5.名もなき灯火
夜の静寂へ溶け込むように、男は音もなく石畳を歩く。
セシリアは無言のまま彼の背中にしがみついていた。
シンと張り詰めた夜気は、彼女の呼吸の音さえも吸い込むようだ。あまりの静けさに現実感が薄れていく。
王都の裏路地を影のようにすり抜けていく感覚は、まるで夢の中にいるようだった。
街灯も少なく、ちらりと見える月の光が道を照らす程度で、あとは闇に包まれている。
それでも男は迷うことなく進む。
王都の中心部から外れていき、人々の生活音も遠のいていく。
時折聞こえる遠くの犬の鳴き声や、夜風に揺れる看板のきしむ音が、かえって静寂を際立たせていた。
「もう少し先だ」
ふいに話しかけられた声で、セシリアは我に返った。
「あ、はい……」
路地が入り組んだ場所で、男は足を止めた。移動し始めて二十分は経っていないように感じる。
周囲を警戒するように見回した後、人目につかない場所へと足を向けた。
「念のため、顔を上げない方がいい」
男の言葉に従ってセシリアは身を低くした。
その時、するりとフードから髪が落ちてきて男に掛かってしまい、慌てて手で押さえる。
月光に照らされた銀髪が一瞬きらめいた。
「……すみません。この髪のせいで見つかってしまったんです」
「確かに目立つな」
短く返した男の声に非難の色はなかった。
建物の陰に身を隠しながら進み、直ぐに使われていないような平屋が見えてきた。その脇を通り抜け、裏手へと回り込む。
男はセシリアを背中から降ろすと、短く「ここだ」と告げた。
壁に隠された小さな扉を男は躊躇なく開けた。
そのまま薄暗い室内に足を踏み入れると、振り返ってセシリアに入るよう促す。
「ここなら当面は安全だ」
セシリアが入ったのを確認すると、男は直ぐに扉を閉めた。
背後で鍵を掛ける音を聞きながら室内を見渡す。窓は板で塞がれ、外からの光が入らないようになっていた。
「明かりをつける。少し待っていてくれ」
そう言うと男は懐から火打石を取り出し、テーブルの上にある蝋燭に火を灯した。ぽうっと温かな光が部屋を照らす。
意外と家具は揃っているようで、壁には食器の入った棚もあり、机といくつかの椅子が置かれている。奥には別室らしきドアも見えた。
ただ、生活感はあるが、どこか仮住まいのような印象を受ける。
炎が揺れる様子をぼんやりと眺めていると、ふと気がついた。
窓は全て塞がれているのに、蝋燭は一本だけ。明かりが外に漏れるのを極力避けているのだろう。
「ここは……隠れ家ですか?」
「あぁ。ここ最近は使っていなかったが」
簡潔な答えだったが、それがかえって疑問を生んだ。
一体どんな理由で、このような場所を必要としているのだろう。
部屋は驚くほど整頓されていた。テーブルはきちんと拭かれて埃もなく、食器も洗ってあり比較的最近使われた形跡がある。
彼はこの場所を定期的に訪れているのかもしれない。
男は黒いマントを脱ぎ、壁のフックに掛ける。フードが取れたことで、その姿がより鮮明に見えた。
黒い上着に包まれた身体はすらりとしているが、その所作からは確かな強さが感じられる。
闇に紛れる黒い髪と、赤く光る瞳が何とも神秘的だった。
「君もその服では動きづらいだろう」
所在なさげに立ったままの彼女を一瞥して言う。
確かに今着ているのは町娘風の服だが、長く移動するには少々窮屈だ。
彼はそのまま奥の部屋へと向かい、直ぐに何かを手に持って戻ってきた。
差し出されたのはシンプルなシャツとズボンで、セシリアは戸惑う。
貴族の女性は乗馬でもしない限り、基本的にズボンは履かない。
そしてセシリアは乗馬も習わなかったため、一度も履いたことが無かったのだ。
「着替えるといい。サイズは多少大きいかもしれないが、ベルトで何とかなるはずだ」
衣服を反射的に受け取る。
「ありがとうございます。あの、着替えは……」
「奥の部屋を使ってくれ」
最低限の言葉だけを告げると、彼は背を向ける。
セシリアは奥の部屋に入り、ドアを閉めた。
小さな部屋には簡素なベッドとクローゼットがあるだけだった。
