感染
銀色の車が日差しの強い中、エンジンをかけっぱなしにして停まっていた。運転席には誰もいない。後部座席は黒いフィルムとカーテンでのぞけないようになっていた。中に誰かいるようである。
八月の初めの月曜日の午後のことだ。
俺は笠野恵理菜と一緒に駅から歩いて下校するところだった。セミの鳴き声がうるさい。噴き出す汗が鬱陶しく眉にまで流れてくるのをぬぐいながら、俺は車をのぞきこんだ。
「康太くん。明日十時ね」
横を歩く恵理菜が声をかけてくる。
「ああ、わかってるよ」
俺は生返事で応えた。車のことは気になったが放っておくことにした。
今日でようやく全生徒参加の夏期補習も終わり、明日から本格的に夏休みだ。高校生活最初の夏休みくらい遊んで過ごさなきゃ損ってものだ。
「じゃあ、またね」
恵理菜が手を振った。まぶしく光を反射する白いブラウスに濃紺のスカートの後姿が、白い外壁の箱型の家に入っていく。ぴょこぴょこと揺れるポニーテールがドアの向こうに消えると、俺はその隣の『三上』と表札が出ている薄いブラウンの外壁のこれまた箱型の家の門を開けた。
ここは郊外の住宅地だ。田んぼと畑とこんもりとした林が周りを囲んでいる。土地開発会社が十数年前に住宅メーカーと共同で開発し建売住宅を販売して出来た街で、どの家も少しずつかたちは違っているものの、同じように見える。
俺の家族は幼稚園の頃にこの街に越してきた。恵理菜とはその頃からのつきあいだ。
庭の方から犬が吠えるのが聞こえる。
「ナツ、ただいま」
ナツは秋田犬の雑種だ。薄茶色のきれいな毛並みをしていて結構大きい。庭に柵をして放し飼いにしている。
俺は鍵を出して玄関を開けた。
「ただいま」
返事はない。
両親は共働きだ。中学生の妹がいるが、今は出かけているはずだ。
俺は荷物を部屋に置いてTシャツと短パンに着替えると冷蔵庫のドアを開けた。暑い中を長々と歩いてのどが渇いていた。
冷たい風が噴き出るのを心地よく感じながらドアのポケットに並ぶ飲み物を見る。牛乳は、のどにはりつく感じがするから嫌だ。麦茶は飽きた。オレンジジュースは何か違う。すっきりとしたものがいい。
「お、これは」
目を本体の棚の方に移した俺は、ミルセーラという文字に気がついた。スポーツドリンクを少し薄くしたような飲料の商標だ。紙の五百ミリリットル容器がひっそりと、残り物をつめた保存容器の陰になるように置かれている。
俺は躊躇なくミルセーラを選び、開けてコップに注いで飲んだ。
コップ一杯だけのつもりだったが、それだけでは足りず、結局注ぎ足し注ぎ足しして全部飲んでしまった。
一息ついたところで、コップと紙容器を洗った。
部屋に戻ると一昨日買ったばかりのゲームをすることにした。今日のために取っておいたのだ。パッケージを開けるのはいつもわくわくする。俺はパッケージをきれいに開けるタイプだ。フィルムがきれいに取れると気分がいい。それから説明書をじっくり読む。読んで心の中で期待感をあおるのだ。それからようやくゲーム機に電源を入れる。オープニングムービーが流れ出すと、期待感は最大限に高まった。
ふと宿題のことが頭をよぎったが気にしないことにした。夏休みはまだ始まったばかりだ。手をつけるのは後でいいだろう。
俺は勇んでボタンを押した。
ノックの音がした。
俺は重たい頭をゆっくりと振って目を開けた。画面は戦闘画面の途中で止まっている。戦闘中に眠ってしまったらしい。こっちのキャラが死にそうだ。回復しなくては。寝ぼけた頭でコントローラを操作した。
もう一度ノックの音がした。
「お兄ちゃん?」
妹の声だ。帰って来たのか。
「ああ」
俺は唸り声で答えた。
ドアが開いた。妹が困った顔をして覗きこんできた。小柄な体を白の半袖のセーラー服と濃紺のプリーツスカートにつつみ、髪を二つ結びにしている。外出から帰ったばかりのようだ。
