末期腎不全を宣告された夫。その翌日、私は彼が隠していた一億円の当選くじを見つけた
1宿泊型産後ケア施設の秘密
夫の田辺亮介が末期腎不全と診断された日、私たちの生活は崖っぷちに突き落とされたようだった。
医師によると、亮介の腎機能はかなり低下していて、尿毒症の症状がいつ悪化してもおかしくないという。亮介は私の手を握りしめ、目を赤くしていた。
「美夏、俺、死にたくない」
透析には健康保険や高額療養費制度があるから負担はある程度抑えられる。けれど、入院中の差額ベッド代、通院の交通費、生活費、それに亮介がどこかで聞いてきた自由診療の検査や治療には、どうしてもまとまったお金が必要だった。
そのお金を作るため、私は昼間は渋谷の高級食品スーパーでレジに入り、夜は港区白金台の近くにある宿泊型産後ケア施設で夜勤の補助スタッフとして働いた。
そこは高所得層向けの産後ケア施設だった。出産して間もない女性が短期間滞在し、助産師や看護師、保育スタッフのサポートを受けながら、身体を休めたり、新生児の世話を手伝ってもらったりする場所だ。私の仕事は医療行為ではなく、タオルの洗濯、備品の補充、ベビーベッドの整え、部屋へのお茶出しだけだった。
客室は高級ホテルのように整っていた。独立した浴室、赤ちゃんのケアスペース、管理栄養士が監修した産後食。どれも、私の日常とは別世界のものに見えた。
私は洗いざらしで色の抜けた制服を着て、深夜にタオルを洗い、備品を補充し、ベビーベッドを整え、温かいお茶を客室へ運んだ。
その夜、乾燥機から出したばかりのタオルを抱えてナースステーション横のスタッフ休憩室の前を通りかかった。半分開いたドアの向こうで、白石莉奈が産後美容ケアを担当するスタッフと雑談していた。
「白石様、赤ちゃんのお父様は今日もいらっしゃらないんですか?」
莉奈は小さく笑った。
「大阪に行ってるの。不動産の案件があるんだって」
スタッフは声を落とし、少し羨ましそうに言った。
「ずいぶん大切にされているんですね」
「先月も八十万円振り込んでくれたの。ここでゆっくりしていいって」
私の手が止まった。
亮介も先月、検査と特別な治療の前金に、まず八十万円は必要だと言っていた。
ただの偶然だと、自分に言い聞かせた。
莉奈は何か面白いことを思い出したように、さらに声をひそめた。
「あの人の奥さんも、ずいぶん騙されやすいのよ。本人は一億円の宝くじに当たってるのに、奥さんはまだ、夫が死にかけているって信じてる。毎日働いて、治療費を作ってるんだって」
スタッフが息をのんだ。
「奥様は、何もご存じないんですか?」
「知らないわ。知ってるのは、名字が田辺で、不動産関係の仕事をしていて、体が悪いってことくらい。お金がどこへ流れているかなんて、調べるわけないじゃない」
田辺。
不動産。
一億円。
八十万円。
ひとつひとつの言葉が、針のように耳の奥へ刺さった。
莉奈はまだ笑っていた。
「一番笑えるのはね、奥さんの腰の横に薄い茶色のあざがあるって言ってたこと。結婚した時、それを二人だけの秘密みたいにしてたんだって。男って変よね。とっくに飽きてるくせに、そういう細かいところで深情けぶるんだから」
私の腰の横には、たしかに薄い茶色のあざがある。
亮介も結婚した頃、そこに頬を寄せて、ここは俺だけが知っている場所だと笑っていた。
私はタオルのかごを握りしめた。縁が手のひらに食い込み、じんじんと痛んだ。
休憩室の中で着信音が鳴った。莉奈が電話に出て、スピーカーに切り替える。
「莉奈、昨日見てたエルメスのバッグ、銀座の店員に取り置きしてもらったよ。退所したら取りに行こう」
その声を、私はよく知っていた。
前の晩、病室のベッドで低く私を呼んでいた声だった。
「美夏、痛い……」
けれど今の声は、軽やかで、優しくて、私には一度も向けられたことのない甘さを含んでいた。
私はスマホを取り出した。ちょうど亮介からLINEが届いていた。
「美夏、今日は少し調子がいいよ。退院したら、お前の好きな牛丼でも食べに行こう」
牛丼。
エルメス。
画面の文字を見つめていると、胃の底が冷えていくのがわかった。
これが、五年間、私が支えてきた夫だった。
2病室のエルメス
私は責任者に早退を申し出て、制服を着替え、産後ケア施設を出た。
深夜の港区は、骨まで冷えるような風が吹いていた。濡れた路面にネオンが滲んでいる。タクシーに乗り込み、病院名を告げた時、自分でも驚くほど声が落ち着いていた。
