから」
俺は腕に力を入れた。体を左右にひねる。椅子ががたがたとゆれた。
「ちょっと、大人しくしなさい。怪我するわよ」
命令を無視して更に暴れる。
「久則! おさえてよ」
田上はおろおろと歩き回るばかりで黒崎の言うことを聞いていない。
俺は腕をゆすった。ひじ掛けがぐらぐらしている。右腕に精一杯の力を込めて力任せに引っ張ってみた。メキッという音ともに右のひじ掛けが根元から取れた。
「ああっ、壊した! 高かったのよ、この椅子!」
黒崎が声を張り上げる。
「君がデザインにこだわってそんな華奢な椅子を買うから」
「なに?」
田上がぼんやりとした声で余計なこと言って黒崎ににらまれた。俺はそんな二人にかまわず、左腕に力を入れて左のひじ掛けも破壊する。
「また壊した!」
黒崎が注射器を手にしたまま、俺に襲いかかってきた。上半身が自由になった俺は両手で黒崎の両腕をつかんで押し返す。
そこにバンと何かが開く音がして駆けこんでくる足音が聞こえてきた。
「いた!」
部屋の戸口に立って叫んだのは黄色のTシャツに白のホットパンツ、ポニーテールをなびかせた恵理菜だった。
「何だ、君は。人の家に土足で!」
田上がこの場にそぐわないことを言う。確かに恵理菜は靴を履いたままだが、そこにこだわるのは違うだろう。
「人をさらうような奴の家なんて、土足で十分よ」
恵理菜は激こうしている。怒りをあらわにする恵理菜は珍しい。
「住居不法侵入じゃないか」
田上が相変わらずずれたことを言う。そこにもう一人入ってきた。
「いや、監禁された友人を救い出すための正当防衛が成立すると思いますよ」
姫美だ。エンジ色のTシャツにいつかの白のロングスカートで、眼鏡をさわりながらニッと笑う。
「久則。なにしてるのよ。そいつらをつかまえなさい!」
黒崎が叫ぶ。田上が恵理菜に近づいて腕をつかんだ。
一瞬だった。田上は背中から床にたたきつけられた。変な声を出して悶絶する。
「うそ……」
黒崎が注射器を取り落とした。針が折れる。折れた針が危ないなと思ったが、救援にきた二人は靴のままで、黒崎はスリッパだから、危ないのは俺と投げ飛ばされてスリッパがどこかへ行った田上だけだ。とりあえず注射器の落ちたあたりは踏まないように注意することにする。
その間にも恵理菜が黒崎との間合いを詰める。じりじりと下がる黒崎がテーブルに腰をぶつけた瞬間に恵理菜が動いた。体を入れかえると右腕をひねり上げて極めてしまう。
「痛い、痛い!」
黒崎が叫ぶが恵理菜は手を緩めない。姫美が黒崎の前に立った。
「黒崎先生。いえ、沖浦由希さん。大学卒業時とは姓が違ってるので苦労しました。ネットの画像検索を駆使して昨日やっと見つけましたよ、あなたのことを」
沖浦と呼ばれた女性は姫美をにらんだがすぐに目をそらした。
「H大学卒業後、一昨年J大の大学院生命科学研究科を卒業して有久保バイオメディカル株式会社に入社したそうですね。お友達のブログを調べました。今は調査員でもしているんですか?」
黒崎は返事をしない。俺はこのあいだに両腕と両足の縄を解いた。猿ぐつわも外す。
「しかし調査にしては行き過ぎですよね。法律を犯してまで調査しろとは言われてないはずです。このことが会社に知られれば、当然懲戒解雇ですね」
「何が言いたいの?」
姫美の方を見て黒崎が鋭い声を出した。
「黙っていてほしいんです」
姫美は余裕の笑みを浮かべている。なんだか姫美の方が悪役のようだ。俺は注射器の落ちたあたりをよけて姫美の側に行った。
「脅す気?」
「これはお願いです。あなたにとっても悪い話だとは思いませんが?」
「私が黙っていても、そこにいる久則はどうかしら」
黒崎は目で田上を指した。田上はまだ横になったままぼう然としている。何が起きているのか現実を認識できていないという顔だ。
「黒崎先生。私はなぜあなたの姓が変わったのかを知っていますよ」
黒崎ははっとした。
「ちょっと、それはやめて」
姫美はかまわず続ける。
「あなたは結婚しています。大学卒業後に」
田上が起き上って驚きの目で黒崎を見た。
「結婚の事実を隠して近づいた相手があなたの言うことを聞くでしょうか?」
黒崎は唇をかみしめた。
「ほ、本当なのか由希!」
「事実です。結婚式のことを書いたブログ記事のコピーがここにあります」
姫美が黒崎に代わって冷たく言い放った。ポケットから折りたたんだ紙を取り出す。開いて床に落とした。
A4の用紙の中央に、ケーキの前でウェディングドレスを着て新郎とポーズをとる黒崎の姿がカラーで写っている。田上は紙を拾い上げてじっと見つめた後、がっくりとうなだれた。
「黒崎先生、お友達は選んだほうがよかったですね」
姫美は語調を変えずに皮肉を言った。
俺は姫美と恵理菜に連れられて建物を出た。俺の靴は玄関にそろえてあった。あの二人は意外と几帳面な人たちだったようだ。
建物は一軒家で、古い住宅街の一角に立っていた。
そこは俺たちが普段乗り降りする駅の隣駅からほど近く、車通りの多い道に出たところで、駅までの道順がすぐにわかった。
「どうして俺がここにいるとわかった?」
俺は疑問をぶつけた。
「携帯電話よ」
姫美が何でもないことだといった顔で答えた。
「携帯電話?」
「康太の携帯に常に位置を発信するアプリを仕込んでおいたの。受信側は恵理菜の携帯よ」
「仕込んだって、それは……」
俺は愕然とした。
「ま、犯罪かな」
姫美はにやりと笑う。この女は全く油断も隙もない。
「私たちを告発する?」
俺は恵理菜と姫美の顔を見比べた。