中学二年で先日誕生日を迎えた十四歳だが、ひいき目に見てもそうは見えない。小学生でも十分通用する。
しかしこの小さな身体にたいして頭脳は俺なんかよりはるかに優秀だ。なんといっても、国が今年から始めた理科系の成績が優秀な中学生に大学院で学ばせるという『中学生大学院留学プログラム』に選ばれたのだ。選抜試験は各中学校から数人が推薦されて受験し、全国から五十人しか選ばれなかったという。平凡な高校生をしている俺には想像もつかない話だ。そのプログラムの生物分野で選ばれた妹は四月から、近くの国立大学であるK大学医学部の生命科学研究センターに放課後や中学が休みの日に通っている。夏休みの今はほぼ毎日だ。
「あのね。お兄ちゃん、理子のミルセーラ飲んだでしょ」
妹が上目遣いで訴えてきた。
「ああ、あれ。お前のだったのか。悪かったな」
「酷いよ。大事なものだったのに」
妹は泣きそうになって抗議する。その表情にはまだまだ幼さが見えて、とても大学院留学するような才能の持ち主には見えない。
「だから、悪かったって」
「名前だって書いてあったのに」
「どこにだ? 気がつかなかったよ」
「ほら、ここに」
妹が空になった箱を示した。洗って置いておいた紙容器だ。もうすっかり乾いている。その容器の脇にボールペンで薄く『理子の』と書いてあった。
「これじゃ見落とすって……」
妹の顔をみて言葉につまった。泣きそうだ。泣かれるのは困る。
「ああ、買って来てやるよ。な。ミルセーラでいいのか?」
「これじゃないとダメなの」
聞き分けのないことを言う。
「そんなこと言うなよ」
「ダメなの」
玄関が開く音がした。母が帰ってきたようだ。妹が玄関に走っていく。
「お母さん。お兄ちゃんがあ」
「康太! あんたいい年してまた理子を泣かせて」
俺はどうにでもしてくれと思いながら母のもとに出頭した。
話を聞いた母は、俺への叱責はほどほどにして妹にそんなことで泣かないようにいったが、妹は無言で自分の部屋に閉じこもってしまった。
しかし、夕食時にゲームを終えて部屋を出ると妹はいつものちょっと甘えた様子で母に今日の電車の中で見かけた子供の話を楽しそうに話していた。
気まぐれなことだ。俺は少し呆れて食卓に皿を並べた。
夕食はゴーヤチャンプルーだった。結構好きな料理なのだが、あまり食べられなかった。どうにも胃が受けつけない。
「どうしたの。あまり食べないね」
母が心配そうにいう。妹もこっちを見ている。
「わからない。あまり食欲がないんだ」
「お兄ちゃんが、ひどいことするから天罰だよ」
「うるさいな」
どうやらまだ根に持っているようだ。
「風邪ひいたんじゃない? 薬飲んでおきなさいよ」
母が薬箱から風邪薬を出してきた。
「お母さん。風邪だったらウィルスだから薬は効かないよ」
妹が大学院で覚えたのであろう知識を披露する。
「気休めにはなるでしょ。わかったわね、康太」
母は軽く妹をいなして俺に薬を渡した。
「わかったよ。じゃあ、ごちそうさま」
俺は自分の食器を片づけると薬を飲んだ。残飯はナツの臨時のおやつだ。ナツはうれしそうに尻尾を振って食べた。
その夜は早くベッドに入った。
俺は小学校の時、修学旅行を風邪で休んだことがある。前日ちょっと何か体の調子がおかしいような気がしていたら、当日の朝熱が三十八度五分も出て泣く泣く休むことになった。それだけでもショックだったが、旅行から帰った恵理菜がまだ寝てる俺の枕もとで遠慮がちに修学旅行の思い出を語るのがずいぶんと楽しそうで、ますます落ち込んだのである。さらには卒業式の答辞を一人一言ずつ話すところで、なぜか俺のところに「楽しかった修学旅行」というセリフが割り当てられてしまい、卒業式まで嫌な気持ちで迎えることになってしまった。それ以来、俺は少しでも体の調子がおかしい時は早く寝るようにしている。
