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俺は三角形

売らない絵 -『俺は三角形』短編 -

作者: 森 高陽
掲載日:2026/10/12

「あ、この青、好き」

 美晴が足を止めた。

 喫茶店と靴の修理屋に挟まれた、細い階段の前だった。絵画の展示のポスターが壁に小さく貼られていた。青い四角の上に、黄色の三角形。赤や白の丸が、いくつも重なっている。

「ちょっと見ていかない?」

「いいよ」

 美晴が先に階段を上がった。俺は、その後ろについていった。

 このあと一時間以上も出てこないことになるとは、まだ思っていなかった。


 俺の名前は葛西湊。大学生で、先を上がっていく遠野美晴は、俺の恋人である。

 彼女の声も、歩き方も、俺はよく知っている。

 顔だけが、分からない。美晴だけじゃなく、誰の顔も。

 十九歳の夏、自転車で転んで頭を打った。それ以来、人の顔を、顔として受け取れなくなった。

 相貌失認という。

 目や鼻は分かるが、顔だけでは誰だか分からない。一文字ずつは分かるのに、何が書いてあるのか分からない本を読んでいるのに似ている。


 その代わり、妙なものが見えるようになった。

 三角形である。それが人の体に重なって見える。

 今、階段を上がっていく美晴にも淡く重なって、内外に、七つの光が見える。体が動けば、三角形も形を変え、光も動く。

 美晴のそれは、いつも少し先へ行きたがる。踊り場で俺を振り返ったときにも、肩のそばの光が、顔より先にこっちを向いた。

「どうしたの?」

「いや」

「早く来ないと置いてくよ」

 言いながら、もう置いていっていた。


  ※


 二階は、小さな画廊だった。

 白い壁に、二十枚ほどの絵が掛かっている。どれもポスターと同じように、図形を組み合わせたものだった。雨上がりの商店街から入ってくると、絵の色がひときわ明るく見えた。


 受付の男の人が、本を伏せて立った。

 灰色の髪に、紺のシャツ。背が高く、にょきにょきと立ち上がると、受付の机が急に低くなったような気がした。

「どうぞ。ゆっくり見ていってください」

 外国の瞳。だが日本語は滑らかだった。


 奥では、髪をひとつにまとめた女性が、画集を積み直していた。俺たちに気づくと、小さく会釈をした。

 美晴が受付で案内の紙を一枚もらった。

 マテオ・ヴィダル遺作展、とあった。スペインの画家で、二年前、四十一歳で亡くなっていた。


 入口にいちばん近い絵は、灰色とオレンジ色を多く使っていた。

 細長い三角形を囲むように、丸と四角が散っている。美晴はその前でしばらく立ち止まったが、俺は、隣の大きな絵に目を取られた。白い地に、青い三角形。そこへ、赤、黄、緑の円や四角が置かれている。


 俺は思わず一歩、近づいた。

 重なっていた。

 色や形の話ではない。


「湊?」

「これ、全部、合わせてある」

「何に?」

「真ん中。ほかの図形の真ん中を、この三角形の中心に合わせてあるんだ」

 美晴が隣へ来た。

「三角形の中心って、七つあるやつ?」

「そう」


 三角形には、七つの心(しん)がある。

 重心、外心、垂心、内心。それに三つの傍心。傍心を一種類と数えて、数学では五心と呼ぶ。

 俺の目には、それらが淡い光を灯して見えるのである。

 彼女には、俺の目のことを話してある。


「適当に置いてあるんじゃない。どれもぴったり重なってる」

 円や四角は、真ん中に一つずつ。

 その一つずつが、青い三角形の七つと、ぴったり同じ場所にあった。

 赤い円の中心が、三角形の重心に。

 黄色い四角の中心が、内心に。

 三角形から遠く離れた緑の円の中心も、傍心のひとつと重なっていた。

 

「大きさは違っていいんだ。形も。でも、ここじゃなきゃ駄目なんだ」

「すごく褒めてる?」

 美晴は絵を見てから、俺を見た。

「うん。ずっと見てたくなる」


 視界に図形が多くなると、灯る光がふえていく。それは賑やかで綺麗なこともあるけれど、疲れることもある。この絵はちがった。光同士が穏やかに寄り添っていて、図形の数がふえても光の数は同じままだ。とても力強いのに、見ていると落ち着くような気がした。


 次の絵には、大小九つの円があった。九つの中心は、一つの輪をつくっていた。輪そのものが描かれているわけではない。だがその輪は、中央に描かれた三角形に固有のものだった。