「ごめんね、康太くん。悪いとは思ったんだけど、いざという時のためだって姫美ちゃんが言うから」
「実際役に立ったよね。理子ちゃんを看病しながら康太の動きをチェックしていたら、車に乗ったとしか思えないスピードでおかしな方向に移動し出したのよ。それでここで止まったのを確認してすぐに駆けつけたというわけ」
「縁側の窓が開いていてラッキーだったね」
「全くね。まあ、鍵がかかっていたら窓を壊してでも入るつもりだったけど」
二人ともピクニックの感想でも話しているかのようで悪びれる様子がない。この話は深くきかないことにした。それよりも気になることがある。
「妹はどうした。一人で置いてきたのか」
「それは大丈夫よ」
姫美が親指を立てる。恵理菜が後を引き取って答える。
「康太くんのお母さん、理子ちゃんを心配して早く帰ってきたのよ。だから、引き継いできたの。それとね。理子ちゃんはだいぶ良くなったよ」
検査の結果がわからないと何とも言えないのには変わりないが、経過が俺と同じということはひとまず朗報と言えるだろう。俺はほっと息をついた。
しかし、母親の態度が俺のときと妹で違いすぎる。俺が信頼されていると思えばいいのだろうが、正直言って気持ちは複雑だ。
まあ、それはいいことにしておく。そうなると次に気になるのは黒崎と田上だ。
「なあ、あいつらあのままにしてきてよかったんだろうか」
「二度と康太や理子ちゃんに手を出さないように念を押したから、大丈夫じゃない? 秘密も守るように言いふくめたし」
姫美はこともなげだ。
「しかし、証拠になるようなものをこちらが持ってるわけじゃないから、懲りずにまた俺たちを狙うかもしれないぞ」
もし向こうが約束を破ってまた俺や妹に手を出しても、俺たちにそれを止める手段があるわけじゃない。
「心配性ね、康太は。まずあの二人の間には溝が入った。もう協力しあうことはない。それにこっちにはまだ切っていないカードがある」
姫美が不敵に笑う。
「康太。携帯を取り出して緑の渦巻き模様のアイコンを探してクリックしてみて」
俺は携帯電話を取り出してアイコンを探してみた。確かに見慣れない渦巻き模様のアイコンがある。クリックすると音声が再生された。聞きなれた声だ。
『……、結構重たいわね。そこの椅子に座らせて。手足を縛るから』
『由希、こんなことやっぱり良くないよ』
『うるさいわね。仕事のためよ。一度は賛成したじゃない』
停止ボタンを押して姫美の顔を見る。
「これは?」
「康太が、あの家に運び込まれたあたりから私たちが駆けつけるまでの録音よ。遠隔操作で記録していたの」
末恐ろしい女だ。
「もし今度何か仕掛けてきたら、これを突きつけてやればいいわ」
姫美の眼鏡が光る。
「あ、そうだ」
俺から携帯電話を奪い取って自分の携帯電話を取り出した。
「音声データーのコピーをもらっておくわね」
俺は姫美の好きにさせた。姫美は鼻歌まじりに二つの電話機を操作する。
「よし、コピー出来た」
満足感あふれる笑顔で俺に携帯電話を返した。
駅に着いた。ちょうどいいタイミングで普通電車が来た。
電車を降りて駅を出たところで姫美は帰って行った。恵理菜と傾きはじめた午後の日差しを浴びながら畑の間を歩く。
「しかし、あの二人がつきあっていたなんて驚きだったな」
「私、あの田上って大学の先生、よく知らないけど、騙されていたなんて気の毒ね」
「そうだな。結婚しているのに男をその気にさせるなんて。まあ、黒崎は結構美人だから騙されるのも仕方ないかもしれないけど」
恵理菜が俺を軽くにらむ。
「なに? 康太くんも黒崎先生みたいな人がいいの?」
「いや、そんなこと言ってない。ただ学校で人気だという事実からだな……」
ふふふっと恵理菜が笑った。
「冗談よ。何を言い訳してるの」
「冗談かよ」
俺は胸をなでおろした。
「しかし、田上のこと、よく知っていたな。お前らは会ったことないだろう」
「それは、姫美ちゃんが大学のページを見て写真入りの関係図をつくってたから」
「そ、そうなんだ」
俺は一瞬あきれたが、考えてみれば、姫美の調査力からすればそれくらいのことはやっていて当然だろう。
「しかし黒崎先生、休み明けたらまた学校来るのかな」
「どうだろうな。もし来なかったら、別の先生が生物基礎を教えるのかな」
「そういえば」
恵理菜が思い出したという顔をした。「黒崎先生の教員免許状ね。間違いなく本物だったんですって。姫美ちゃんが知り合いに学校の事務にある情報を確かめてもらったんだって」
「すごいな、あいつは」
本当に姫美の捜査能力には恐れ入る。刑事か探偵を目指すべきじゃないだろうか。
「しかし、それがどうしたんだ?」
「どうしたって、偽物だったりしたら大変なことになるところだったのよ」
「大変?」
俺は意味がわからずきょとんとした。
「そう。姫美ちゃんが言うにはね、もし偽造されたものだったりしたことが分かれば私たちが今まで受けた生物基礎の授業はすべて無効になって、別の先生が授業のやり直しをしないといけなくなるの。放課後や冬休みを使って授業をすることになるんだって」
「それはひどい話だな」
「でしょう」
ただでさえ、課外補習や冬季補習があるというのにその上、授業のやり直しが入るなんてやっていられない。
「姫美ちゃんはね、その何とかいう黒崎先生の所属する会社はそのへんのルールは守る会社みたいだから、黒崎先生のやったことを知れば許さないだろうって言ってた。だから、あのとき会社に言いつけるぞって脅したのね」
「なるほどな」