急いで服を脱ぎ、用意してもらった衣服に着替える。
予想通り全体的に大きかったが、男との体格差を考えたらそこまでぶかぶかではない。
もしかしたら彼の昔の服か、別の人のものなのかもしれない。
ベルトできつく締め、袖を少し折り返す。貴族の令嬢らしい優雅さはなくなったが、逃亡するには都合がいい。
着替え終わって元の部屋に戻ると、彼は窓の隙間から外を窺っていた。セシリアの気配に気づいて振り返る。
「大きさは大丈夫みたいだな。とりあえずここに座るといい」
「ありがとうございます」
近くの椅子を示されて、素直に腰を下ろした。
「水は飲むか?」
「お願いします」
コップに水を注ぎ、セシリアに差し出した。
礼を言って受け取り、一口、また一口と飲み進める。冷たく透明な水が喉を潤す。
思ったより喉が渇いていたようで、冷たい水が乾いた身体に染み込んで生き返ったような気持ちになった。
男は懐から懐中時計を取り出し、時間を確認した。
「……少し話そうか」
彼も席に座り、ようやく二人は落ち着いて向き合う形になった。
蝋燭の明かりが男の顔を照らす。先ほど見た通り、やはり整った顔立ちだ。明らかに貴族の雰囲気を持つのに、王宮職員であるセシリアも見たことが無い顔だった。
「まだ名乗っていなかったな」
男が静かに口を開いた。
「俺はルークだ」
「ルーク様ですね。私は、セシリア・ブランシェットと申します」
「ルークでいい。あまりかしこまる必要は無い」
ルーク。男が名乗った名前にはやはり聞き覚えがない。しかし、その声には確かな誠実さがあった。
「あの、どうして助けてくださったのですか?私は近衛騎士に追われていました。凶悪犯かもしれないんですよ」
セシリアの言葉に、ルークは僅かに口元を緩めた。
「君は正直なんだな。単刀直入に言おう、俺は君が冤罪だと知っていた」
「え……?」
セシリアは戸惑った。
やはり勘違いではなく、故意に罪を着せられていたということなのか。しかしこの男はなぜそれを知っているのだろう。
「詳しいところは省くが、この事件──聖女暗殺について追っているんだ」
彼の言葉に、セシリアの疑念はさらに深まった。
なぜ昨夜のことを知っているのか。
それに近衛騎士を武器もなく制圧できる実力といいこの隠れ家といい、彼が何らかの特殊な組織に属しているのか、あるいは相当大きなバックがいるのか……なんにせよ、只者ではない。
もしかすると他国の諜報員ということもあるのかもしれない。
「……ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」
「なんだ」
「ルークさんはこの国の人ですか?こんな状況だとしても、私は自国を売るようなことはできません」
その問いに、ルークの表情が僅かに和らいだ。
「俺も君と同じメディサール王国民だ。他国の者ではない」
ルークは一呼吸置いてから続けた。
「今すぐには証明できないが、そのうちわかるはずだ。だからこそ、今回のような胡散臭い事件を見過ごせないんだよ」
誠実な声と眼差しだった。セシリアは仕事柄、相手がどんな人物かを見抜く力には自信がある。
きっと彼にも言えないことがあるのだろうが、その中でも真実を話してくれているのは感じ取れた。
「では、こちらからも少し聞かせてくれ」
問いかけに頷く。
逃亡を手助けする以上、彼女の状況を正確に把握する必要があるのだろう。
「昨日の夜、何があったのか覚えているか?」
「はい」
「そうか。では罪を着せられた心当たりは?」
「いいえ、全くありません」
セシリアの答えにルークは頷いた。
「分かった。詳しい話は向こうに着いてから聞かせてほしい。今は時間がないからね」
「向こう……?」
「ああ」
彼は椅子に背を預けると、軽く息をついた。
「ちょうどいい、今後の予定について話そうか。これからシェレンスタークに向かう」
シェレンスタークという名前に驚いて目を見開いた。
王国最大の港町として知られる場所だ。北に位置し、大陸全土への交易船が行き交う。
