売らない絵 -『俺は三角形』短編 -
「あ、この青、好き」
美晴が足を止めた。
喫茶店と靴の修理屋に挟まれた、細い階段の前だった。絵画の展示のポスターが壁に小さく貼られていた。青い四角の上に、黄色の三角形。赤や白の丸が、いくつも重なっている。
「ちょっと見ていかない?」
「いいよ」
美晴が先に階段を上がった。俺は、その後ろについていった。
このあと一時間以上も出てこないことになるとは、まだ思っていなかった。
俺の名前は葛西湊。大学生で、先を上がっていく遠野美晴は、俺の恋人である。
彼女の声も、歩き方も、俺はよく知っている。
顔だけが、分からない。美晴だけじゃなく、誰の顔も。
十九歳の夏、自転車で転んで頭を打った。それ以来、人の顔を、顔として受け取れなくなった。
相貌失認という。
目や鼻は分かるが、顔だけでは誰だか分からない。一文字ずつは分かるのに、何が書いてあるのか分からない本を読んでいるのに似ている。
その代わり、妙なものが見えるようになった。
三角形である。それが人の体に重なって見える。
今、階段を上がっていく美晴にも淡く重なって、内外に、七つの光が見える。体が動けば、三角形も形を変え、光も動く。
美晴のそれは、いつも少し先へ行きたがる。踊り場で俺を振り返ったときにも、肩のそばの光が、顔より先にこっちを向いた。
「どうしたの?」
「いや」
「早く来ないと置いてくよ」
言いながら、もう置いていっていた。
※
二階は、小さな画廊だった。
白い壁に、二十枚ほどの絵が掛かっている。どれもポスターと同じように、図形を組み合わせたものだった。雨上がりの商店街から入ってくると、絵の色がひときわ明るく見えた。
受付の男の人が、本を伏せて立った。
灰色の髪に、紺のシャツ。背が高く、にょきにょきと立ち上がると、受付の机が急に低くなったような気がした。
「どうぞ。ゆっくり見ていってください」
外国の瞳。だが日本語は滑らかだった。
奥では、髪をひとつにまとめた女性が、画集を積み直していた。俺たちに気づくと、小さく会釈をした。
美晴が受付で案内の紙を一枚もらった。
マテオ・ヴィダル遺作展、とあった。スペインの画家で、二年前、四十一歳で亡くなっていた。
入口にいちばん近い絵は、灰色とオレンジ色を多く使っていた。
細長い三角形を囲むように、丸と四角が散っている。美晴はその前でしばらく立ち止まったが、俺は、隣の大きな絵に目を取られた。白い地に、青い三角形。そこへ、赤、黄、緑の円や四角が置かれている。
俺は思わず一歩、近づいた。
重なっていた。
色や形の話ではない。
「湊?」
「これ、全部、合わせてある」
「何に?」
「真ん中。ほかの図形の真ん中を、この三角形の中心に合わせてあるんだ」
美晴が隣へ来た。
「三角形の中心って、七つあるやつ?」
「そう」
三角形には、七つの心がある。
重心、外心、垂心、内心。それに三つの傍心。傍心を一種類と数えて、数学では五心と呼ぶ。
俺の目には、それらが淡い光を灯して見えるのである。
彼女には、俺の目のことを話してある。
「適当に置いてあるんじゃない。どれもぴったり重なってる」
円や四角は、真ん中に一つずつ。
その一つずつが、青い三角形の七つと、ぴったり同じ場所にあった。
赤い円の中心が、三角形の重心に。
黄色い四角の中心が、内心に。
三角形から遠く離れた緑の円の中心も、傍心のひとつと重なっていた。
「大きさは違っていいんだ。形も。でも、ここじゃなきゃ駄目なんだ」
「すごく褒めてる?」
美晴は絵を見てから、俺を見た。
「うん。ずっと見てたくなる」
視界に図形が多くなると、灯る光がふえていく。それは賑やかで綺麗なこともあるけれど、疲れることもある。この絵はちがった。光同士が穏やかに寄り添っていて、図形の数がふえても光の数は同じままだ。とても力強いのに、見ていると落ち着くような気がした。
次の絵には、大小九つの円があった。九つの中心は、一つの輪をつくっていた。輪そのものが描かれているわけではない。だがその輪は、中央に描かれた三角形に固有のものだった。
