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来訪者

 翌朝。水曜日。それでも体の方はかなり回復した。家族と食事をとり、両親と妹が出かけるのを見送ると、部屋で一昨日のゲームの続きをすることにした。

 しばらくするとナツが吠えだした。玄関のチャイムが鳴る。

 俺はインターホンの画面を見て驚いた。玄関に高校の理科の先生が立っていたのだ。

 黒崎という『生物基礎』の担当の教師だ。若い女性の先生でいつも学校では白のブラウスに淡い緑色のミニスカートの上から白衣を羽織っている。髪型はショートボブで声が大きく歩くのが異様に早い。教え方は早口だけど割と丁寧で、生徒の評判はいい。特に男子には、すっきりとした顔立ちの美人ということでファンが多かった。

 そんな人がなんで俺の家に来たのだろう。別に俺はファンという訳ではないが、心臓の鼓動が速くなる。

 俺は玄関を開けた。ナツが吠えるのをやめる。うちの犬は客として認められた人間にはむやみに吠えない。

「こんにちは、三上君」

 黒崎はにっこりと笑った。今日は薄いピンク色のスーツ姿だ。

「こんにちは」

「君と話したいことがあってきたのだけど、ちょっと入ってもいいかしら」

 そう言うと玄関の中に入ってくる。

「いいお家ねえ」

「あ、あの。話って何ですか」

 俺は戸惑いながら尋ねた。

「ねえ、三上君」

 黒崎は言葉を切った。

「私とキスしない?」

 あまりのことにぼう然とする俺の両肩に手をかけて顔を近づけてくる。赤い唇のなかにぬめる舌が見えた。

 俺は黒崎を押しのけると玄関を上がった。

「何をするんですか。先生」

「いいじゃない。キスよ、キス。それともキスは初めて?」

 黒崎も靴を脱いで上がってくる。

「そんなことどうでもいいじゃないですか。というか、生徒にキス迫るってまずくないんですか」

 黒崎はきれいな顔でにやりと笑う。

「うーん。ばれたら首かな。ま、気にしない気にしない」

「ちょっと。気にしてください」

 部屋の方に逃げる。黒崎はちゅうちょなく追ってきた。部屋に入ってドアを閉じようとしたが、意外に力が強くて入られてしまった。

「一体何だって言うんですか!」

 最後の手段だ。俺はこぶしを固めた。

「私を殴るつもり?」

 黒崎は俺の構えを見て近づいてくるのをやめた。

「場合によっては」

 黒崎はふっと小さく笑う。

「こんないい女の唇を拒むなんて、もったいないよ」

 俺は取り合わなかった。

「なんでこんなことをするんですか?」

 黒崎は一息置いて答えた。

「君、若いままでいられる病気にかかったんだよね」

 俺は言葉が出なかった。そのことはまだ誰にも言ってない。俺と妹くらいしか知らないはずだ。なぜ知っているのだろう。

「分けて欲しいのよ、その病気。私も若いままでいたいの。ね、うつしてくれない?」

 また近寄ってくる。思わず後ずさりした俺の脚はベッドにぶつかった。そのままベッドに倒れ込んでしまう。

「ねえ、いいでしょう?」

 黒崎がベッドに上がってきた。両手をついてよってくる。ブラウスの襟から胸の谷間が見えた。俺はつばを飲んだ。

「ふふふ」

 唇が迫ってくる。


「康太くん、なにをしているの?」

 危機感のない声が戸口から聞こえてきた。恵理菜だ。白いTシャツにデニムのホットパンツをはいている。恵理菜の夏場の普段着だ。

「誰なの、一体?」

「あ、黒崎先生」

 緊迫感に満ちた声とそうではない声、二つの女性の声が交錯する。

「恵理菜。これはだな……」

 状況を説明しようとしたが何を言っていいかわからない。

「なんで、黒崎先生がこんなところにいるの?」

 恵理菜の声にだんだんと力がはいっていく。事態を理解し出したようだ。いや、誤解かもしれないが。

 恵理菜は中学まで合気道をやっていた。上背のある大人の男性を軽々と投げる実力がある。昔、俺も何度か投げられた。俺は恵理菜が本気で怒りださないことを願った。

「邪魔が入ったわね。しかたない。また来るわ、三上君」

 黒崎が立って後ろを向いた。そのまま戸口へと歩く。

「笠野さんだったわね。ごめんなさいね、お騒がせして」

 黒崎は恵理菜の脇を抜けて立ち去った。危惧したことは起きなかった。恵理菜はその場に立ったまま動かなかったのだ。

 玄関が開く音がして閉まる。ナツが挨拶程度に吠えた。それから車のエンジンの音がして遠ざかっていくのが聞こえた。

「康太くん。説明してくれるよね」

 恵理菜がようやく声を発した。笑顔で落ち着いて見えるが、声の調子が怖い。

「あの、え、と……」

 ここで何を話したらいいだろう。ウィルスのことは言うべきじゃないような気がする。理解してもらえるとも思えない。第一、俺だって昨日の妹の説明を全部理解できているわけじゃない。

「つまりだな」

「つまり?」

 思いついたことを言ってみる。

「黒崎先生が俺に惚れてしまって、家まで押し掛けてきたんだ。俺にはそんな気はないんだけどな」

「うそつき!」

 一言の下に斬って捨てられた。しかも言い終わるやいなやの素早さだ。そんなにあっさり言い切られると俺も傷つくのだが、今はそれどころじゃない。恵理菜が笑顔のままこちらに迫ってくる。