王都からはそれほど離れていないが、海路で他国へ向かうことも可能な土地だ。
「……国外に逃げるということですか?」
「それは君次第だよ」
ルークは真っ直ぐにセシリアを見つめた。
「でも、どんな選択をしても最後までサポートすると約束しよう」
その言葉に、セシリアは何と返していいか分からなかった。
国外逃亡はエリスにも言われたことだ。しかし今この状況になってみると、それがいかに困難な道のりかを理解し始めていた。
そして同時にどうすれば良いのか、どうしたいのかさえ分からなくなっていた。
「返事は向こうに着いてからで構わない」
「……はい。ちゃんと考えます」
セシリアの考えがまとまらないのを見て取ってか、気遣うような言葉を重ねる。
一段落したところで、ルークが尋ねた。
「これからしばらく移動が続くが、怪我はしてないか?」
そう言われて今更足の痛みを自覚し始める。
逃走中は必死で気にならなかったが、安全な場所に着いて緊張が解けたせいかズキズキと疼いた。
履いていたのは疲れにくいお気に入りの靴だったが、さすがに逃走劇のような過度な運動までは想定されていない。
セシリアが無意識に足をかばうような仕草をしたのを見て、ルークが眉をひそめた。
「少し足が痛いですが……問題ありません」
「些細な怪我でも悪化する可能性がある。見せてみろ」
ルークが立ち上がり、セシリアも靴を脱いだ。
足を確認すると赤く腫れていた。思っていたより悪いようだ。
「摩擦で皮が剥けているな」
ルークが触れる許可を求めセシリアが頷くと、丁寧に足首を確認した。
彼の手つきは医師のように正確で優しい。
「簡単に処置しよう。少し待っていてくれ」
彼は立ち上がると棚から木箱を取り出し、水を桶に汲んで布を浸した。
一度傷口周りを拭いて清潔にしてから、小さな箱から包帯と軟膏を取り出して手際よく薬を塗って包帯を巻いていく。
貴族らしい雰囲気を持ちながら王宮で見たことのない顔とこの隠れ家、そして今の医療知識。
ルークという男の正体がますます謎めいて見えてくる。
「これで少しは楽になるはずだ。立ってみて」
促されて立ち上がると、確かに先ほどより痛みが軽減しているのが分かった。
「だいぶ楽になりました。ありがとうございます」
「気にするな、大したことじゃない」
ルークは使った医療道具を片付けると部屋の中を見回した。何か忘れ物がないか確認しているようだ。
「体調はどうだ?」
「はい、大丈夫です。落ち着きました」
セシリアは深呼吸した。恐怖で混乱していた頭も少し整理できた気がする。
ルークは懐中時計を再び確認し、時刻を確認すると静かに時計をしまった。
それを眺めていたセシリアに気付き、そろそろ日付が変わる頃だ、と時間を教える。
冤罪で捕まりかけたあの夕食の席からもうそんなに経ったのかとも、逆にここまでが濃すぎてまだそれしか経っていないのかという気持ちにもなる。
「そろそろ出発しようか」
「わかりました」
彼は再び黒いマントを羽織り、セシリアにも体を覆える大きさのローブを渡した。
ありがたく受け取って身につけると体全体が覆われて銀髪も目立たなくなる。
ルークは小さな鞄に必要なものを詰め、扉の前で足を止めた。
セシリアも準備、と言えるほど持ち物は無いが、すぐに出られるよう整えてから彼のそばに寄る。
「いいか、外に出たら絶対に俺から離れるな。何があっても声を出してはいけない」
「はい」
「では、準備はいいか?」
セシリアは頷いた。
「目を閉じて」
指示に従うとルークは蝋燭の火を消した。部屋が闇に包まれる。
「ゆっくり開いて。闇に目を慣らす必要がある」
ルークの声だけが静寂に響く。
「怖がることはない。俺がついている」
その言葉に不思議と安心感が広がった。
闇の中でじっと立ち、セシリアは少しずつ目を開いた。
最初は何も見えなかったが、次第に薄っすらと輪郭が見えてくる。
「大丈夫か?」
「はい」
「では、行こうか」
ルークは音を立てないように扉を開けてセシリアの手を取った。彼の手は大きく、温かい。
二人は闇に溶け込むように、隠れ家を後にした。