スリープ・ユア・ジーザス
アニーは、初夏の夢魔を思い出していた。
小学二年生だった頃の六月末、アニーこと田淵奈菜は実の母、田淵良江の遺影に目を合わせられないでいた。
奈菜は祖母に抱かれながら、声にならぬ声で一生分の涙を流し続けた。
昭和六二年六月二十日、寝坊した奈菜を野田市立山吹小学校に車で送った帰り道、国道十六号線の宇宙センター前、対向車線のトラックと正面衝突事故に巻き込まれ、田淵良江はそのまま帰らぬ人となった。
トラック運転手からは多量のアルコールが検知された。
「奈菜、今度ママの方が寝坊したら、ママのお願いも聞いてよね!」
田淵良江が我が子にかけた最後の言葉である。
寝坊どころか、母が二度と目を覚ます事は無くなってしまった。
幼い頃から母子家庭で育った奈菜は、離婚していた父が焼香に訪れていた時も泣き崩れていた。
奈菜の後日談では、泣き過ぎてよく覚えていないという。
通夜に参列した里美は凛とした表情で良江の遺影に手を合わせた。
この日以来、奈菜をこれ以上悲しませるもんかという母心にも似た感情が里美に根付いていた。
「私はあの日以来、アニーが笑えば大体の事は楽しいの。それは、私の大体の事はアニーのお陰って事だと思うよ。」
良江の三周忌で里美は遺影にそう呟いた。
学食のざわめきは奈菜にあの頃の眠りをフラッシュバックさせた。
初夏の夕凪は、奈菜にとって辛い。
「ハイホーッ!ジュ・テ~ム・アニ~サ~ン!」
里美が緊張感ゼロ丸出しの声でいつもの学食テーブルにうっ伏したアニーを呼んだ。
「そうか、これが願いだったんだね。ママ。」
奈菜は思った。
初夏という悪魔は私の隙を狙っているんだ。
ーそれは、私の大体の事はアニーのお陰って事だと思うよー
「ジーザス!アイウォンッ!ユアラヴィィィィィ!」
「あ、アニー…。だいじょぶ?学食にマリファナの食券は無かった筈だけど。」
「あんたはどうしようもないって意味よ。だから夏ってあんま好きじゃないわ!」
「…っあ!あそこに鎌田いるじゃん!おーい!ボーイジョージ!」
「進学を賭けた博打の邪魔しないでくれる~?アンタ達二人が選挙カーに乗ってたら、それだけで選挙法違反になりそうだわっ!」
「だったら図書室行けよ!あははははは」
里美とアニーは口を揃えて言った。
タメ口もお互いに気にならないようである。
毎日ケタケタと笑い合う三人は、学食に奇妙な空気を振り撒いていた。
その笑い声を、学食厨房内で皿洗いをしているパート婦、円代は考え事をしながら聞き入っていた。