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2. 月が隠れた日


 翌朝、セシリアは何事もなかったかのように王宮へ向かった。


 衛兵たちはいつも通り門の番をし、同僚たちは気だるげに書類を抱えて廊下を行き交う。その誰もが、昨夜の出来事を知っているようには見えなかった。

 

(……本当に、勘違いだった?)


 人が倒れる音と、あの血の匂い。闇に紛れて消えた暗殺者——。

 昨夜見た光景は、単なる悪夢だったのではないかと思えてくる。

 

 そう思いたくなるほどいつも通りの一日が過ぎていった。午前中の書類整理に同僚と食べる昼食、午後の議事録作成。

 何も変わらない、平凡で退屈な日常。


 聖堂方面からの連絡も一切無く、王宮は特に騒ぎが起きている様子もなかった。

 時間が経つにつれセシリアの胸を締め付けていた不安は次第に薄れていった。


 ――それが、偽りの平穏であることなど知らずに。

 

「今日はもう上がっていい」

 

 アルヴェーン室長が声をかけてきたのは定時の少し前。

 昨日の残業の埋め合わせだろうか。セシリアは丁寧に礼を言い、帰り支度を整えた。

 

 王宮を出ると夕暮れが街を赤く染めていた。この時間になると少し肌寒く、風が頬を撫でるたびに上着の襟を引き寄せた。

 

 セシリアは王都にあるタウンハウスへと歩を進めた。


 毎年この時期になると他の貴族家と同様に、ブランシェット家は暑さが落ち着いた王都のタウンハウスに戻ってくる。

 これから始まる社交シーズンに向けて、都での準備を整えるのだ。


 セシリアは王宮勤めのため、一年を通して王都に留まっている。領地から来た家族と合流したのはつい先週のことだった。


 やがて日も落ち始め、街灯がぽつぽつと灯る王都の通りを歩く。屋敷の門をくぐり玄関を開けると、家の中から夕餉の香ばしい香りが鼻をくすぐった。

 普段から腕利きのシェフが美味しい料理を作ってくれるが、屋敷の主であるセシリアの父が滞在している間は一段と豪華になる。シェフも気合が入るのだろう。

 

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 

 出迎えたのは母付きの侍女であるエリスだった。白髪の混じった髪を固く結い上げた彼女はセシリアが幼い頃から仕えていて、彼女を前にすると少しだけ背筋が伸びるような思いになる。

 彼女に促されて食堂へ向かうと、すでに母と兄が席についていた。父はまだ来ていないようだった。

 

「遅かったな、王宮文官さん」

 

 兄のヴィクターがちらりと壁時計を見て皮肉げに言う。セシリアは苦笑しながら席についた。

 王宮勤めの自分としては珍しく定時で上がれたのだ、遅いはずがない。彼は文句を言いたいだけなのだ。

 

「今日は通常より早く帰宅できたの」

「はっ、役立たずだから帰されたのか?」


 セシリアは返事をするのが億劫になって口をつぐんだ。どんな返事をしても、ひねくれた受け取り方をされるだけだ。


「無視か?あぁ、図星だからか」

 

 彼とは昔から反りが合わないのだ。セシリアが気に入らないらしく、いつも突っかかってくる。

 特にここ数年はヴィクターが父の領地経営を手伝うようになり、王都と領地の往復で忙しくなったことで、セシリアをただの下級文官だとより見下すようになった。

 

「ヴィクター、セシリア。やめなさい」

 

 母のたしなめるような冷たい声に、兄も渋々口を閉じた。

 さして時間をおかず父が入ってきて食事が始まったが、家族との会話が弾むことはなかった。


 父は晩餐中にほとんど口を開かない人だ。母は時折社交界の話題を振って父が返すが、兄も自分もそれに乗る興味はない。

 昔からこのような食卓だったため、今更居心地の悪さも感じなかった。


 皿に盛られた鴨のコンフィを前にセシリアは昨夜のことを思い出していた。今になって再び不安が襲ってくる。

 悪い夢だと割り切るには、あまりにも鮮明だった。

 