車の中で、さっき聞いた言葉が何度も頭の中を巡った。
宝くじ。
浮気相手。
腰の横のあざ。
それが全部本当なら、病室にいる亮介の言葉のうち、いったいどれだけが嘘なのだろう。
病室のドアを開けると、亮介はベッドにもたれてスマホゲームをしていた。画面の光に照らされた顔は血色がよく、指は画面の上を素早く滑っている。
ドアの音に気づくと、彼ははっと顔を上げた。私だとわかるなり、手を震わせてスマホを枕の下へ押し込んだ。
次の瞬間、亮介は腰を押さえ、顔をくしゃりと歪めた。
「うう……美夏、来てくれたんだな」
「今日は検査がきつくてさ。腰がひどく痛むんだ」
私は入口に立ったまま、その下手な芝居を見つめていた。
姑の静江が洗面所から出てきた。濡れタオルを手にした彼女は私を見るなり、顔をしかめた。
「あら、ようやく来たの」
「亮介がこんな状態なのに、今まで何をしていたの。あなた、本当はこの子にどうなってほしいの?」
静江は私を押しのけ、ベッドのそばへ駆け寄って亮介の汗を拭いた。私は腰をドア枠にぶつけ、目の前が一瞬暗くなる。
歯を食いしばって立ち直った時、視線がベッド脇の棚に落ちた。
そこには、オレンジ色の紙袋が置かれていた。
エルメスのロゴが、刃物のように目に刺さった。
私はその袋を指さした。
「あれは何?」
静江の顔色が変わった。彼女はすぐに袋を抱え込む。
「親戚が亮介のお見舞いに持ってきた果物よ。そんなことまで聞くの?」
「りんごをエルメスの袋に入れてくる親戚がいるんですか」
静江が隠そうとするより早く、私は歩み寄って紙袋を開けた。
中に果物はなかった。
あったのは、真新しいエルメスのバッグだけだった。バッグの中には領収書が挟まっていて、金額は百二十万円とはっきり書かれていた。
私はその領収書を亮介の前に置いた。
「これが、あなたの言っていた自由診療なの?」
亮介の顔が一瞬で白くなった。
「美夏、違うんだ。これはネットで買った偽物だよ。二万円くらいだった。お前に苦労をかけてるから、驚かせようと思って」
私は領収書に印字された銀座の店名を見て、思わず笑ってしまった。
「二万円の偽物に、銀座の正規店の領収書がつくの?」
亮介は慌てた目で静江を見た。
静江の目つきが冷たくなる。
「百二十万円だったら何なの」
「この子は命がかかっているのよ。少しくらい自分を励ますものを買ったっていいでしょう。そんなに痛がっているのに、あなたはバッグのことしか見ていないのね」
私の手が震えた。
「あれは、私が昼はレジに立って、夜は夜勤をして、一円ずつ作ったお金です」
静江は鼻で笑った。
「田辺の家に入った以上、あなたの稼ぎも家のお金よ」
彼女はバッグから書類を取り出し、私の前へ投げるように置いた。
「ご両親が残したあの古いマンション、早く売りなさい。不動産会社にはもう話をつけてあるわ。買主は現金一括だそうよ」
私は不動産売買契約書を見下ろした。
それは両親が亡くなる前に私へ残してくれた、たったひとつの財産だった。築四十年の古いワンルームの分譲マンション。駅から遠く、廊下は狭く、冬になると隙間風が入る。それでも、私の婚前財産であり、最後に帰れる場所だった。
私は顔を上げた。
「売りません」
静江の顔が歪んだ。
「売らないってことは、亮介に死ねと言っているのと同じよ!」
亮介もベッドの上から、冷たい目で私を見た。
「美夏、俺は本当にもうもたないんだ。あんな古い部屋のために、俺を見殺しにするのか」
その時、腰の奥から鋭い痛みが走った。私は壁に手をつき、冷たい汗が背中を濡らすのを感じた。
「お腹が……痛い」
静江はベッドのそばから、見下ろすように私を見た。
「売る話になると、今度は具合が悪いふり?」
亮介は視線をそらした。
「もうやめてくれ。明日、部屋を売りに出してくれ。来週も治療があるんだ」
私は壁づたいに病室を出て、病院の外来待合で夜が明けるまで耐えた。
3スーパーに現れた浮気相手
翌朝、私はばらばらになりそうな身体を引きずってスーパーへ向かった。
レジの前には長い列ができていた。私は機械のように商品バーコードを読み取り、耳にはレジの電子音だけが響いていた。身体の痛みはまだ残っている。それでも、病室で見たエルメスのバッグのほうが、ずっと鮮明に頭に焼きついていた。
昼前、見覚えのある女性がベビーカーを押して、私のレジへ来た。
莉奈だった。
彼女はきれいに化粧をし、肩には昨夜のバッグを掛けていた。高級な輸入食品、和牛のギフトセット、ベビー用品を、ひとつずつカウンターに置いていく。
