研究室
金曜日、俺は妹についてK大学に行った。
体の具合は歩き回るのに問題ないくらいには回復していた。
電車を降りてまだ涼しい朝の空気の中、十数分歩くとK大学の医学キャンパスにつく。キャンパスは中央に大きな病院の建物があり、そこから渡り廊下でいくつかの建物がつながっている。それとは別にまたいくつかの建物が建っており、妹はその間を縫うように歩いた。
ようやく比較的新しい小ぶりの建物の前で止まる。
「ここなの」
木の看板に墨で『生命科学研究センター』と書いてある。
妹はポケットから定期入れを出してドアの脇の読み取り装置にかざした。自動ドアが軽いモーター音をさせて開いた。
「入って」
妹と並んで建物に入った。ひんやりとしている。冷房という訳ではないようだ。建物が夜の間に蓄えた冷気だろう。
目の前のエレベーターのドアが開いた。白衣を着た男性が降りる。俺と妹を見て奇妙な顔をしたがそのまま行ってしまった。妹も挨拶をしなかった。
「知り合いじゃないのか?」
「時々見かけるけど、知らない人」
小さな建物なのにそんなに知らない人間がいるのか。
「ちょうどいい。乗ろう」
妹にうながされてエレベーターに乗った。表示板を見て初めてこの建物が五階建てだったことに気付いた。周りの建物に幻惑されて小さく見えてしまっていたらしい。
妹は四階のボタンを押した。
エレベーターが上り始めると妹がこちらを見て言った。
「研究室にはいろんな人がいるけど、喧嘩腰にはならないでね」
「そんなことはしないつもりだ」
「つもりじゃなくて、しないで。それと研究室での犯人探しは止めて」
「わかったよ」
妹はこれで結構研究室の人間関係に苦労しているのかもしれない。どんな人がいるのだろう。俺は妖怪のような人間たちがうろうろしている様を思い浮かべて、つばを飲んだ。
エレベーターがついた。降りると廊下の両側に等間隔にドアが並んでいた。廊下の途中には長机が一つ壁によせておかれており、その上に何種類かパンフレットや印刷物が並べられている。そのそばのドアが開け放たれていた。
「ここが談話室なの。ここで休憩したりお昼を食べたりしてるの。会議にも使うことがあるわ」
妹はそのドアの側を通りながら中に向かって頭を下げた。俺もつられて頭を下げる。
中には四十代くらいの眼鏡をかけたもの静かな女性がパソコンの前に座っていて、こちらを見て小さく頭を下げた。
「秘書さんよ」
大学は研究室に秘書がいるのか。俺は少し驚いた。そんな俺の心を見透かしたかのように妹が続けた。
「日本の大学で研究室に秘書がいるのは医学部くらいらしいの」
「そうなのか」
すっかり感心してしまう。
「ここよ」
妹が一番奥の部屋のドアの前に立った。ドアに『富田崇』と表札が出ている。
妹がノックするとすぐに声が返ってきた。
「どうぞ」
ドアを開けて入る。俺も続いた。部屋の中は雑然としている。あちらこちらに研究書らしき本や書類が積み上げられており、広い机の上にはパソコンが二台おかれている。そのうちの一台の前にがっしりとした体格で白髪のまじった短髪の五十歳くらいの堂々とした男性が座っていた。
「失礼します。先生、すみません」
「いやいや。どうぞどうぞ」
先生と呼ばれた男性が立ちあがって笑顔で迎えてくれた。俺と妹に椅子を勧める。
「兄です」
腰をかけると妹が俺を紹介した。
「兄の三上康太です」
俺は頭を下げた。
「そうか、君がお兄さんか。教授の富田です。よろしく」
富田先生は握手を求めてきた。慌てて手を出す。大きくて温かい手だ。
「よろしくお願いします」
俺は恐縮しながら手を握った。
「君の病気のことは知ってますよ。まだ信じられないけどね」
先生は片目をつぶった。
「それで、先生。兄は私のことが心配だといってついてきたんです」
妹が黒崎のことについて説明する。
「そうですか。お兄さんの病気のことが知られてしまいましたか。しかも盗聴器とは穏やかじゃないね」
富田先生はあごに手をやって考え込んだ。
「あの、それで妹が帰るまで居たいのですが、かまわないでしょうか?」
「うん。かまいませんよ」
俺の言葉を即座に了承してくれる。
