4.闇夜に舞う赤②
本日複数話投稿しております。話数ご注意ください。
「——隠れていろ」
混乱していたが、セシリアは慌てて指示に従う。男の乱入により騎士たちの足が止まったのをいいことに、距離をとって物陰にしゃがみこむ。
次の瞬間には、男が勢いそのままに騎士の懐に飛び込み首筋に手刀を打ち込んでいた。音もなく、一人目の近衛騎士が崩れ落ちる。
その早さに驚きで目を見開く間にも、乱入した黒衣の男は止まらない。
近衛騎士たちが動揺したのが気配で分かった。
「誰だっ!?ぐっ……」
舞うように身を翻し、騎士の腕を掴んでその体勢を利用し鋭い蹴りを放ち一人の騎士を壁へと叩きつけた。剣を抜く間すら与えられず、次々と近衛騎士が倒されていく。
騎士たちの苦悶の声と鎧の音が混じりあうが、男の動きは水のように滑らかで一切の無駄がない。武器もなく体術だけで騎士を倒していく。
月光の下、その姿は影絵のように美しくさえ見えた。
何が起きているのか理解が追いつかない。
夢を見ているのか、現実なのか。
だが、気がつけばすべての騎士が沈黙していた。路地には倒れた騎士たちとセシリア、そして助けてくれた男だけが残されている。
「……な、何……?」
震える声で呟くセシリアに、男が振り返った。
フードの陰から覗く顔は夜闇に紛れていてもはっきりとわかる美しさだ。
やや切れ長の目元に引き締まった輪郭。しかし大きめの瞳がどこかあどけなさを残す。
年齢は彼女と同じくらいか、少し上といったところだろうか。所作のすべてが上品で、貴族かそれに近い身分だと推察できる。
そして印象的な、赤。
炎のような紅を宿した瞳が無表情のまま彼女を見下ろしていた。色に反して冷静だがそこに冷たさはなく、敵対する様子は無いが何を考えているか計り知れない。
男は彼女を一瞥すると、静かに近づいてきた。その足音は先程までの激しい戦いからは想像もつかないほど静かだった。息切れ一つしていない。
「立てるか?」
男は、その穏やかな声で尋ねた。
セシリアの頭は混乱していた。まさか見知らぬ人物に助けられるなど、こんな状況で想像もしていなかった。
ありがたいのは事実だが、なぜ彼は自分を助けたのか。そもそも彼は何者なのか。
そんな疑問が嵐のように頭の中を駆け巡る。
本来ならすぐに感謝するところだが、頭が追い付かない。言葉が喉につかえた。
「あ……あの、あなたは誰ですか?なぜ助けてくれたのですか……」
ようやく絞り出した言葉に、男は答えなかった。代わりに彼は倒れた騎士たちを見やり手短に言った。
「立てるなら早くしてくれ。時間が惜しい」
その声には議論の余地を与えない冷たさがあった。
セシリアは震える足を強引に立たせようとしたが、膝がガクガクと震え、つい先ほどまでの恐怖と疲労が押し寄せてきた。足元が覚束無い。
「す、すみません……」
倒れこんでしまう前に、男は素早くセシリアの肩を支えた。
「ありがとうございます」
「あぁ。彼らが目を覚ます前に、ここを離れる必要がある」
男は静かにそう告げると、周囲を警戒するように視線を走らせた。
その瞬間、遠くで警笛が鳴り響く。
「近衛騎士の増援だろうな。急ごう」
セシリアは迷った。この見知らぬ男を信じるべきか。
だが、選択肢はあるのだろうか?追われる身となった今、頼れる味方などいない。家族にさえ見捨てられたのだ。
「このまま捕まって死ぬか、俺と共に行くか選ぶといい」
黙ったままのセシリアを見兼ねてか、男は冷静に選択肢を告げた。
脅かすわけでもなく、ただ淡々と事実を告げるその言葉にセシリアは自分の体が冷たくなるのを感じた。
他に選択肢などどこにもない。信じるしかないのだろうか、この何も知らない男を。
だが、彼が助けてくれたのは事実だ。
「着いていきます。どこに向かうんですか?」
「今はまずこの場を離れよう、詳細は後だ。……俺の背に乗れ。まだ走れないだろう」
セシリアの震える足が目に入ったのか、男は事務的な口調で付け加えた。
さっと目の前にしゃがみこむ男に戸惑うが、状況の緊急性は理解している。露出を避けるよう気をつけながら背に乗った。
「お手を煩わせてしまいすみません……」
「気にするな」
腕を男の首に回すと彼は直ぐに立ち上がり、セシリアの身体をしっかりと支えた。
「ちゃんと掴まっていろ」
「はい」
セシリアを背負ったまま、男は軽やかな足取りで暗い路地へと身を投じた。
その動きは人一人運んでいるとは思えないほど素早く、まるで影のように王都の裏路地を駆け抜けていく。
夜の闇に紛れて男は確かな足取りで王都の路地を駆け抜けていく。セシリアは彼の背中で体を強張らせていた。
男性に背負われるなど、幼少期を除けば初めての経験だ。羞恥や申し訳なさが沸き上がるが、今は一刻を争う。
感情を押し殺して状況を受け入れる以外に選択肢はなかった。
彼はよほど道を熟知しているようで、迷いない足取りでどこかへと向かっていた。
追手の声と足音が遠のいていくにつれ、セシリアはわずかに安堵する。少なくとも、当面の危機からは脱したように思えた。
無駄に力が入っていた体からも力が抜ける。
少しして、体重を掛けすぎているのでは無いかと思い至って慌てる。
「すみません、重いですよね」
「大丈夫だ。それより静かに——舌を噛むぞ」
確かにその通りだったのでセシリアは素直に口を噤み、有難く好意に甘えることにした。
不思議なことに、見知らぬ男性に背負われているにもかかわらず恐怖よりも安心感の方が強かった。
それはきっと、彼が驚くほど頼もしくて、心地よい温もりがあったからだろう。
命の危険から救われた安堵感も相まって、初めて出会った男性なのに不思議な親近感さえ覚えていた
だが、これで安全というには遠い。何故この男が彼女を助けたのか。どこへ連れて行こうとしているのか。彼女の運命はこれからどうなるのか——。
セシリアは考えていた。
王宮で整然と書類を整理していた日々は、もう戻ってこない。これからはこの男とともに未知の道を進むことになる。
互いの呼吸と足音だけが聞こえる静寂の中、セシリアは彼の腕の中で不思議な感覚に包まれていた。
ありえないことばかりが連続したせいか、死の淵から生還したような感覚が一周回って不思議な高揚となり、セシリアの胸を満たし始めていた。
明日がどうなるかもわからない。だが今、この赤い目の男と共にいる限り、少なくとも今夜は生き延びられると。
そう確信していた。