「急いでるの。早くして」
私はうつむいたまま、スキャナーを握りしめた。
莉奈はスマホを取り出し、電話をかけるとスピーカーにした。すぐに亮介の声が聞こえた。
「買い物、終わりそう?」
莉奈は私をちらりと見た。
「こういう店って面倒ね。レジの人、動きが遅くて見ているだけでいらいらする」
亮介が小さく笑った。
「そんな相手に気分を悪くするなよ。ああいう暮らしになるのは、結局その人に力がないからだろ。あの古いマンションを手に入れたら、車を買い替えよう」
スキャナーを持つ手に力が入った。
彼が古いマンションと呼んだ場所は、私の両親が残してくれた家だった。
喉の奥に込み上げるものを押し殺し、私は金額を告げた。
「九万六千八百円でございます」
莉奈がバッグからカードを出そうとした時、折りたたまれた一枚の紙が私の足元に落ちた。
それは、みずほ銀行が発行した宝くじ当せん金支払証明書のコピーだった。
金額、一億円。
日付、三か月前。
亮介が末期腎不全と診断された、その前日だった。
本当だった。
彼は一億円に当たっていながら、病気を装い、私に両親の家を売らせようとしていた。私が夜を削って稼いだお金で別の女性を喜ばせ、LINEでは牛丼を食べに行こうなどと言っていた。
莉奈は素早くその紙を奪い返した。目が一瞬だけ泳ぐ。
「何を見てるの。お金、見たことないの?」
彼女は会計を済ませ、ベビーカーを押して去っていった。
私はレジの中に立ったまま、血の気が少しずつ引いていくのを感じていた。
その時、スーパーの入口が急に騒がしくなった。
静江がスーツ姿の不動産会社の営業担当者を連れて、店内へ乗り込んできた。会計中の客を押しのけ、契約書を私の目の前へ叩きつける。
「美夏、今日こそ署名しなさい!」
「買主はもう見つかっているの。これ以上延ばしたら、亮介が助からないでしょう!」
周囲の客が一斉にこちらを見た。
静江はその場に座り込み、太ももを叩いて声を張り上げた。
「皆さん、聞いてください!うちの息子は重い病気なのに、この人は家を守ることばかりで、夫の命なんてどうでもいいんです!」
「亮介がいなくなるのを待って、田辺の財産を自分のものにするつもりなんです!」
客たちのひそひそ声が広がっていく。
「ご主人がそんな状態なのに、売らないの?」
「おとなしそうに見えるのに、冷たいのね」
店長が慌てて駆け寄ってきた。顔色が悪い。
「田辺さん、いったん従業員通路へ来てください。今日のシフトはここまでにして、今後のことは本部で確認します」
私は店長を見て、床に座り込む静江を見た。自分の中が、逆に静かになっていくのがわかった。
エプロンを外し、きれいに畳んでレジカウンターに置いた。
「わかりました」
静江がペンを私の手に押しつける。
「だったら、ここに署名しなさい!」
私はそのペンを見つめ、ゆっくり二つに折った。
「言いましたよね。売りません」
それだけ言って、私はスーパーを出た。
背後では静江の甲高い罵声と、客たちのざわめきが続いていた。
私は一度も振り返らなかった。
4本当の病人
家には戻らず、そのまま病院へ向かった。
病室のドアを開けると、亮介はスマホを見ていた。画面には、莉奈とのLINEのやり取りが並んでいる。彼はあまりにも夢中で、私がベッド脇に立つまで気づかなかった。
私はスマホを奪い取った。
亮介がはっと顔を上げ、目つきが険しくなる。
「何してるんだよ。返せ!」
私は無視して、画面を上へスクロールした。
「マンションが売れたら車を買い替えよう」
「母さんが署名させる。あいつは情に流されやすいから」
「死んだら保険金も俺のものだ」
ひとつひとつの言葉が、釘のように目に刺さった。
私は画面を亮介の前に突きつけた。
「亮介、説明してくれる?」
彼は数秒黙り込み、突然ベッドから降りて床に膝をついた。
「美夏、俺が悪かった!」
「一時の気の迷いだったんだ。宝くじは俺のじゃない。社長に頼まれて代わりに買っただけで、誤解されるのが怖くて言えなかった」
彼はベッド脇の棚からしわだらけの紙を取り出し、私に押しつけた。
「見てくれ。代行購入の契約書だ。金は全部社長のもので、俺は一円も受け取ってない」
その紙は、あまりにも穴だらけだった。
その時、看護師が採血用のトレーを持って病室に入ってきた。
「田辺さん、再検査の採血のお時間です」
