救助
土曜日の朝、恵理菜からメールが来た。
『今日も研究室行くの?』
メールで返事をするのが面倒で、俺は恵理菜に電話した。
「何か用か?」
『あ、うん。今日はヒマ?』
「妹は家で宿題をするらしいから、俺はヒマだが」
『じゃあ、姫美ちゃんとプール行くことにしてるんだけど、一緒に行かない?』
俺は自分の体に相談してみた。体の調子はもうどこも悪くない。
「行くよ」
『じゃあ、少ししたらそっち行くね』
電話は切れた。
俺は水着をさがした。しかし、部屋の引き出しにはない。記憶をたどってみるが去年の夏の終わりにどこにしまったかがあいまいだ。俺は今年に入って高校のプール以外でまだ泳いでない。学校指定の水着は机の脇の袋に入れてあるが、それで市民プールに行くのはためらわれる。
母にきくことにした。母はリビングで掃除をしていた。
「水着どこか知らない?」
「水着? 水着なら、あんた去年の夏おきっぱなしにしてたから、押し入れの収納の中に入れたわよ。上から二番目の引き出し」
和室に行って押し入れ収納の二番目の引き出しを開けると妹の夏用の服や水着の下に見覚えのあるオレンジ色の布が見えた。妹のものにあまりさわらないように気をつけながら苦心して引っ張り出すと確かに俺が去年来ていた水着だ。
水着を持って廊下に出ると妹と出くわした。
「泳ぐの?」
「ああ、恵理菜に誘われてプールに行くんだ」
妹は怖い顔で俺を見上げた。
「お兄ちゃん、まだプールなんてダメだよ。体の中のウィルスが完全に排除されるのにはもう少しかかるの。今無理したらまた体がつらくなるよ」
「そ、そうか?」
「そうだよ。とにかくまだ泳いだらダメなの」
「わかった。泳がない」
そこまで強く言われたら仕方ない。妹の意見をうけいれることにした。
部屋に戻ると、恵理菜に電話する。
「悪い。妹に言われてさ、まだ泳いだらダメだっていうんだ」
『そうなの? ちょっとだけでもダメかな』
「うーん、ダメなんじゃないかな」
『そうかあ。そうなんだ』
恵理菜はひどく残念そうだ。『仕方ないね。姫美ちゃんに電話するよ』
「悪いな」
『ううん。じゃね』
暗い声で恵理菜は電話を切った。
携帯を机の上に置くとゲームを起動する。昨晩も寝る前にだいぶ進めたがまだまだボスまでの道のりは遠い。
しかし、三回目の戦闘に入ったところで電話がかかってきた。また恵理菜だ。
『ねえ。映画ならどう?』
通話ボタンを押すと同時に恵理菜の声が聞こえてきた。
「まあ、泳ぐのじゃなければいいんじゃないか」
座って映画を見るくらいなら体の負担にはならないだろう。
『じゃあ、決まりね。すぐそっちに行くから』
電話が終わると、本当にすぐに玄関のチャイムが鳴った。妹が玄関を開けて応対する声が聞こえてくる。
俺はあわてて着替えた。
「お兄ちゃん。恵理菜さんが来てるよ」
「分かってる。今行く」
ドアを開けて出ようとして妹とぶつかりそうになった。
「プールじゃないよね」
「映画になった」
「じゃあ、いいけど」
なんで妹に外出の許可を得るようなことをしているのかと思うが、事情が事情だから仕方がない。
恵理菜は母と玄関で話しこんでいた。いつかと同じ水色のワンピース姿だ。
「待たせたな」
「ううん」
靴をはく。
「遅くなるの?」
「夕方には帰る」
母にそう答えると俺は恵理菜を連れて外に出た。まだ午前中とはいえ、照りつける日差しがきつい。セミの合唱が全身を包む。
「いまどんな映画をやってるか知らないぞ」
「さっき調べたから大丈夫だよ」
大丈夫と言われても困る。それより、あの短時間でよく調べたものだ。
駅で白いシャツにモスグリーンのミニスカートの姫美が待っていた。
「おそいよ。映画に間に合わなくなる」
俺は噴き出す汗をぬぐって反論した。
「これでも急いだんだよ」
「ほら、電車が来た。これを逃したら本当に間に合わないよ」
姫美にせかされて俺たちは電車に駆け込んだ。
映画はアニメだった。はじめはポスターのイメージから牧歌的なものかと思っていたのだが、ヒロインの友達が開始十分ほどで異形の者に惨殺されるとそれからはとにかく人が死にまくった。逃げまわる一方だったヒロインが刀を手に反撃を始めたのが映画の半ばで、事件の真相を突き止めて真犯人を倒すシーンがクライマックスだった。
「疲れる映画だったな」