「ずっと、そばにいたいというのじゃないんだよね」
「あ、はい」
「それがいい。実験室はいろいろあって狭いですからね。談話室を使うといいですよ。それと、……」
富田先生は妹を見た。
「採血させてもらったらどうかな?」
妹はうなずいた。
「お願いします」
先生は俺に向き直った。
「血液を調べさせてもらってもいいですか? 研究のために必要なんですよ」
「分かりました」
血を取られるのは初めてだがそれくらいなんでもない。
「よし、手配しておきます。談話室にいてください。呼びますから」
「はい」
「じゃあ、そういうことで」
「それでは」
先生の言葉に妹が立ち上がった。俺も遅れて立ち上がる。
「あ、そうだ」
先生が指を立てた。
「妹さんの研究結果のことはこの研究室でも僕と妹さんしか知らないんです。他の人に言わないようにね」
「分かりました」
そんなことは百も承知だ。誰にも言う気はない。
「失礼しました」
俺たちは頭を下げて教授室を出た。
「よさそうな先生だね」
俺の言葉に妹は小さな声で返事をした。
「うん、そうだよ」
それから談話室の斜め前のドアを指した。
「ここが今、理子の使ってる実験室なの」
ドアを開けると、意外に広い室内に何に使うのかわからない機器がいくつも、所狭しと並べてある。
確かにこの中では俺がぼうっと座っていたら邪魔になるだろう。
「さ、談話室に行こう。秘書さんに紹介する」
妹は実験室のドアを閉じて談話室に入っていった。
談話室に行ってみると秘書の女性は電話をしていた。時折りこちらを見て何かうなずいている。
俺たちは戸口を入ったところで電話が終わるのを待った。
「……。わかりました。失礼します」
電話が終わった。妹が進み出て話しかける。
「中島さん。うちの兄です」
「今、先生からの電話で聞いたわ。付き添いですってね。生命情報研究室にようこそ。談話室のものは自由に使っていいですよ」
「よろしくお願いします」
頭を下げる。
「よろしく」
秘書の中島さんはにっこりと笑って小さく頭を下げた。
「よろしくお願いします、中島さん。じゃあ、お兄ちゃん、後でね」
挨拶がすんだのを見て妹は部屋を出ていった。
「談話室はそっちよ」
中島さんが部屋の中のドアを指す。どうやら中島さんのいるこの部屋は正確には談話室ではなくて、このドアの中が談話室らしい。
ドアを開けると午前の光がいっぱいにあふれる部屋があった。これまでの部屋はどこも窓のブラインドが下がっていたが、ここは全て上がっている。部屋のまん中には長机が二つ向い合せにおかれおり、机にパイプ椅子が八脚おさめられていた。通路側の壁には一面に本棚が設えてある。
持ってきた鞄を置いて本棚を眺めてみると半分以上が英語の本だった。日本語の本もバイオインフォマティクスとか糖鎖情報とかゲノムとか分からないタイトルばかりだ。『生命の物理』という本を見つけてこれならわかるかと思って手に取ったが、開いたページに見知らぬ数式が連続しているのを見ておとなしく本棚に戻した。
ドアが開いた。中島さんが顔をのぞかせる。窓際の機械を指さした。
「お茶飲みたくなったら、そのウォーターサーバーのお湯でお茶淹れて。紙コップ使っていいからね」
笑顔で説明してくれる。
「ありがとうございます」
「じゃあ、何かあったら言って」
中島さんはドアを閉じた。
ウォーターサーバーのところに行ってみると隣に小さな机があって紙コップとティーバック、コーヒーのパックがおいてある。ティーバックはいくつか種類があった。紅茶を選んでウォーターサーバーにコップを置き、お湯を出す。ティーバックを数回振ってから、一口飲んだ。いい香りだ。
窓の外には隣の建物の壁があり、その切れ目からは都市高速が見える。窓の防音効果がいいのかセミの声も車が行きかう音も聞こえてこない。
俺は椅子に座って鞄を開けた。中から宿題の問題集を取り出す。待っているあいだ、どうせすることがないだろうからと持ってきたのだ。まさか、こんなところでゲームを始めるわけにもいかないだろう。時間を有効に使うとしたら、宿題をするのが一番いいと考えたのだ。しかし、ノートを開くうちに、宿題ですら場違いなのではという思いがわき上がってきた。俺はそんな思いをふりはらって問題を解きはじめた。