採血という言葉を聞いた瞬間、亮介は大きく後ずさった。外から戻ってきた静江の顔色も変わる。
静江は慌てて亮介の前に立った。
「今日は結構です。この子、体が弱っているんです」
看護師が眉をひそめる。
「主治医の指示による検査ですので、こちらの判断で中止はできません」
静江は私の手首をつかみ、看護師の前へ押し出した。
「この子から取って」
看護師は目を見開いた。
「ご家族の方、医療行為の妨げになります。検査の対象は田辺さんで、奥様に代えることはできません」
「夫婦なんだから同じでしょう。この子は若いんだし、少しくらい採ったって平気よ」
看護師の表情が固くなった。
「これ以上続けるようでしたら、警備員を呼びます」
私は静江の手を振り払った。
「あなたたち、何を隠しているんですか」
静江は私の首元へ手を伸ばそうとした。
「育ちの悪い子ね。余計なことを聞かないで」
彼女に押され、私はよろめいた。
腰の奥の痛みが、昨夜よりも激しく襲ってきた。目の前が暗くなり、足から力が抜け、そのまま床に倒れ込む。
意識が途切れる直前、静江の押し殺した声が聞こえた。
「どうして今なの。まだ少しはもつって話だったじゃない」
亮介の声は、温度を失っていた。
「発作が出たなら出たでいい。生きているうちに契約書へ署名させろ」
「死ねばマンションも保険金も、全部こっちのものだ」
その言葉は、氷水のように私の心へ流れ込んだ。
次に目を覚ました時、周囲は静かだった。
消毒液の匂いが鼻を刺す。私は一般病室のベッドに寝かされ、手の甲には点滴の針が刺さっていた。部屋には亮介も静江もいない。窓の外には、曇った空だけが広がっていた。
私は身体を起こした。倒れる前に聞いた言葉が、頭の中で何度も反響していた。
発作。
まだもつ。
彼らは、いったい何を知っていたのだろう。
壁につかまりながらナースステーションへ向かった。
「すみません。田辺美夏です。さっき倒れた後、私の検査結果は出ていますか」
当直の看護師は私を見て、少し複雑な表情をした。
「主治医が、目を覚まされてから直接説明する予定です。病室でお待ちください」
彼女は医師へ連絡するため、少しその場を離れた。カウンターの上には、私の名前が書かれた検査報告書の袋が置かれていた。
私はそれを手に取り、階段室へ入った。
一番上の報告書には、私の名前が印字されていた。
田辺美夏。
診断欄には、はっきりと書かれていた。
両腎機能不全、末期。
尿毒症症状を伴う。
私はその文字を見つめ、頭の中が真っ白になった。
本当に死にかけていたのは、亮介ではなかった。
私だった。
5彼らが狙っていたのは、私が死んだあとのすべて
家に戻ると、私は真っ先に、一年前に静江から強く勧められて加入した生命保険の書類を探した。
あの時、彼女は言った。結婚した女は、家族のことを考えなければいけない。万が一の時、夫に何か残してやるのも妻の務めだ、と。
受取人の欄には、田辺亮介の名前があった。
保険金額、三千万円。
その名前を見て、私は思わず笑ってしまった。
彼らは私に、亮介が重病だと思い込ませ、両親の家を売らせようとした。私の病状が悪化して死ねば、マンションも保険金も手に入る。
スマホが鳴った。
亮介だった。
私は画面に映る名前を見つめ、通話ボタンを押した。
「亮介、具合はどう?」
彼の声は、今にも途切れそうに弱々しかった。
「美夏、病院からまた費用の話をされたんだ。これからの自由診療の検査も先に払わないといけない。あの部屋、どうなってる?」
私は薄暗いリビングに座り、テーブルの上に置いた本当の診断書を見つめた。
「心配しないで。不動産会社には連絡したわ。相手も乗り気だから、早ければ明日には動きがあると思う」
電話の向こうで、亮介が明らかに息をついた。
「本当か。よかった。美夏なら、俺を見捨てないって思ってた」
「治ったら、ちゃんと埋め合わせするから」
「そう」
電話を切ると、私はすぐに高校時代の同級生、森本遥へ連絡した。
遥は今、都内の法律事務所で弁護士をしている。離婚、相続、家事事件を主に扱っていると聞いていた。
通話がつながると、私は前置きなしに言った。
「遥、助けてほしい」
「遺言を作りたい。私名義の個人財産を、公益団体に寄付する形にしたいの」
「それから、保険金の受取人を変えたい。亮介が隠している当せん金の口座と、大口の送金には保全処分を申し立てたい」
電話の向こうが数秒静かになった。
「美夏、今どこにいるの。すぐ行く」
