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1.罪なき証人

初作品です。

少しでも楽しんで頂けましたら幸いです!


 刃が、聖女の身体に埋められていく。

 純白の聖衣が月明かりの下で真紅に染まった。


 その光景を目にした夜――セシリア・ブランシェットの日常は崩れ去っていく。

 

 ***


 夜の鐘が鳴る少し前。

 ようやく仕事を終える目途がつき、小さくついた息が空間に落ちる。


「これで最後……」


 朝から続いた不運の連続——書類の紛失騒ぎと突発的な会議、次々と降ってくる追加業務。上司の「もう少しだけ頑張ってくれ」が繰り返され、気付けばこんな夜遅い時間だ。

 何か祭事が控えてるわけでもないこの時期に、こんなに忙しいとは。

 

 周囲のデスクはすでに片付けられており、すでに人に気配はない。未だ残っているのはセシリアと、今はここにいない上司だけ。


 こういう時、雑務を押し付けられがちな末席の立場が恨めしい。

 いくらセシリアが若いとはいえ、疲れが全身に染み込んでおり目の前の書類に顔を埋めて眠りたい気分だった。


 ぐっと伸びをすると背中が小さく鳴った。書類を読み続けた目が霞んで、ぼんやりと机の木目を追った。


 力が抜けてぐったりとしかけたその時。

 扉が開き、現れた上司の顔に慌てて背筋を伸ばす。


「お疲れ様、ブランシェット。悪いが、最後にこれを聖堂の司祭へ届けてくれ」

「お疲れ様です。……今からですか?」

 

 思わず漏れた言葉に、セシリアは自分の不用心さを心の中で咎めた。


 上司であるアルヴェーン室長は五十を過ぎた風格のある男性だ。彼は女性職員にも公平な態度で接することで知られており、セシリアも基本的には信頼している。

 だからこそ、今のような状況での頼み事は断りづらい。

 

「あぁ。本日中に渡さなければならないのだが、今日の忙しさですっかり、な。今は聖女様も祈りの時間だろうし、まだ大丈夫なはずだ」

「……かしこまりました」

「届けたらそのまま帰宅してかまわない」

「ありがとうございます」

 

 その言葉だけがわずかな救いだった。

 セシリアはため息を飲み込んで書類を受け取った。


「すまないな。頼んだぞ」

「はい」


 自分の机に戻った室長の疲れた様子に、大変なのは自分ばかりでは無いと自らを慰める。

 

 王宮の聖堂は国教の総本山ではないものの、国内の宗教的な儀式や重要な会合の場にもなっている。

 そのため必然的に文書のやり取りも頻繁にあり、こういったお使いはセシリアにとってよくあることだ。

 

 とはいえ何もこのタイミングじゃなくても、と思わずにはいられない。

 

 こうして嘆いても仕方ない。疲労で鈍い体に鞭を打ち手早く帰り支度を済ませた彼女は、最後の業務を終わらせるべく聖堂へと向かった。

 

 すっかり夜が更けた王宮の回廊は静寂に包まれている。セシリアは薄く曇った空を見上げ、深くため息をついた。


 聖堂は王宮の敷地内にはあるが本城とは距離がある。王宮内の移動はやはり迷路のようで、できるだけ分かりやすい道を急ぐ。

 

 聖堂に着き、玄関の階段を上る。

 こんな夜分に訪れたことがないせいか、普段よりも建物全体が異質に感じられた。

 石造りの回廊を歩く音がやけに響く。妙に静かだった。

 

 いつもと違う雰囲気にセシリアは足を止める。胸騒ぎがした。

 何かがおかしい。そう頭では警鐘が鳴るのに、疲れがそれ以上深く考えるのを邪魔した。


「書類を渡して、さっさと帰ろう」

 

 異様な静けさに身震いを覚えながらも、セシリアは軽く頭を振ってその考えを追い払い聖堂の扉を開ける。

 相変わらず彼女の足音だけが響く中、足早に内部へ入った。


 聖堂の内装は厳かな雰囲気が漂っている。

 天井まで届くステンドグラス、そして所々に配置された柱と灯りがこの時間でも神聖な輝きを放っていた。

 

 書類を司祭へ届けるのはたいして時間もかからず、滞りなく終わった。

 司祭側もこの書類を待っていたらしく、セシリアへの感謝の言葉と共に受け取られた。

 

 (これで帰れる)

 開放感に浸りながらセシリアは来た道を戻り始める。しかし、その足取りは入口に近付くにつれ重くなっていく。

 来た時にも感じた違和感が、ここにきて一層大きくなっていた。

 

 室長が言っていた通りならばまだ祈りの時間か、終わったばかりのはずだ。いくら夜遅いとはいえあまりにも静かだ。

 聖なる場所で抱くには場違いともいえる、嫌な予感に襲われる。


 その瞬間——。


「……?」


 祈りの間に繋がる扉の隙間からわずかに何かの音が聞こえた。弱々しい嘆きのような、布が引き裂かれるような不穏な音色。

 セシリアの心臓が跳ね上がる。思わず足を止めて、息を潜めた。


(……何の音?)