一時間ほどして、数学の問題を六問ほど解いたところで電話が鳴る音がした。ドアが開いた。中島さんだ。
「お兄さん。血液検査だそうです。処置室に行ってください」
机の上を片付けようとするとそのままでいいという。
「待ってあるから、いそいで。処置室は二階のエレベーターを降りて二つ目の部屋だからすぐわかると思うわ」
「はい。いってきます」
荷物をそのままにして俺は二階に向かった。
エレベーターから二つ目の部屋は表に何も書かれていなかった。しかしここしかないような気がする。俺は恐る恐るノックをした。
「どうぞー」
ドアが中から開く。真っ白なナース服を着たきりっとした顔の若い女性が出迎えてくれた。胸のプレートに『真野』と書いてある。
「三上康太さんですね」
「はい」
つい頭を大きく振って答えてしまう。真野さんはその様子を見てクスッと笑った。
「富田先生から聞いています。今日は血液を採りますね。これまでに採血の経験は?」
「ありません」
「そう。じゃあ、途中で気持ち悪くなったら言ってね。ここに座って。右腕を出して、こぶしを握って」
真野さんはテキパキと採血の手順を進めていく。
「今日は五本取るけど大丈夫かな」
「大丈夫だと思います」
「ちくっとしますよ」
針が刺さった。思いのほか痛くない。
「しびれたりしてないですか?」
「大丈夫です」
真野さんが注射器に採血管を挿入した。管の中に血がみるみる入っていく。採血管を素早く取りかえた。また管の中に血が満ちていく。それが五回繰り返される。
「はい、終わりです。手を開いていいですよ」
針が抜かれた。
「しばらくここを押さえておいてくださいね」
アルコール綿で針を刺した場所を押さえて俺に受け渡す。
「はい」
そこにノックもなくドアが開いた。
「やあ、やってるね」
三十歳くらいの白衣を着たひょろっとした男が入ってきた。
「今終わったところです」
真野さんがそっけない声で答えた。
「君が理子ちゃんのお兄さんかあ。僕は助教をやってる田上だ。よろしくね」
なんだか好きになれそうにないタイプだ。言葉の調子が嫌味ったらしい。
「よろしく」
一応挨拶だけはしておく。
「理子ちゃんって、かわいいよね。しかも頭いいじゃないの。僕なんかいつもたじたじだよ」
こいつに妹をちゃんづけで呼ばれるのはどうにも気にくわないが、喧嘩するわけにもいかない。黙って相槌を打つ。
「最近なにか面白そうな研究をしてるけど、秘密主義でさあ。何も教えてくれないんだよね。君、何か聞いてないかなあ」
来たぞと俺は心の中で身がまえた。
「いえ、何も聞いてません」
何も知らないていで受け流すことにする。
「またまたあ、ちょっとくらい聞いてるでしょ」
「知りません」
そこに真野さんが割り込んだ。
「あの、部屋を閉めるんで出てくださいませんか」
俺の血の入った管を小さなバックに収めて片手に抱え、もう片方の手にこの部屋のものらしき鍵を持っている。
「あ、そのサンプル。僕が持っていこうか」
田上は小さなバックに手を伸ばした。
「いいえ。富田先生に言われてますから。これは私が富田先生のお部屋まで持っていきます」
真野さんは田上の手を素早くかわすと、戸口まで歩いて振り返った。
「さあ、早く出てください」
追いたてるように俺たちを外に出すと手早く鍵をかけ、エレベーターに乗って行ってしまった。俺と田上が薄暗い廊下に取り残される。
田上が意味不明な笑みを浮かべて、また話しかけてきた。
「ねえ、あの血液は何に使うんだい?」
「わかりません」
「まさか人体実験とかいうんじゃないよねえ」
「知りません」
いい加減しつこいなと気持ちが切れそうになったところに救いの手が現れた。
「あ、田上先生。先生の部屋で携帯が鳴ってましたよ」
廊下の陰から白衣を着た栗色の髪の女性がいきなり現れて田上に呼びかけたのだ。
「あ、そうかい。ありがとう、坂本くん」
田上はエレ―ベーターのボタンに飛びついて何度か押していたが、すぐにあきらめてどこかに消えた。革靴で階段を駆け上がる音が聞こえてくる。どうやら、廊下の陰になっている所に階段があるらしい。