その夜、遥は私の部屋へ来てくれた。
私は検査報告書、保険証券、エルメスの領収書の写真、当せん金支払証明書のコピーの写真、亮介のLINEの記録をすべて彼女に渡した。
遥は一枚ずつ目を通し、表情を冷たくしていった。
「これは単なる不倫じゃない」
「カルテの改ざん、財産隠し、婚姻中に形成された資産の第三者への移転、婚前財産の処分を強要しようとしたこと。それに長期的な精神的圧迫と経済的支配。まとめて動かす必要がある」
私は自分の手を見下ろした。
長くタオルを洗い、レジに立ち続けた手は、関節が硬くなり、爪のまわりには細かいひび割れができていた。
私は顔を上げた。
「遥、私、あとどれくらい生きられるかわからない」
「でもその前に、あの人たちには何も渡したくない」
遥は私の手を握った。
「じゃあ、明日から始めよう」
6産後ケア施設の修羅場
翌日の夜、私はいつも通り港区の産後ケア施設へ出勤した。
VIPルームでは、莉奈がベッドの上で不機嫌そうにしていた。テーブルには管理栄養士が用意した産後食が置かれているのに、一口も手をつけていない。キャビネットの中には、宅配の容器、アルコール飲料、出どころのわからない薬の袋が隠されていた。
施設では、滞在中にリスクのある食品やアルコールを勝手に持ち込むことは禁じられている。莉奈はまったく気にせず、注意した看護師を黙り込ませていた。
「こんな味のしないものを食事って言うの?」
「こっちは高いお金を払ってるの。管理されるために来たんじゃないわ」
私はドアの前に立ち、静かに彼女を見ていた。
以前の私なら、黙って耐えていた。
もう、違う。
私はキャビネットの中を撮影し、廊下の監視カメラがドア周辺を映していることも確認した。
それから、亮介にメッセージを送った。
「あなたの奥さんが産後ケア施設で問題を起こした。すぐ来て」
二十分もしないうちに、亮介は汗だくで部屋へ飛び込んできた。
彼は病人とは思えない速さで走ってきたらしい。靴もきちんと履き替えないまま、入室するなり莉奈のそばへ駆け寄った。
「莉奈、どうしたんだ」
莉奈は私を指さし、目を赤くした。
「この人よ。私をいじめて、追い出そうとしたの」
亮介が勢いよく振り向いた。
「美夏、どういうつもりだ」
私は何も言わなかった。
彼は私に近づき、膝を蹴った。
私はそのまま倒れ込んだ。胸元のブローチに仕込んだ小型録音機とスマホのカメラが、すべてを記録していた。
静江も続いて部屋に入ってきた。床に倒れている私を見るなり、事情も聞かずに声を荒げる。
「莉奈さんは田辺家の孫を産んでくれた人なのよ。あなたに何の権利があるの」
私は下腹部を押さえ、顔を上げた。
「助けてください……殴られました」
大きな声ではなかった。けれど、廊下の外にいる人たちには十分届いた。
責任者、看護師、ほかの利用者の家族が次々に集まってきた。病歴上は末期腎不全のはずの亮介が、勢いよく私の前に立っているのを、全員が見ていた。
人垣の中から、低い声が漏れた。
「重い病気のご主人って、あの人?」
「あれ、白石さんの相手の人じゃないの?」
「不倫の上に暴力って、見苦しいわね」
莉奈の顔色が変わった。
亮介も、その場で固まった。
私はゆっくり身体を起こし、責任者を見た。
「すみません。110番をお願いします」
「それから、白石様が持ち込んだ禁止食品とアルコール、スタッフへの暴言についても、監視カメラの映像を保存してください」
莉奈が叫んだ。
「最初から知ってたんでしょう?ずっと騙されたふりをしてたのね!」
私は彼女を見た。
「それは亮介に聞くことよ」
「離婚するって言われていたの?そのお金がもう弁護士に見られていることは、聞いていた?」
莉奈がはっと亮介を見た。
亮介の顔は、見る間に白くなった。
その瞬間、部屋にあった見せかけの体面は、すべて崩れ落ちた。
7保全処分
翌朝、私は傷の診断書、産後ケア施設の監視カメラ映像、亮介と莉奈のLINE記録を持ち、遥と一緒に法律事務所へ向かった。
遥はすでに書類を準備していた。
離婚調停の申立書。
慰謝料請求。
財産分与請求。
そして、当せん金に関連する口座と大口送金に対する保全処分の申立て。
日本の宝くじの当せん金そのものに所得税はかからない。けれどそれは、亮介が婚姻関係の継続中に財産を隠していいという意味ではない。ましてや、外の相手にお金を流し、私に婚前に相続したマンションを売らせていい理由にはならない。
遥は書類を私の前へ置いた。