映画館と同じ建物にある喫茶店。俺はテーブルに肘をついて率直な感想を述べた。
「そう? 面白かったよね」
「私も面白かった」
女二人は本当に楽しげだ。
「しかし、ウィルスが原因だというのが、私たちにとってタイムリーだったわね」
そう言って姫美がサンドイッチをつまむ。映画の中では人間が異形の者に変わっていたのだが、それが真犯人の開発したウィルスのせいということになっていたのだ。
「その流れで行くと、俺は化け物になるのか」
「私が主人公かな」
「そうすると私は真っ先に殺される役ってことになるわね」
俺たちは顔を見合せた。恵理菜がくすくすと笑いだした。姫美も笑う。俺もつられて笑った。
「ま、理子ちゃんのがとんでもないウィルスじゃなくてよかったわ」
「まったくね」
「そうだな」
姫美の言葉に俺たちは同意した。人に害悪をまき散らすウィルスでなくて本当によかった。
「どう? 少しは気晴らしになった?」
「ああ、そうだな」
姫美の問いに俺は素直にうなずいた。心のどこかによどんでいたものが吹き飛ばされたような気がする。
「理子ちゃんも誘えばよかったね。理子ちゃんこそ息抜きが必要じゃない?」
恵理菜が口をもぐもぐさせながら言う。
「あいつは宿題が溜まっているらしいから」
「しかし、理子ちゃんならすぐに片付けてしまうんじゃない?」
「それはそうだろうな」
妹が苦手なのは体育と音楽だけだ。五教科ではほとんど穴がない。
「よし、明日は理子ちゃんも誘おう」
姫美が宣言した。
「明日も出かけるのか」
「何か不満でも?」
姫美が、反論があるなら言ってみろという顔をする。
「いや、是非ご一緒させてください」
夏休みを楽しむのは本来の俺の目的な訳で、ここは素直に折れておくことにした。
「姫美ちゃん。それで、どこに行く?」
「それはこれから買い物しながら考える」
そう言って姫美はコーヒーを飲みほした。
バスを降りると日曜日の午後の海岸は思った以上の賑わいだった。俺は着替えに行く三人から荷物を受け取って焼けた砂の上を歩き、何とかシートを広げられる場所を確保した。荷物を置くと傘をさして座りこむ。
昨日買い物の途中のことだ。ゲームセンターに寄った時にクレーンゲームの景品にレジャーシートを見つけた姫美が突然、「海行こう」と言いだした。「プールがダメなのに海に行けるわけがないじゃないか」と反対すると、「康太は泳がなくていいから、とりあえずあのシートを取って」と言う。三百円を使ってシートを手に入れると、「じゃあ、康太はそのシートの上で荷物番ね」と言い渡された。さらにその場で恵理菜が妹に電話して「理子ちゃんも一緒に海行こうよ」と誘って同意を取り付けてしまった。そういう訳で、今日は妹と恵理菜と姫美の海水浴に荷物番としてついてきたのである。
傘は黒い雨傘だ。バスで移動なのでビーチパラソルという訳には行かない。それでもこの傘は骨の長さが八十センチある大きめのものなので、手足を縮めれば何とか傘の陰におさまることが出来る。
赤のワンピースの水着が遠慮がちにビーチに出てきた。あたりを見回している。妹だ。俺は傘を振って妹を呼んだ。
妹の後ろから恵理菜と姫美もついてきた。
恵理菜は青に水色の模様の入ったビキニだ。こうして水着姿をみると思っていたよりも胸がある。去年はこんなにはなかった気がする。
一方の姫美はパレオ付きの薄紫に白い模様の入ったビキニだった。髪を頭の上で団子状にまとめている。こちらは思った通りの人目を引くような大きな胸だ。足も長くバランスの取れたスタイルである。
「暑いの」
妹が自分の赤い傘を開いて俺の隣に座った。ほっそりとした体形とあいまって、本当に小学生のようだ。
「砂、熱いねえ」
「意外とシート大きいな」
ビキニの二人がかがみこんで荷物を開けて衣類をしまう。目の前で胸が揺れる。これはなかなか刺激的な光景だ。
「康太。私たちの姿を見て言うことがあるんじゃないか?」
姫美が俺の視線に気がついたのか、見下ろしてニヤッと笑う。
「あー、似合ってるよ」
俺は視線をそらしてわざと投げやりに言った。
「心がこもってない」
「姫美ちゃん。そんなに追求しなくても」
「でも、恵理菜はその水着買ったばかりじゃない。ちゃんと評価してもらわないと」
「私はいいよう」
「いいや、よくない」