「田上先生に何を聞かれていたの?」
坂本と呼ばれた女性が笑顔で話しかけてきた。
「あ、妹のことで、ちょっと」
俺は用心しながら答える。
「ああ、君、もしかして三上ちゃんのお兄さん?」
明るい声で納得したというようにうなずいた。
「はい。三上理子の兄です」
「いやあ、似ているわね。目元とか」
そうなんだろうか。どちらかと言えば似てない兄妹と言われてきたのだが。
「私は坂本美紀、富田研の博士課程二年よ。研究室に戻るの?」
俺はあいまいにうなづいた。
ちょうど下りてきたエレベーターに一緒に乗って、四階に向かった。
坂本さんはカールのかかったショートカットだが、あちらこちらにはねている毛がある。化粧もしている様子がない。どうやらあまり身なりは気にしない人のようだ。
「三上ちゃん、かわいいよね。お兄さんも、自慢でしょう」
「いや、うるさいばかりですよ」
妹を褒められて悪い気はしないが、ここは当たり障りのない答えを返しておく。
「そうなの? 彼氏とかいるのかな?」
「いないと思いますけど」
「まあ、今は忙しいから無理だよね」
坂本さんは何かを思い出したかのように笑った。
「私も研究室入ってから、彼氏に振られたもん。『お前、忙しすぎ』って」
そういうものなのだろうか。
「それがどうやら、私の後輩に浮気されちゃってたみたいでねえ」
「はあ」
いきなりの身の上話に面食らう。
「男ってさ。ほっとくとやっぱり浮気するものなの?」
「わかりません」
嘘偽りない言葉だ。まだ女性とつきあったこともないのにいきなり浮気についてなんてきかれても困る。
「わからないか。変なこと聞いてごめんね」
エレベーターが四階に着いた。
廊下に出ると、田上が手前の部屋から出てくるのに出くわした。
「坂本くん、携帯に着信なかったよ」
「そうでしたか? 聞き間違えたかも」
坂本さんがとぼける。そこに部屋の中で電子音が鳴るのが聞こえた。
「あ、ほら、鳴ってますよ」
田上は部屋に駆けこんでいった。
坂本さんは、このすきにという顔で俺をうながして、田上の部屋のそばを離れた。
「田上先生はね。彼女がいるの。その彼女、さびしがりなのか疑り深いのか知らないけど、しょっちゅう電話をかけてくるのよ」
あんな嫌味な男に彼女がいるというのが信じられないが、いいところもあるということだろうか。坂本さんは愉快でならないという様子でつづける。
「それで、会議中でも電話が鳴るもんだから、携帯は部屋においておけって教授に言われてしまったの。だから電話が鳴るたびに部屋に走って行くわけ。面白いでしょ?」
「そうですね」
適当にあいづちをうつと、坂本さんが声をひそめた。
「私、絶対別れると思う」
返事のしようがなくて坂本さんを見る。坂本さんはにやりと笑っている。
廊下の先で教授室のドアが開いた。真野さんが出てきて頭を下げてからドアを閉じる。
「あら、真野さん。こんにちは」
坂本さんが親しげに声をかける。
「坂本さん。こんにちは」
こちらも先ほどの田上に対してのとは違って温かみのある声だ。
「こないだは、どうもありがとうございました」
「いえ。あれで大丈夫でした?」
「はい、うまくいきました」
二人が立ち話を始めたところで、俺は軽く頭を下げて談話室に滑り込んだ。
「おかえりなさい」
中島さんが文字を打つ手を止めてこちらを向いた。
「ただいま帰りました」
「坂本さんと帰ってきたの?」
「はい。途中で会いまして」
「もらい物のお菓子机の上においておいたから、食べてね」
「ありがとうございます」
おもわぬ親切に礼を言う。ドアを開けて談話室に入ると、開いたままのノートの上に包みが一つあった。
開けてみるとカステラでクリームをくるんだお菓子だ。ちょうど小腹がすいたところだったのですぐに口に放り込んだ。ほんのりしたカステラの甘さとクリームの控えめな甘みがまじりあってうまい。
歯にからむ滓をすっかり冷めてしまった紅茶で流し込むと、宿題の続きにかかる。
数分してドアが開いた。坂本さんだ。
「いやあ、つい話しこんじゃって。ああ、お勉強?」
手元をのぞきこんでくる。
「宿題です」