全てとは言わないが、ほとんどのことは黒崎の独断だったわけだ。なんで黒崎はそんなことをしたんだろうか。やはり永遠の若さを自分のものにしたかったからか。
考えるうちに道は林の角を曲がり、箱型の家が立ち並ぶ住宅地が見えてきた。俺は足を早めて自宅を目指す。妹の姿を見ない限りまだ安心できないような気がした。
「ちょっと待ってよ」
「待てない」
「意地悪!」
家についた。恵理菜は後ろをそのまま着いてきた。
「お前の家はあっちだろう」
「私も理子ちゃんの様子が気になるから」
玄関を開けると母が台所から顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
それから、恵理菜に気がついて挨拶をする。
「いらっしゃい。今日はいろいろとありがとうね」
「いえ、そんな。理子ちゃんの様子はどうですか?」
「だいぶいいみたいなの。起きてるから、行ってみてやって」
「はい」
俺は理子の部屋のドアをノックした。
「どうぞ」
小さな声が聞こえてくる。
ドアを開けると妹がベッドの横たわったまま、顔をこちらに向けていた。俺はその様子に胸をなでおろす。部屋に入ると恵理菜があとに続いてドアを閉めた。
「お兄ちゃん、無事だったんだね」
「知っていたのか?」
俺は驚いた。
「うん。ここで姫美さんと恵理菜さんが位置表示を見ながら相談しているのを見てたから。心配したんだよ」
それから、恵理菜の方を見る。
「恵理菜さん。兄を助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
二人は笑いあった。妙な疎外感をあじわう。例えて言うなら仲の良い姉妹とそれをそばで聞いている召使いのような距離感だ。
「お兄ちゃん、瓶は渡してくれたの?」
妹に言われてはっと現実にひきもどされた。
「あ、ああ、渡したよ。すぐ分析してくれるそうだ」
「そう、よかった」
「電話で知らせてくれるそうだから、もうすぐ結果がわかるよ」
「お兄ちゃん、どんな結果でも落ち着いて受け止めてね」
「なんだよ。縁起でもない言い方だな。大丈夫に決まってるだろう」
俺は冷や汗を流しながら答えた。
電話はなかなかかかって来なかった。
俺と恵理菜はいったん妹の部屋を出て俺の部屋で電話を待つことにした。対戦格闘ゲームをする。これまでの戦績はほぼ互角だ。
恵理菜は必殺技を出すのが得意だ。一方俺は恵理菜の攻撃を防御しつつ足技で少しずつ相手の体力ゲージを削って行く戦法だ。五勝五敗のイーブンで十一戦目を迎えたとき、恵理菜がぽつりとつぶやいた。
「私、理子ちゃんから康太くんのこと頼まれちゃった」
「え?」
防御に失敗して恵理菜の必殺技をまともに食らう。連続で技が決まってなすすべもなくノックアウトされた。
「何を言い出すんだいきなり、驚くじゃないか」
「でも、本当のことだし」
俺の抗議は簡単に打ち消された。俺は言葉を探したが、言いたいことがいろいろとありすぎて逆にまったく言葉にならない。
「康太くん次第だけどね」
恵理菜は俺の目をじっと見つめた。「どう? 私に一生そばにいて欲しい?」
「え、あの、……」
俺はさらに必死に言葉をさがした。「他にいい男とか現れたらどうするんだ?」
ようやく出てきた言葉がこれとは自分のことながら情けない。
「関係ないよ。他の男とか興味ない」
あっさりと否定してくれる。
「俺といると多分普通の人生送れないぞ」
「知ってる。でも、いいの」
「いいって、そんな簡単に……」
「簡単じゃないよ。考えた。でも、いいって思ったの」
恵理菜は胸に手を当てて静かに答えた。
俺は恵理菜の顔を見つめながら頭を回転させた。次々に映像が浮かんでくる。幼いころの泣いてばかりいた恵理菜。合気道を習いだし強くなっていった恵理菜。中学の時に姫美をいじめた男をねじ伏せた恵理菜。一緒に高校の合格発表を見に行って嬉しそうに声を上げた恵理菜。そうして数日前の水底をたゆたう恵理菜。そのあとの人工呼吸をされる恵理菜。ついさっき田上を投げ飛ばした恵理菜。最後に浮かんできたのは病気の時、そばで本を読みながら静かに看病してくれた恵理菜の姿だった。
強さと優しさを併せ持つ大切にしたい女性、そんな人がそばにいてくれるならこんなにうれしいことはない。
「俺でいいなら。そばにいてくれ」
俺は答えを出した。
「うん」
恵理菜は瞳を潤ませて小さく返事をした。恵理菜の手が俺の手をつかんだ。
携帯電話が鳴った。
恵理菜があわてて手をひっこめた。俺は携帯電話をひろい上げた。富田先生からだ。
「はい。三上です」
『ああ、富田です。結果出ましたよ』
「それでどうなんですか?」
『まず始めに、命にかかわるようなことはありません』
「そうですか」
俺は恵理菜と顔を見合わせた。恵理菜にも受話器の富田先生の声は聞こえている。笑顔がこぼれた。
『それで、テロメア関連の遺伝子ですが元のままです』
「それはつまり?」
『つまりですね。妹さんは若いままにはなれなかったということです』
富田先生の声は残念そうだったが、俺は嬉しかった。妹は普通の人間として生きていける。それは喜ぶべきことだった。
「ありがとうございます」
つい電話機を手に見えない相手に頭を下げる。
『あ、いえ』
富田先生が戸惑ったような声を上げた。『あ、お兄さん。それからですね』
「はい」
『お兄さんの血も調べました。ウィルスは順調に排除されています。このペースなら数日のうちに完全にウィルスが排除されるでしょう』