「黒崎先生が大事な物をなくして、俺に探すのを手伝ってほ……」

「うそつき!」

 またもや斬って捨てられる。しかも今度は最後まで言わせてくれない。恵理菜はベッドのそばまで来た。

「お……」

「うそつき!」

 まだ何も言ってないぞ。

「なんでわかるんだよ」

「何年の付き合いだと思ってるの。康太くんが嘘をつこうとしている時の顔くらいわかるよ。本当のことを言って」

 俺は心を決めた。こうなっては本当のことを言うしかないだろう。

「実は、だな。この病気に関係しているんだ」

 恵理菜はうなずいた。


「つまり、理子ちゃんのつくった新種の病気が人間を若いままでいられるようにする効果があるということ、でいいのかな?」

 恵理菜は頭をひねりながら唸った。

「お前、信じるのか?」

 信じられない思いで恵理菜を見る。

「だって、康太くん。本当のことを話している時の顔だもん」

 恵理菜は屈託なく笑った。

「顔、顔って、俺はそんなにわかりやすいか?」

「そうね。私には」

 即答である。俺はため息をついた。なんだか人生の半分を恵理菜に握られてしまっている気がする。

「で、それを知って病気をうつしてほしくて黒崎先生は来たのね」

 恵理菜が顔を引き締めた。

「ああ」

「どうやって知ったのかな?」

「わからない」

 正直な感想だ。そしてそこが最大の問題だと思う。

「康太くんと理子ちゃんの他には知っている人いないんだよね」

「たぶんな。昨日の今日だし。まあ、妹を指導してる先生くらいは知っているかもしれないけど」

「大学の先生? そんな人が簡単に研究の秘密を人に話すかなあ」

「どうだろう」

 俺はベッドに横になった。気が抜けて急に体がだるくなってきたのだ。

「疲れた?」

「ああ、なんだか身体が重いよ」

 恵理菜はエアコンの調整をしてくれた。

 音楽が聞こえてくる。見るとゲームが戦闘シーンで止まっている。そういえばゲームの途中で黒崎が来たのだった。

「ゲームしてたんだね」

「ああ」

 恵理菜はまじまじとゲーム画面を見つめた。それからこちらに振りかえる。

「とにかく、これからは気をつけなきゃね」

「黒崎先生には気をつけるよ」

「先生だけじゃないわ。いろんな人がこれからは敵なのよ」

 恵理菜の顔がこわい。

「敵なのか?」

「そうよ、みんな敵よ。世界のみんなが康太くんの病気をうつしてもらいたがるに決まってるわ」

 俺は世界中の年齢を問わない男女全てが俺にキスを迫るのを想像してげっそりした。

「というか、別にキスじゃなくてもうつるんじゃないの?」

 心を見透かしたような恵理菜の声にわれにかえる。

「さあな。妹はキスをすればうつるようなことを言っていたけど」

「そうなんだ。で、キスしたの?」

「誰にだよ」

「理子ちゃんと」

「妹だぞ。するわけないだろ」

 俺はそう言いながら、妹の小さな唇を思い出してしまった。

「あー、考えてる」

 恵理菜が目ざとく顔色の変化を見つけてはやす。

「考えてないよ!」

「どうだか」

 それから恵理菜は声のトーンを少し落として言った。

「ねえ。そばにいるだけでもうつるかな?」

 俺は恵理菜を見た。

「うつしてほしいのか?」

「そりゃ、永遠の若さが手に入るというはなしでしょ。女の子だもん、興味あるよ」

「そっか」

 恵理菜は黙ってしまった。気まずい。俺は他に話題がないか見まわした。ゲーム画面が目に入った。

「恵理菜。ゲームするか?」

「あ、うん」

 恵理菜は素直にうなずいた。「体は平気?」

「大丈夫。少し横になったらおちついた」

 俺は強がってみせた。