姫美が恵理菜を俺の方に押しやった。目の前にブルーの布地につつまれた胸の谷間がくる。見上げると恵理菜と目があった。
「……、いいと思うよ」
「ありがとう」
一瞬、間が空いた。そこに姫美が割って入る。
「よし、海に入るよ。理子ちゃん、おいで」
妹が立ち上がった。
「理子、気をつけろよ」
「うん」
妹はほとんど泳げない。顔を水につけてしばらく浮いていることが出来るくらいだ。俺はそんな妹に万が一のことがあった場合に備えて家から水着を着こんで来ている。
三人はつれだって波打ち際に歩いて行った。俺はほっと息をついた。
遠くを眺めると水平線上を貨物船がゆっくりと航行しているのが見える。その上空を旅客機が飛んでいる。風はない。砂の照り返しでひたすら暑い。バックからお茶を取り出して飲む。タオルで顔の汗をぬぐった。
俺は早くもついてきたのを後悔し始めていた。
しばらくして姫美が一人で戻ってきた。
「暇そうね」
「おかげさまで」
白い日傘をさすと俺から少し離れてすわる。
「恵理菜の水着姿、いいよね」
「ああ。お前には負けるけどな」
「それはどうも」
姫美が寄ってきた。
「どうなの? 恵理菜とつきあわないの?」
「いきなりだな。恵理菜はそういうんじゃないよ」
「しかし、今でもつきあっているようなものじゃない。それをちゃんとするだけよ」
「そういわれてもなあ。ずっと一緒だったからなあ」
俺は頭をかいた。
「贅沢ものね」
姫美が俺の頭をこぶしで軽く叩いた。「あんないい女の子いないわよ」
それはわかっている。病気で寝ていた時、看病してくれた恵理菜がどれほど心強かったことか。しかし、つきあうというのは違う気がする。それに。
「お前、俺が恵理菜にキスをしてウィルスをうつすのを狙っているんだろう」
「あ、ばれたか」
姫美は素直に認めた。俺はここぞとばかりに妹の警告してくれたことを説明する。
「それはダメなんだ。妹が言うには、あのウィルスはたまたま俺ではうまくいっただけで他の人でもうまくいくとは限らない、もしかすると他の人では死んでしまう病気になるかもしれない、というんだ」
「へえ、『死のキス』というわけね。それは困るわ」
小さく息を吐いて腕組みをした姫美が視線を海の方にやる。次の瞬間、強く俺の腕を引っ張った。
「おい、康太!」
指さす方を見ると妹が胸の上まで水につかって必死に手を振っている。恵理菜の姿が見えない。
俺はシャツを脱いで駆け出した。下は水着だ。まさかの備えが役に立った。海に入り妹の側まで泳ぐ。
「お兄ちゃん、恵理菜さんが沈んじゃったの!」
潜ると水底にあおむけに沈んでいる恵理菜がいた。ポニーテールの髪が海藻のように揺れている。俺は頭を抱えあげた。顔を海面に出す。しかし反応がない。
「おい、そっちを持て」
妹に反対側を支えさせた。遅れてかけつけた姫美が脚を持つ。三人がかりで浜に引き上げた。息をしていないようだ。
「人工呼吸を」
姫美の言葉に躊躇した。「死のキス」という言葉が頭をよぎる。マウス・トゥ・マウスは出来ない。そこに凛とした女性の声が聞こえてきた。
「そこをどいてください。私は看護師です」
俺が場所を開けるとネイビーブルーの競泳用水着を着た女性が恵理菜にかがみこんだ。
「脈はあるわ。呼吸がないわね。誰か救急車を呼んで」
女性はそれだけ言うと恵理菜の口を開かせて人工呼吸を始めた。姫美が荷物のところに走って行った。携帯電話を取りに行ったのだろう。俺は幼なじみの口を見知らぬ女性の口がふさぐのをぼう然と見ていた。
「真野さん」
恵理菜の頭の脇に座り込んでいた妹がつぶやいた。
そうだ。一昨日血液を採取してくれたあの手際のいい看護師さんだ。言われて見れば、きりっとした横顔に見おぼえがある。
「ごほっ」
恵理菜が息をふきかえした。けほけほとせき込む。目を開けた。周りに出来ていた人垣から歓声が上がる。俺も安堵の息をついた。
「大丈夫? あなた、名前は?」
「笠野恵理菜です」
「大丈夫なようね。でも、万が一のために救急車に乗ってね」
真野さんは恵理菜にそう言い聞かせてから、妹と俺の顔を見た。
「あら、偶然。笠野さんと知り合いなの?」
「隣に住んでいて、今日一緒に来たんです」
俺の説明に笑顔でうなずく。
「引き上げたのも君たち?」
「はい」
「そうなの。お手柄だったわね。救助が早かったからあまり水を飲まなかったみたい」