これも朗報だった。ウィルスを持ったままでは何かの拍子に誰に感染させてしまうかもしれない。その可能性がなくなっただけで気分が軽くなる。
「ありがとうございました」
『いえいえ。じゃあ、妹さんによろしくお伝えください』
「はい。伝えます」
『ではまた』
電話が切れると、俺はぐっとこぶしを握った。
「嬉しそうね」
「当然だ」
恵理菜は俺とは違って何か考え込んでいるような顔だ。
さっそく部屋を出て妹の部屋に行く。恵理菜もついてきた。ノックもそこそこに部屋に入る。
「理子!」
妹はうつぶせに寝ていたが顔をこちらに向けた。
「理子、いま先生から電話があった。大丈夫だ!」
妹はさすがにほっとしたような顔になった。死を覚悟の上だったとはいっても、やはり死にたくはないに決まっている。妹は体を起こした。
「死ぬようなことはないそうだ。それから、若いままでいられるようにはならなかったらしい」
妹の表情が曇った。はあっと大きな息を吐く。
「ダメだったの。ごめんね、お兄ちゃん。ばたばたさせてしまったのにお兄ちゃんの役に立てないみたいで」
「そんなこと言うな。俺はお前が普通の人間として生きていけるのが嬉しいんだから」
俺は努めて声を抑えながら強く言い聞かせるようにした。
「うん。ありがとう、お兄ちゃん」
妹は壁の方を向いて横たわった。
「ちょっと寝るね」
俺は恵理菜の方を見た。恵理菜は首を振った。
「じゃあな」
俺たちは妹の部屋を出た。行くところもないので俺の部屋に戻る。
「理子ちゃん、がんばったのにね」
ドアを閉めると恵理菜がつらそうな顔になった。
「そうは言っても、普通じゃない人生よりはましだぞ」
俺は妹に言ったのと同じことを繰り返した。
「そんなことないよ。康太くんは分かってない。理子ちゃんはそんなこと承知の上で病気にかかる決心をしたんだよ」
何も言えなかった。その程度のこと理屈ではわかっている。でも、恵理菜が言う「分かってない」には別の意味が感じられる。
「でも、あいつにとってはこれでよかったんだ」
俺は座りこんだ。恵理菜が隣に座って俺の顔をのぞき込んできた。
「本当にそう思ってる?」
まっすぐに見つめてくる。
「そう思ってるさ」
つい、目をそらす。
「じゃあ、私とキスして」
恵理菜は静かにそう言った。
「な、何を言い出すんだよ」
突然のことに混乱する。第一、脈絡がわからない。振り向くと顔が近かった。おもわず後ずさる。
「死ぬかもしれないって言ってるじゃないか」
「分かってるよ。でも、いいの。康太くんに救ってもらった命だもの。康太くんのためにやってみる。それに、一生そばにいるって誓ったんだから、ね」
ね、と言われても困る。その理屈はおかしくないだろうか。
「ちょっと待てよ」
「待てない」
恵理菜が俺の手をつかんだ。俺は心を決めた。恵理菜を止めなくてはいけない。そして今の恵理菜を止めるにはこの言葉しかない。
「ダメだ。俺のせいでお前が死ぬなんて俺は絶対に嫌だ。そんなこと言うならさっきのことは取り消す」
恵理菜の目を見て宣告する。
恵理菜が嬉しそうで悲しそうな複雑な顔をした。
「康太くん、優しいね」
ぽつりとつぶやいて俺の手を強く握る。それから手を放して立ちあがった。
「今日は帰るね」
そう言い残して恵理菜は帰って行った。俺はただ見送ることしかできなかった。
土曜日には妹は起き上がって歩き回れる程度に回復した。ただ、何かを考え込んでいるようで、声をかけても生返事しかかえって来ない。
俺が「症状が軽くてよかったな」と声をかけても、母が「お昼に何を食べたい?」と言っても、父が「何か欲しいものはないか」ときいても、返事はすべて「あ、うん」である。俺たち家族は放っておくことにした。妹がこのモードに入ったら、自分の中で結論が出るまで、どうにもならないのだ。
恵理菜は朝と晩に短い挨拶をメールで送ってきたきりで、俺の返信にも返事がなかった。電話してみようかとも思ったが、何を話して言いかわからない。
あんなことを言った後で恵理菜になんと言っていいのか俺には見当もつかなかった。。
そうして一日が過ぎ、日曜日になった。
午後、嵐がやってきた。姫美である。姫美は玄関で母に挨拶をするのもそこそこに俺の部屋におしかけてきた。青のボーダーのシャツにきなり地のロングスカート姿だ。
「な、なんだ、いきなり」
「そんなことどうでもいいわ!」
姫美はドアを閉めると俺に詰め寄ってきた。
「康太。君は恵理菜にキスをしなかったんだって?」
「いや、それは」
俺はのけぞって姫美と距離を取った。「恵理菜が言ったのか?」
「昨日、恵理菜の様子がおかしかったから、さっき、恵理菜の家に行って無理にききだしたのよ。どういうつもり?」
相変わらず無茶なことをするやつだ。
「だから、キスしたら死ぬかもしれないという話はお前も知っているだろう」
第一、「死のキス」なんて言い出したのは姫美だ。
「でも、理子ちゃんは死ななかった」
姫美は引き下がらなかった。
「それは、たまたまだ」
「たまたまでもよ。理子ちゃんで大丈夫だったのだから、恵理菜がチャレンジしてもかまわないじゃないの。本人は死をも覚悟してやると言ったのよ」
「それはおかしい」
「なにがおかしいの。恵理菜は君の側にいたい。そのためには永遠の若さを共にすることが大事だと思ったからこそ、無理を承知で言ったのよ。それに応えてあげないでどうするの」
俺は姫美の語気に押されながらも、姫美をにらみ返した。
「俺は恵理菜を死なせたくないんだ。俺のせいで命を縮めるようなことは絶対に嫌だ」
姫美はしばらく俺の顔を見ていたが、ふっと表情をゆるめた。