 俺たちは夕方ちかくまでゲームをして過ごした。途中、昼には恵理菜が作ってきてくれた具だくさんのおかゆを食べた。

 俺は時々恵理菜の顔を盗み見た。ツルツルとした肌に細い眉、少し垂れた目、つんとした鼻、赤みを帯びた唇。美人という訳ではないが可愛い部類には入ると思う。

 恵理菜とキスをするなんて身近すぎて考えたこともなかったが、どんな気分になるのだろう。俺はゲームをしながらぼんやりと考えたが、どうにもイメージが出来なかった。

 何度目かに恵理菜を見たとき、目があってしまった。

「なに?」

「なんでもない」

 あわてて目をそらす。

「私を見てなにか考えたよね」

「気にしすぎだ」

「すけべ」

 ぼそっと恵理菜が言う。俺は首を振って否定する。

「違う」

「へえ?」

 恵理菜が寄ってきた。俺はよけようとして後ろに倒れた。恵理菜の両手が俺の体の両側に置かれる。笑いを含んだ顔が見下ろしてきた。

「何を考えたのかな?」

「何も考えてない」

「それは嘘ついてる顔だね。本当のことを言いなよ」

 もうキスのことを言うしかないと思った時、玄関のドアが開く音がした。

「ただいま」

 妹だ。

「あ、理子ちゃんが帰ってきた。もうそんな時間なんだ。」

 恵理菜は俺の上から退いた。

「私、帰るね」

 立ちあがると、さっさと部屋を出ていく。

「あ、恵理菜さん、いらっしゃい」

「理子ちゃん、こんにちは」

 二人が廊下で挨拶するのが聞こえる。俺は横になったまま、ぼんやりと恵理菜の顔を思い返していた。

 その日、妹には黒崎のことは話さなかった。正直なところ、どう話していいかわからなかったのだ。


 木曜日の朝、家族が出かけてしまって少ししてチャイムが鳴った。インターホンの画面を見てみると恵理菜だ。

 なんで裏から入って来ないのだろうと思いながら、ドアを開けた。

「恵理菜、どうしたんだ?」

「おはよう、康太くん」

「やあ、康太」

 そこにはもう一人、客がいた。

 腰近くまでの長い髪に赤い縁の眼鏡、青いシャツに白のロングスカート。姫美だ。

 中原姫美。小学校の頃からの知り合いで現在同じクラスである(ちなみに恵理菜は隣のクラスだ)。駅前のマンションに母親と兄との三人で暮らしている。

 成績は常にクラストップで目鼻立ちの整った知的な顔をしており、細身にボリュームのある胸を持ち、料理が得意という家庭的な側面もある。何も知らないクラスの男子のあこがれの的だ。そう、何も知らなければ理想的な女の子なのだ。

「なんで、姫美がここに」

「ごめんね。私が呼んだの。姫美ちゃん、色々頼りになるから」

 愕然とする俺に恵理菜が謝った。

「康太。君、面白い病気にかかったんだって?」

 姫美が俺の肩を叩いた。

「話したのか、恵理菜?」

「姫美ちゃんは信頼できるから……」

 恵理菜が上目遣いで見てくる。俺は唸った。

 昔から恵理菜と姫美は仲がよかった。姫美が頭脳担当、恵理菜が実戦担当として互いを信頼し合っている。親友といえるだろう。

 考えてみれば、恵理菜は悩み事を常に姫美に包み隠さず相談をしていた。つまり、これは予想されたことだったのだ。

「お邪魔しまーす」

 軽いノリで姫美が玄関に入ってきた。

「こら、勝手に上がるな」

「恵理菜ちゃんとは挨拶抜きで部屋までいく仲なんだろう。けちけちしない」

「姫美ちゃん!」

 恵理菜が抗議の声を上げた。

「けちとかそういう問題じゃない」

 俺は部屋の方に行こうとする姫美をおしとどめ、リビングに通した。俺が台所に行って麦茶を出す間も姫美はじっとしていなかった。戻ってみたら床に腹ばいになってソファの下を眺めていた。