やはり場違いではなかっただろうかと思いながら説明する。しかし、坂本さんは気にしなかった。
「へえ。分からないことがあったら聞いて。私、学生時代に受験生の家庭教師をしてたことあるから」
そう言うと、本棚の方に行って英文の雑誌を一冊手にとり、椅子に座って読み始めた。
俺は宿題に集中することにした。
「そろそろお昼だけどどうする?」
声をかけられて時計を見ると十二時を過ぎていた。
「弁当があるので妹と食べます」
俺の答えに坂本さんはにっこり笑った。
「それがいいね。じゃあ、私は行くね」
雑誌を棚にしまうと部屋を出ていく。ドアを閉じる際に手を振ってくれた。
しばらくして、妹がやってきた。見上げて聞いてみる。
「お昼にするか?」
「うん」
宿題を片付けて弁当を二つ取り出す。俺と妹の二人分だ。母が作ってくれた。
「誰かに会った?」
妹が椅子に座りながら尋ねる。
「ああ、坂本って女の人と田上って先生に会った。後は採血してくれた看護師さんかな」
「坂本さんと田上先生か。看護師さんは多分真野さんね」
「田上って先生、えらくしつこくお前のことを聞いてたぞ」
俺は弁当のふたを取った。おかずはいつかの夕食の残りのハンバーグだ。
「そうなの? 理子、田上先生は苦手」
「俺も好きじゃないな」
率直な感想を言ったついでに憶測を付け加える。
「お前が視線を感じるって言ってたのは、田上先生のことじゃないのか」
妹は箸を止めずに首を振った。
「わからない」
「この研究室にいるのは教授先生も含めて五人だけなのか」
この問いに、妹は顔を上げ指を折って数えだした。
「違うの。今は夏休みだからなの。いつもは準教授の高畑先生とか大学院生の川端さんとか山崎さんとかゼミ生の二宮さんとか水垣さんとか大山さんとか……」
「わかった、わかった。たくさんいるんだな」
「そうなの」
真剣な顔でうなずく妹の顔は幼い。その幼さが現在の状況にあまりにも不釣り合いでおかしくてならない。つい、ふきだした。
「なんで笑うの?」
「なんでもない」
俺は手を振ってごまかした。
昼食を取ってお茶を飲むと妹は実験室へ戻っていった。俺は数学をいったん切りあげて『物理基礎』のプリントをやることにした。
何とかプリントを一枚終わったころに、ドアが開いて富田先生が入ってきた。
「ちょっと、僕の部屋まで来てくれますか?」
手招きしている。
「はい」
ついていくと椅子をすすめられた。向かい合って座る。
「話というのは、他でもない君の病気のことです」
富田先生はじっと俺の目を見て話す。
「実際の話、君は未知のウィルスにかかっているわけで、これは大変危険なことです。ウィルスの種類によっては隔離して二十四時間監視すべき状態です。僕が妹さんから知らされたのは昨日ですが、その時は正直言って一瞬心臓が止まるかと思いました」
その時のことを思い出したのか息を止め眼を見開いてから、ふうと息を吐く。
「お兄さんの症状を聞いたときには内容に驚くよりも、まずは悪いものでなくてよかったと安心しました。しかしながら、なんであれ感染者を出したのは僕の責任。謝ります」
頭を下げる先生に俺はあわてた。
「いや、やったのはうちの妹ですし、それもある程度私にも責任があることなので」
「そうですか。ありがとう」
富田先生は俺の手を取って強く握った。
「あ、いえ。その、私は隔離されるんですか」
俺は『隔離』という言葉が気になって尋ねた。富田先生は腕組みをして言った。
「それなんですが、元となったウィルスは感染力がごく弱いもので、粘膜同士の濃厚な接触でもない限り感染しないんですよ」
「粘膜同士?」
「まあ、例えば濃厚なキスとかですね」
「はあ……」
「したことありますか?」
「い、いえ」
俺は頭を振って否定した。
「当面しないでくださいね。君の体からウィルスが完全に消えるまで」
「はい」
「ということで、感染拡大の恐れがほとんどないので隔離の必要はないと思います」
富田先生は膝を軽く叩いた。
それでいいのだろうか。なんだか化かされているような気分だ。
「納得のいかない顔ですね」
先生が俺の顔をみつめる。
「はあ、私の体は大変なことになっていますよね」