「そういうことか。ならいいのよ」
唐突に攻撃をひっこめられてあっけにとられる。
「いいのか?」
「ええ。康太の気持ちはわかったわ」
「わかった?」
「ああ、しかしやり方がスマートじゃないわね。そこは頬にでもキスをして、『俺にはお前が大事だ。続きはまたにしよう』とでも言うべきだったのよ」
俺は頭を抱えた。
「そんな、恥ずかしいこと出来るか」
「いいじゃない。恋人同士、それくらいのことをするべきよ」
「誰が恋人同士だ」
俺は抗議した。
「ちがうの? 私は恵理菜にそう聞いたわよ」
姫美の言葉に一昨日の会話を思い出して腰砕けになる。
「いや、ちがうという訳でもないような」
「はっきりしないわね。そんなことでは恵理菜に振られるよ」
振られると言われてもまだ始まってもいないような関係だ。一体何がどうなるというのだろう。俺は小さくため息をついた。
姫美が人差し指を振って言う。
「ま、私に言えるのは、気持ちはきちんと伝えろということよ。そうすればトラブルはなくなるわ。私もトラブルのたびにいちいち呼び出されたら、かなわないからね」
誰も呼び出してない、お前が勝手に来たんだろうが、と言いたいのを俺は我慢した。ここでそういうことを言うとめんどうくさいことになるのが姫美という人間だ。小さいころの細かい話から始まって二十分はお説教をくらう。
「ところで、理子ちゃんはもういいの?」
恵理菜の話が片付いてほっとしたという顔で、姫美が話題を変える。
「ああ、もう普通にしているよ」
妹は今朝は家族と一緒に食事をし、部屋着で家の中を歩き回っている。
「多分、今は宿題をしているはずだ。呼んでくるか?」
「いえ、いいわ」
姫美は手を振った。
「邪魔はしたくないからね。元気というならそれで十分よ」
「そうか?」
拍子抜けだ。女の子好きの姫美が妹に会うのを断るなんて珍しいこともあるものだ。
「お前、どうかしたのか?」
「私はどうもしないわよ」
「普段なら無理にでも妹に会って行くやつが会わないなんて」
「そういう気分の時もあるのよ」
姫美はふうと息をはいた。
「じゃあね。恵理菜には私から言っておくわ、今度会ったらきちんと謝るのよ」
一体何を謝ればいいのだろう。俺は頭の中に疑問符を飛び回らせながら、とりあえずは納得をしたふりをした。
「わかったよ」
「またね」
嵐は帰って行った。俺はどっと疲れが出てベッドに倒れ込んだ。
夕方、恵理菜から電話があった。
『姫美ちゃんがそっち行ったでしょ』
「ああ、来たよ」
『ごめんね。私のことでいろいろ康太くんにいったんでしょ』
「まあ、何か言われたかな」
『気にしないでね。ごめんね。変な話になっちゃって』
俺は姫美の言葉を思い出した。
「いや、俺の方こそ悪かった」
『なにが?』
「一昨日だよ。俺のために言ってくれたのに、きついこと言って」
『ううん。私のわがままだから』
「そんなこと」
『いいの』
恵理菜はやわらかい声で答えた。何がいいのかわからないが、声の様子からすると話はうまくいったようだ。
『明日も理子ちゃんの付き添い?』
「ああ、まだ完全に安心できないからな」
あの二人は二度と手を出さないと約束をしたが安心はできない。もうしばらく妹に付き添うつもりだ。
『頑張ってね。帰ってきたら少し話をしよう』
「わかった」
『じゃあね』
電話は切れた。
翌日、俺は妹について大学へ行った。
妹はすっかり元気で研究センターへの道をすたすたと歩いていたが、何か考えを巡らしている様子であまり話をしなかった。
研究センターに着いてエレベーターに乗ると妹が思い出したように言った。
「理子、富田先生に謝ってくるから、お兄ちゃんは談話室に行ってて」
「いや、俺も挨拶したいからついていくよ」
「ううん。一人で行かせて」
「しかしだな」
「一人で行きたいの」
妹は頑固に言い張った。俺は妹の真意を測りかねたが言うとおりにすることにした。
「わかったよ」
「ありがとう」
ドアが開くと妹は足早に廊下を歩いて行った。談話室前で中に向かって「おはようございます」と言って頭を下げる。それから一番奥の教授部屋のドアをノックして、部屋の中に消えた。
俺は談話室の入口を入った。中島さんが座ったまま笑顔で迎えてくれる。
「おはようございます」
「おはようございます」
「妹さん大丈夫そうね」
「はい。もうすっかり元気です」
そこに談話室の中ドアが開いて田上がでてきた。右足をかばうように歩いている。俺を見ると表情を硬くして目をそらした。ひょこひょこと右脚をつま先立ちにしながら、あわてて部屋を出て行く。
俺は田上が立ち去ってから中島さんにきいた。
「田上先生は足をどうかしたんですか?」
中島さんは少し首をかしげながら答える。
「詳しいことは知らないんだけどね。なんでも、落ちていたガラスのかけらを踏んでしまったらしいのよ」
「そうなんですか」
俺はあの家での床に落ちた注射器のことを思い出した。もしかして、あれを踏んでしまったんだろうか。そうだとしたらお気の毒なことだ。
しかし、俺に対してのあの態度からするともう妹に手を出すことはないように思える。ひと安心だ。
「あら、おはよう。お兄さん」
振り向くと坂本さんだった。
「おはようございます」
「三上ちゃんは元気?」
「はい。今、教授室です」
「そっか。それはよかったよ」
「結局、風邪だったの?」
中島さんが足を組んでこちらを向く。
「どうなんでしょう。よくわかりません」
俺は笑ってごまかした。
「まあ、風邪だよね。流行ってるみたいだから」
坂本さんが結論をつける。