「何してるんだ?」

「いやなに、ちょっと興味があって」

 テーブルに麦茶を置くと尋ねた。

「それで、どこまで知っているんだ?」

 姫美は立ちあがって服を直した。

「だいたい全部」

「昨日起こったことはだいたい話したよ」

 恵理菜がフォローする。

「つまり、康太が理子ちゃんの実験に巻き込まれて若いままでいられるようになる病気にかかったということ。そして、その病気がキスでうつるらしいということだね」

 ずいぶん偏った理解だが、間違ってはいないようだ。

「そして康太が黒崎先生に襲われかけたということも聞いた」

 姫美は俺に近づいてきた。

「しかし、なぜ黒崎先生を断ったの? 普通男ならチャンスだと思うんじゃない?」

「お前はそういうことを言いに来たのか?」

「姫美ちゃん!」

「冗談よ」

 俺たち二人の声をすっとかわし、姫美はソファに腰掛けて麦茶を飲んだ。こいつはいつもこうだ。真面目な顔で人をからかう。ただし、それは俺と恵理菜に対してだけだ。姫美は中学の時にこの性格のせいでいじめにあった。それ以来、人前では温和で人あたりの良い人間を演じるようになった。その例外が、姫美の家族と俺と恵理菜だ。俺と恵理菜が例外なのはそのいじめのとき姫美をかばったかららしい。もっとも、俺がかばう側になったのは別に正義感からではなく、姫美に肩入れした恵理菜に引っ張られたためだったが。

 俺は姫美の前に座って自分の麦茶を一息に飲んだ。

「それで、なにかわかったのか?」

 姫美は右の人差し指を立てて自分の頬にあてた。考えるときのポーズだ。

「そうね。理子ちゃんのウィルスの件はおいておくとして、まずは黒崎先生よ」

「黒崎先生ね……」

 恵理菜が胸の前でこぶしをつくる。これはかなり怒っているようだ。

「黒崎由希、二十六歳。H大学出身。非常勤講師でうちの高校には今年来たばかり。というのが今のところわかっている情報ね」

「二十六か意外と年いってるんだな。というか、そんなことどうやって調べたんだ?」

「知り合いのお姉さんがうちの高校の事務で働いているの」

「顔広いなあ」

 俺はあきれた。しかし姫美は賛辞と受け取ったのかニコッと笑った。

「まあ、女性にはね」

「それで、どうなの?」

 恵理菜が先をうながす。姫美がうなずいた。

「非常勤講師と言うのは一年契約のアルバイトのようなものよ。基本的に授業の時間だけ学校にいればいいことになっているわ。だから掛け持ちも可能なの」

「へえ、そうなのか。先生はみんな同じかと思っていた」

「私、黒崎先生がお昼前に帰るのを見たことある。私の席、校門がよく見えるから」

「それでね。ここからが本題なんだけど、非常勤講師は生徒の個人情報には通常アクセスできないらしいの。クラス担任などの業務をしないからその必要がないわけよ」

「つまり?」

「つまり、黒崎先生がこの家を知っているというのは何か特別な方法で調べたからだということになるわ。康太に元々かなりの関心を持っていた可能性が高いの」

「関心って」

 俺は考え込んでしまった。なぜ俺が黒崎に注目されるのだろう。何か特別なことをしたのだろうか。

「そこで、私の推測をいうと」

 姫美が一息置いた。俺と恵理菜を見る。「ここは逆に考えるべきなんじゃないかと思う。つまり、黒崎先生がたまたま一年生の三上康太を探って病気のことを知ったというのではなく、三上康太が一年生として入るのを知って探るために教師としてうちの高校に入りこんだということよ。そして、当初の狙い以上のことが三上康太の身に起きたので動いたというわけ」