「それはそうなんですが、実のところ大事にはしたくないんです。出来るならね」
「どういうことでしょう?」
「妹さんを守りたいんですよ」
身を乗り出してくる。
「もし、ことが公になればウィルスを持ち出した妹さんの処罰は免れないでしょう。そうすれば妹さんは医学者への道を閉ざされる可能性が高い。しかし、それはあまりにも惜しいと僕は思うのです。妹さんには才能がある。将来、大学で医学を研究してほしい。だから、出来るならここだけのことにしておきたいのです」
話は飲みこめた。妹を守るためであれば、黙っているくらいは何でもない。だが。
「あの、他に知っている人間がいるんですけど」
背中を丸めて先生の顔を見上げた。
「ああ、黒崎という教師のことですか。ああいったスパイのようなものは、意味もなく情報をばらまくようなことはしないものですから、当面大丈夫でしょう」
「いえ、それだけじゃなくてですね」
俺は恵理菜と姫美のことを説明した。
「君はずいぶんもてるんですね」
「いや、ただの幼なじみの腐れ縁です」
からかうような言葉に手を振って否定する。
「黙っていてもらうしかないですね。その二人はどうですか?」
恵理菜は秘密だといえば黙っていてくれるだろう。姫美に話してしまったのは、俺がそういうことを言わなかったのがまずかったのだ。問題は姫美だ。話好きなあいつが黙っているだろうか。
「一人、自信がありません」
「話して、説得してください」
「はい」
俺は必ず説得すると心に決めてうなずいた。
富田先生はすわりなおした。大きく息を吐く。
「さて、君の体のことですが。若いままでいられるなんて本当なら大発見です。僕たち研究者にはどんなに小さくとも新しい知見は発表する義務がある。それが研究の世界に身を置く者の使命です。ましてやこんな大きな発見を見過ごすなどしてはならない」
「はあ」
「しかしさっき言ったように、妹さんのことを考えれば公表するわけにはいかない。忸怩たる思いです。第一、いきなり人間の体で実験してしまったわけで、そんな話は倫理上許されるものではない」
先生は悔しそうにしながら熱く語る。
「それに、妹さんはまだ幼いと言っていいほど若い。もし発見者として名前が出ようものなら世間の好奇の目にさらされるでしょう。僕としては妹さんが将来ちゃんとした研究者になってからこの研究に取り組み、動物実験の結果を積み上げてから発表するのを待ちたいと思います。もっとも、その頃には僕は定年になっていると思いますが」
先生はまた大きく息を吐いて椅子の背にもたれた。
「そういうことなのです」
先生の言葉にはなにかを我慢しているようなつらさが感じられる。
「分かりました」
俺はそれを妹のために全てを黙っているつらさだと理解した。
「じゃあ、僕の話はこれだけです」
話は終わったようだ。
俺は立ちあがって頭を下げた。先生がドアを開けようとする俺に声をかける。
「あ、説得の件、お願いしますよ」
「はい」
俺は戸口でまた頭を下げてドアを閉じた。
談話室に戻ると、姫美に電話をかけた。姫美はすぐに出た。
『どーした?』
何かをバリバリと噛み砕く音がする。クッキーでも食べているようだ。
「あのな、俺の病気のことだけど。秘密にしてほしいんだ」
『するに決まってるわ』
姫美は間をおいて答えた。クッキーを飲みこんだのだろうか。
『人に知られたら、理子ちゃんの立場が危なくなるもの。そんなことを私がするわけないじゃない』
姫美にはすでにお見通しのようだ。
「それならいいけど。じゃあ、いきなり電話してわるかったな」
『ちょっと待て、今どこにいるの?』
話を切り上げようとした俺に待ったをかける。
「妹の大学の研究センターだ。それがどうかしたか?」
『へえ。そうすると康太に私への口止めを依頼したのは理子ちゃんの先生ね』
「そうだけど」
さすがの推理力だが何を言いたいのだろう。
『その先生はずいぶんと自分の保身に熱心なのね』
そのいいように少し腹を立てて俺は言い返した。
「富田先生はそんなんじゃないぞ。妹の……」
『理子ちゃんの研究者としての将来が心配だから公表はしない、とでも言われたの?』