九点円。三辺の中点など、九つの特別な点を通る円である。俺には見覚えがある。数学科の友人に教わり、自分でも何度も描いている。
もう一枚、隣へ移ると、三角形の三つの頂点を通る、細い輪。その輪の上に、赤い円の中心があった。そこから三辺に垂線を下ろしたところに、ちょうど小さな四角形の中心が重なっていた。
俺は、いつもするように、すっと焦点を外して絵をながめた。三つの四角の中心をつらぬいて、直線が淡く輝いた。
シムソン線だ。描かれていない線が、絵の中を通っていた。
そこへ来るまで、俺は色とりどりの図形が、ただ重ねてあるのだと思っていた。今は、隣り合った図形が、どれも手をつないでいるように見えた。
「すごいな」
口から出たのは、それだけだった。
値札があった。十五万円。
数字を見て、一度はちゃんと驚いたのだが、それでも目が絵へ戻ってしまった。
「買う?」と美晴が小声で訊いた。
「買えない」
「だよね」
「でも、欲しいな」
美晴は黙って、もう一度、絵を見た。
※
入口近くの、灰色とオレンジ色の絵へ戻った。
さっき美晴が立ち止まっていた一枚だ。
中心にある細長い三角形が、少し横へ傾いている。その周りの図形には大きさのばらつきがあって、余白も広い。整然とした配置だったほかの絵に比べると、どこか、くつろいでいた。
右の光が高い。左の外の点が、長く張り出している。
俺は受付を見た。
男の人は、また本を読んでいた。左の肘を机につき、右手で本の端を押さえている。顔を少し斜めに向け、体重を、片方へ預けていた。その体に重なった三角形を見てから、絵へ目を戻した。
「ねえ」と美晴が言った。「これ、売ってないんだって」
スペイン語であろうタイトル “La tarde" の横に『午後』と日本語でも題されていた。値段があるはずのところには非売品とある。
「その絵が、気になりますか」
男の人が、本を閉じて来ていた。
立つと、三角形がすっと縦に伸びた。
「はい。もしかして、これは……人を描いたものなんじゃないかな、と」
男の人は、しばらく黙っていた。
「たしかに……弟は、そう言っていた」
「弟」
「この絵の作者、マテオです。僕は兄です。ダニエルといいます」
俺と美晴も名乗った。
ダニエルさんは、絵へ目を戻した。
「マテオは僕を描いたんだそうです。僕には、その意味がよく分からなかったけど」
「あの……少し、座ってみてもらっていいですか」
俺は言った。
「座る?」
「はい。さっきみたいに、左の肘をついて」
妙な頼みだったと思う。
だがダニエルさんは、受付へ戻り、椅子に座った。左の肘を机に置いた。
「こう?」
「はい。本も、持ってもらって」
本を開くと、肩が少し落ちた。長い三角形が、横へ傾く。外にある光が張り出す。
やっぱり、と俺は思った。絵の中と、よく似た形になった。オレンジ色の大きな丸が、ずいぶん片隅へ寄せてある理由も、分かった。そこでいいのだ。この人が今の姿勢でいるとき、傍心はちょうどそこへ来る。
「似てます」
俺は言った。
「すごく、似てます」
ダニエルさんが本を下ろした。
「弟にも、そう言われたよ」
彼は短く笑った。
「これを描くとき、十五分だけ、本を読んでいてくれって言うんだ。それで読んでいたら、いつまでも終わらないし、姿勢を変えるなって怒られるし。ページくらいめくるでしょう」
「それは、そうですね」
「だから完成した絵を見せられたときにね、これなら僕がいなくても描けただろうと言った。弟は、ちょっとむっとしていた」
ダニエルさんが、俺と絵を交互に見た。
「でも、やはり、そこにいないと描けなかった。そういうことかい」
俺はうなずいた。
ダニエルさんは本を机へ置いた。
「でも、どうして君にそれが分かるんだろう」
※
俺は、自分の目の話をした。
事故のあと、人の顔が分からなくなったこと。物の中心に光が見えること。三角形には七つ見えること。
そして、人の体にも、同じように三角形と七つの光が重なっていること。
初対面の人に、こんなに一度に話すのは初めてだった。途中で、話がずいぶん長くなっていることに気づいた。だがダニエルさんは、目をそらさず聞いていた。美晴も隣にいて、ときどき、俺が指さす場所を見た。
