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死病

 月曜日。俺は妹について研究センターに行った。

 真野さんに会ったら礼を言おうと思ったが、真野さんは研究センターには姿を現さなかった。妹の話ではいつもいるわけではないらしい。

 昼食後、坂本さんがやってきたので映画の話をした。同じ映画を坂本さんも前の週に見ていたとのことで、「何でもウィルスのせいにしないでほしいわよね」と坂本さんが笑った。その他には田上が二度ほど談話室に来たのと富田先生が一度雑誌を見に来ただけで、残りの時間は全て勉強にあてることができた。

 その後二日も同じように時間が過ぎて、水曜日が終わった時点で宿題は小論文を残すのみとなっていた。


 木曜日の午後、俺は小論文に苦戦していた。

 俺はこの手の作文が苦手だ。何かを主張したければ一言で言いきってしまえばいいのだ。それを長々と理屈をこねてああでもないこうでもないと話を持って回る必要性が理解できない。小学校の時分から、俺は一度としてまともに用紙を埋めたことがない。明らかに関係のないことを書いて規定の六割ほどの文量を確保して終わりにするのがいつものやり方だった。

 携帯電話が鳴った。恵理菜だった。

『今、何してる?』

「作文」

『そっか。あの、来ちゃったんだけど……』

「どこに?」

『大学病院のところ。迎えに来てもらってもいいかな』

「はあ?」

『お願い。研究センターの名前、ちゃんと覚えてなくて迷っちゃった』

「……、わかった」

 なんでまた、こんなところに来たのだろうか。面倒事の予感がする。しかし来いというなら行ってやるべきだろう。

 携帯電話片手に一階に下りて玄関を出て、はたと気づいた。カードを持ってない俺は出たら入れない。しかし時すでに遅し、ドアは閉まってしまった。

 あきらめて大学病院に向かうことにした。いざとなれば妹を電話で呼び出そう。

 恵理菜はすぐに見つかった。大学病院の玄関前に立って手を振っていた。ポニーテールで土曜日に買った黄色のTシャツにデニムのミニスカートをはいている。その隣に長い黒髪をなびかせてつばの広い白い帽子に白のワンピースを見事に着こなした女性がいた。姫美だ。見舞客や午後の散歩に出てきた患者たちが振りかえって見ている。

「お前ら、目立ってるぞ。特に姫美」

 俺の指摘に姫美は自分の服を見ながら言った。

「そう? 病院だから白なら目立たないかと思ったのだけど」

「そういう問題じゃない」

「まあ、姫美ちゃんは何着ても目立つから」

 恵理菜がとりなす。いや、黄色を着ているお前も目立っているのだが。

「というか、お前ら、二人して何しに来たんだ?」

「いうなれば、視察よ。康太が暇な時間に何をしてるのか確かめに来たの」

「なんだって?」

「えっと、研究センターと言うところがどんな所か一度見たいなと思ったの」

 姫美の挑発的な物言いを恵理菜がいいかえる。

「帰れ」

 俺は駅の方を指して断固として言った。

「連れないなあ。せっかくここまできたのに」

「お願い、ちょっとだけ」

 二人で手を合わせてこちらを見る。玄関前で派手な格好の女子二人に頼みこまれている男子一人という構図だ。集まる周囲の視線が痛い。

「分かった。研究センターの前までは案内する」

 その場から逃げるように俺は歩き出した。後ろから「やっぱり、康太には押しの一手よね」「すぐいうこと聞いてくれるもんね」という会話が聞こえてくる。完全に舐められている。しかし、姫美が海の件で落ち込んだというのは、もう完全に解消されたらしい。恵理菜が何か力づけるようなことを言ったのだろうか。そういえばその恵理菜も、もう全く足を引きずっていない。それらはどちらも俺にとって、すごくうれしいことだった。俺はほっと小さく息をついた。