恵理菜が起き上った。が、左脚を押さえてまた倒れ込んだ。
「脚、どうかしたの?」
「恵理菜さん、脚がつっておぼれたんです」
妹が説明する。真野さんが脚を調べた。
「これはつったというより、軽くだけど、ひねってるかな」
遠くからサイレンの音が近づいてきた。間近になった途端、音がやむ。振り向くとすぐそばの道路を救急車が何かをさがすようにゆっくり動いている。姫美が大きく手を振りながら走って行って救急車を止めた。
救急隊員が二人、担架を持って浜に降りてきた。真野さんが立ち上がる。
「道を開けてください」
野次馬たちが左右に分かれた。救急隊員たちが恵理菜の脇にしゃがみこむ。
「先ほどまで意識喪失、呼吸停止してました。今は意識レベル一ケタ。左脚を捻挫しています」
真野さんが状況を説明する。
「わかりました。君、今日は何年何月何日ですか?」
「え、と。二、二〇××年八月……×日」
問われた恵理菜は言葉に詰まりながらも正しく答えた。
「担架に乗ってください」
恵理菜が担架に移ると姫美がバスタオルを恵理菜の体にかけた。担架をかついで救急隊員たちが車に移動する。
「康太、一緒に行って。理子ちゃんは私が家まで送るから」
俺と恵理菜の荷物を姫美が手渡す。
「分かった。行ってくる。理子、気をつけて帰れよ」
「うん」
俺は救急車まで走り救急隊員に話をして、救急車に乗せてもらった。
救急車は意外なことにあまりスピードを出さなかった。しかし、道端によけた車の間を縫うように走り、信号を次々と突っ切っていき、病院までは五分ほどしかかからなかった。その間、恵理菜は救急隊員から今日の日付と名前と生年月日を繰り返し言わされていた。正常な意識を保っているかを確認するためらしい。
病院につくと俺は廊下のソファで待つように指示された。とりあえず恵理菜の家に電話をかける。すぐに恵理菜の母親が電話に出た。姫美がすでに連絡していたようで、興奮していたが事情は大体把握していた。俺は一通りの説明をして病院の名前を告げた。
トイレで着替えてしばらくすると恵理菜の両親が駆けつけた。恵理菜の父親は俺の手を取って何度も「ありがとう」と言った。母親は「あの子はすぐ調子に乗るんだから」と涙をぬぐいながら自分の娘を責めた。
驚いたことにはそれから少しして、うちの両親が妹と姫美を連れて現れた。恵理菜の母親が姫美に病院名を知らせて、姫美が妹の連絡で海に迎えに来たうちの両親に教えたらしい。親同士何度も頭を下げあいながら話をした。
しばらくすると医師が出てきた。
「いまのところ特に問題はみられません。脚も軽い捻挫です。ただ、念のためにもう少し精密検査をさせてください」
その言葉に、一同はほっと息をついた。
俺と妹は両親の車で帰宅することにした。姫美は残って検査が終わるのを待つと言った。海行きを言い出したことの責任を感じたようだ。
車の中で俺は水底に沈む恵理菜の様子をぼんやりと思いだしていた。眠るような顔が脳裏から離れなかった。
夕方、恵理菜が両親に連れられて家を訪れた。玄関でうちの両親が応対する。俺と妹も出て行った。恵理菜は少し左脚を引きずってはいたが普通に立って歩いていた。
「康太くん、理子ちゃん、ありがとう。二人がいなかったら私生きていないよ」
「いや、俺はやるべきことをやっただけだ」
「恵理菜さんを私一人では助けられなくて、ごめんなさい」
「ううん。二人とも命の恩人だよ」
そう言われると面映ゆい。
「人工呼吸をした人に言ってくれよ、それは」
「姫美ちゃんから聞いたよ。看護師さんなんだって?」
「真野って人なの。私が行ってる大学の病院の看護師さん」
「そうなんだ」
「姫美はどうした?」
姫美は頭はいいが、精神的に脆いところがある。考えすぎていないといいのだが。
「さっき、送って行った。ちょっと、落ち込んでたみたい。姫美ちゃんが悪いわけじゃないのにね」
「むしろ、助けるときに脚を持ったり、救急車を呼んで誘導したりで活躍してたよ」
妹が姫美の事を擁護する。
「そっか。姫美ちゃん、そういうことを言わないからなあ」
「理子たちの方が、引き揚げてからは役に立ってなかったの」
「そうだな。どうしていいかわからなかった」
俺は妹の言葉にうなずいた。恥ずかしいが本当のことだ。
「ううん。二人のおかげ。本当にありがとう」
恵理菜は明るく手を振りながら両親とともに帰った。