3.闇夜に舞う赤
路地に立つ街灯がぼんやりと灯り、商人たちが屋台を片付ける音が響いている。
いつもなら賑やかさに紛れてしまうはずなのに、今のセシリアにとってはそのすべてが不吉な前兆のように思えた。
刻々と迫る危険を告げる警鐘のように、一つ一つの音が耳に突き刺さる。
細い路地を抜けるたび、風に揺れる影さえも追っ手に見えて心臓が早鐘を打つ。今まで見慣れた風景とは思えないほど異質な顔を見せていた。
「落ち着いて……」
自分に言い聞かせるように呟いた言葉が、夜闇に溶けていく。
その小さな声さえも誰かに聞かれているような錯覚に襲われて、慌てて周りを確認してしまう。
王都の夜は思った以上に冷たく、フードの下で身体が震えた。それとも、これは恐怖による震えなのだろうか。
当たり前だが、王都の警備体制は厳重だ。特に城下町から外へと続く城門は出入りする者を必ず確認する。門番は疑わしい者には尋問し、荷物の検査も行うのだ。
貴族の令嬢であるセシリアは、今までそんな門の厳重さを気にしたことはなかった。
手配書が出回る前に抜け出さねば、すべてが終わる。
だが、こんな夜に女ひとりで王都外に行くなんて怪しまれるのは確実だ。だからといってこのまま王都に留まれば、幾ばくもしないうちに確実に捕らえられる。
どこへ逃げればいいのだろうか。
正直なところ、まともな逃亡計画など立てられる余裕はなかった。わずか数時間前まで、彼女は普通の文官だったのだ。
慣れ親しんだ屋敷や、王宮での日々。それらを突然失い追われる身となった現実が、まだ完全には飲み込めていない。
(まずは人目を避けられるところに行かないと……)
閑散とした路地を選びながらセシリアは次の一手を考えた。緊張で汗ばむ手のひらが、スカートの裾を強く握りしめる。
人が隠れるだけならば、貧民やワケありが集まるスラムの方がきっと適しているだろう。しかし自分の身を守る護身術すら身に付いていないセシリアでは、騎士に捕まる以上に全てを奪われる可能性が高い。
そもそも、生まれてこの方足を踏み入れたことのないスラムでまともに動けるはずもなかった。
やはり怪しまれるのを前提で門を抜けるしか無いだろうか。人通りが多くなる夜明けまで待てたなら、可能性は上がるだろう。
野宿はしたことが無かったが、幸いにも歩き回るのは苦手ではない。
街の北門は警備が比較的緩いと聞く。どちらかといえば人よりも物資が主な通過者のためだ。持ち物こそ追及されるだろうが、そこは全く問題がない。
だがそれも噂に過ぎない。確かめる術はなく、全て賭けに出るしかない状況だった。
そう考えているとき、不意に視界の端で動く影があった。
「っ!」
心臓が喉元まで跳ね上がる。 血の気が引く感覚と共に、セシリアは足を止めた。
近衛騎士だった。
鍛え上げられた者特有の鋭い気配。硬質な鎧の音と、規律正しい足並み。
普通の衛兵ならばまだ誤魔化せたかもしれないが、王の精鋭ともなれば話は別だ。
彼らは単なる警備兵ではない。セシリアを捕らえるため、今宵、王都中を捜索しているのだ。
セシリアは咄嗟に顔を伏せて路地の影に身を寄せた。フードを深く被り、存在を消すように息を潜める。呼吸さえも忘れたかのように、全身の筋肉が凍り付いた。
このまま気づかれずに過ぎ去ってくれることを祈りながら。
彼らが近付いてくる。
鎧のこすれる金属音が夜の静寂を刻み、セシリアの脈拍は耳に響くほど激しくなった。
「ん?……待て」
一人の騎士が何かに気付いたように、来ないでというセシリアの祈りも虚しく、身を隠した路地の近くで足を止めた。
「そこにいるのは誰だ?動くな!」
凍りつくような恐怖が背筋を這う。心臓が脈打ち、喉が乾いた。呼吸が苦しくなって世界が狭まっていくような感覚にさえ襲われていた。
「おい、銀髪の女だ」
「ターゲットの特徴と一致します!」
(バレた!?なんで?)
そう思った瞬間、フードから垂れた銀の髪が明かりを反射していたことに気づいた。
この髪は平凡なセシリアにとって唯一自慢できる珍しい色だったが、今この時ばかりは呪いのように感じられる。
「捕らえろ! あれがブランシェットの娘だ!」
「はっ、了解しました!」
もはや隠れる意味は無かった。走るしかない。
セシリアは反射的に身を翻し、あらん限りの力で駆け出した。
足首に痛みを感じたが、恐怖がそれを押し流す。華奢な体には不釣り合いな力が湧き出して地面を蹴る。
追ってくる騎士たちの足音が、石畳を打つ音が、夜の静けさを引き裂いていく。
鎧の重ささえ感じないように、訓練された彼らは容赦なく迫ってきていた。
「止まれ!もう逃げ場はないぞ!」
彼らの声に、セシリアはさらに足を速める。命の危険が身体を限界まで駆り立てていた。
狭い路地を抜け、曲がり角を曲がり、逃げ道を探す。
軽いパニックと暗闇で方向感覚さえも失いかけている。ただ、追手から離れることだけを考えて走り続けていた。
状況は最悪だ。王都の構造は文官として知識があるが、逃亡者になったことはない。
机上の知識と実践では必要とされる感覚が違うとわかってはいたが、自分がこんな状況に追い詰められてより痛感する。
逃げ惑う中でどこが行き止まりか、どこに人がいるのか。普段とは違う視点で考えなければならなかった。
だが追手は早い。彼らの足音はまるで地響きのように背後に迫っていた。体力面でも、地の利でも分が悪いのは明らかだ。
「あそこだ!」
「捕まえろ!」
鎧と剣の鞘が揺れる音が背後で近づき、息が上がる。もう限界だった。
肺が軋み、喉の奥が焼け付く。口の中には鉄の味が充満している。疲労で足が縺れかけた。次第に動きが鈍くなっていく。
それでもセシリアは最後の力を振り絞り、見知らぬ曲がり角へと飛び込む——。
その瞬間だった。
黒い影が、風のような軽やかさで舞いセシリアと騎士たちの間に滑り込む。
夜の闇よりも濃い漆黒が一瞬セシリアの視界を過ぎ、思わず足を止めてつられるように振り返った。
「——隠れていろ」
この場に似つかわしく無いほど、穏やかで涼やかな男の声が夜風に乗って届く。
張り詰めた空気の中、その声だけが異質だった。