なにせせっかくの夏休みだ。寝て過ごすようなことにはなりたくない。
しかし、次の日。火曜日の朝。俺は全身に力が入らない自分に気がついた。
「お兄ちゃん。そろそろ起きなさいって、お母さんが」
妹の責めるような声で起き上がるが足元がふらつく。ドアを開けると妹が俺の顔を見て驚いた顔になった。妹はセーラー服姿だ。今日も研究室に行くらしい。
「風邪?」
「わからない。熱もなさそうだし咳もくしゃみも出ないし、だけどだるい」
妹が目を見開いた。そこは驚くところじゃなくて心配するところだろうと思ったが、それを口に出す元気もない。
「どうしたの?」
母までやってきた。俺の顔色を見て、額に手をやる。
「熱はないみたいだけど。疲れでも出たのかしらねえ。とにかく今日は寝てなさい。外に出ないのよ」
それから妹に言った。
「今日も研究室行くんでしょ。時間はいいの?」
「うん、大丈夫」
妹が食堂の方に行くと母は再び俺を見た。
「父さんはもう出かけたし、私もそろそろ出るけど何かあったら電話して。いいわね」
俺は黙ってうなずいた。
「じゃあ、行ってくるわ」
母は行ってしまった。俺はふらふらとベッドまで戻りぐったりと横になった。
しばらくして控えめなノックの音がした。
「おお」
けだるい声で答えて起き上がる。
妹が部屋に入ってきた。なんだかおどおどとしている。
「お兄ちゃん、あのね」
言いにくそうだ。
「どうした」
俺の言葉に妹は意を決したように口を開く。
「昨日お兄ちゃんが飲んだあれ、ウィルスが入ってたの」
「ウィルス?」
俺はオウム返しに答えた。
「ショウジョウバエ用のやつだし、感染力は抑えてあるから飲んだくらいなら感染しないと思ったんだけど、ごめんなさい」
「え。えーと……」
うまく回らない頭で考える。つまり昨日飲んだミルセーラは妹がウィルスを混入したもので、それを飲んだことで俺が病気にかかったということだろうか。
「なんでショウジョウバエがここに出てくるんだ?」
ショウジョウバエといえば、台所のゴミによくたかっている小バエのことだろう。そんなものがどうして関係するのか。
「ショウジョウバエはね、ああ見えて人間に免疫機構が似てるから病気の実験の対象として使われることがあるの」
それは初耳だ。さすが大学院に通うだけある。
「へえ。お前、そういう研究をしているのか?」
「うん。その、理子はショウジョウバエの遺伝子を組み換える実験をしているの」
また、新たなワードだ。今度は遺伝子の組み換えか。
「話がよく見えないんだが?」
妹がうつむいて両手をセーラー服の胸の前で合わせてこねるような動作を始めた。これは妹が自分について話すときの癖だ。
「あのね。ウィルスは相手の細胞のDNAやRNAに自分の持っている遺伝子を組み込んでコピーさせることで増える性質があるの。それで、その遺伝子を組みこむという性質をつかってウィルスに遺伝子組み換えをさせようというのが理子の研究テーマなの」
「うむむ……」
俺はなんとか理解しようとした。しかし、『ウィルス』と『遺伝子組み換え』という言葉しかわからない。とにかく俺はそのウィルスがもたらす病気にかかったということだろうか。
「この症状はそのウィルスのせいなのか?」
「わからないの」
妹は首を振った。不安そうな顔だ。見ているこっちまで不安になる。
「あのね。初めて作ったウィルスだからどうなるかわからなくて……」
「なんでそんなものを冷蔵庫のしかもミルセーラのなかに入れてたんだ?」
「研究室で時々誰かに見られているような気がして不安になったの。それで持って帰ってきてたんだけど、置き場所がなくて。そしたらミルセーラがあって、生理食塩水に近いから保存液代わりになりそうだし、ちょうどいいかなって」
「ちょうどいいかな、じゃないだろう」
つい言葉が荒くなる。
「ごめんなさい」