 今日騒ぎにならなかったのも、聖女が殺されたなんて国の有事を簡単に公表すべきでないと上が考えたのかもしれない。

 あるいは、可能性は低いが彼女が聖女ではなかった可能性もある。


 言い方は悪いが、聖女のような重要人物じゃなければ、暗殺事件などという王宮の警備が脆いと公表するようなことは可能な限り握りつぶしたいだろう。


 何より気になるのは、あの暗殺者がセシリアの存在に気付いていたかどうかだ。

 殺されなかったということは気付かれていないのだろうが、凄腕と思われるあの人物が本当に何も気付かないなんてことはありえるのだろうか。

 

 目撃してしまったセシリアはこれからどうなるのだろう。あの場に彼女がいたことを知られなければ、この平穏は守られるはず。


 フォークで肉を切り分けながら、彼女は自分に言い聞かせた。大丈夫、何も変わらない。早く忘れてしまうべきだ。そうすればきっと何も変わらない。


 食卓には上品な料理が並び、味を楽しむ穏やかな時間が流れていた。

 だが——。

 

 屋敷の扉を叩く、固い音が響いた。

 食堂の空気が一瞬張り詰める。こんな時間に来客など珍しい。セシリアの心臓が早鐘を打ち始めた。


 執事が応対に向かい、しばらくして戻ってくると不思議そうな声で告げた。


 「近衛騎士団の方々が、お嬢様にご用件があると仰っています」

 

 セシリアの背筋に冷たいものが走る。嫌な予感が、つま先から這い上がってきていた。

 父は怪訝そうにセシリアに視線をやり、「応接室に案内を」と言いかけた瞬間、扉が強引に開かれた。


「失礼する」

 

 重い鎧の音を響かせて、近衛騎士たちが屋敷へと足を踏み込んできた。家族の誰もが固まる。

 父が低い声で言った。


「ここは我が家の食卓だ。近衛騎士は最低限の礼儀も忘れたのか?」

「緊急事態ゆえ、ご容赦願おう。我々は罪人を捕らえる命を預かったのみ」

 

 先頭に立つ男は冷たい声で告げる。

 その男の姿にセシリアは見覚えがあった。


 近衛騎士の中でもよく会場警備をすることが多い隊の隊長で、打ち合わせなどで見かけることが多かったのだ。

 顔を合わせれば会釈を交わす程度の間柄ではあったが、彼の目には今、冷徹な光しかない。

 

「罪人?」

「セシリア・ブランシェット。お前を、国家転覆を謀った罪で逮捕する」


 セシリアは頭が真っ白になる。耳が、音を遮断したかのように静まり返った。

(……何を、言っているの?)

 

「ま、待ってください。私が一体、何をしたというのですか?」

 

 混乱の中なんとか言葉を絞り出す。だが騎士は動じず、冷徹に言い放った。

 

「昨夜の聖堂で何が起きたか……お前が一番、わかっているはずだ」

「いいえ、何のことだかわかりません」

 

 セシリアは驚きで息が止まったが、辛うじて否定の言葉を口にする。昨夜の光景が頭をよぎっていた。


 __私は何もしていない。ただ、目撃しただけで。


 まさか目撃したことがばれたのか。だが、そうであるならばセシリアが犯人じゃないこともわかっているはずだ。


 __なぜ、私が?


「あくまで白を切るつもりか」

「……そもそも、詳しい罪状すら教えて頂けないのでは弁明のしようもありません。聖堂とは、どういうことですか」

「黙れ!この状況で言い逃れをする権利などない」

 

 騎士の声は氷のように冷たく、有無を言わせない圧がある。

 だが、セシリアは衝撃で止まっていた血流がようやく巡りだすのを感じていた。


 会話を続ける中でいくつか気付いたことがある。

 先ほどはいきなりのことで混乱していたが、この騎士は初めに何と言ったか。

 国家転覆を謀った罪だと確かに聞いた。そして、昨夜の聖堂で起こったことだと。


 つまり目撃した殺人の被害者はやはり聖女であり、同時に聖女が殺されたことを人々に知られたくないのだろうということ。

 そして何故か分からないが、セシリアに罪を着せたいという思惑。


 王宮に勤めているとはいえただの下級文官に影響力などない。そもそもセシリアを犯人とするには力も理由もないとすぐにわかるはずなのに。


「ふざけるな!」

 