「弟の絵の前で、あんなに長く立っていた人は、君が初めてだ」
話が途切れると、ダニエルさんが言った。
「色を褒めてくれる人はいる。僕にも、あの色は綺麗だと思う。ただ、丸や三角を、どうしてそこへ置いたのか訊く人はいなかった。僕も分からなかった」
彼は、壁を一巡するように見た。
「弟は、見たとおりに描いたとしか言わなかった。誰もが抽象芸術だと思っていた」
俺は『午後』へ目を戻した。
絵の中のダニエルさんは、まだ本を読んでいた。
「画家の言う『見たとおり』って、何か特別な意味があるんだと思っていた。弟は数学者じゃないし、僕は絵描きじゃない。ただ、そういうものかなと」
「俺にも、見えます」
自分でも、驚くほど強い声だった。
「全部がマテオさんが見ていたものと同じかどうかは分かりません。でも、図形がただ並んでるわけじゃないんです。ここにあるのはどれも、ちゃんと……」
言葉が詰まった。
ちゃんとしている、とは何だ。小学生の感想である。
もっと正確に言いたかった。だがそれを言い表せる言葉が出てこなくて、俺は手のひらを見た。だがそこに書いてあるわけでもない。あきらめて握った。
「分かった」
ダニエルさんは言った。
「君の言うことを信じます。絵の前にいた君を、僕もずっと見ていたから」
俺は、息を吐いた。
美晴の手が、背中に少し触れた。
「僕は日本に来て二十年になるけど、弟は日本語を覚えなかった。こんにちはと、ありがとうくらいだ。個展ができたら、僕が全部通訳してやるつもりだった」
受付に置かれた案内の紙の角を、彼は揃えた。
「結局、本人は来られなかった。それで、絵だけ連れてきたんです」
壁の絵を、もう一度見た。
さっきまで、この人の絵をもっと見たい、と思っていた。
会ってみたい、と考えたときに、もう会えないことが、ようやく俺の中へ入ってきた。
※
奥の壁に、青い絵があった。
入口のポスターに使われていた一枚だ。
近くへ行くと、青は一色ではなかった。深い青の上に、薄い青が重なっている。ところどころに白い地が残され、それが明るく光って見えた。
中央に、金色に近い黄色の三角形。その内外の七つの場所に、小さな円や四角が置かれていた。さっきの『午後』よりも、それぞれの色が薄い。重なるところでは、下の色が透けている。
そこから、一筋の線が下りていた。
俺は、息を止めた。
外心から下りる、細い糸。その先を中心に、円が広がっている。円の内側に、床へ置かれた三角形。その三角形に、さらに小さな円が重なっていた。
九点円。
そこへ、内側から一つ、外側から三つの円が触れている。淡い色で重ねられた輪は、一か所ずつ互いに触れ合っていた。その接し方に、見覚えがあった。
俺は大学で合気道をやっている。
人の体に見える光を追っているうちに、足元にも図形があることに気づいた。相手が動けば、それも動く。円の関係を読みながら、相手に触れ、自分も動く。そんな稽古をしてきた。
その、俺しか見ていないはずのものが、額の中にあった。
細い線へ目を寄せた。
線の端に、絵筆が残した小さな膨らみがあった。
俺の目が、絵の上に光を足しているのではない。本当に、描いてあるのだ。
「湊」
美晴が袖を引いた。
近づきすぎていた。俺は一歩下がった。
もう一度、絵の全体が目に入った。細い糸が、ひとりの人を、足元の広がりへつないでいる。円はつながりながら周りへ開き、輪の外側では青が深くなっていた。
形はどれも見たことがあるものばかりだった。なのに、こんなものを見たことはなかった。俺には、こうは描けない。
見ているうちに、胸の奥が苦しくなった。美しいと思った。
俺の目に見えるぜんぶが、俺をこの絵の前へ連れてきたのだという気がした。
隣で、美晴が小さく息を吐いた。
「この青、すごく広いね」
題は『青い部屋』。
これも、非売品だった。
「ひとつ、たずねてもいいですか」
ダニエルさんは、うなずいた。
「この作品……これはいったい、どなたを描いたものなんですか」
彼は、奥にいた女性を見た。