「美夏は署名するだけでいい。あとは私がやる」
私はペンを取り、名前を書いた。
田辺美夏。
途中で手を止め、隣に旧姓を小さく書き足した。
高梨美夏。
その時、私はようやく気づいた。私はもっと早く、田辺家から自分を取り戻すべきだったのだ。
その日の夕方、亮介の一部口座は一時的に凍結され、莉奈名義に入っていた高額送金も調査対象になった。銀座エルメスの購入履歴、港区の高級マンションの家賃の流れ、不動産会社への申込金も、ひとつずつ照会されていった。
私は公園のベンチに座り、不動産会社に勤める知人から届いたメッセージを見ていた。
「美夏さん、田辺さんが今日、湾岸の高級マンションの販売センターに来ました。買うつもりだったみたいです」
「でも決済が通らなくて、一緒にいた女性がその場で怒り出しました。二人が言い争いになって、警察まで来ました」
私はそのメッセージを見て、小さく笑った。
しばらくして、静江が怒り狂った様子で私の前に現れた。
髪は乱れ、頬には引っかき傷がある。どうやら、販売センターの騒ぎから抜け出してきたばかりらしい。
「美夏、あなた何をしたの!」
「どうして亮介の口座が凍結されているの。すぐに申立てを取り下げて、マンションを売ってこの子に回しなさい!」
私はバッグから書類の束を取り出し、彼女の前に置いた。
それは、遥が調べ上げた実際の記録だった。
亮介は何年も、消費者金融、違法な貸金業者、地下賭博の間を行き来し、私が思っていた以上の借金を抱えていた。宝くじに当たっても返済には回さず、大半を莉奈に使い、なお私のマンションを売って穴埋めしようとしていた。
静江はその債務の記録を見て、顔色を失っていった。
「そんなはずない……亮介が、どうしてこんなに」
私は静かに彼女を見た。
「あなたが一番、息子さんのことをわかっているんじゃないですか」
「私の家と保険金で立て直すつもりだったんでしょう。残念ですね。もう一円も渡りません」
静江は膝から力が抜けたように、よろめいた。
私は書類をバッグへ戻し、その場を離れた。
背中の向こうで、彼女の泣き崩れる声がした。
もう、心は動かなかった。
8隠された権利証
亮介と静江は、まもなく病院を出て、埼玉県郊外の古い実家へ逃げ込んだ。
駅からさらにバスに乗らなければならない木造の古家だった。外壁は色あせ、玄関は狭く、体を横にしないと通りにくい。口座は凍結され、莉奈は金を要求し、違法な貸金業者も取り立てに来るようになった。
一週間後、遥は亮介の隠し不動産を突き止めた。
それは、当せん金で買い、静江名義にしていた古いマンションだった。権利証は実家のベッド下に隠され、騒ぎが収まったら転売するつもりだったらしい。
私は彼らに会いに行かなかった。
ただ、その情報を莉奈の依頼した弁護士へ渡した。
莉奈は、私が思っていたよりもずっと我慢ができない人だった。
その夜、莉奈は兄と数人の知人を連れて田辺家へ押しかけた。亮介が自分と子どもに渡すと約束した部屋を取り返すつもりだった。静江は権利証を守ろうとして必死だった。
二人は玄関でもみ合いになった。
静江が叫ぶ。
「あんた、人の夫に手を出しておいて、息子のお金まで持っていく気なの!」
莉奈も取り乱した。
「あれは亮介が私にくれるって言ったのよ!私は息子を産んだの。あなたに取る権利なんてないでしょう!」
争いはすぐに手がつけられなくなった。
静江が莉奈の耳に噛みついた。莉奈は悲鳴を上げて彼女を突き飛ばし、その拍子にキッチンの包丁立てが倒れた。
刃が、もともと怪我をしていた亮介の脚を切った。血が一気に床へ広がった。
近所の人が通報した。
静江は傷害の疑いで事情を聞かれることになった。莉奈も住居への無断侵入、傷害、現場を混乱させた件で警察に連れて行かれた。
亮介は血の中に倒れ、救急車で運ばれた。私の横を通る時、彼はようやく私に気づいた。
唇が小さく動き、恐怖だけが目に浮かんでいた。
「美夏……助けてくれ……」
私は彼を見下ろした。
かつて何度も私の心を揺らした顔には、もう昔の面影はなかった。
私は何も答えなかった。
9診断書が公表された日
カルテ改ざんの件は、すぐに明らかになった。
亮介は、末期腎不全ではなかった。
長年の飲酒と乱れた生活で身体に問題はあったが、腎移植が必要な状態にはほど遠かった。
本当に尿毒症を患い、長期の透析、さらには移植を待たなければならなかったのは、私だった。