妹がしょげかえった。
「それで、そのウィルスにかかるとどうなるんだ」
俺は心を落ち着けて、なるべく優しい声できいた。何にしても飲んでしまったのは俺だ。ここで妹を責めてもはじまらない。
「それがね。うまく行っていればいいんだけど、その可能性はほとんどなくてね。あのね、遺伝子がDNAの変なところにコピーされてDNAが破壊される可能性が高いの」
嫌な語感の言葉が出てきた。『破壊』だと? 続きを聞きたくなくなったが、聞かないわけにはいかない。
「……つまりどういうことだ?」
「全身に悪性新生物、つまりガンが出来てしまう可能性があるの」
俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。それからエアコンが入っているにもかかわらず全身を汗がだらだらと流れた。
「それって、死ぬよな」
「たぶん。一年以内に」
全身が溶けそうな感覚に陥る。
「それでね。理子、責任取りたいの」
妹が寄ってきた。顔が近い。
「お兄ちゃん。理子とキスして。そうして理子にも病気をうつして」
俺はのけぞった。妹は目を閉じて、口を半分開いている。小さな赤い唇がなんだか艶めかしい。目鼻立ちの整った顔つきで我が妹ながら可愛いとは思うが、自分の妹にキスをするのはためらわれる。なによりも病気をうつすためなんて御免だ。
「よせよ。お前に病気をうつすなんてこと出来るか」
俺は力を振り絞って強い調子で言った。妹がびっくりした目で見る。
「それに俺とお前と両方ともガンで死んだら、母さんも父さんもすごく悲しむぞ」
「お兄ちゃんを死なせてしまったら、理子、生きていられないよ」
妹も珍しく強い調子で言い返す。目には涙をためている。
「まだ、死ぬときまったわけじゃない」
俺は手で妹を制した。本当は倒れ込みたいような気分だったが、妹を力づけたい一心で踏みとどまる。
「お前にはこの病気を何とかする方法を考えてもらわないと。そうすることこそお前のやるべきことだろうが。お前は死ぬことを考えたりするべきじゃない」
ぼうっとした頭を無理に回し理屈をつくって説得する。
「わかった」
妹が力なくうなずいた。何とか説得に成功したようだ。
「ワクチンとかはつくれないのか」
俺の問いに妹は首を横に振った。
「全部お兄ちゃんが飲んでしまったし、容れ物も洗ってしまったからウィルスが残ってないの。作りようがないのよ」
俺は昨日全部飲んでしまった自分の意地汚さを心の中で責めた。
「じゃあ、俺の体からサンプルを取ったり出来ないのか?」
「やってみる」
妹はうなずくと、つっと部屋を出ていった。しばらくして小さな瓶と綿棒をもって戻ってくる。
「この綿棒で頬の内側を強くこすってこの瓶に入れて。遺伝子を調べるから」
俺は言われたとおりにした。
妹は瓶を受け取ると胸の前でぐっと握り締めて俺を見た。
「じゃあ、行ってくるね。必ずなんとかするから待っててね」
妹が部屋を出ていくと俺はがっくりとベッドに倒れ込んだ。
死の宣告を受けてしまったに等しい俺は、ぐるぐると訳もなく過去の記憶を次々に思い出していた。幼稚園の頃に四十度の高熱を出したこと、小学二年生の時に骨折で入院したこと、小学五年生の時に塀から落ちて手をひねったこと、そんなことどもを思い出しているうちに俺はいつの間にか眠ってしまったらしい。
「……康太くん。大丈夫?」
目を開けると部屋の中に恵理菜が立っていた。水色のワンピースに白い帽子をかぶりバックを肩から提げている。
「なんだ、また勝手に入ってきたのか」
「うん。ごめんね。でも、今日は康太くんがいけないよ。ちゃんと十時って約束したのに守らないから、心配して見に来たんだからね。携帯も何度か鳴らしたんだよ」
恵理菜が指を立てて文句を言う。