 九点円。三辺の中点など、九つの特別な点を通る円である。俺には見覚えがある。数学科の友人に教わり、自分でも何度も描いている。


 もう一枚、隣へ移ると、三角形の三つの頂点を通る、細い輪。その輪の上に、赤い円の中心があった。そこから三辺に垂線を下ろしたところに、ちょうど小さな四角形の中心が重なっていた。

 俺は、いつもするように、すっと焦点を外して絵をながめた。三つの四角の中心をつらぬいて、直線が淡く輝いた。

 シムソン線だ。描かれていない線が、絵の中を通っていた。


 そこへ来るまで、俺は色とりどりの図形が、ただ重ねてあるのだと思っていた。今は、隣り合った図形が、どれも手をつないでいるように見えた。

「すごいな」

 口から出たのは、それだけだった。

 値札があった。十五万円。

 数字を見て、一度はちゃんと驚いたのだが、それでも目が絵へ戻ってしまった。

「買う?」と美晴が小声で訊いた。

「買えない」

「だよね」

「でも、欲しいな」

 美晴は黙って、もう一度、絵を見た。


  ※


 入口近くの、灰色とオレンジ色の絵へ戻った。

 さっき美晴が立ち止まっていた一枚だ。

 中心にある細長い三角形が、少し横へ傾いている。その周りの図形には大きさのばらつきがあって、余白も広い。整然とした配置だったほかの絵に比べると、どこか、くつろいでいた。

 右の光が高い。左の外の点が、長く張り出している。


 俺は受付を見た。

 男の人は、また本を読んでいた。左の肘を机につき、右手で本の端を押さえている。顔を少し斜めに向け、体重を、片方へ預けていた。その体に重なった三角形を見てから、絵へ目を戻した。

「ねえ」と美晴が言った。「これ、売ってないんだって」

 スペイン語であろうタイトル “La tarde" の横に『午後』と日本語でも題されていた。値段があるはずのところには非売品とある。


「その絵が、気になりますか」

 男の人が、本を閉じて来ていた。

 立つと、三角形がすっと縦に伸びた。

「はい。もしかして、これは……人を描いたものなんじゃないかな、と」

 男の人は、しばらく黙っていた。

「たしかに……弟は、そう言っていた」

「弟」

「この絵の作者、マテオです。僕は兄です。ダニエルといいます」

 俺と美晴も名乗った。

 ダニエルさんは、絵へ目を戻した。

「マテオは僕を描いたんだそうです。僕には、その意味がよく分からなかったけど」

「あの……少し、座ってみてもらっていいですか」

 俺は言った。

「座る?」

「はい。さっきみたいに、左の肘をついて」

 妙な頼みだったと思う。

 だがダニエルさんは、受付へ戻り、椅子に座った。左の肘を机に置いた。

「こう?」

「はい。本も、持ってもらって」

 本を開くと、肩が少し落ちた。長い三角形が、横へ傾く。外にある光が張り出す。

 やっぱり、と俺は思った。絵の中と、よく似た形になった。オレンジ色の大きな丸が、ずいぶん片隅へ寄せてある理由も、分かった。そこでいいのだ。この人が今の姿勢でいるとき、傍心はちょうどそこへ来る。

「似てます」

 俺は言った。

「すごく、似てます」

 ダニエルさんが本を下ろした。

「弟にも、そう言われたよ」

 彼は短く笑った。

「これを描くとき、十五分だけ、本を読んでいてくれって言うんだ。それで読んでいたら、いつまでも終わらないし、姿勢を変えるなって怒られるし。ページくらいめくるでしょう」

「それは、そうですね」

「だから完成した絵を見せられたときにね、これなら僕がいなくても描けただろうと言った。弟は、ちょっとむっとしていた」

 ダニエルさんが、俺と絵を交互に見た。

「でも、やはり、そこにいないと描けなかった。そういうことかい」

 俺はうなずいた。

 ダニエルさんは本を机へ置いた。

「でも、どうして君にそれが分かるんだろう」


  ※


 俺は、自分の目の話をした。

 事故のあと、人の顔が分からなくなったこと。物の中心に光が見えること。三角形には七つ見えること。

 そして、人の体にも、同じように三角形と七つの光が重なっていること。

 初対面の人に、こんなに一度に話すのは初めてだった。途中で、話がずいぶん長くなっていることに気づいた。だがダニエルさんは、目をそらさず聞いていた。美晴も隣にいて、ときどき、俺が指さす場所を見た。