「君は迷いなく、これが誰かを描いたものだと言うんだね。これはエレナ。弟の妻です」
女性は、画集を持ったまま、こちらを見ていた。
ダニエルさんに呼ばれて、エレナさんが来た。
俺たちへ、もう一度、小さく頭を下げた。
「こんにちは」
少し慎重に発音してから、ダニエルさんに何か言った。声は、俺が思っていたより低かった。
「エレナは挨拶くらいしか日本語ができません。僕が訳します」
俺たちも挨拶をした。
ダニエルさんは、君の目のことを話してもいいか、と訊いた。俺はうなずいた。聞き取れない言葉が、二人のあいだを行き来した。
エレナさんは、最初、俺を見ていた。やがて絵へ目を移し、ダニエルさんに短く問い返した。
「君には、これが人に見えるのかって」
「はい」
俺は、絵の中央を指さした。
「体の周りに光があって、それから、床にも……俺には、こういうものが見えます」
エレナさんが、絵の下半分へ目を落とした。
「床にも?」
ダニエルさんが訳した
「はい。この細い線で、つながっているんです」
エレナさんは、額へ近づいた。俺には、彼女の顔が分からない。
彼女は描かれた線を目でたどり、小さな丸や四角を一つずつ見ていた。
やがて、彼女は話し始めた。
「この絵を描いていたときのことを、覚えているそうです」
ダニエルさんが言った。
「十五分だけ、座っていてくれって、弟が頼んだんだって」
エレナさんは、自分の腕時計のあるはずの場所を指で叩いた。腕時計はしていなかった。
「一時間たっても、まだ描いていたそうです」
「お兄さんのときと、一緒ですね」
美晴が笑って言った。ダニエルさんがエレナさんへそれを伝えたらしい。二人が笑い合った。
「十五分は、弟の言う『もう少し』と同じだ。時間の長さじゃないんだよ」
エレナさんは、まだ何か言っていた。
「台所の椅子を、窓のそばへ持っていって座った。外を見ていていいと言われたから、見ていたんだって。小さな部屋で……」
彼女が両手を広げ、幅を示した。
「そっちのお嬢さんが、青が広いって言っていたね。だがあの部屋は、広くはなかったそうだ」
「そうなんですね。絵だと、すごく広く見えます」と美晴は言った。
エレナさんは絵を見て、ゆっくりうなずいて、答えた。
「そうですね」
ダニエルさんが訳した。少し間があった。
「窓は、開いていたそうです」
※
マテオは窓のそばに椅子を置き、妻を座らせた。
出かける前の、午後。エレナは、膝に読みかけの本を載せていた。読んでいいとは言われたが、すぐに外を見るように頼まれた。それなら、なぜ持ってこさせたのかと訊くと、別に持ってこいとは言っていない、と返ってきた。
ダニエルさんが訳しながら笑った。
「弟が言いそうなことだ」
エレナさんも笑い、まだ何か付け足した。
「エレナも、同じことを思ったらしい」
俺たちには聞こえなかった夫婦の会話が、白い壁の前で、少しずつ声になる。窓の外には、向かいの家の白い壁があった。洗濯物の影が風に揺れるのを、エレナは見ていた。
十五分は、なかなか終わらなかった。風が冷たくなり、マテオが窓を閉めようとした。エレナは、もう少し開けておくよう頼んだ。何もしないで座っているうち、眠くなっていたのだ。
「寝たら、姿勢が変わってしまうでしょう」
ダニエルさんが訳すと、エレナさんは右肩を落とし、椅子で眠る真似をした。
美晴が口元へ手を当てた。ダニエルさんも笑った。
その日、出かける予定は取りやめになった。マテオは後で謝ったが、絵を見せるときには、もう機嫌がよかった。ずっと座らされていた妻のほうが、むしろ少し機嫌を損ねていた。
「だけど、綺麗だったんですって。色が、とても」
ダニエルさんの声が、少し静かになった。
俺たちは壁の絵をみた。
「でも、どこが自分なのか分からなかった。私は丸くも四角くもないわよって、言ったんだって」
マテオは妻の隣へ絵を持っていき、比べて見せるようにして言った。
「僕には、君がこんなふうに見えるんだ」
エレナさんは絵を見つめ、その言葉をもう一度つぶやいた。
アシー・エス・コモ・テ・ベオ。
ダニエルさんは、二度目は訳さなかった。
※