うちは庭でナツを放し飼いにしているので、ナツに警備を任せて庭に面したはきだし窓の鍵を開けっぱなしにしていることが多い。玄関の鍵をなくしたときにそこから家に入るためだ。ところがナツは隣の恵理菜にも慣れてしまった。恵理菜には吠えることさえしないくらいだ。それで小さいころから恵理菜はよく庭から俺の家に入ってきていたのだ。
「悪いな。病気になってそれどころじゃなかった」
起き上がろうとする俺を恵理菜が押しとどめた。
「いいわ。寝てて。私、本でも読んでるから」
「居座るつもりかよ」
「看病と言ってよ。何か食べたいものない? 台所見たんだけど、朝ごはんも食べてないんでしょ」
「いいよ。食欲がない」
俺は力なく手を振った。
「じゃあ、あとでおかゆをつくって持って来てあげるね」
恵理菜はクッションに座ると、本棚から小松左京の『復活の日』を取り出して読み始めた。何とも皮肉な選択だ。
ふと恵理菜に病気をうつしてしまわないか少し心配になる。朝の妹の話を思い出してみた。キスをすればうつるということで、それ以外の感染方法は考えていないようだった。ということは感染力は弱く、キスでもしない限りうつらないのだろう。俺はそう結論づけた。
死の淵にあるのは俺一人だ。急にどうしようもない孤独感が胸に迫る。
俺はぼんやりとした声で話しかけた。
「なあ、俺が死ぬとしたらどうする?」
恵理菜は本から顔を上げずに聞き返した。
「なに? 死にそうなの?」
「いや、そうじゃないけど」
俺は思わず否定した。話してもどうにかなるわけじゃない。それに、勝手な話だが、恵理菜がパニックを起こして俺から距離をとったりするのが怖かった。
「康太くん、ずいぶん弱気じゃない」
「まあな」
まったくもって、その通りだ。
「あとで、特製のおかゆをつくってあげるから元気だしてね」
目をこちらに向けた恵理菜は赤ん坊をあやすように言うと、くすくす笑った。そして再び本に目を落とす。
俺にはその姿が嬉しかった。今は、恵理菜にすがる思いだ。目の前にいてくれるということだけで心強い。
昼になると恵理菜は自宅に戻り、本当にたまご粥をつくって持ってきた。食欲は戻らないままだったが、俺はひと匙ひと匙ゆっくりと口に運び、何とか全部食べ終えた。それだけのことがなんだか感動的に思える。
「ごちそうさま」
「お粗末さま」
俺は食器を恵理菜に返しながら無理に笑って見せた。
「どうしたの?」
恵理菜が不審そうな顔をする。
「なんでもない」
「そうは見えないよ」
恵理菜は勘がいい。言い訳が必要だ。霧のかかったような頭で必死に考える。
「実はだな……」
携帯電話が鳴った。
机の上で鳴っている。俺の携帯電話だ。起き上がろうとすると恵理菜が持って来てくれた。妹からだ。
「どうかしたのか?」
俺の言葉を最後まできかずに妹が言葉を発した。
「大丈夫よ、お兄ちゃん。死なないの!」
「おい。それって、……」
「あ、誰か来た。続きは帰ってから話すね」
それだけ話すと電話は切れた。俺は大きくため息をついた。妹の短い一言で体中に結ばれていた重りが解き放たれた気分になったのだ。
今まで頭を支配していた暗鬱な考えが全て、霧が晴れるように消えていく。
恵理菜が不思議そうに見ている。
「どうしたの? 理子ちゃん、何だって?」
「俺の病気は大したことないって」
俺は妹の言葉を意訳した。大筋で間違っていないはずだ。
「へえ、理子ちゃん。そんなことまでわかるんだ。すごいわねえ」
恵理菜は素直に納得した。
「さっき、何か言いかけたよね」
「妹が重い病気みたいに言っていたからちょっと不安だったというだけだ」
これもだいたい事実のままだ。
「そっか。じゃあ、これ洗ってくるね」
恵理菜が部屋から出ていくと、俺は安堵と満腹感からか、眠気を催した。そのまま目を閉じると次に目を開けた時には部屋の時計が四時過ぎになっていた。
「あら、起きた?」
こちらを向いた恵理菜が本を置いて立ち上がった。
