家族公認の幼馴染が妹と付き合い始めたので、私は「将来のお嫁さん」を辞めました
「私たち、付き合うことになりました」
妹の美羽がそう言って、隣に座る颯太の腕へ自分の腕を絡めた。
夏休みに入って最初の日曜日。うちの居間には美羽と颯太、私の両親、それから颯太の両親まで揃っていた。母が張り切って作ったちらし寿司と唐揚げが食卓に並び、冷蔵庫にはお祝い用らしいケーキまで入っている。
何を祝うつもりなのだろう。妹と私の将来の夫と呼ばれてきた人の交際だろうか。
父は困ったように笑った後、向かいにいる私へ顔を向けた。
「菜月、そんな顔をするな。結婚までには落ち着くから」
「お父さん、それは慰めになってないと思う」
どうにか返すと、今度は颯太の母が身を乗り出した。
「若いうちにしかできない恋愛もあるでしょう? 颯太のお嫁さんは昔から菜月ちゃんって決まってるんだから、どんと構えていればいいのよ」
当の颯太まで照れくさそうに笑っている。
「そういうこと。美羽とは今、ちゃんと好きで付き合ってる。でも結婚するのは菜月だから、浮気とか、そういう変な話じゃないよ」
私は二十一歳で、颯太は二十二歳、美羽は十九歳だ。私たちの誰一人、結婚の約束を交わしたことはない。
幼稚園の七夕飾りに颯太が、なつきちゃんのおよめさん、と間違えて書いたことならある。両家の親はそれを二十年近く大事に取っておき、ことあるごとに将来のお嫁さんと私を呼んだ。
五歳児の書き間違いにずいぶん長く人生を預けたものである。
「私は颯太と結婚するつもり、ないよ」
居間が静かになったのは、ほんの一秒ほどだった。
「お姉ちゃん、やっぱり怒ってるじゃん」
美羽が頬を膨らませる。
「私から取る気はないよ。颯太くんと結婚するのはお姉ちゃんだって、ちゃんと分かってるもん」
「私が要らないと言ってるの」
「はいはい。今はそう思うよね」
母は唐揚げの皿を私の前へ押し、子どもをなだめる声を出した。
「菜月は昔から我慢して、あとで拗ねるところがあるから。今日は無理に笑わなくていいわよ。大学へ戻る頃には少し落ち着くでしょう」
拒絶まで嫉妬に変えてもらえるなら、私が話す意味はどこにあるのだろう。
席を立つと、父に食事の途中だとたしなめられた。颯太は追いかけてもこなかった。美羽の腕を外す方がかわいそうだと思ったのかもしれない。
私は二階の自室で荷物をまとめ、その日のうちに大学のある町へ戻った。
◇
翌日の三限は、近代文学の演習だった。
私は窓際の席で発表資料を直していた。明治期の雑誌に載った身の上相談を扱う予定で、回答者が相談者の意思より家同士の都合を優先する例を集めている。
今の私にぴったりで笑える。百年以上前の相談欄といい勝負をして、どうするのだろう。
スマートフォンが震え、母から写真が届いた。川辺で美羽と颯太が並び、一本のソフトクリームを二人で食べている。子どもの頃から両家で出かけていた渓谷だった。
続けて、来年は菜月も一緒に、という文が届く。
私が画面を消せずにいると、隣の席から手が伸びた。久保田悠真が私のスマートフォンを机の上でそっと伏せる。
「嫌なら見なくていいんじゃない」
「でも、母からだから」
「お母さんから来たものは、全部すぐ見なきゃいけないの?」
「……そんな決まりはないね」
「じゃあ、発表が終わるまでは裏返しておこう。あとで見たいと思ったら見ればいいし、思わなかったら、そのままで」
悠真はそれ以上尋ねず、自分の資料へ戻った。
同じ学科で二年続けて演習も一緒になった彼は、私が地元の幼馴染の話を嫌がることを知っている。一年生の自己紹介で出身地を言った時、同郷の学生から将来結婚する幼馴染がいる子だ、と勝手に紹介された。その場では笑って済ませたものの、悠真があとで、本当なの? と確かめてくれた。
私は家族がそう言っているだけ、と答えた。
彼は家族の冗談を私の予定として覚えなかった。私について覚えているのは、古い雑誌を読む時だけ付箋の色を細かく分けることや、餡の入った菓子が苦手なこと、休日には小さな映画館へ行くことだった。