「そう言えば、田上先生も風邪をひいていたって言われてましたし」
中島さんの言葉にそれは違うと思いますと心の中で訂正を入れる。
「おはようございます」
妹がやってきた。富田先生との話はあまり長くはならなかったようだ。
「おおっ、元気そうだね。三上ちゃん」
「おかげさまで」
「よくなってよかったね」
「ありがとうございます」
坂本さんと中島さんの言葉に笑顔でそつなく答える。
「あ、中島さん。私、採血することになったので、連絡が来たら呼んでくれませんか」
「はい、わかりました」
中島さんがうなずく。
「じゃあ、お願いします。坂本さん、またあとで」
「後でね」
妹は廊下の向こうの実験室へと去った。
「お兄さんはまたこれから勉強?」
坂本さんがちょっとからかうような声できいてくる。
「ええ、まあ。小論文がまだ残っていて」
「ひょっとして、小論文が苦手?」
「あ、はい」
「あれはねえ。頭からいきなり書きはじめると難しいから、こういう理由でこういうことになるからこういうことがどうだ、というふうに三段階くらいの骨子をつくるのよ。まずは理屈をね、思いつくかぎり書きだしてやるの。それからグループ分けして順番に並べて骨子をつくるといいわ。そうそう、結論だけど、無難なものでいいの。どうせ意外性なんて求められていないんだから。そうね、最初に結論、次に理屈の書き出し、それから並べ替えと取りまとめかな。で、具体例をくっつけて、書きはじめるのはその後よ」
「はあ、そういうものですか」
坂本さんの教えに感心する。さすが受験生の指導をしたことのある人は違う。
「坂本さん、すごいわね。これからは坂本先生って呼ばなきゃ」
中島さんがまぜっかえした。
「いやいやいや」
坂本さんが頭をかく。「じゃあ、私は研究に戻るかな。またね、お兄さん」
坂本さんは部屋を出て行った。
「それじゃ、私も勉強をします」
「はーい」
背中で返事をする中島さんに軽く頭を下げてから、俺は談話室の中ドアを入った。荷物を置いて、まずは紅茶を入れて窓の外を眺めながら飲む。相変わらず隣のビルと都市高速しか見えない。
本棚の脇に「反故紙」と書かれた箱がある。そこから紙を一枚取り出した。裏にサイズを間違えてコピーしたらしい英語の論文の一部が写っている。俺はそれをテーブルの上に置いて座った。坂本さんの言うとおり小論文の組み立てをやってみることにする。
まずは結論を書いた。ありきたりすぎて意外性のかけらもない結論だ。次にそこに至る理由を書きだしていく。それを二つのグループに分けて、話の順に並べる。なんだか出来そうな気がしてきた。後は具体例だ。理由を細かく書きだしておいたので、例は容易に出てくる。十数分かけて一つの図が完成した。図はあちらこちらに矢印が飛んでみにくいものになったが、これならすぐに文章にできそうだ。
さっそく小論文の用紙を取り出して、今まで書いていた文章に消しゴムをかける。それから図を参考に文を書きはじめた。書きたいことははっきりしているので何を書けばいいのかは分かっており文章には困らない。もっとも、各所でぴったりあう言葉がなかなか出て来ないという事態には苦しめられた。文を書き慣れないせいだろう。それでも順調に用紙は埋まって行く。
ドアの外で電話の音が聞こえた。少しして椅子から立ち上がる音がする。妹の採血だろうか。俺はシャープペンシルをおいてドアを開けた。
やはり妹の採血のようだった。中島さんが実験室のドアを開けて話している。妹が出てきた。
「採血か。俺も行こう」
俺が声をかけると妹が嫌そうな顔をした。
「一人で大丈夫だよ」
そう言い置いてさっさと行ってしまう。
「お兄さんはちょっと心配性過ぎますね」
「あ、はあ」
中島さんに呆れたように言われて言葉も出ない。ここはこの建物の中なら安全と信じるしかないだろうか。俺はすごすごと談話室に戻った。
椅子に座って小論文に集中しようとするが出来ない。立って紅茶を淹れなおし、部屋の中をうろうろと歩き回った。
しかし、しばらくするとドアが開いて妹が入ってきた。
「採血終わったよ」
「よかった」
俺は緊張を解いて小さくため息をついた。妹はハーブティーを淹れて椅子に座る。俺を見て困った顔で言う。
「お兄ちゃん。あまり恥ずかしいことしないでほしいの」
「恥ずかしいってなんだよ」
「どこにでもついていこうとすること」
「しかしだな。まだ危険があるかもしれないわけだし」
「私だって子供じゃないよ。自分のことくらい何とかするよ」
そこにナース服の真野さんが入ってきた。
「あら、どうかしたの? けんか?」
「えーと、ちがいます」
妹は表情をがらりと変えて笑顔で立ちあがった。ぐっとハーブティーを飲みほしてカップをゴミ箱に捨てる。
「じゃあ、失礼します。お兄ちゃん、またあとで」
妹は部屋を出て行った。
「お兄さんも大変そうですね」
真野さんが笑った。それから近づいてきた。鼻がぶつかりそうになるくらいまで近づいてぼそりと小さな声でつぶやいた。
「黒崎のことではご迷惑をおかけしました」
俺は一瞬何のことかわからなかった。
黒崎って何だろう、そう思ったくらいだ。それからあの家でのことを思い出した。そう、黒崎というのはあの人のことだ。俺は目を見開いて真野さんを見た。
「もしかして、真野さんも……」
「お察しの通り私は有久保バイオメディカルの調査員をしております。弊社の調査は動向を探るだけで研究内容には深く関与しないことになっておりますが、黒崎は経験が浅く功を焦りいき過ぎたところがありました。その結果、大変なご迷惑をおかけしまして誠に申し訳ございません。さらに黒崎は明らかな法律違反まで犯しており、このことは弊社としましても誠に遺憾に思っております」