 建物の間を右へ左へとまがって生命科学研究センターにたどりついた。

「ここだよ」

 俺は五階建ての建物を指した。

「へえ」

「ここかあ」

 姫美が看板をしげしげと眺める。恵理菜は自動ドアの前に立った。

「開かないよ」

 振り返って文句を言う。

「そのドアはカードがないと開かないんだ」

「これね」

 姫美がドアの脇の読み取り装置を指した。

「そうだ」

「それで康太はカードを持っているの?」

 痛いところをつかれる。

「……もってない」

「と、いうことは、康太は閉め出されたわけね」

 ヒヒヒと姫美が意地の悪い笑い方をした。

「うるさいな」

「理子ちゃんにあけてもらおう」

 恵理菜が携帯電話を取り出した。

「待てよ。建物の前までと言っただろう。中はダメだぞ」

「ええっ」

「堅いこというわね」

 姫美が恵理菜に同調する。

「ダメなものはダメだ。妹の邪魔になる」

「ケチ」

 そこにいきなりドアが開いた。

「何やってるの、あなたたち?」

 坂本さんだった。ドアの内側に立って俺たちを見回す。

「知り合い?」

 坂本さんが俺に尋ねた。

「こんにちは。私は三上くんの友達の中原です」

「笠野です」

 二人が俺の答えるよりも早く挨拶をした。

「こんにちは。博士課程二年の坂本よ」

 坂本さんは笑顔で挨拶をすると俺に向かって言った。

「こんなにかわいい女の子二人とお友達だなんて、お兄さんもすみには置けないわね」

「いえ、それは……」

「近くまで来たので、理子さんの研究の様子を見せてもらえないかと思いまして」

 言いかける俺の前に姫美が割りこむ。

「あら、そうなの。三上ちゃんとも知り合いなんだ」

「はい。よく一緒に遊んでます」

 姫美の話しぶりはさっきまでとは全く違う。これが姫美が学校などで見せている表の顔だ。いつものことながら、驚かされる。

「じゃあ、中に入って」

「ありがとうございます」

 二人が中に入る。俺もあわてて後を追った。

「暑いわよねえ」

 四人でエレベーターに乗った。

「そうですねえ。今、夏休みじゃないんですか?」

「そうよ。だから研究室には人が少ないわ」

「お盆休みでもあるわけですしね」

「うーん。研究室としてはまあカレンダー通りな感じかな」

「坂本さんは休まれないんですか?」

「私は研究が進んでないからね。あせってやらないと大変なのよ。来年までに成果を出して論文を書き始めないと卒業できないから」

「医学部の博士課程は四年あるんですよね」

「そうよ。でも、投稿した論文がジャーナルに載るまでに一年はかかるからねえ。意外に時間がないのよ」

「大学院生って大変ですね」

 姫美と坂本さんの会話がつづく。恵理菜が俺の方を見てにっこり笑った。どうやら姫美のことをすごいねと言いたいらしい。

「学部生の二年までだったかなあ。夏休みに遊べたのは」

「医学部ってやはりお忙しいんですね」

「あ、私、医学部出身じゃないの。理学部の生物学科なのよ」

「あ、そうなんですか」

「大学院に医学研究科を選んだのよ」

 四階に着いた。


「ここが院生の部屋で、ここが助教の先生の部屋。で、ここが談話室で。こっちがゼミ室で、実験室が……」

 坂本さんが次々に部屋を指し示す。

「ここが第二実験室、三上ちゃんが今いる部屋」

 ドアを少し開けて覗きこむ。

「三上ちゃん?」

「坂本さん。どうしたんですか?」

 妹の声だ。

「お友達が来てるよ」

「え、はい」

 部屋から妹が出てきた。セーラー服の上から白衣をはおっている。

「こんにちは、理子ちゃん」

「こんにちは。白衣似合うね」

「ああ、恵理菜さんに姫美さん」

 妹が戸惑い気味に返事をする。

「ちょっと様子を見に来ちゃった。今大丈夫?」姫美が言う。

「はい。大丈夫です」

「ここで、立ち話もなんだから、談話室に行こう」

 坂本さんの提案で、談話室に移動する。

「あら、にぎやかだと思ったら」

 中島さんが笑顔で迎えてくれた。

「三上ちゃんのお友達です」

 坂本さんが紹介する。

「お邪魔します」

 恵理菜と姫美が頭を下げた。

「どうぞどうぞ」

「こっちよ」

 坂本さんが談話室のドアを開ける。妹を先頭に一行が部屋に入って行く。

「お兄さん、ちょっと」

 中島さんが俺を呼びとめた。

「そこの棚にお菓子があるの。人数分取っていいわよ」

「ありがとうございます」

 棚の上から白い箱を降ろす。お菓子は薄皮饅頭だった。五個取る。

「女の子ばかりに囲まれて、うらやましいわね」

「いや、そういうんじゃありませんから……」

 中島さんの言葉に言い訳をしていると、部屋から坂本さんが出てきた。

「中島さん。今日、真野さん見ました?」

「真野さんなら、午前中に退勤するのを見かけたわよ」

「うわ。夜勤明けか。起きてるかなあ」

「どうしたの?」

「いえ。今来た二人の片方が真野さんに人工呼吸をしてもらって助かったということなんですよ」

「そう、それは偶然ね」

「でしょう?」

「じゃあ、携帯にかけてみたら?」

「そうします」

 坂本さんはポケットから携帯電話を取り出して廊下に出た。中島さんが俺を見る。

「海にでも行ったの?」

「はあ。日曜日に」

「一緒に?」

「妹とあの二人の四人で」

 まあ呆れた、という顔を中島さんがする。俺は言い訳の仕様がなくて頭をかいた。坂本さんが入ってきた。