「ちょっと待て。じゃあ、最初から俺が狙いってことか? なんでまた」

 あわてる俺に姫美がちいさく笑った。

「康太じゃないよ、たぶん」

 俺ははっとした。

「妹か!」

「そう、理子ちゃんよ。もっといえば、大学院留学プログラムに受かった才能が狙い」

「それなら、理子ちゃんの学校に先生として入りこめばいいんじゃない?」

 恵理菜が当たり前な疑問を提示する。

「それが出来なかったんじゃないかな」

 姫美は考え深げに言った。

「中学校は非常勤講師をあまり雇わないからね。正規の教員になるのはハードルが高いし」

 俺は唸った。

「妹があんな研究をすることになるなんて俺たちもわからなかったのに、そんな前から狙っていたというのか?」

「別に研究が成果を生むとは考えていなかったと思うわ。中学生のする研究だからね。それより、その将来性に注目したということじゃないかな。才能が確かなら将来スカウトするくらいのつもりだったんだと思う」

「それが偶然、あんなウィルスをつくってしまったってわけか」

「そういうこと。それを知って黒崎先生も、目の色が変わったわけよ」

 俺は愕然として姫美を見た。こいつはなんであれだけのことからそこまで推測できてしまうのだろう。そして同時に、自分たちを取り巻くものに慄然とした。大人の思惑の渦の真ん中に妹がいて、自分がその先導役を知らずにさせられていたのだ。

「でも、誰にも言ってないウィルスのことをどうやって黒崎先生は知ったの?」

 またも的確に恵理菜が突っ込む。

「それは、これからわかると思う」

 姫美はポーチの中から白い小さな箱を取り出した。


「なんだ、それは?」

「電波探知機よ」

 姫美はスイッチらしきものを入れると、箱を床近くにかざしながらリビングの中を一回りする。

「ここにはないみたいね」

「なにがだ?」

 いきなりの奇行にあきれながらきくと、姫美は何を当たり前のことをという顔をした。

「盗聴器よ」

「盗聴器?」

 俺と恵理菜の声がユニゾンする。

「当然。他には考えられない」

 姫美はリビングを出た。

「おい、どこに行く?」

「家中探すのよ」

「ちょっと、待て」

 玄関で追いつく。姫美は一通り電波探知機をかざすとうなずいた。

「ここもなし、と」

「おい。盗聴器なんてそんなものが……」

 言いかける俺を姫美はさえぎる。

「康太と理子ちゃんしか知らないはずのことを他の人間が知っていたとしたら、盗み聞きされたとか考えられないじゃない? さ、次は康太の部屋よ。一番可能性が高い場所」

 俺を押しのけて部屋の方にいく。姫美は恵理菜と一緒に小学生のころから何度となく遊びに来たことがあるから、家の中は知り尽くしている。

 あわてて後をついていくと部屋のドアを開けたところで姫美が止まった。電波探知機を指さす。赤いランプが激しく点滅している。

「これ……」

 俺が言いかけたのを姫美が手で制する。俺と恵理菜に静かにというゼスチャーをして、姫美は部屋の中に忍び足で入った。

 しばらく部屋の中でうろうろしていたが、机の横の鞄に近づいていく。鞄を開けて中のものを一つづ取り出しては電波探知機を近づける。そのうち普段使っていない鞄のポケットから黒い小さなお菓子の包みのようなものを取り出した。電波探知機を近づけた姫美がこちらを向いて親指を立てる。

 それから大きく息を吸い込むと、突然、近所にまで響くような大声を小さな包みに向かって出した。

「わっ!」

 思わぬ声に俺は部屋の中に駆けこんだ。

「なんなんだ、一体!」

 叫ぶ俺を姫美は無視した。ポーチから取り出したドライバーセットを使って、小さな包みを解体していく。

「いやあ。一度やってみたかったのよね、盗聴器に向かって叫ぶの。昔少女マンガで見てね。黒崎先生の耳がしびれているといいなあ」

 楽しそうに話す姫美が何かをつまんで見せた。

「ほら、これが盗聴器」

 小さな基盤にいろいろな素子がはんだ付けされている。それから、小さな電池をつまみあげた。

「電源はこれ」

「本当に盗聴器なのか?」

 そんなものが仕掛けられているなんてまだ信じられない。

「本当よ。電池外したから、もう動かないけどね」

 姫美はふふっと笑った。

「盗聴って犯罪じゃないのか?」

「まあ、電波法違反にはなるかな。ものによるけど」

 戸口で様子を見ていた恵理菜が部屋に入ってきた。しげしげと盗聴器を見る。

「姫美ちゃん。よく電波探知機なんて持ってたね」

「うちの兄貴にかりたの。友達が盗聴されているって言ったら貸してくれたわ」

 姫美の兄は何度か会ったことがある。昔からパソコンを組み立てたり、無線で通信をしたりしていた。今は情報系の大学に行っているはずだ。

「これ、黒崎がやったのか」

「たぶんね。学校でしかけたんじゃないかな」

 確かに学校なら体育や情報などの時間に教室が無人になるから、鞄にしかけるのはたやすいだろう。俺は、先日家の近くに停まっていた銀色の車のことを思い出していた。あれが黒崎の車だったのだろうか。あの中で盗聴器の音声を聞いていたのかもしれない。