「この絵を、買いたいと言った人もいたんです」
ダニエルさんが言った。
「生きているころにね。いい話だったから、僕も勧めた。弟は嬉しそうだったよ。でも、これは売らないって」
彼は入口の『午後』を見た。
「あれもだよ。頼まれても、ほかの絵を選んでほしいって言っていた。これは置いておきたい、と」
エレナさんが、ダニエルさんの視線を追った。それから、絵の下の非売品という文字を見て、何か言った。
その言葉に、ダニエルさんは小さくうなずいた。
「この二枚は、ずっと家に掛かっていたそうだ。僕の絵は、よく来客に見せていたんだって。兄だと言って」
彼は笑いかけて、途中で口を閉じた。
「変な弟だと、思っていた」
エレナさんは、壁から少し離れた。俺たちのあいだに入るように並び、四人で絵を見た。
絵の中の彼女は、窓のそばにいた。その体から下りた細い糸が、床の輪へつながっている。七つの色も、足元の円も、何年も前に描かれた場所で、その人を支えていた。
そのそばに、マテオという人がいたのだ。
十五分と頼んで、十五分では描き終えられず、妻に怒られ、窓を閉めようとして止められた。この青も、この細い線も、全部、その人が置いた。
俺は、会ってみたかった。
同じものが見える人に、初めて会えたと思ったのに。教えてほしいことだって、話したいことだって、いくらでもあったのに。
エレナさんが何か言った。
ダニエルさんは、しばらく訳さなかった。
彼女がもう一度、静かに言うと、彼は息を吸った。
「彼女は、夫に……」
そこで、少し待った。
「似ていると、言ってあげたかったそうです」
俺は絵を見ていた。
返事ができなかった。エレナさんが、指の腹で目の下を拭った。それから、俺のほうを向いた。
短い問いがあった。
「本当に似てますか」
俺は、目の前の人を見た。
彼女は片足へ少し重さを移し、絵のほうへ顔を向けていた。体の三角形が、なだらかに傾いた。その形の中に、絵で見ていた人がいた。
「はい」
俺は答えた。
「よく似ています」
ダニエルさんが訳した。
エレナさんは、うなずいて、絵へ向き直った。彼女は泣いていた。でも口元は、少し笑っていた。
ダニエルさんが、ハンカチを出した。エレナさんに渡すのかと思ったら、自分の目を拭いた。それを見て、エレナさんが泣きながら笑った。
俺もポケットから自分のハンカチを出した。
美晴の手が、俺の手をとった。握り返すと、ぎゅっと力が入った。
俺たちは、しばらく、その絵の前にいた。
※
帰り際、受付に並んだ絵葉書を買った。
『青い部屋』と『午後』を一枚ずつ。
美晴も同じものを選んだ。原画には手が届かないが、一枚二百円なら買える。
「この絵が貼ってあったから、入りたくなったんです」
美晴が言った。
「この青、好きだなって」
ダニエルさんは、うなずいた。
「ポスターに選んでよかった。弟はこの絵を売らなかったけど、見せるのは好きだったんです」
彼は、絵葉書を袋へ入れた。
「エレナがね、この展示が終わったら、あの絵を掛ける場所を変えようって」
「どこに?」
「台所から見えるところ」
エレナさんが、彼の隣から絵葉書のラッピングを差し出した。
「ありがとう」
さっきより、少しはっきりした日本語だった。
「こちらこそ」
俺は言った。
「マテオさんの絵、見られてよかったです」
ダニエルさんは、エレナさんへ言葉を渡した。
エレナさんが、袋を持った俺の手に、そっと手を添えた。
※
外へ出ると、商店街の看板に灯が入っていた。靴の修理屋はまだ開いていて、喫茶店からは珈琲の匂いがした。
美晴は、絵葉書の入った袋を両手で持っていた。
俺もしばらく鞄へしまえずにいた。
「ねえ、湊」
「うん」
「あとで、私も描いてくれない?」
俺は美晴を見た。
彼女の体に、見慣れた三角形が重なっている。
「あんなふうには、描けないよ」
「うん」
美晴は待っていた。
俺は絵葉書を、鞄の本のあいだへ、そっと挟んだ。
「じゃあ色鉛筆、買って帰ろうか」
美晴の肩のそばで、光が跳ねた。
きっと〇・五秒後に笑う。それを待つことなく、俺は彼女の手を取った。