「弟の絵の前で、あんなに長く立っていた人は、君が初めてだ」

 話が途切れると、ダニエルさんが言った。

「色を褒めてくれる人はいる。僕にも、あの色は綺麗だと思う。ただ、丸や三角を、どうしてそこへ置いたのか訊く人はいなかった。僕も分からなかった」

 彼は、壁を一巡するように見た。

「弟は、見たとおりに描いたとしか言わなかった。誰もが抽象芸術だと思っていた」

 俺は『午後』へ目を戻した。

 絵の中のダニエルさんは、まだ本を読んでいた。

「画家の言う『見たとおり』って、何か特別な意味があるんだと思っていた。弟は数学者じゃないし、僕は絵描きじゃない。ただ、そういうものかなと」

「俺にも、見えます」

 自分でも、驚くほど強い声だった。

「全部がマテオさんが見ていたものと同じかどうかは分かりません。でも、図形がただ並んでるわけじゃないんです。ここにあるのはどれも、ちゃんと……」

 言葉が詰まった。

 ちゃんとしている、とは何だ。小学生の感想である。

 もっと正確に言いたかった。だがそれを言い表せる言葉が出てこなくて、俺は手のひらを見た。だがそこに書いてあるわけでもない。あきらめて握った。


「分かった」

 ダニエルさんは言った。

「君の言うことを信じます。絵の前にいた君を、僕もずっと見ていたから」

 俺は、息を吐いた。

 美晴の手が、背中に少し触れた。

「僕は日本に来て二十年になるけど、弟は日本語を覚えなかった。こんにちはと、ありがとうくらいだ。個展ができたら、僕が全部通訳してやるつもりだった」

 受付に置かれた案内の紙の角を、彼は揃えた。

「結局、本人は来られなかった。それで、絵だけ連れてきたんです」

 壁の絵を、もう一度見た。

 さっきまで、この人の絵をもっと見たい、と思っていた。

 会ってみたい、と考えたときに、もう会えないことが、ようやく俺の中へ入ってきた。


  ※


 奥の壁に、青い絵があった。

 入口のポスターに使われていた一枚だ。

 近くへ行くと、青は一色ではなかった。深い青の上に、薄い青が重なっている。ところどころに白い地が残され、それが明るく光って見えた。

 中央に、金色に近い黄色の三角形。その内外の七つの場所に、小さな円や四角が置かれていた。さっきの『午後』よりも、それぞれの色が薄い。重なるところでは、下の色が透けている。

 そこから、一筋の線が下りていた。

 俺は、息を止めた。

 外心から下りる、細い糸。その先を中心に、円が広がっている。円の内側に、床へ置かれた三角形。その三角形に、さらに小さな円が重なっていた。

 九点円。

 そこへ、内側から一つ、外側から三つの円が触れている。淡い色で重ねられた輪は、一か所ずつ互いに触れ合っていた。その接し方に、見覚えがあった。


 俺は大学で合気道をやっている。

 人の体に見える光を追っているうちに、足元にも図形があることに気づいた。相手が動けば、それも動く。円の関係を読みながら、相手に触れ、自分も動く。そんな稽古をしてきた。

 その、俺しか見ていないはずのものが、額(がく)の中にあった。

 細い線へ目を寄せた。

 線の端に、絵筆が残した小さな膨らみがあった。

 俺の目が、絵の上に光を足しているのではない。本当に、描いてあるのだ。

「湊」

 美晴が袖を引いた。

 近づきすぎていた。俺は一歩下がった。

 もう一度、絵の全体が目に入った。細い糸が、ひとりの人を、足元の広がりへつないでいる。円はつながりながら周りへ開き、輪の外側では青が深くなっていた。


 形はどれも見たことがあるものばかりだった。なのに、こんなものを見たことはなかった。俺には、こうは描けない。

 見ているうちに、胸の奥が苦しくなった。美しいと思った。

 俺の目に見えるぜんぶが、俺をこの絵の前へ連れてきたのだという気がした。


 隣で、美晴が小さく息を吐いた。

「この青、すごく広いね」

 題は『青い部屋』。

 これも、非売品だった。


挿絵(By みてみん)