真野さんは神妙な顔で淡々と言葉を並べて行く。
「皆様には事を荒立てないでいただきましたこと深く感謝いたします。お友達にもお伝えください。なお、黒崎は弊社総務部付に異動となりました。二度と皆様にご迷惑をおかけしないことをお約束いたします」
それだけ言うと頭を下げた。真野さんの髪が顔に触れそうになる。
「あ、はい。どうも」
俺は混乱して意味のない言葉を返した。真野さんは顔を上げた。いつもの笑顔に戻っている。
「ご理解いただきありがとうございます。出来ればこのことは内密にお願いしますね。今後妹さんとお兄さんたちにご迷惑がかからないように会社として全力を尽くしますから」
そうしてもう一度頭を下げると部屋を出て行った。俺は立ちつくした。頭の中を整理するのにしばらく時間が必要だった。
昼になって妹と弁当を食べる段になっても、俺は半ば呆然としていた。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「いや、なんでもない」
「そう? 手が止まっているよ」
「ちょっと考え事をしていてな」
真野さんがスパイだと妹に伝えてはいけないと思う。例え悪意のない存在だとしても身近にそんな人がいるということを知れば妹が傷つくのではないだろうか。それに真野さんは研究の中身を調べる気はないらしい。だからこれは妹が知らなくても問題ない。俺はそう自分を納得させた。
「怪しいな」
「怪しいもんか。俺だって考え事くらいする」
「お兄ちゃんが一人で考え事をしても答が出るの?」
さらっときついことを言ってくれる。
「姫美さんにでも相談したら?」
たしかに姫美に話してみたほうがよさそうだ。
「そうだな。そうしてみるよ」
「素直だね。お兄ちゃん」
妹があきれた顔をしている。
「そうか? 俺はいつも素直だぞ」
「それ、自慢になってないよ」
ため息をついて俺を見る。「実はお兄ちゃんに報告したい結果があったんだけど、やめておいた方がよさそう」
俺は向き直って妹の目を見返した。相談事であれば聞かないわけにはいかない。
「どうしたんだ。言ってみろ」
妹は疑い深げに俺を見た。それからお茶を一口飲むと声をひそめて話し始めた。
「あのね。理子が若いままでいられなかった理由がわかったの」
「へえ」
「理子、自分が若いままでいられなかったと知ってから、ずっといろいろな可能性を考えてきたのだけど、今日実験してみてわかったの。あのウィルスの働きはね、エストロゲンの影響を受けるのよ」
またよくわからない言葉が出てきた。
「エストロゲン?」
「女性ホルモンなの」
「それの影響を受けるということは、どういうことだ?」
「つまり、女性はあのウィルスにかかっても若いままになることはないの。思春期前や閉経後の女性だとうまくいくかもしれないけど、若い女性はダメなの」
ということは永遠の若さという言葉に一番需要のありそうな層に無効ということか。
「それは、なんといっていいか。あれだな」
「あれってなに?」
「いや、お前も大変な思いをしたのにな」
「ううん。理子より、お兄ちゃんたちに迷惑をかけたのが一番申し訳ない」
「いや、俺はいいけどな。大したことしてないし」
俺は手を振った。俺のしたことなんて研究センターまで往復したついでにまぬけにも誘拐されただけだ。
「ありがとう、お兄ちゃん」
妹は感謝の意を述べると弁当を片付け始めた。いつの間にか全部食べたらしい。
「理子、もっと研究してちゃんとしたウィルス作るね」
お茶を飲み干すと立ちあがった。
「ほどほどにしておけよ」
「大丈夫、次は保存場所に気をつけるよ」
「そういう意味じゃない」
「じゃ、研究に戻るね」
妹はさっさと談話室を出て行った。その横顔は生き生きしていた。次の目標を見つけてそれに向かって走り出したという顔だった。
「なるほどね。ということは二学期からの生物基礎は別の先生に差し替えになるわね」
姫美が頬に指を当ててうなずいた。
夕方、帰宅すると隣の家で待機していた恵理菜と姫美が押しかけてきた。話がしたいと言って俺の部屋になだれ込み、黒崎のことで分かったことがあるというのだ。
俺はそれに対して、黒崎のことなら問題ないと話して真野さんの言葉を二人に教えた。コバルトブルーのシャツに白のスカートの姫美は長い髪をかきあげながらそれを聞いていた。
「しかし、自分で名乗るとは驚きね」
「それだけ会社として申し訳なく思っているってことだろう」
「いや、申し訳なく思うなら君にだけ謝るのは変よ。たぶん、不祥事を秘密裏に葬りたいということだと思うけど。それで君に近づいたのね」
あいかわらず悪意のある解釈をするやつだ。
「黒崎先生はどうなっちゃうの?」
ポニーテールを揺らして俺と姫美の顔を見比べていた、ピンクのTシャツに白のホットパンツ姿の恵理菜が尋ねた。
「まあ、総務部付ということは、仕事をせずに反省していろということだろうから、毎日反省文を書く仕事かしらね」
「それは大変だね」
恵理菜がため息をついた。
全くだ。無味乾燥な文章を毎日書かされるなんて、拷問に等しい。
「まあ、とにかく、これで俺も妹も狙われずに済むようだ」
俺が結論づけると姫美は少しの間首をかしげたが、すぐにうなずいた。