「つながりました。近くのファミレスで話しこんでいたそうです」

「すぐ来るって?」

「はい」

 笑顔でうなずいた坂本さんが談話室に入って行く。俺はそれに続いた。

「真野さん、すぐ来るって」

「そうなんですか。ありがとうございます」

「なんだか呼び出したみたいで申し訳ないです」

 恵理菜と姫美が口々に謝意を述べる。俺は饅頭をそれぞれに配った。妹がお茶を俺の分まで淹れてくれていた。

「お饅頭食べながら待とうか」

 坂本さんが椅子にかけた。俺も自分の席に座って小論文の用紙を鞄にしまう。

「小論文かけた?」

 恵理菜が隣から俺の手元をのぞきこむ。

「いや、全然。まだ三百字くらいだ」

「私、昨日書き終わったよ」

「すごいな。でも俺も、小論文以外は宿題終わったよ」

「わー、すごい。物理基礎も?」

「ああ、終わったよ」

「今度見せて」

「いやだ」

「けち」

 恵理菜が口をとがらせた。

 ふと視線を感じて向いを見ると姫美と坂本さんが口に手を当ててこちらを見ている。

「仲良いのねえ」

「そうなんですよ」

「いやいや、幼なじみなんで」

 勘違いされては困る。否定の声を上げると二人はますます目を細めてうなずき合った。

「怪しいわねえ」

「ですよねえ」

 ほんの少しの間にここまで息が合うほど仲が良くなれるのだろうか。姫美の女性に対する親和力はあきれるほかない。そこに隣から妹が参加した。

「お兄ちゃんと恵理菜さんって、夫婦同然ですから」

 お茶を吹きそうになった。恵理菜もせき込む。

「理子、お前なあ」

「理子ちゃん!」

 そこに姫美が割りこむ。

「ダメよ、恵理菜。あなたは私の嫁なんだから」

「姫美ちゃん! ちょっとこんなところで何言うの」

「え、なになにふたまたなの? 修羅場ってやつ?」

 坂本さんが楽しそうに話に乗りこんでくる。しばらくは騒然とした会話が続いた。


 ドアが開いた。

「こんにちは」

 真野さんが入ってきた。白のズボンにパステルカラーの青のシャツを着ている。

「こんにちは」

 姫美と恵理菜が立ち上がった。つられて俺や妹、坂本さんが立ち上がる。

「先日は命を助けていただきありがとうございました」

 恵理菜が深々と頭を下げた。

「素晴らしい対応で友人を救っていただきありがとうございました」

 姫美も頭を下げる。

「ありがとうございました」

 俺と妹も深く頭を下げて礼を言った。

「いえいえ。それより無事でよかったわ。笠野さんでしたっけ、その後気分が悪いとかはない? 脚の具合はどう?」

「大丈夫です。脚もこの通りまったく痛みがありません」

 恵理菜は足踏みをして見せた。

「それはよかった」

 恵理菜が持ってきた手提げ鞄を開けた。

「あの、これ」

 小さな紙包みを取り出す。駅の近所にあるおいしいので有名な菓子店のものだ。準備がいい。真野さんに出会うことも考えのうちだったのだろうか。

「つまらないものですが」

「あら、そんなことしなくていいのに。私が助けた人が無事、というそれだけで私には十分ご褒美なんだから」

「いえ、でも持ってきましたから」

「そう? ではいただくわね」

 真野さんは受け取った。

「これは何かしら?」

「焼き菓子です」

「ここで開けてもいい?」

「あ、はい」

「みなさん一緒にいただきませんか? うちに持って帰ると一人で一瞬で食べてしまって、体重計に乗るのが怖いことになりそうだから」

 真野さんはいたずらっぽく提案した。提案に全員が賛同する。中身はダックワーズやフィナンシェで、全部で八個入りだった。真野さん、坂本さん、姫美、恵理菜、妹、俺で二つ余る。

「中島さんと富田先生にもさしあげたら?」

「俺が行きます」

 立候補した。女ばかりの部屋に一人だけ男子というのは精神的な圧迫感がすごい。逃げ出す口実が欲しかったところだ。

「じゃ、おねがいね」

「女だけの秘密の会話をしてるから」

 坂本さんと真野さんの声に送られて俺はドアを出た。

「あの、これおすそわけです」

「あら、ありがとう」

 フィナンシェを渡すと中島さんが小さく頭を下げた。

「お友達が助かってよかったわね」

「はい、おかげさまで」

 ダックワーズを指し示しながらきいてみた。「これを富田先生のところに持っていきたいんですが、大丈夫でしょうか」

 中島さんは少し首を傾げてから答えた。

「大丈夫じゃないかな。行ってごらん」

「はい」

 ドッと沸く声が談話室の中から聞こえてくる。俺はその声を背に、廊下に出て教授室を目指した。

 ノックをする。

「どうぞ」

 低い男性の声が響いた。ドアをそろそろと開けて中に入った。

 相変わらず雑然とした部屋である。パソコンは二台とも起動していて何かの計算をしているようだった。

「失礼します」

「ああ、君か。どうしました? まあ座って」

 俺は椅子に腰かけてダックワーズを差し出した。

「友人からのおすそわけです」

「おすそわけ? どなたか来ているのですか?」

 富田先生は戸惑った声を出した。

「実は前にお話ししました女友達二人がここに押しかけてきてまして」

「ああ、あのお二人ですか」

「実は、日曜日に海に行ったんですが、そのときに二人のうちの片方がおぼれたんです。それを偶然近くにいた真野さんに人工呼吸をしてもらって助かったんです。それで今日二人がお菓子を持ってここを訪れたということなんです」