主治医だった佐藤誠は、警察の事情聴取を受けることになった。病院の内部調査では、彼が亮介と静江から金を受け取り、電子カルテの検査結果を書き換え、私の病状を故意に隠していたことが認定された。
その事実が公表されると、世間は一気に騒がしくなった。
「夫が末期腎不全を装い、妻に自宅売却を迫る」
「姑と医師が結託し、カルテを改ざんか」
「一億円当せんの男性、財産を隠して不倫相手へ送金」
そんな見出しが、地域ニュースのランキングに次々と上がった。
私は病室のベッドで、テレビの画面を眺めていた。亮介は記者に囲まれ、車椅子の上で顔を手で隠している。
記者たちが問いかけた。
「田辺さん、奥様を欺くために病状を偽っていたのですか」
「宝くじの当せん金を隠し、多額の資産を第三者へ移したというのは事実ですか」
「現在、奥様の容体が悪化していることについて、何かお話しになりますか」
亮介は何も言わず、ただうつむいて逃げようとしていた。
けれど、もう逃げられなかった。
隠し財産の証拠は家庭裁判所へ提出され、離婚調停が正式に始まった。莉奈も養育費と約束された不動産を求め、違法な貸金業者は亮介の残りのお金を狙っていた。
静江は留置施設にいても、まだ私を罵っていた。
弁護士を通して、申立てを取り下げるなら田辺家の嫁として認めてやる、と伝えてきた。
私はそれを聞いて、ただ可笑しかった。
彼女はこの期に及んでも、田辺家の嫁という立場に、私が価値を感じると思っていたのだ。
私は遥に、ひと言だけ伝えてもらった。
「私の保険金を計算した時点で、私はもう田辺家の人間ではありません」
10最後の電話
私の病状は、急速に悪化した。
両方の腎臓はほとんど機能を失い、毒素が体内に溜まっていった。私は集中治療室に入り、毎日透析で命をつないだ。
看護師は、亮介が毎日のように病院のロビーで騒ぎ、私に会わせろと言っていると教えてくれた。
私は一度も会わなかった。
数日後、彼から電話が来た。
通話をつなぐと、亮介の声はひどくかすれていた。
「美夏、助けてくれ」
「違法な貸金業者が俺を見つけた。返さなかったら、ただじゃおかないって」
私は病室の天井を見上げていた。
「それは、あなたが作った借金でしょう」
亮介は泣いていた。
「悪かった。本当に悪かったんだ。美夏、俺が死んでもいいのかよ」
「保険金を使うか、マンションを売るかしてくれ。一度だけでいい。助けてくれないか」
私は目を閉じた。
「亮介、忘れたの?」
「保険金の受取人は、もう公益団体に変えたわ」
電話の向こうが静まり返った。
私は続けた。
「マンションも遺言に入れた。私が死んだら寄付される。あなたにも、お義母さんにも、莉奈にも、何も渡らない」
亮介の呼吸が荒くなった。
「美夏……そこまでする必要、あったのかよ」
私はゆっくり顔を窓の外へ向けた。空は白く曇っていた。
「そこまで?」
「あなたたちは、私に両親の家を売らせようとした。保険金を取ろうとした。私が病気で死ぬのを待っていた。今は、ただお金が手に入らなくなっただけでしょう」
電話の向こうで、押し殺した泣き声が聞こえた。
「俺はただ、貧しいのが怖かったんだ。いい暮らしがしたかっただけなんだよ」
私は残った力を振り絞った。
「それなら、そのいい暮らしと一緒に、壊れてしまえばいい」
そう言って、通話を切った。
スマホが手のひらから滑り落ち、ベッド脇に転がった。
視界が少しずつぼやけていく。
心電図モニターが鋭い警報音を上げた。看護師が駆け込んでくる足音、医師が私の名前を呼ぶ声、遥が美夏と呼ぶ声が、遠くなっていく。
私は、いよいよ死ぬのだと思った。
けれどその瞬間、心は不思議なくらい静かだった。
少なくとも死ぬ前に、あの人たちを一緒に引きずり下ろすことはできた。
11匿名のドナー
目を覚ますと、白い天井が見えた。
病室には機械の作動音だけが静かに響いていた。カーテンの隙間から差し込んだ陽光が、私の手の甲に落ちている。まるで別の世界の温もりのようだった。
主治医がベッドのそばに立っていた。私が目を開けると、彼は深く息をついた。
「高梨さん、生きて戻ってこられました」
私はぼんやりと彼を見た。
医師は、私が最も危険な状態にあった時、適合する腎臓の連絡が入ったと説明した。移植手術は無事に終わり、私は死の淵から引き戻されたのだという。
「どなたの腎臓だったんですか」
医師は少し黙った。
「規則上、ドナーの身元をお伝えすることはできません」
後日、遥があるニュースを見せてくれた。