「ひとつ、たずねてもいいですか」

 ダニエルさんは、うなずいた。

「この作品……これはいったい、どなたを描いたものなんですか」

 彼は、奥にいた女性を見た。

「君は迷いなく、これが誰かを描いたものだと言うんだね。これはエレナ。弟の妻です」

 女性は、画集を持ったまま、こちらを見ていた。


 ダニエルさんに呼ばれて、エレナさんが来た。

 俺たちへ、もう一度、小さく頭を下げた。

「こんにちは」

 少し慎重に発音してから、ダニエルさんに何か言った。声は、俺が思っていたより低かった。

「エレナは挨拶くらいしか日本語ができません。僕が訳します」

 俺たちも挨拶をした。

 ダニエルさんは、君の目のことを話してもいいか、と訊いた。俺はうなずいた。聞き取れない言葉が、二人のあいだを行き来した。

 エレナさんは、最初、俺を見ていた。やがて絵へ目を移し、ダニエルさんに短く問い返した。

「君には、これが人に見えるのかって」

「はい」

 俺は、絵の中央を指さした。

「体の周りに光があって、それから、床にも……俺には、こういうものが見えます」

 エレナさんが、絵の下半分へ目を落とした。

「床にも?」

 ダニエルさんが訳した

「はい。この細い線で、つながっているんです」

 エレナさんは、額(がく)へ近づいた。俺には、彼女の顔が分からない。

 彼女は描かれた線を目でたどり、小さな丸や四角を一つずつ見ていた。


 やがて、彼女は話し始めた。

「この絵を描いていたときのことを、覚えているそうです」

 ダニエルさんが言った。

「十五分だけ、座っていてくれって、弟が頼んだんだって」

 エレナさんは、自分の腕時計のあるはずの場所を指で叩いた。腕時計はしていなかった。

「一時間たっても、まだ描いていたそうです」

「お兄さんのときと、一緒ですね」

 美晴が笑って言った。ダニエルさんがエレナさんへそれを伝えたらしい。二人が笑い合った。

「十五分は、弟の言う『もう少し』と同じだ。時間の長さじゃないんだよ」

 エレナさんは、まだ何か言っていた。

「台所の椅子を、窓のそばへ持っていって座った。外を見ていていいと言われたから、見ていたんだって。小さな部屋で……」

 彼女が両手を広げ、幅を示した。

「そっちのお嬢さんが、青が広いって言っていたね。だがあの部屋は、広くはなかったそうだ」

「そうなんですね。絵だと、すごく広く見えます」と美晴は言った。

 エレナさんは絵を見て、ゆっくりうなずいて、答えた。

「そうですね」

 ダニエルさんが訳した。少し間があった。

「窓は、開いていたそうです」


  ※


 マテオは窓のそばに椅子を置き、妻を座らせた。

 出かける前の、午後。エレナは、膝に読みかけの本を載せていた。読んでいいとは言われたが、すぐに外を見るように頼まれた。それなら、なぜ持ってこさせたのかと訊くと、別に持ってこいとは言っていない、と返ってきた。

 ダニエルさんが訳しながら笑った。

「弟が言いそうなことだ」

 エレナさんも笑い、まだ何か付け足した。

「エレナも、同じことを思ったらしい」


 俺たちには聞こえなかった夫婦の会話が、白い壁の前で、少しずつ声になる。窓の外には、向かいの家の白い壁があった。洗濯物の影が風に揺れるのを、エレナは見ていた。

 十五分(・・・)は、なかなか終わらなかった。風が冷たくなり、マテオが窓を閉めようとした。エレナは、もう少し開けておくよう頼んだ。何もしないで座っているうち、眠くなっていたのだ。

「寝たら、姿勢が変わってしまうでしょう」

 ダニエルさんが訳すと、エレナさんは右肩を落とし、椅子で眠る真似をした。

 美晴が口元へ手を当てた。ダニエルさんも笑った。


 その日、出かける予定は取りやめになった。マテオは後で謝ったが、絵を見せるときには、もう機嫌がよかった。ずっと座らされていた妻のほうが、むしろ少し機嫌を損ねていた。