「昨日貸してくれた本、面白かった。主人公が最後まで故郷へ帰らないの、菜月はどう思った?」
「よかったと思った。帰って分かり合う終わり方もあるけど、離れたまま生きるのも、その人が決めたならいいと思う」
「そっか」
悠真は頷き、私の答えを訂正しなかった。
たったそれだけのやり取りが、やけに胸へ残った。
演習が終わってからスマートフォンを見ると、家族のグループには写真が十七枚届いていた。美羽の浴衣を颯太が選んだ、二人で花火大会へ行く、菜月の分まで楽しんでくる、という報告が続いている。
私は長い説明を打つ代わりに、一文だけ送った。
颯太と結婚する意思はありません。今後、私を颯太の将来の相手として扱わないでください。
既読が六つつき、最初に返ってきたのは母の泣き笑いの絵文字だった。
その次に、美羽から、そんなに妬かなくても颯太くんは最後にはお姉ちゃんを選ぶよ、と届いた。
颯太の父は家族だからこそ言える冗談もある、と書いた。
私はスマートフォンを伏せた。
嫌なら見なくてよい。
それなら、嫌だと言った言葉を受け取らない人たちへ、同じ説明を何度も届けなくてもよいはずだった。
◇
颯太とは生まれた時から家が近く、小学校から高校まで同じだった。
彼が地元の友人と繋がっていられたのは、幼馴染だから自然に続いた結果だと、本人も周囲も思っていたらしい。
実際には、東京の専門学校へ進んだ颯太が帰省するたび、私が日程を聞いて同級生へ連絡していた。成人式の集まりでは、遅刻した彼の代わりに店へ謝った。高校のサッカー部仲間が就職で悩んでいた時は、颯太も誘って四人で食事をした。彼の母から誕生日の好みを聞かれれば、最近欲しがっていた靴の形まで伝えた。
やめると決めてみれば、どれも私が続ける必要のないことだった。
八月半ば、高校時代の友人である真帆から、秋の連休に集まらないかと連絡が来た。
私は大学の予定があるから帰れないこと、颯太の日程は本人へ聞いてほしいことを返した。
すぐに電話がかかってきた。
「菜月、何かあった? 颯太に聞いたら、美羽ちゃんとのデート次第って返ってきたんだけど」
「二人、付き合い始めたから」
「えっ。颯太と菜月は?」
「何もないよ。最初から付き合ってないし、結婚の約束もしてない」
「でも、ずっと許嫁みたいな感じだったじゃん」
「それ、私が一度でも言った?」
電話の向こうで真帆が黙った。
「……聞いたことない。ごめん。私も勝手にそうだと思ってた」
真帆の謝罪は短かった。私が怒っているからと言い訳せず、両家が言っていたからとも続けなかった。
その後、秋の集まりは颯太抜きで決まったらしい。美羽との予定が分かるまで返事を保留し、二日前になって参加できると言った時には、予約した店の席が埋まっていた。
颯太は私へ、真帆に頼んで一人くらい増やせるだろとメッセージを送ってきた。
自分で頼んで、と返すと、冷たくないか、とすぐに電話が鳴った。
「菜月が変な意地を張るから、みんなまで俺に冷たいんだけど」
「真帆たちはあなたに冷たくしてないよ。返事を待たずに予定を決めただけ」
「前は待ってくれたじゃん」
「私がみんなに頼んで待ってもらってたから」
「じゃあ今回も頼んでよ。俺たちのことで怒ってるなら謝るからさ」
悪かった、と颯太は軽い調子で言った。何が悪かったのかを尋ねると、少し黙った後、美羽と付き合う前に菜月へ話さなかったこと、と答えた。
許可を求めてほしいと思ったことはない。順番が違うとも思わない。私が腹を立てた理由を、彼はまだ妹を取られた嫉妬の中から探している。
「俺だって何も考えてないわけじゃないよ。美羽とは今だけだから。最後にはお前のところへ戻る」
安心させるつもりなのだと、声で分かった。
胸の奥にわずかに残っていた幼馴染への情が、そこで静かに尽きた。
「美羽にも、今だけって言ってあるの?」
「それは……言い方ってものがあるだろ」
「私のところへ戻るとも?」
「菜月なら分かってくれると思ってるから言えるんだよ。家族みたいなものだし」