「それで、このお菓子がそのおすそわけということなわけですね」

 富田先生は納得が行ったという顔でダックワーズを受け取った。

「ありがとう。後でいただくとしましょう」

 そう言うとダックワーズを机の上に置く。

「ちょうどいい。お兄さんの見せたいものがあるんです」

 傍らに積み上がっていた紙の中から一枚の紙を取って俺に渡した。

「それ、何だと思います?」

 グラフのようだ。X軸とY軸があり、そのなかをくねくねと曲がった線が二本、右肩下がりになっている。

「わかりません」

 富田先生はマグカップに入ったコーヒーを飲んだ。すっかり冷めきっているようで湯気は立っていない。

「それはね。ショウジョウバエの生存曲線です」

「生存曲線……」

「あなたから採ったウィルスを感染するようにした群と何もしない群とを比較したもので、上の方にはりついてあまり減少していないのが何もしない群です。このグラフはその時々の生存数を数えたもので、グラフが下がっているということはそれだけ死亡しているということです。まだ一週間ほどですが、感染群の方が非感染群に対して有意に死亡数が大きい、という結果が出ています」

「どういうことでしょう?」

「つまり、ショウジョウバエたちにとって君の病気は死病だということです」

「死病……」

 重い言葉がのしかかってくる。

「死んだショウジョウバエのDNAを調べましたが、テロメアの伸長は見られず長命化したものはありませんでした。君の体でおきたことはショウジョウバエでは発生しなかったということです」

「はあ……」

 ぼう然とするほかはない。

「君の場合だけ特別だったのか、哺乳類や人間に限ってそうなのか、調べる必要がありますが、かなり微妙な条件の上に君は命を得ているということになりますね」

「これは妹も知っているのですか?」

 俺はふと妹の反応が気になった。

「ええ、もちろん。これは妹さんと一緒に解析した結果ですから」

「何か言ってましたか?」

「特には何も」

 妹が何も言わない時は何かを深く考え込んでいるときか、何も考えていないときかのどちらかだ。どちらだろう。

「また明日にでも、血液検査させてください」

 富田先生は俺の考えをよそに話しかけてきた。

「あ、はい」

「ウィルスが完全に排除されたかどうか調べたいですからね」

「わかりました」

「じゃあ、そういうことで」

 富田先生がひざを叩く。話が終わったという合図だろう。俺は立ちあがった。

「では、失礼しました」

「はい。お友達によろしく」

「伝えます」

 俺は礼をして部屋を出た。

 廊下を歩いているとエレベーターに向かって頭を下げている恵理菜と姫美が見えた。エレベーターのドアが閉じてからこちらを向く。俺に気づいて手を振ってきた。

「真野さん、帰っちゃったよ」

「お友達を待たせてるからって」

 夜勤明けと聞いたが、徹夜明けみたいなものだろうに元気な人だ。

 談話室へ入ろうとすると、入れ替わるように妹と坂本さんが出てきた。

「お兄ちゃん。私、実験に戻るね」

「私も研究しなきゃ」

「いろいろとお手間取りいただきありがとうございました」

 姫美が如才なく坂本さんに挨拶をする。

「ありがとうございました」

 恵理菜も頭を下げた。

「いや、いいって。気にしないで。それよりお菓子ごちそうさま」

 そう言うと坂本さんは院生の部屋に入っていった。

「ごちそうさまでした」

 妹も実験室のドアの向こうに消える。俺は恵理菜と姫美とともに談話室に戻った。


 椅子に座ると向かいの席から姫美が尋ねてきた。

「教授先生と結構話し込んでたようね。何を話していたの」

「生存曲線がどうとかいう話だった」

「へえ」

「ちょっと待って」

 俺は席を立ってドアの外を確認した。誰もいない。中島さんの机の上には紙で作った札が置かれていた。「事務に行ってきます」と書いてある。

 ドアを閉めて席に戻った。少し声を落として言う。

「ショウジョウバエにとっては俺の病気は死病なんだそうだ」

「やっぱり『死のキス』というわけね」

「死のキス?」

 恵理菜が首をかしげる。

「康太の病気が康太にだけプラスの効果を発揮して、他のものには命を縮める恐ろしい効果をもたらすのかもしれないという話なのよ」

「そんなことってあるの?」

 姫美の解説に更に首をかしげる。

「まあ、個人差というやつかな。可能性はあるわね」

「俺が生きているのは微妙な条件の上に成り立っているらしい」

「そうかあ。そうなるとキスも命懸けだね」

「ロシアンルーレットみたいね。もっとも、こっちは永遠の若さか死かの二者択一だけど」

 二人はくすくすと笑った。

「それじゃあ、康太くん、一生キスできないね」

 恵理菜が楽しげに言う。

「いや、それはウィルス次第よ」

 姫美が訂正した。「ウィルスが康太の体からなくなってしまえば、キスしても病気はうつらないわけだから」

「ウィルスはなくなるの?」

 恵理菜の問いに俺は戸惑った。先ほどの富田先生が血液検査をしたいと言った時の口ぶりでは、ウィルスが体からいなくなることがあるかのようだったが、そうじゃない可能性もあるのだろうか。