 姫美は人差し指を頬にあてながらうなずいた。

「これで黒崎先生が康太を狙ったのが偶然でないことがわかったわ。気をつけた方がいいね」

「気をつけるよ。もう家には入れない」

 俺の言葉に姫美は首を振った。

「康太もだけど、理子ちゃんのほうが危ないかもね」

 俺は顔から血の気が引くのを感じた。

「まさか、誘拐とか」

「そこまでするかはわからないけど、気をつけるに越したことはないわね」

 俺は携帯電話に手を伸ばした。妹にかける。なかなか出ない。冷や汗が流れる。コール九回目で妹が出た。

『どうしたの、お兄ちゃん?』

 妹の声にほっとする。

「いいか。お前のウィルスについて調べてるやつがいる。俺の部屋に盗聴器が仕掛けられていた。人気のないところに一人で行くなよ。知らない人に声をかけられてもついていかないんだぞ」

『それくらい、わかってるよ』

 妹があきれたように言う。『それだけなの? 理子、作業の途中だから切るね』

 妹は電話切った。

「切りやがった」

 人の気も知らないで。俺は携帯電話を握りしめた。

「一人にならないとか、知らない人についていかないとかは、言うまでもないことだよ。女の子だもの」

 恵理菜がおかしそうに言った。

「心配なら自分で動かなきゃね、お兄様」

「出来るならそうしてるよ」

 姫美の皮肉の混じった言葉にいらだつ。まだ重さの残る自分の体がもどかしい。

「まあ、そう慌てない。相手も今日明日動くとは限らないし」

「いや、明日は必ず妹についていく」

 妹を守れるのは俺しかいない、そんな思いで悲壮な決意を固める俺をよそに、姫美と恵理菜はなにやら話し込む。

「麗しい兄妹愛ね。どう思う、恵理菜?」

「ちょっと普通じゃないかも。怪しいよ」

 向き直った姫美が俺を部屋の隅に引っ張っていく。

「康太、なんで恵理菜にキスしてあげないの?」

 いきなりのことにこっちは顔が赤くなる。こいつはまたからかっているのか。

「何を言い出すんだ! それに、そんな簡単に出来るかよ」

 姫美は、これだからといった顔で俺を見る。

「えー。永遠の若さだよ。一回だけ、分けてあげると思ってしてもいいんじゃない?」

 何と言い返したらいいかわからない。質問でごまかす。

「お前も永遠の若さに興味あるのか?」

 姫美はあっさりうなずいた。

「まあね」

 それからを俺の顔をじっと見て首を振った。

「でも、康太とキスをするのは嫌。私は、康太にキスをされて戸惑っている恵理菜をじっくり頂くことにする」

「あー、はいはい」

 そういうことか。これも姫美が学校で隠していることだが、実は昔から女の子にしか興味がない。といっても、女の子とディープな恋愛がしたいわけではないらしい。本人によれば「男に興味がわかないだけ」ということだ。