先回りして言い当てる。
「どうして……」
『いやあ、康太が新種の病気になっているというのに隔離したり家を消毒したりということが起きないから変だと思っていたのよ。本来なら真っ白な防護服を着た団体が周囲一キロくらいを封鎖してもおかしくないはずだもの。そしてそうなれば、その富田という先生は責任を問われるわ。大学を追われることになるかもしれない。だから、影響が康太一人という最小限ですむことを確認のうえ、秘密にすることにしたんだと思うよ』
言われてみれば確かにそういう解釈もできるが、ちょっと悪いように考えすぎじゃないだろうか。
『まあ、それはこっちにとっても好都合だから。お互い様よね』
姫美はクスッと笑った。
「何だよ、好都合って?」
『施設に何年も閉じ込められたりしたくないでしょ?』
「そんなことが」
『ありうるわ。康太は特別な存在になったのよ。実験動物同然の扱いを受けないってなぜ言い切れる?』
檻に入れられて観察記録を取られる姿を思い浮かべた。ぞっとする。
『そうなると、康太のことで喧嘩が起きてご両親が離婚、理子ちゃんは自分を責めて悩み、笑いを忘れて生きる、という風になるかもしれないわ』
陰鬱な未来だ。
『私の理子ちゃんにそんな思いはしてほしくないな。だから、そういう先生でよかったわ』
俺はほっと息をついた。が、一つ引っかかることがある。
「おい、誰が『私の理子ちゃん』だ。お前にはやらないぞ」
『それは理子ちゃん次第よ、お兄様?』
「なんだと」
『じゃ、また』
電話は切れた。俺はリダイヤルしようとして止めた。どうせ言っても無駄だ。それより妹に姫美には近寄らないように言っておくことにしよう。
宿題を続けていると田上がやってきた。俺は会釈だけすると、勉強に集中する素振りでやり過ごすことにした。田上は少しの間部屋の中を歩き回っていたが、何かに反応して足早に部屋を出て行った。また携帯が鳴ったのだろうか。
そうこうするうちに四時になり、妹が荷物を持って現れた。
「帰るか?」
「うん」
俺は立ちあがってプリントや問題集を鞄にしまった。一日何ごともなかったことに安堵の息をつく。
「よし、行こう」
談話室を出て中島さんに挨拶をする。
「どうもありがとうございました。これで帰ります」
「お疲れ様。明日は私休みだけど」
中島さんが妹を見た。明日は土曜日だ。
「私も土日は休みます。夏休みの宿題が溜まっていますから」
妹が殊勝なことを言う。
「そう。さすがに富田先生もお休みだろうから、それがいいわね」
それから俺の方を向いた。「来週も来る?」
「はい、お邪魔でなければ」
「邪魔なんてことないわ。夏休み期間でしょ。人が少なくてね。静かすぎて調子が狂っちゃうのよ。遠慮しないでいいわよ」
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
妹が横でにらんでいる気配がする。
「では、失礼します」
妹にはかまわず頭を下げて部屋を出た。
「失礼します。今日は兄のこと、ありがとうございました」
「はーい。気をつけてね」
妹が中島さんに挨拶をして早足で追いかけてくる。
「来週もついてくるつもりなの?」
エレベーターの前で妹が追いついた。
「当然だ」
「困る」
「困ることないだろう。俺は何も邪魔になるようなことしてないぞ」
「でも……」
そこに近くのドアが開いて坂本さんが顔をのぞかせた。
「あら、帰るの?」
「はい、そうです」
妹が答える。
「気をつけて帰ってね。じゃ、お兄さん、また来週ね」
「はい、また」
坂本さんは小さく手を振ってドアを閉じた。
そこにエレベーターが来たので妹と乗りこんで一階のボタンを押す。
「ほら見ろ。俺は邪魔になってない」
「うう……」
「それどころか、来週も来ることを期待されている」
俺の顔を妹がにらみつける。
「坂本さんも中島さんも優しいからだよ」
「でも、富田先生も認めてくれているし、そうすると今は他には田上って先生くらいしかいないだろう。大丈夫じゃないか」
「屁理屈だよお」
妹はむくれてしまった。その後は何を言ってもまともに返事をせず、家に着くまでむくれ続けていた。