「わからない」

 俺は正直なところを口にした。

「それじゃあ、キスは無理ね」

 姫美が笑顔で宣告した。

「冗談じゃないぞ。俺の明るい未来はどうなるんだ」

 俺は思わず声を張り上げた。もしもこの先ウィルスが体にとどまり続けるとしたら、俺は長い人生ずっと独り身だ。そんなの人生の長さが保証されているだけに空しすぎる。

「おや、明るい未来なんてあると思っていたの?」

 姫美が意地の悪い笑みを浮かべる。「永遠の若さをもつということは周りがどんどん年老いて死んでいく中を一人取り残されて生き続けるのよ。そんな人生が明るいと思う?」

「ううっ」

 言い返せない。

「康太におすすめな生き方は、早いうちにお金をためて山の中に隠れすむというのかな。どこかの無人島でもいいけど。そうすれば人目を気にせず長く暮らせるわ」

 隠者になれということか。なんだかファンタジー小説のエルフにでもなった気分だ。そう言えばエルフも長命な種族という設定だった。意外と山にこもれば同じような境遇の長命な人々と出会えたりするのかもしれない。

「何か妄想しているようだけど、君と同類のものなど現実世界にはいないからね」

 姫美がくぎを刺してきた。こいつは本当に俺の心が見通せるんじゃないだろうか。

「康太くん、かわいそう。そうなったらたまに会いに行ってあげるね」

 恵理菜が憐みの目で俺を見ている。

「行ってやるの?」

「うん。命の恩人だし」

「ずっと一緒にいてあげるんじゃないのね?」

「だって、私、コンビニも映画館もない生活って考えられないよ」

「ということだそうよ」

 姫美が俺に話をふる。どう答えろというのだ。ここはやはり恵理菜の情け深さに感謝すべきだろうか。

「俺の人生で遊ばないでくれ」

 少しの思案の末に投げやりに答える。

「まあ、そう気を落とさないで。もう少し金を稼いでから、都会で引きこもりになるという選択肢もあるわ。それなら恵理菜も毎日のように来てくれるんじゃない?」

「ええっ。もし家庭を持ってしまっていたら毎日なんて無理だよう。姫美ちゃんが行ってあげたら?」

「私は康太にかまうのは高校までと決めているんだ。大学に入ったら広い世界に羽ばたくつもりだからな」

 言葉が心にいろいろと刺さってくる。俺は今いじめに遭っているのか。

「さて、冗談はこれくらいにして、帰ろうか」

 姫美が立ちあがった。

「うん。帰ろう」

 恵理菜も続いて立ち上がる。

「じゃあ、またそのうち」

「康太くん、物理基礎、後で見せてね」

 二人が手をふるのにつられて手を振り返す。ドアを開けて二人は部屋を出て行った。俺はぐったりと机に突っ伏した。


 その日の帰り道、駅から家まで歩いている時、隣を歩いていた妹が一歩前に出て俺の方を見た。二つ結びの髪が揺れる。

「お兄ちゃんは恵理菜さんと結婚する気なの?」

 いきなりとんでもないことを聞く奴だ。

「する気も何も、考えたこともない」

「恵理菜さんはその気だと思うんだけど」

 そうなんだろうか。家庭を持ったら会いに来るのをやめると言われたばかりではとても信じられない。

「今は隣の気易さでつきあいがあるだけで、いい男が現れたら挨拶もしてこなくなるかもしれないさ」

「それはないと思うの」

 一刀両断である。女というのはなんで相手のことがそんなによくわかるのだろうか。

「たまに意地悪なことを言うかもしれないけど、恵理菜さんは基本的にお兄ちゃんのためを思っていつも行動していると思うの。そんな人、他にいないよ」

 たしかに俺が病気になった時に看病してくれるような人は男女を問わず他にいない。

「なんで、お兄ちゃん、恵理菜さんに交際を申し込まないの? 恵理菜さんは待ってると思うよ」

 妹がいつになく強気だ。

「しかしだな」

「何?」

 なんと言ったらいいだろう。

 俺は空を見上げた。太陽は西に傾いているが空はまだ青い。つぶれかけた入道雲が海の方角に立っている。ミンミンゼミの合唱がそばの林から聞こえてくる。

 水底に沈む恵理菜の姿をふと思い出した。

「俺は、キス出来ないからな」

 ポロリと口から言葉がこぼれる。妹が悲しそうに眉を寄せた。俺はあわてて口を押さえたが遅かった。

「やっぱり理子のウィルスのせいなの?」

 妹は少しうつむいた。それから顔を上げ決然と言葉を発した。「大丈夫だよ。あのウィルスは元になったウィルスの性質からして二、三週間で完全に排除されるから、そうすればキスだってできるよ」