「だけど、綺麗だったんですって。色が、とても」

 ダニエルさんの声が、少し静かになった。

 俺たちは壁の絵をみた。

「でも、どこが自分なのか分からなかった。私は丸くも四角くもないわよって、言ったんだって」

 マテオは妻の隣へ絵を持っていき、比べて見せるようにして言った。

「僕には、君がこんなふうに見えるんだ」

 エレナさんは絵を見つめ、その言葉をもう一度つぶやいた。

 アシー・エス・コモ・テ・ベオ。

 ダニエルさんは、二度目は訳さなかった。


  ※


「この絵を、買いたいと言った人もいたんです」

 ダニエルさんが言った。

「生きているころにね。いい話だったから、僕も勧めた。弟は嬉しそうだったよ。でも、これは売らないって」

 彼は入口の『午後』を見た。

「あれもだよ。頼まれても、ほかの絵を選んでほしいって言っていた。これは置いておきたい、と」

 エレナさんが、ダニエルさんの視線を追った。それから、絵の下の非売品という文字を見て、何か言った。

 その言葉に、ダニエルさんは小さくうなずいた。

「この二枚は、ずっと家に掛かっていたそうだ。僕の絵は、よく来客に見せていたんだって。兄だと言って」

 彼は笑いかけて、途中で口を閉じた。

「変な弟だと、思っていた」


 エレナさんは、壁から少し離れた。俺たちのあいだに入るように並び、四人で絵を見た。

 絵の中の彼女は、窓のそばにいた。その体から下りた細い糸が、床の輪へつながっている。七つの色も、足元の円も、何年も前に描かれた場所で、その人を支えていた。

 そのそばに、マテオという人がいたのだ。

 十五分と頼んで、十五分では描き終えられず、妻に怒られ、窓を閉めようとして止められた。この青も、この細い線も、全部、その人が置いた。


 俺は、会ってみたかった。

 同じものが見える人に、初めて会えたと思ったのに。教えてほしいことだって、話したいことだって、いくらでもあったのに。


 エレナさんが何か言った。

 ダニエルさんは、しばらく訳さなかった。

 彼女がもう一度、静かに言うと、彼は息を吸った。

「彼女は、夫に……」

 そこで、少し待った。

「似ていると、言ってあげたかったそうです」

 俺は絵を見ていた。

 返事ができなかった。エレナさんが、指の腹で目の下を拭った。それから、俺のほうを向いた。

 短い問いがあった。

「本当に似てますか」

 俺は、目の前の人を見た。

 彼女は片足へ少し重さを移し、絵のほうへ顔を向けていた。体の三角形が、なだらかに傾いた。その形の中に、絵で見ていた人がいた。

「はい」

 俺は答えた。

「よく似ています」

 ダニエルさんが訳した。

 エレナさんは、うなずいて、絵へ向き直った。彼女は泣いていた。でも口元は、少し笑っていた。


 ダニエルさんが、ハンカチを出した。エレナさんに渡すのかと思ったら、自分の目を拭いた。それを見て、エレナさんが泣きながら笑った。

 俺もポケットから自分のハンカチを出した。

 美晴の手が、俺の手をとった。握り返すと、ぎゅっと力が入った。

 俺たちは、しばらく、その絵の前にいた。


  ※


 帰り際、受付に並んだ絵葉書を買った。

 『青い部屋』と『午後』を一枚ずつ。

 美晴も同じものを選んだ。原画には手が届かないが、一枚二百円なら買える。

「この絵が貼ってあったから、入りたくなったんです」

 美晴が言った。

「この青、好きだなって」

 ダニエルさんは、うなずいた。

「ポスターに選んでよかった。弟はこの絵を売らなかったけど、見せるのは好きだったんです」

 彼は、絵葉書を袋へ入れた。

「エレナがね、この展示が終わったら、あの絵を掛ける場所を変えようって」

「どこに?」

「台所から見えるところ」

 エレナさんが、彼の隣から絵葉書のラッピングを差し出した。

「ありがとう」

 さっきより、少しはっきりした日本語だった。

「こちらこそ」

 俺は言った。

「マテオさんの絵、見られてよかったです」

 ダニエルさんは、エレナさんへ言葉を渡した。

 エレナさんが、袋を持った俺の手に、そっと手を添えた。


  ※


 外へ出ると、商店街の看板に灯が入っていた。靴の修理屋はまだ開いていて、喫茶店からは珈琲の匂いがした。

 美晴は、絵葉書の入った袋を両手で持っていた。

 俺もしばらく鞄へしまえずにいた。


「ねえ、湊」

「うん」

「あとで、私も描いてくれない?」

 俺は美晴を見た。

 彼女の体に、見慣れた三角形が重なっている。

「あんなふうには、描けないよ」

「うん」

 美晴は待っていた。

 俺は絵葉書を、鞄の本のあいだへ、そっと挟んだ。

「じゃあ色鉛筆、買って帰ろうか」

 美晴の肩のそばで、光が跳ねた。

 きっと〇・五秒後に笑う。それを待つことなく、俺は彼女の手を取った。

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