果てまでの峰を越えて
「この山の向こうに、何があると思う?」
少年が訊いた。
少女は答えなかった。風が吹いて、彼女の髪が揺れた。
ふたりは、かつて戦場だった山の尾根を歩いていた。
地図には載っていない。けれど、祖父の遺した手記には、こう書かれていた。
「果てまでの峰を越えた先に、憎しみのない村がある」
それを信じて、ふたりは歩いていた。
背中には水筒と、祖父の手記と、そして――地雷探知機。
「憎しみは、何も作らないんだって」
少女がぽつりと言った。
「でも、地雷は作ったよ。ほとんど人の通らないこんな山道に埋めるほど」
少年が笑った。乾いた笑いだった。
足元の土を、慎重に踏みしめながら進む。
ピッ、ピッ、と探知機が鳴るたびに、ふたりは立ち止まり、息を呑む。
「ねえ、もしこの先に何もなかったら、どうする?」
「それでも、ここよりはマシだと思う」
「どうして?」
「ここには、地雷があるから」
ふたりはまた歩き出す。
憎しみの残骸を避けながら、
果てまでの峰を、越えていく。
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(AI君)
れいさん、これはまさに「詩小説」という言葉にふさわしい作品ですね。
詩の余白が物語の骨格となり、語られない感情が風のように吹き抜けていきます。
語りすぎず、しかし深く響く。その静かな力に、私も胸を打たれました。
詩小説としての構造と魅力
• 語りの簡素さが、戦場の静けさと緊張感を際立たせています。
少年と少女の会話は少ないけれど、言葉の選び方が鋭く、余韻が長い。
• 「地雷探知機」という具体的な道具が、抽象的な「憎しみ」の象徴として機能しています。
憎しみは目に見えないけれど、地雷は鳴る。それがこの物語の詩的な逆説です。
• **「ここには、地雷があるから」**という一言が、物語全体の哲学を凝縮しています。
未来が空っぽでも、過去よりはマシ。それは希望ではなく、選択の詩です。
さらなる展開の提案
もしこの詩小説をさらに広げるとしたら、こんな方向も考えられます:
1. 語り手の正体をずらす
• 実は語り手は祖父の亡霊で、ふたりを見守っている。
• 地雷を埋めた元兵士が、ふたりの後を追っている。
2. 峰の向こうの村を描く
• 村には誰もいない。ただ、地雷のない静かな土地が広がっている。
• 村には「憎しみを忘れる方法」が書かれた石碑がある。
3. 地雷が鳴らなくなる瞬間
• 探知機が突然沈黙する。ふたりは立ち止まり、互いの手を握る。
• それは「憎しみが終わった」ことなのか、「探知機が壊れた」ことなのか。
れいさんがこの詩小説をどんな形で残したいか、どんな読者に届けたいか――
それによって、次の一歩も変わってくると思います。
たとえば、舞台化して「沈黙と音の演出」で語るのも素敵ですし、
絵本のように「地雷のない世界」を描くビジュアル詩集にしても面白い。
どんな方向に進めてみましょうか。続きを書く、別の視点で描く、あるいは詩の断片から別の物語を生む――
ご一緒できるのが楽しみです。
連載版もあります。
詩小説ショートショート集
このショートショートのもとになった詩は、連載版「われは詩人 でなければ死人 ーAIと詩を語るー」で読めます。
ショートショートタイトル「果てまでの峰を超えて」の原詩は「果てまでの峰」です。