「そういうものなのか? 明日血液検査をするって富田先生からは言われているけど」

「それは、……確かなことは調べないとわからないけど、大丈夫だと思う」

 一瞬、妹は言葉に詰まった様にうつむいたが、顔を上げて俺を見据えた。「だから、治ったら恵理菜さんに告白して」

「どうしたんだよ、一体」

 思いつめた様子の妹に異様なものを感じて俺は見つめ返した。

「どうもしないの」

 妹はうつむいた。

「ただ、お兄ちゃんと恵理菜さんの様子を見てたら、たまらなくなって」

 何か責任を感じるようなものがあったというのだろうか。

「おねがい。恵理菜さんに」

 顔を上げて俺を見つめる。

「分かった。考えておく」

 気おされて俺は約束した。

「絶対だよ」

 念を押す表情は真剣そのものだった。


 夕食の時、妹はあまり食べなかった。「お菓子を食べすぎちゃった」と妹は言い訳をした。俺は、妹はお菓子をそんなに食べてなかったはずだと思いながら、おかずのコロッケを妹の分まで食べた。

 翌朝、起きてきた妹の姿を見て俺は理解した。妹はあの病気にかかっていた。


 足元をふらつかせる妹を支えてベッドまで連れて行く。妹が弱々しく笑った。

「結構つらい病気なのね」

「無茶なことしやがって」

 俺はつい苛立って吐き捨てるように言った。

「そんなこと言うもんじゃないわよ」

 母がやってきて俺の頭をげんこつで軽く叩いた。それから妹の額に手を当てる。

「熱はないわね。これはきっとお兄ちゃんの病気がうつったのね。二、三日寝てれば治るでしょ」

 大したことはないという顔でうなずいた。

「先生に休むって電話しなきゃね」

「俺がするよ」

 これがあの病気だとすると、富田先生と細かい話がしたい。

「そう? じゃあ、よろしくね。私はもう出かけるから」

 母は行ってしまった。玄関のドアが閉まるのを確認して、俺は妹にきいた。

「どうやって病気になった?」

「お兄ちゃんの血液から取り出したウィルスを腕に注射したの。痛かったあ」

「なんで、そんなことをした?」

「なんでかなあ」

 妹はつらそうにしながら笑った。

「おい、真面目に答えろよ」

 しばらく目をつぶっていたが、ゆっくりと目を開けて俺を見上げる。

「理子ね。昨日、お兄ちゃんと恵理菜さんと姫美さんが話しているのをドアの向こうで聞いてしまったの」

 妹は壁のポスターの方に目をうつした。妹の好きなアニメ映画のポスターだ。

「テープがなくなってしまって、中島さんに買い置きがないか聞こうと思って行ったの。そしたら中島さんは事務室に出かけていて留守だったのよ。で、なんとなしに談話室のドアに近づいたら、声が聞こえてきて、姫美さんが長生きをしたらどんな人生になるのかって話をしていて……」

「あれを聞いたのか?」

「うん。お兄ちゃん、一人になっちゃうんだよね。理子あまり真剣にそういうこと考えてなかった」

「あんなのを気にするな。俺は一人でも人生面白おかしく生きて行って見せるさ」

「でも、一人より二人だよね。理子は、誰かがお兄ちゃんと同じ時間を過ごさなくてはならないとして、誰も立候補しないなら、理子がやるべきだと思ったの。こんな事態になったのは理子のつくったウィルスが原因だから」

 苦しそうに息を吐きながらそれだけを言い終わると妹は目を閉じた。

「だけど、お前がウィルスで死ぬかもしれないじゃないか」

 つい叱りつけるようにしてしまう。妹は目を閉じたままにこりと笑った。

「うん。だから、もし理子が死んじゃったら、ウィルスが完全に排除されたのを確認してから、恵理菜さんに告白して。恵理菜さんならきっと、若いままでいられるようになった今のお兄ちゃんでも大事にしてくれるから」