 いきなり兄が立ち上がった。椅子が不快な音を立てて後ろに倒れる。


「セシリアがそんなことをするわけがないだろう!」


 一瞬、あの兄が庇ってくれるのかと耳を疑った。だが、その次の言葉で幻想は打ち砕かれる。


「なぜなら、こいつは臆病者だからだ。王宮の雑用しか能のない女がそんな大それたことをするわけがない。何か勘違いがあるはずだ」

 

 セシリアに侮蔑の視線を向け、相変わらずなヴィクターに複雑な感情を抱く。庇うような言葉でさえ彼女を貶めるためのものでしかない。

 

 しばらく黙っていた父が重々しく口を開く。

 母はただ事の成り行きを静かに眺めているだけだ。その横顔は冷静だったが、普段より幾分か固い。


「確かに、我が家には王国への忠誠を疑われるような理由はない。調査の結果、誤解だと分かるはずだ」


 父は冷えた視線をセシリアに向け、続けた。

 

「疑いを晴らすためにも捜査に協力しなさい、セシリア」

「私は……」

 

 協力しろなどと言いながら、その目には「余計なことをするな」とはっきり書かれている。

 彼らは既にセシリアを見捨てることを決めていた。“潔白を証明しろ”ではなく、家の名誉が汚されないよう静かに身を引けと言っているのだ。

 彼らにとって、セシリアが無実か否かは重要なことではないらしい。

 

 家族はセシリアを差し出すことをためらいもなく選んだ。大して温かい思い出もないが、それでも家族の情はあると信じていた。

 少なくとも、セシリアの言い分を聞いてくれるくらいには。

 

「お待ちくださいませ」

「誰だ?発言することを許した覚えはないぞ」


 沈黙を破ったのは、部屋の隅に控えていたエリスだった。

 

「侍女長のエリスと申します、騎士様。恐れながら、お嬢様にお召し替えの時間をいただけますでしょうか?牢獄に相応しい服装ではございませんので」

 

 騎士たちは互いに顔を見合わせたが、やがて隊長が渋々頷いた。

 

「五分だけだ。逃げようとしても無駄だとわかっているな?」

「もちろんでございます」

 

 すべてがセシリアの意思とは関係なく進む状況に、彼女は諦めに近い思いで沈黙したまま立ち上がった。


 エリスはセシリアを連れて食堂を後にする。兄と父からの視線が背中に刺さった。彼らは自分を守るつもりはないのだと、セシリアは今や完全に確信した。

 だが、エリスが向かったのは自室ではなかった。違う順路を行く足取りにセシリアは首をかしげた。


「エリス?」


 侍女長は静かに周囲を確認し、小さな声で言った。


「このままではきっと殺されます。お逃げください、お嬢様」


 彼女はそっと扉を開け、屋敷の裏口の方の小部屋へと素早く導く。

 そこには町娘が着るようなシンプルなブラウスとスカートに、顔を隠すためのフード付きのケープ。そして小さな革袋が用意されていた。

 

「なぜ……?」

「奥様のご指示です」

 

 セシリアの喉が詰まった。母は常に冷淡で、いつも兄を贔屓していた。いい年なのに政略結婚も望めなさそうな娘なんて、疎まれても仕方ないと諦めていたが。

 しかし最後の最後に手を差し伸べてくれたのだ。


「小金も用意いたしました。王都を出て、国境を目指してください。国を超えてしまえば追手も届かぬでしょう」


 迷っている時間はない。急いで服を着替え、フードを目深に被る。


「どうか、ご無事で」

 

 エリスの言葉にセシリアは静かに頷いた。母の真意を知るべきかもしれなかったが、今はその余裕もない。

 追い立てられるように夜の闇へと飛び出した。


 屋敷から騎士たちの怒号が上がる頃には、セシリアはすでに路地の影に身を隠し町の喧騒に紛れていた。冷たい夜風が汗ばんだ肌に突き刺さる。

 まさか、散々書類で見てきた地図が逃亡するために役立つだなんてなんとも皮肉な運命だ。


 闇がどこまでも続くかのように。月は厚い雲に覆われ、王都の夜は深く沈んでいた。

 

(どうして、こんなことに……)


 できることなら今すぐに自分の部屋に戻って眠りにつきたい。しかしもうセシリアに帰る場所はないだろう。冤罪をかけられた上に、逃げ出してしまったのだから。

 

 遠くで鐘の音が響く。闇夜に紛れるように、セシリアは息を潜めて王都の外へと足を進めた。

 

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