佐藤誠は事情聴取を受けていた期間中に交通事故に遭い、脳死と判定された。彼は生前、臓器提供意思表示カードを持っており、家族もその意思を尊重することに同意したという。臓器の配分は正式なシステムに基づいて行われ、誰かに指定することはできない。
私は病室のベッドに座ったまま、長い間何も言えなかった。
金を受け取ってカルテを改ざんし、私を死なせかけた医師が、最後にはあまりにも皮肉な形で、私が生き延びる理由のひとつになった。
これは赦しではない。
和解でもない。
ただ、運命が残した残酷な余白だった。
遥が一通の封筒を差し出した。
佐藤が事故の前、弁護士に預けていた手紙だった。
中には、数行だけが書かれていた。
「高梨さん、申し訳ありませんでした」
「許していただけるとは思っていません」
「もし機会があるなら、どうか生きてください」
私は手紙を封筒へ戻した。涙は出なかった。
過去の自分の代わりに、彼を赦すつもりはない。
けれど私は、生きる。
それが私にできる唯一の復讐であり、私自身へ与える新しい人生だった。
12新しい人生
半年後、私はようやく退院の手続きを終えた。
病院の玄関を出ると、東京の陽射しが眩しくて、目を開けていられないほどだった。空気には木の葉の匂いと車の排気ガスが混じっている。それでも私は、それを人生で一番現実味のある匂いだと思った。
私は旧姓に戻った。
高梨美夏。
離婚調停が不成立となった後、遥は家庭裁判所へ訴状を提出し、手続きは離婚裁判へ移った。判決が確定すると、亮介には慰謝料、カルテ改ざんや暴力行為、悪意ある財産隠しによる損害賠償の支払いが命じられた。取り戻せる宝くじの当せん金も、財産分与の対象に含まれた。
莉奈は傷害などの事件で有罪となった。
彼女が産んだ子どもは、児童相談所に一時保護された。その子の未来を、私が背負う必要はない。誰かが私を脅すための理由にしていいものでもなかった。
静江は留置中、亮介が借金に追われ、身体にも障害が残ったと聞き、急な脳血管の病気で倒れた。命は助かったが、重い半身麻痺が残り、長い入院生活を送ることになった。
亮介をもう一度見かけたのは、街角だった。
その日、私は最後の手続きを終え、スーツケースを引いて上野近くの細い路地を通っていた。ごみ袋のそばで、汚れた服の男がコンビニの廃棄弁当をあさっていた。
彼の脚はひどく変形し、両手で身体を引きずるように動いていた。そばには紙コップが置かれ、数枚の硬貨が散らばっている。
最初は誰だかわからなかった。
男が顔を上げるまでは。
乱れた髪の下にあったのは、何年も老け込んだ顔だった。
亮介。
彼は私を見た瞬間、全身をこわばらせた。それから這うように近づき、汚れた手で私の靴に触れようとした。
「美夏……」
「生きてたのか……よかった。本当に、生きてたんだな」
彼は見るに耐えない顔で泣いた。
「助けてくれ。少しでいい。金でも、食べ物でもいい」
「俺、本当に悪かったんだ」
私は彼を見下ろした。
かつて私は、この男のために、スーパーで脚がむくむまで立ち続け、深夜の産後ケア施設で指先が割れるまでタオルを洗った。治療費という言葉を信じて、稼いだお金を全部差し出し、あらゆる悔しさを飲み込んだ。私たちは夫婦だと思っていたからだ。
けれど彼は、私を妻として見ていなかった。
彼にとって私は、マンション一室と保険金と、搾り取れば血の出る都合のいい身体でしかなかった。
私は一歩、後ろへ下がった。
亮介の手は空をつかんだ。
彼は呆然とし、目に絶望を浮かべた。
「美夏……」
私は答えなかった。
道路脇にタクシーが停まった。私はスーツケースをトランクに入れ、後部座席に乗り込んだ。
ドアが閉まる瞬間、亮介が外で私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
その声はすぐ、車の流れの中に置き去りにされた。
私はスマホを取り出し、古いアカウントをすべて削除した。
かつての田辺美夏は、あの冷たい病室で死んだ。
今、生きているのは高梨美夏だ。
車は羽田空港へ向かった。
私は沖縄行きの航空券を買っていた。そこには海があり、陽射しがあり、私の知らない新しい暮らしがある。
窓の外で、東京の街が少しずつ遠ざかっていく。
私はシートに身を預け、生まれて初めて振り返らなかった。
これからは、誰かの妻でも、誰かの嫁でも、誰かの犠牲でもない。
私は、私自身だ。
私の人生は、ここから始まる。