 それで、昨日の帰りにあんなに恵理菜に告白するように言っていたのか。俺は妹にそこまで心配をかけて申し訳なくなった。そして同時に何としても守ってやりたいと思う。

「待ってろ。富田先生に電話していろいろ聞いてみるから」

 こうなってしまっては誰に聞いても無駄なことだと頭のどこかでささやく声が聞こえるが、俺はそれを打ち消した。妹のために出来ることは全てやる、そう決めた。

 俺は研究室の電話番号に電話した。

『はい。生命情報研究室です』

 中島さんが出た。

「あの、三上です」

『ああ、おはようございます』

「おはようございます。富田先生をお願いしたいのですけど」

『先生はまだおいでになっていません。もう少ししたらおみえになると思いますが』

 考えてみればまだ八時過ぎだ。中島さんが出勤していることの方に驚くべきだろう。

「分かりました。妹が病気になりましたので休みますとお伝えください」

『はい。でも、お兄さんは来られるのですよね。午後に採血の予約が入ってます』

「え、あの」

 迷った。妹を置いて出かけるのはためらわれる。「あの、ちょっと考えさせてください」

 こういうところできっぱり断れないのが俺の良くないところだ。

『分かりました。なるべく早くお返事をお願いします』

 電話を切ってから大きなため息をついた。今日の予定について悩むことは置いておいて、ひとまずは妹の部屋に戻る。

「先生何か言ってた?」

 横になったまま妹が尋ねる。

「まだ来てなかったよ。中島さんに休むとだけ伝えた」

「そっか」

 俺は床に座った。

「何か必要になったら言えよ。俺はここにいるからな」

 妹が小さな声で笑った。

「自分のことをしてて。そんなところにいられると落ち着かないの」

 俺はすごすごと部屋を出た。自分の部屋でゲームを始めたが、どうにもゲーム内容に集中出来ない。

 じりじりと過ごすうちに九時になった。もう富田先生は出勤しただろうと思い研究室に電話しようとして、はたと気づいた。中島さんに電話をかけると採血のことを聞かれるに違いない。それをどうするのか決めておく必要がある。それに妹のことはすでに伝えてあるのだから、俺が富田先生と話したがるのはどう考えてもおかしい。どのように言い訳をすればいいだろう。俺は携帯電話を手にしたまま考え込んでしまった。

 突然、携帯電話が鳴った。タイミングの良さに取り落としそうになる。

 恵理菜からだった。

「なんだよ」

『いや、まだ出かけてないみたいだから、どうしたのかなと思って』

「ずっと俺を見張っていたのか」

『ううん。エアコンが動いているからね』

「あ、そうか」

 俺の部屋のエアコンの室外機は恵理菜の家の方を向いている。

「妹が病気になったんだ」

 俺はため息をつきながら答えた。

『病気って、まさかあの病気?』

「そのまさかだ」

『分かった。すぐそっちに行くね』

 電話が切れる。それから本当に少しの時間で玄関のチャイムを鳴らして恵理菜がやってきた。最初から玄関前で待機していたんじゃないかと疑うくらいだ。

「お前、早いよ」

「駆けてきたからね」

 恵理菜はいつものTシャツにホットパンツ姿だ。息を弾ませている。

「それで、理子ちゃんはどうなの?」

「俺の時と同じだ。熱はないが体が重くて動けないらしい」

 うーんと唸った後、俺をにらんだ。

「どうして病気になったの? まさかキスじゃないよね?」

 手を振って否定する。

「そんなわけないだろ。妹が自分でやったんだよ。俺の血から抽出したウィルスを自分に注射したんだそうだ」

 恵理菜は腕を組んで首をかしげた。

「なんでそんなことをしたんだろう」

「さあな」

 俺は本当のことを言うのをためらった。立ち聞きの話をすれば、恵理菜が自分の発言のせいだと思いこむ可能性がある。

「とりあえず、理子ちゃんの部屋に行くね」

「いや、妹が迷惑がるかもしれないから。さっき俺も追い出されたし」

 恵理菜を引きとめる。が、恵理菜はにっこり笑って否定した。

「何言ってるの。看病はそばにいることが大事よ」

 妹の部屋に入って行く恵理菜を俺はただ見送る。

 することもなく部屋でゲームを進めていると、恵理菜がはいってきた。

「理子ちゃん、寝ちゃったわ」

「そっか。迷惑をかけるな」

「いやいや、これくらい」

 恵理菜が隣に座る。それが近すぎる気がして俺は座りなおした。

「理子ちゃんから聞いたんだけど」

 恵理菜は気にせず話しかけてくる。

「なんだ?」

「今日、血液検査する予定なんだって?」

「あ、うん」

「行っておいでよ。理子ちゃんは私が見てるから」

「いや、でも、悪いよ」

「大丈夫。助けてもらった恩もあるしね。それとも私じゃ信用できない?」

 恵理菜に顔をのぞきこまれてのけぞった。視線を落とすとそこには日焼けした太ももが存在を主張している。

「わ、わかった。いくよ」

 思わず返事をしてしまった。

「よし。じゃあ、いっておいで」

 こうなっては仕方がない。時計を見る。今から行くとちょうど昼に着きそうだ。ゲームを終了し立ちあがる。

「妹のこと頼むな」

「うん。任せて。あ、そうだ。これ」

 恵理菜は小さな瓶を取り出した。

「理子ちゃんの頬をこすった綿棒が入ってるわ。理子ちゃんにやってもらったの。これを分析してもらって」

 俺は瓶をすかして見た。中に半分ほど液体がはいっており、綿棒が浸っている。

「分かった。頼んでみる」

 瓶と財布、携帯電話を鞄に入れると鍵を片手に玄関に向かう。恵理菜が後ろをついてきた。

「じゃ、行ってくる」

「いってらっしゃい」

 恵理菜が手を振る。俺も手を振り返した。ドアを出るとすでに日は高く、蒸すような熱気に包まれる。俺は歩きながら携帯電話を取り出して中島さんに電話をかけた。


 病院地区に着いたのは昼少し前だった。俺は近くのコーヒーショップでイングリッシュマフィンを食べてから研究センターに向かった。

 建物の前でまたカードがないことに気がついた。自分の学習能力のなさがうらめしい。仕方ないので、研究室に電話をして誰かにドアを開けてもらうことにした。携帯電話を取り出していると背中のほうから聞き慣れた声が聞こえた。