「二人とも、聞こえてるんですけど」

 振り向くと恵理菜がにっこり笑って立っている。これは怒っている顔だ。

「恵理菜、怒らないで」

 姫美がするりと恵理菜の後ろに回り込んで抱きしめる。

「暑い。姫美ちゃん離れて」

 暴れる恵理菜のポニーテールのうなじに姫美がキスをした。

「もう、姫美ちゃん!」

 恵理菜が体をひねった。姫美の体が宙を舞う。恵理菜が技を使ったのだ。白いロングスカートがひるがえる。一瞬、何かうす緑色のものが見えた。

 姫美はクッションの上にお尻から落ちた。

「あたー。久しぶりね、投げられたのは」

 長い髪をかき分けて、そう言う声はまったくもって元気そうだ。

「もう、姫美ちゃんが悪いんだからね」

 恵理菜に手を引いてもらって立ちあがる。

「分かってる」

 それから、ぼうっと見ている俺に一言言った。

「すけべ」

「え、あ……」

 俺はまともに返事が出来ない。

「あー、康太くん。姫美ちゃんのスカートの中見たの?」

 恵理菜の責める声にあわてて手を振る。

「見てない見てない」

 恵理菜がにらむ。

「貸しにしておくわね」

 姫美はそう言うと戸口の方に歩き出した。

「どこにいくんだ?」

「帰るのよ。ちょっと昼から用事があるからね」

 俺たちはあわてて姫美の後を追った。俺にとっては恵理菜からの追及がうやむやになってありがたい。

 俺と恵理菜は玄関まで見送った。

「今日はわざわざありがとうな」

「いやまあ、面白そうだったから。実際面白かったし」

 姫美はくっくっくっと笑った。魔女みたいだ。こういう笑い方も学校では見せない一面といえるだろう。

「じゃあね。黒崎先生のこと、また調べておくわ」

 そう言うと真夏の日差しが照りつける中、帰って行った。


 昼を食べたあと、恵理菜も自宅に戻って母親と車で買い物に出かけてしまったので、俺は一人でゲームをした。

 ゲームをしている間も黒崎のことが頭から離れなかった。まだどこかに盗聴器が仕掛けられているんじゃないだろうかとか、今この瞬間にも妹をつかまえて乱暴な手段で情報を聞き出そうとしているんじゃないかとか、悪いことばかり頭をよぎる。

 それだから夕方妹が帰宅した時には、玄関まで出迎えて上から下まで無事を確認してしまった。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

 不審な眼で俺を見る妹に、昨日からのことを手短に説明した。

「そうなんだ。恵理菜さんと姫美さんにも知られたの」

 妹の目がきつい。口が軽いんだからと目で俺を責めている。

「いや、すまん。恵理菜には嘘がつけなくて」

「それで、うつしたりしてないよね」

 うつすって、キスのことか。俺は手を大きく左右に振って否定した。

「してないしてない」

「ならいいけど。あのウィルスはたまたまお兄ちゃんの体ではうまくいったけど、他の人でうまく働くとは限らないから危ないものなのよ」

 危ないという言葉に汗が出てくる。

「どういう意味だ?」

「他の人の体では遺伝子のコピーに失敗するかもしれないって言うこと」

「ということはつまり……」

「もしかすると全身にガンが出来て死ぬこともあり得るってこと」

「やっぱりか」

 恵理菜にキスをしなくてよかった。俺は胸をなでおろした。

「どうしたの?」

「いや、なんでもないんだ。それより黒崎だ」

 妹がまた不審そうな眼でみるのに気づいて慌てて話を変える。

「黒崎って、盗聴器を仕掛けたっていう先生?」

「そうだ」

「その先生、何者なの?」

「わからない。姫美の推測ではお前のことを探るために俺の学校の先生をやっているということになるけど」

 正直な話、俺も半信半疑だ。

「大げさな話ね」

 妹はため息をついた。

「でも、とにかくお前を狙っている可能性が高いわけだ」

 大事なのはそこだ。妹が狙われるのは兄として黙って見ていられない。

「それはそうかも」

「だから、明日からは俺はお前の護衛をする」

 俺は宣言した。

「ええっ」

 妹は思い切り嫌そうな顔をする。

「体調は大丈夫なの?」

「もうだいぶいい。明日にはほとんど治っているんじゃないかな」

 俺は胸を張った。空元気も元気のうちだ。

「そっか……」

 妹はしばらく考え込んだが、小さくうなずくと俺の顔を見た。

「とりあえず、明日は来ていいよ」

「なんだ、その『とりあえず』っていうのは」

 俺の言葉に取り合わず妹は自分の部屋に行った。「おい、まてよ」というが聞いてくれない。しかし、ドアを閉める間際に俺の方を振り返った。

「お父さんとお母さんには内緒にしててね」

「ああ、分かってる」

 兄をわけのわからない病気にしてしまったことを話したくない気持ちはよくわかる。第一、うちの父は、近頃すっかり帰りが遅くなっている娘を心配するあまり、妹の大学院留学を快く思っていない節がある。そんな親たちがこのことを知ったら大学院通いをやめさせるかもしれない。

 どのみち俺が年を取らないことが他人の目にもわかるようになるのは三十歳を過ぎるころからだろう。それまでは秘密にしておいてもいいと、俺は思った。


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