「じゃあ、私そろそろ帰るわね」
「ずっと、そこにいたのか?」
「そうよ。あ、寝言言ってたよ」
「何。なんて言ってた?」
「おお恵理菜、愛してる、って」
恵理菜は片膝をついて、愛を乞う男のポーズをして見せた。
「なんだそれは」
俺の震える言葉に恵理菜はペロッと舌を出した。
「うそ。よく寝てたよ」
「お前なあ、病人で遊ぶなよ」
「いいじゃない、ちょっとくらい。じゃあ、また明日来るね」
恵理菜は元気よくドアを開けて出ていった。
夕食は両親と一緒に食卓で食べた。すこし気分がよくなってきていた。恵理菜の看病のおかげかもしれない。心の中で感謝しておくことにした。本人に言うと面倒くさいことになりそうなのでやめておく。
妹は帰りが遅かった。母には研究で少し遅くなると電話があったらしい。父は「遅くなりすぎじゃないか」と文句を言って母になだめられていた。
帰ってきたのは夜になってからだった。
ベッドに横たわる俺のところにノックもそこそこに帰宅したばかりの妹が額に汗をにじませてやってきた。
「お兄ちゃん、すごいの」
「何がすごいんだよ。病気の新種でも見つけたのか?」
はあはあと息を吐きながら言う妹の様子に気おされる。すごく嬉しそうだから悪い話ではないだろう。そんなことを思いながら妹が息を整えるのを待った。
「ちがうのよ。お兄ちゃんが死なないの」
「死ぬ病気じゃないのは聞いたよ」
俺は期待を外されて気の抜けた声を出した。
「そうじゃないの、死なない病気にかかってるの」
妹が興奮した様子で俺の側に寄ってきた。
「どういう意味だ?」
困惑した声できくと妹は少し考え込んだ。
「あ、えーと、それは正確じゃないかも。あのね、正確に言うと、ずっと若いままで生き続けることのできる病気にかかっているの」
「若いままで、生き続ける?」
「そう。いつまでたっても年をとらなくなるし、老衰で死ぬこともないようになるという病気」
「何だ、それは? 意味がわからないぞ」
普通、病気が寿命に関係すると言えば短くなる方向だろう。俺は起き上がって妹を見つめた。
「実はあのウィルスにはテロメラーゼの遺伝子部分を一部書き換える遺伝子を組み込んでいたの。それが考えた以上にうまく働いていて、お兄ちゃんの細胞の中のテロメアが伸びていたのよ」
「テロメア?」
単語を聞き返す。いきなりわからない言葉で説明されても困るのだ。
「生物の寿命をつかさどる遺伝子よ。細胞分裂するにつれて短くなるの。それが生物の老化の原因なのよ」
「それが伸びた?」
「そうなの。しかも新しいテロメラーゼの働きで、短くなると自動修復するのよ」
「へええ」
どうやら大変なことになっているらしいことが見えてきた。
「しかも、テロメラーゼが活性化しているのに細胞がガン化しなくてね。ちゃんとアポトーシスも起こっているの」
また、わからない言葉が出た。
「もう少しわかりやすく言ってくれ」
「テロメアを修復する酵素がテロメラーゼっていうんだけど、これが活性化している細胞の代表例がガン細胞なの。ガン細胞は死なない細胞でそれが増え続けるから体にとっての異常になるのね。異常な細胞は普通は自発的に壊れることで体を守るのだけど、ガン細胞ではこれがおこらないの。で、この異常な細胞が自発的に壊れることをアポトーシスというのよ」
まだよくわからないが、ここはわかったことにしておこう。兄の威厳というものも大切にしないといけない。
「それで?」
「それでね。理子が作った新しい遺伝子による新型のテロメラーゼというのがテロメアを常に自動修復して細胞を老化させない上に、細胞に異常が起きてもきちんとアポトーシスしてガンにならないと、そういうわけなの」
「ええと……」
病気で重たい頭で懸命に考えた。つまり老化しないようになって、しかも何も体に異常が起きないということだろうか。