「だったら家族として言うね。美羽を今だけの相手にして、最後に私を選ぶつもりの人とは、これからも家族ぐるみで付き合えない」
「おい、待てよ。そんな大げさな」
「私はあなたが帰る場所にならないよ」
通話を切り、颯太の番号からの着信を拒否した。
両親には、冬休みも帰省しないと伝えた。母から電話が来たため、メッセージでなら読むと返した。届いた長文には、家を捨てるのか、妹の幸せを壊したいのか、颯太は菜月を一番に考えている、と並んでいた。
一番に考える相手を待たせたまま、その妹と交際する人を私は知らない。
そう打ちかけて消した。説明はもう済んでいる。
◇
十月の終わり、演習の発表を終えると、悠真が学食で温かいお茶を買ってくれた。
「今日の発表、回答者を随分怒ってたね」
「分かった?」
「家に戻れば丸く収まります、のところだけ感情こもってた気がする」
「恥ずかしいな」
「面白かったよ。相談した本人の希望を誰も聞いてないって指摘も菜月らしかった」
私らしいと言われ、カップを持つ手が止まった。
誰かの嫁になると言われ続けた私には、そこから外れた私らしさなどない気がしていた。悠真の中には、古い文章へ腹を立て、好きな映画の最終上映へ走り、餡を避けて塩味の菓子を選ぶ私がいる。
「久保田くんは、どうしていつも聞いてくれるの?」
「聞かないと分からないから」
あまりに普通の答えだった。
「黙ってたら、嫌じゃないって思わない?」
「黙ってる理由はいくらでもあるし。言いたくない時もあるだろうから、答えたくなかったら答えなくていいって言うかな」
悠真は私の顔を見てから、少しだけ声を落とした。
「この前から地元の話をする時につらそうだけど、聞いても大丈夫?」
私は頷き、夏に起きたことを初めて大学の友人へ話した。
途中で言葉が詰まるたび、悠真は先を決めつけずに待った。颯太を罵らず、美羽を悪者にして話を簡単にもせず、最後まで聞いてから、帰らないと決めた菜月はすごいと思う、と言った。
「実家と揉めるの、怖かったでしょう」
「今も怖いよ。このまま家族と会えなくなるかもしれない」
「そっか。俺に何かできる?」
「今みたいに聞いてほしい。時々でいいから」
「分かった。俺の話もしていい?」
「もちろん」
悠真は妹が就職して家を出ることになり、寂しいくせに父親が小言ばかり言って嫌われている話をした。家族の話を聞いても、私の問題を彼が背負う形にはならない。私も彼の悩みを片づける係にならない。
帰り際、悠真が映画館の予定表を見せた。
「菜月が前に見逃したって言ってた映画、来週から再上映する。誘ってもいい?」
「二人で?」
「うん。嫌だったら、演習のみんなも誘う」
「二人で行きたい」
口にしてから、急に頬が熱くなった。
悠真はうれしそうに笑い、日曜日はどう、と尋ねた。私の返事を待ってから座席を予約し、端と中央ならどちらがよいかも確かめてくれた。
自分で選んだ約束は、こんなにも軽やかだった。
◇
十一月、祖母の誕生日に合わせ、両家で食事をするから帰ってきなさいと母から連絡が来た。
祖母には夏から何度も電話をかけていた。帰らない理由も話してあり、無理をしなくてよいと言われている。
それでも私は帰ることにした。六人全員が揃うところで最後に一度だけ、自分の意思を伝えたかった。
当日、実家の居間には夏と同じ顔が並んでいた。美羽は颯太の隣にいたが、腕は組んでいない。私が帰ってきたことを両親は仲直りの印だと思ったらしく、母は目を潤ませた。
「ほら、やっぱり家族だもの。菜月もいつまでも意地を張らないわよ」
「今日はその話を終わらせに来たの」
私は座らず、六人の顔を順に見た。
「颯太と結婚しません。今後も交際しません。両家で私たちを将来の夫婦として扱うこともやめてください」
父が人の誕生日に何を言い出す、と低い声を出した。
「おばあちゃんには今日話すと伝えてあるよ。おばあちゃんは、私が決めることだと言ってくれた」
颯太の母は困ったように笑い、昔の写真を持ち出した。七夕飾りを挟んで、五歳の私と六歳の颯太が並ぶ写真だ。