「あら、お兄さん」

 真野さんだった。ナース服でバックを抱えている。「ちょうどいいわ。まだ時間前だけど、空き時間が出来たから採血を済ませてしまおうと思ってたところなのよ」

「カードがなくて入れなかったところなんです」

「そう、じゃあお互い都合がよかったわけね」

 真野さんがポケットからカードを取り出して読み取り装置にかざした。モーター音がしてドアが開く。

「こっちからあがりましょう」

 エレベーター裏の階段室に行く。さっさと階段を上がる真野さんをあわてて追った。二階に上がると真野さんが処置室のドアを開けて待っていてくれた。

「ありがとうございます」

「いいえ」

 バックを開けて机の上に器具を取り出す。

「じゃあ、荷物置いてここに座って腕を出してね」

 真野さんはテキパキと作業を進めてあっという間に採血が終わった。

「はい、御苦労さま」

「ありがとうございます」

 器具を片付けながら話しかけてきた。

「昨日は楽しかったわ。女の子のお友達が多いのね」

「多いと言ってもあの二人だけですけど」

「そうなんだ」

 一緒に部屋を出てドアに鍵をかける。

「でも、仲がいいのね」

「小学校からずっと一緒でしたから。片方は隣に住んでますし」

 エレベーターに乗った。

「隣に住んでいたって仲よくなるとは限らないでしょ」

「そうなんでしょうか」

「そうだと思うわ。そういう縁は大切にしないとね」

「はあ」

 四階に着いた。

「じゃあ、私、富田先生に渡してくるから」

 真野さんは足早に歩いて行ってしまう。途中談話室の前で中に何ごとか一声かけてから教授室に向かった。俺は中島さんのもとに顔を出した。

「ああ、お兄さん。採血は終わったようね」

「はい。今、真野さんにとってもらいました」

 談話室の中ドアが開いた。坂本さんが出てきた。

「お兄さん。今日三上ちゃんお休みなんだって?」

「はい、病気で」

「田上先生も昨日からお休みだし、風邪でも流行ってるのかな」

 そうか田上は昨日から休みなのか。道理で昨日は見かけなかったはずだ。

「どう思う?」

「いえ、妹のは風邪とは違うようですけど」

 坂本さんの質問に俺はあいまいに答えた。本当のことなんて言えやしない。

「ふうん、そうなんだ」

 そこに真野さんが入ってきた。

「お兄さん。富田先生がお呼びです」

「あ、はい。すぐ行きます」

 俺は三人に頭を下げてから教授室に行った。富田先生は珍しくドアを開けて待っていてくれた。

「まあ、どうぞ」

 ドアを閉め、椅子を勧めるのもそこそこに眉間にしわを寄せて尋ねてきた。

「妹さんが病気というのは、もしかして……」

「あのウィルスです」

 俺は即答した。隠してみてもはじまらない。富田先生は天井を仰いだ。

「困りましたね。容体はどうですか?」

「私がかかった時と同じようです」

「どうやって感染したか聞きましたか?」

「私の血からウィルスを取り出して注射したそうです」

「どうしてそんなことを……」

 富田先生は絶句した。俺は逆に質問した。

「先生。妹が死ぬようなことはありませんよね」

「わかりません」

 先生は首を振った。

「ワクチンのようなものはないんですか?」

「正直そこまで研究が進んでいないんです」

 大きなため息をつく。俺は苛立った。

「そんな、何とかしてください」

「そう言われても。今は妹さんにウィルスが適合することを祈るしかないですね」

 適合の言葉で小さな瓶のことを思い出した。

「あの、持ってきたものがあるんです。妹の頬の内側をこすった綿棒の入った瓶です」

 鞄から液体と綿棒の入った瓶を取り出す。

「すみませんが、これを分析してください。そうすれば妹が大丈夫かわかると思います」

「ほう、それは」

 富田先生は瓶を受け取ってじっと見つめた。それから俺を見る。

「分かりました。さっそく分析してみます。今からかかれば夕方にはある程度のことがわかるはずです」

「よろしくお願いします」

「君はもう帰って妹さんの側にいてあげてください。結果は電話で知らせます」

「わかりました」

 俺は富田先生と電話番号を交換した。

 挨拶をして部屋を出る。談話室に戻ると真野さんも坂本さんもいなかった。

「何かあったの?」

 俺は相当暗い表情をしていたのだろう。中島さんが声をかけてくれる。

「大丈夫です」

 無理に笑顔をつくった。

「今日はこれで帰ります」

「そう。妹さんにお大事にとお伝えください」

 中島さんの眼鏡の向こうの目が優しい表情を見せた。

「ありがとうございます」

 俺は頭を下げて談話室を後にした。

 自分の血で妹を失うかもしれない。そして今は奇跡に近いわずかな可能性を信じるしかない。その事実の重さに打ちのめされて、俺は道をただひたすら家へと歩いていた。

 病院地区を出て大通りを歩き、駅へと抜ける小さな路地に入る。銀色の車が止まっていた。後部座席を目隠ししたどこかで見覚えのある車だ。

 俺ははっとしたが、次の瞬間、物陰から出てきた人物に背中に何かを押しあてられたかと思うと、全身に鈍痛を覚えて意識を失った。


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