「つまり、不老不死になったということか?」
妹は首を傾けた。
「それはちょっと違うかも。まず、必ず死なないとは言えないの。だって、体が若いままでも他の病気や事故で死ぬかもしれないから。例えば、日本人の死因は一九八〇年ごろに悪性新生物、つまりガンが他の病気を抜いてトップになったけれど、これは日本人が長寿になったことが原因の一つだと言われているのね。ガンの因子は多くの人が持っていて寿命が短いうちはその因子が発現する前に亡くなっていたのに寿命が長くなったために因子が発現して発ガンする率が上がったという考えがあるの。こういう、歳を重ねることでリスクが増す病気もあるのよ。まあ、そういう病気をおいておくにしても、長く生きることで病気や事故にあう確率は上がるわけだから死なないかと言えば正直約束できないの。それから老いないということだけど、これも脳なんかは大人になると細胞が減る一方だと言われてるからそういうところは老化するかもしれないの」
妹の長広舌が耳を素通りして行く。その中から、かろうじて引っかかってきた単語を頭の中で組み立ててみる。
「そうなのか」
俺は自分の顎をなでた。要は死なないわけじゃないし、老化する器官もあるということらしい。しかし、体が若いままというのはそれだけで凄いことじゃないか。
「でも、体が若ければ年をとった体よりも病気にかかりにくくなるんじゃないか。事故にあう確率にしても、若い体の方があいにくいし、事故にあっても無事で済む確率がたかいだろう」
妹に反論してみる。才気あふれる幼い顔の少女は一瞬考え込んでから答えた。
「そうね。確かにその通りよ。それに細胞が若ければガンを発症するリスクを抑えられるかもしれない。そういえば、脳の細胞もやりようによっては若いままの状態を維持できるという研究もあるの」
ため息が出た。
「なんだかすごいことになっているんだな、俺の体」
素直に感想を述べて手をぐっと握った。力がみなぎってくるような気がする。
「そういうこと」
妹は鼻高々だ。今朝泣き顔で死を口にした面影はみじんもない。
「はぁ」
俺は両手を開いて掌を見つめた。この体が年をとらなくなったのか。
「俺の体は今の十六歳のままなのか?」
「老化しなくなるというだけだから、二十歳すぎまで成長はすると思うよ。その後、変化しないというだけだよ」
「そうなんだ」なんだか実感がわかない。
母が妹を呼ぶ声が聞こえた。
「理子。お味噌汁温めたわよ! 早く食べなさい!」
妹が戸口の方に行く。
「じゃあね、お兄ちゃん」
「おい」
俺は妹を呼びとめた。
「この症状はいつおさまるんだ? もしかしてこれも一生とか言うんじゃないだろうな」
妹はにっこりと笑った。
「大丈夫だよ。お兄ちゃんの体がウィルスと戦っているから症状が出てるの。しばらくしたらウィルスに勝って症状はおさまるよ」
「しばらくっていつだよ」
「普通の風邪と変わらないとおもうから、あと二、三日ってところかな」
言い終えると、妹は機嫌よく部屋を出ていった。
その晩俺はあまりよく眠れなかった。
歳をとらないということから、小さいころから漠然と持っていた死への恐怖が薄らいだ一方で、若いままで居続けられるという自分の人生に戸惑いを感じたのだ。まわりの人たちが老いて死んでいく中で自分だけ若いままで生き続けるのはどんな気分だろう。周囲の人たちに変な目で見られないだろうか。いや、それ以前に遺伝子の組み換えを受けたことで、周囲から「遺伝子組み換え人間」として迫害を受けやしないだろうか。そうなるとこの病気のことは当面誰にも言わないほうがいいのだろうか。
そんな考えばかりが頭の中にわいてきて、気持ちが落ち着かなかったのだ。ベッドに横になったまま一時間以上も眠れずにいて、このまま永遠に眠れないんじゃないかと思うほどだった。
結局眠りについたのは夜中二時くらいだったようだ。