「だって、こんな小さい頃から二人は」
「その短冊を書いたのは颯太だよ。私は待つとも、結婚するとも書いてない」
「言葉にしなくても分かることがあるでしょう」
「言葉にして断っても、誰も分かろうとしなかったよね」
母が割って入った。
「菜月は美羽に負けたと思って、傷ついているだけよ」
「勝ち負けにしたのはお母さんたちだよ。美羽には今の恋人を渡して、私は最後に選ばれる妻として待たせる。私たち二人とも、颯太の都合に合わせた役を与えられてる」
美羽の顔が強張った。
「颯太くんは、私をちゃんと好きだって」
「好きだと思うよ。ただ、本人は私に美羽とは今だけで、最後には私のところへ戻ると言った」
「嘘」
美羽が颯太を見た。颯太はすぐに否定せず、私を睨んだ。
「あれは菜月を安心させるために言ったんだろ。わざわざ美羽の前で言うことかよ」
その一言で居間の空気が変わった。
美羽が颯太から離れた。颯太の父が息子の名を呼び、母は口元を手で覆った。
「私の幸せを壊したかったんでしょ」
美羽の目に涙が浮かぶ。
「違うよ。私は夏に颯太と結婚しないとあなたにも言った。何度言っても、嫉妬にされた。今日、ようやく聞いてくれたんだと思う」
美羽は唇を噛み、父は何か言おうとして口を閉じた。
「私は大学を卒業しても地元へ戻らない。仕事も今いる町で探す。真帆たちとの連絡も自分の友人として続ける。颯太の予定を聞いたり、集まりへ入れてもらえるよう頼んだりは、もうしない」
「そんなことまで根に持ってたのか」
颯太は呆れた顔をした。
「待たなくなっただけだよ」
「菜月、俺たちは家族公認で」
「私は一度も公認してない」
颯太が立ち上がり、私の腕へ手を伸ばした。触れられる前に一歩下がると、彼の手は宙に残った。
「私は一度も待つと言っていない」
それだけ告げ、祖母へ渡す贈り物を父に預けて家を出た。
玄関の向こうから美羽の泣き声と、颯太を責める両親の声が聞こえた。私を呼び戻す声も混じっていたが、足を止めなかった。
◇
その冬、私は地元へ戻らなかった。
美羽はあの日、颯太と別れた。母からは姉妹で話し合えないかと連絡が来たが、美羽本人が話したいと言うまで待つ、と返した。今度は母も仲直りしたことにして話を進めなかった。
颯太は真帆たちの集まりへ来なくなった。私が誰かへ彼を外すよう頼んだことはない。連絡へ返事をせず、来る時だけ都合を変えてもらい、失言を私に取りなしてもらっていた結果が残っただけだった。
年が明けた頃、知らない番号から電話が来た。出ると颯太だった。
「菜月、いつまで怒ってるんだよ。美羽とは終わった。俺も反省したから、これで元どおりだろ」
「元どおりにはならないよ」
「春休みには帰ってくるんだろ? 駅まで迎えに行くから」
「帰らない」
「じゃあ、いつまで待てばいいんだよ」
「待たなくていい。私は一度も待つと言っていないし、あなたにも待ってほしくない」
通話を切って、その番号も拒否した。
隣を歩いていた悠真が足を止める。私たちは再上映の映画へ行った後も、二人で本屋や喫茶店へ出かけるようになっていた。
「大丈夫?」
「うん。もう終わった」
「少し休む? それとも予定どおり映画へ行く?」
悠真は私の沈黙を平気という返事にはしなかった。
私は自分の胸へ尋ねた。颯太の声を聞いた動揺は残っている。家族を思えば寂しくもなる。それでも今日、悠真と観たい映画があり、その後で彼に伝えたいことがあった。
「映画へ行きたい。その前に伝えるね。私は久保田くんが好き。付き合ってほしい」
悠真が驚いた顔をして、息をついた。
「今、返事をしていい?」
「聞かせて」
「俺も菜月が好きです。手をつないでもいい?」
「うん」
差し出された手を私は自分から握った。
誰かが決めた将来へ戻るつもりはない。
私は私の気持ちを言葉にして、相手の気持ちを聞きながら、この人との先を選んでいく。
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