「そうね。有久保バイオメディカルは事件を穏便に済ませたいわけだし、『永遠の若さ』については、こんな重要な情報を他に漏らすとは考えにくいわ。問題は田上という先生だけど、まあそっちの方も会社がなんとかしてくれることを期待しようか」
「なんとかって何?」
「口をふさぐって意味よ」
恵理菜の素朴な疑問に姫美が不穏当な返事をする。
「ああ、姫美ちゃんがやった、もしばらしたら誘拐のことを警察に言うからねっていう、あれのこと?」
「まあ、そうね。それか、適当な甘い話を持ちかけるか」
「甘い話?」
「お金とか仕事のことよ。今の日本の大学の助教というのは大抵五年くらいの任期があって、それが切れると、業績をアピールして大学ともう五年間の契約を取りつけるか大学を出るかしないといけないのよ。そういう不安定な身分なのね。だから、『研究にお金を出しますよ』とか『研究員として雇いますよ』とか言われると弱いわけなの」
毎度思うのだが、こいつはこういう話をどこで仕入れてくるのだろう。
「そうなんだ」
恵理菜がふんふんと首を振る。
「そういえば」
姫美が俺の方を見た。
「私が康太にしようと思っていたのも、そう言った感じの話よ」
「なんだ?」
「黒崎先生の結婚相手の話。実は旦那は生命科学で博士号を取ったのだが、就職しようと応募書類を出した大学すべてに書類審査で弾かれてしまったのね。それで、今は実家に引きこもってしまっているらしい」
「酷い話だな」
ため息が出る。せっかくあんな綺麗な人と結婚しながら仕事がなくて一緒に生活が出来ないなんて、悲劇だ。
「まあ、しかし、日本の研究者としてはよくある話らしいわ」
姫美が訳知り顔で首を横に振る。日本で研究をするのはいろいろ大変なようだ。俺は妹の将来が心配になった。あまりいいイメージはないが、有久保バイオメディカルとかいう会社に期待するしかないだろうか。
「離婚しなかったのかな」
恵理菜が疑問を投げる。
「例の友人のブログなどから推測するに、黒崎先生の方からプロポーズしたらしいから、旦那が挫折しても離婚する気にはなれなかったんだと思う。今回、黒崎先生が暴走したのはその旦那のために功績をあげたいという気持ちがあったからじゃないかな」
「そのために男を手玉に取ってもか?」
俺は黒崎の唇が迫ってくる光景を思い出した。それから、結婚していたと聞いて唖然とした田上の顔も浮かんでくる。
「まあ、目的のためなら、多少のことは浮気にならないという考えの持ち主だったということかな」
姫美が難しい顔で言った。
「うーん。それも、愛なんだね」
恵理菜がうなった。しばらくの間、部屋の中を重苦しい沈黙が支配する。
俺は別の話題を持ち出すことにした。
「そう言えば、二人にもう一つ話があったんだ」
「なんだ?」
「なになに?」
二人が乗りだしてくる。
「実は俺のウィルスだが、女性は若いままにならないらしい」
姫美が指を頬にあてたまま俺をにらんだ。
「どういうこと?」
「いや、何でも、エストロゲンとか言うのが働きを妨害するらしい」
「ああ、そうなのか。難しいものね」
姫美はつぶやくように言葉を吐いた。たった、それだけの話で理解してしまう理解力に恐れ入る。
「エストロゲンって、女性ホルモンだよね」
「私たち若い女性に多く分泌されているわ。それが老化防止の邪魔をするのね」
「ということは、つまりウィルスにかかっても命が危険になるだけで、長生きにはつながらないってこと?」
「私たちは若い女性はね」
恵理菜の疑問に姫美が明快に答える。
「そっかあ。それはなんだか残念ね」
恵理菜が小さくため息をついた。
「でも妹はそれについてやる気を出してるよ。もっとちゃんとしたウィルスをつくるって」
「理子ちゃんなら、つくるよね、きっと」
「やるに違いないわ」
恵理菜と姫美がうけおった。
「さて、私はそろそろ帰るか」
姫美がドアの方に向かう。
「あ、じゃあ、私も」
そう言って、後に続こうとした恵理菜を姫美が押し返した。
「恵理菜は康太と話があるんじゃない?」
「えっ」
思わず恵理菜と顔を見合わせる。
「じゃあまた。見送りはいいよ」
姫美は部屋を出てドアを閉めた。
「話って何だ?」
しばらくの沈黙の後で俺は尋ねてみた。恵理菜はうつむいている。
「ううん。別になんでもないの。こうして向かい合って話がしたかっただけ」
「そっか。あの、ゲームでもするか?」
言ってしまってから、見当違いだったと気づいたが言葉は戻らない。
「いい。もう遅いから」
恵理菜は首を振って否定した。
俺は何を言うべきなのか、何をすべきなのか、自問自答する。迷う俺の頭の中に昨日の姫美の言葉がよみがえった。俺は一歩を踏み出した。
恵理菜の顔に近づく。恵理菜は逃げなかった。
頬に唇で触れる。
そしてささやいた。
「今は、これくらいで勘弁してくれ。お前にうつしたくないからな」
恵理菜が顔を上げた。目の前の恵理菜の大きな瞳に俺が映る。恵理菜は少し照れたような笑顔になった。
「うん」
それから抱きついてきた。力強く俺の胴を締めつける。
「勘弁してあげる。ウィルスがいなくなったらちゃんとキスしてね」
背伸びをして俺の頬にキスをした。
「はい。お返し」
そう言うと俺からゆっくりと離れた。
「じゃあ、また明日ね」
「ああ」
短い挨拶をかわすと恵理菜は逃げるように部屋を出た。
「あ、恵理菜さん」
「理子ちゃん、またね」
廊下で言葉を交わすのが聞こえてくる。そして玄関が閉まる音がした。開いたままのドアから妹がのぞき込んできた。
「どうしたの、お兄ちゃん」
「ど、どうもしないぞ」
平静を装う。
「そうなの? ふうん」
妹は小さく首をかしげた。
〈終わり〉