 すぐに立ち去るべきだった。

 王宮で生き残るために必要なのは好奇心を殺す事だと、セシリアが勤め始めたばかりの頃に先輩が忠告してくれたことが脳裏に浮かぶ。

 

 しかしセシリアの足はどういうわけか音のする方へと向かっていた。

 薄らと開いた扉に近づき、隙間から覗き込む。中の光景を目にしてセシリアは凍り付いた。


 祈りの間の明かりは全て落とされていた。しかしカーテンの無い窓から月明かりが差し込む。

 淡く浮かびあがるのは、恐ろしい光景だった。

 

 白の装いに身を包んだ女性が冷たい床に膝をついていた。月明かりに照らされた端正な横顔を見て息を吞む。

 

 聖女だった。


 純白の衣は胸元から真っ赤に染まり、彼女の顔は美しさを残しながらもみるみる生気を失っていく。

 

 その傍らに黒衣の人物が立ち、血に染まった短剣を静かに引き抜いていく。体から抜かれた刃からは滴るように濃い血が床に落ち、周囲に小さな水溜まりを作っている。


「なぜ……」聖女の掠れた声が響く。


 黒衣の暗殺者は無言でもう一度、短剣を聖女の胸元へと突き立てた。

 打ち震えるような痙攣とともに聖女の体が崩れ落ちる。磨かれた床に広がる赤黒い液体と、それに映る月の光。


 聖なる祈りの間が一瞬にして凄惨な現場と化していた。神の御前とも言えるこの場で、聖女が殺されたのだ。

 

 聖女がこと切れたのを確認した暗殺者はやがて静かに剣を納めると、影に紛れるように姿を消した。

 

 男を見失ったセシリアはその場で動けずにいた。

 心臓が鼓動を早め、手が震えている。彼がどこへ行ったのかも、どうして彼がここに来たのかも。何もわからない。

 唯一明確なのは、彼が何をしていたのかという事実だ。


 通りで違和感があったわけだ。

 思い返せば明らかに人が少なかった。件の司祭も奥まった部屋に居た上、聖堂内の警備兵や聖女の護衛が一人もいないのはおかしいに決まっている。


 練りに練られた暗殺計画で、唯一の誤算が予定外のセシリアの訪問、そして目撃だとしたら。

 

 冷たい汗が背を伝う感触がいやにはっきりと感じられた。薄く漂ってきた鉄の匂いが鼻を突き、吐き気を催す。


 この場は危険だ。逃げなければと思うが、足が竦んで動かない。

 セシリアはただ、できる限り息を潜めて気配を殺すことしかできなかった。


 もしここで誰かが歩いてくる音でもすれば、助けを呼ばなければと思考が動いたかもしれない。

 しかし何も聞こえない。


 まるでこの瞬間、王宮全体が沈黙してしまったかのようだ。うるさく跳ねる心臓の音が聞こえてしまうのではないかというほどに。


(逃げないと)

 膝が震えるのを押さえながら、セシリアは気力を振り絞ってじりじりと後退する。

 

 物音を立てないよう、慎重に。視線は横たわる聖女の亡骸から離れない。その白い肌が青ざめ、開いたままの瞳からは生命の気配が完全に消え去っていた。

 そうして静かに、やっとの事で聖堂を後にした。


 外の空気を吸った瞬間、胸の奥が痛むほど脈打つのを感じる。

 足が震えて思わず壁に手をついて体を支えた。


 暗殺の瞬間を見た。

 聖女様が殺された。

 殺したあの人は誰だったの?

 

 セシリアは思考がまとまらないまま、荒い息を吐く。


 その時——足音が聞こえてきて再び息を潜めた。

 遠く、回廊の奥から複数の影が現れる。


(衛兵……?)


 見回りだろうか?普段なら、これほど心強い存在はないだろう。しかし。


(——ダメ、今は)


 セシリアの目が、思わず聖堂の方へ向いた。

 衛兵たちはこちらに向かってくる。


 彼らがあそこへ行ったらどうなる?中に倒れているのは国の聖女だ。それも、誰かが殺したばかりの。


 そしてすぐそばにいたのは——セシリアだ。


 血の気が引いた。

 何もしていない。しかし何もしていないからこそ、説明のしようがない。悪魔の証明だ。


 一瞬、「真実を伝えるべきではないか」という思いが胸をよぎった。堂々と衛兵に近づき、目撃したことをそのまま話す——聖女が何者かに殺されたと。

 それが国民としての、一人の人間としての義務ではないのか。

 

 しかし、その思いは直ぐに消え去った。その言葉を口にした瞬間、セシリアの日常は完全に終わるだろう。

 かつて王宮で真実を語った、ある女性書記官の末路を思い出す。


 彼女は高官の汚職を告発し、翌日には「精神を病んでいる」と烙印を押されて職を追われた。

 証拠さえもみ消されたと聞く。そうして彼女の言葉はやがて妄言として歴史から消えていった。

 

(知らなかったことにしよう……何も見なかった。何も聞かなかった)

 

 セシリアが思うのは一つだけ。自分の平穏な日常を守りたい。

 ただの事務職員に過ぎない自分が、この国を揺るがす事件に巻き込まれる理由はない。

 

 衛兵たちが、もうすぐ角を曲がる。

 彼女は息を呑んだ。全身が凍りついたように感じる。頭では「逃げろ」と命令しているのに、足は地面に根を張ったかのように動かない。

 一歩、また一歩。近づいてくる足音が彼女の心臓と同じリズムで響く。

 

 動揺で固まっていたセシリアの体にようやく命令が届いた。静かに、できるだけ自然に、そして何よりも速く。

 小さく吐息を漏らし、身体の力を抜く。


 反対側の通路へと身を翻し、暗闇に紛れながら最短ルートを選んだ。

 

 コツ、と靴音が大きく響いて、セシリアは怯えて足を止めた。

 だが衛兵たちの足音は変わらず。幸いにも気づかれていないようだった。

 

(帰ろう)

 

 セシリアはその夜、決して見てはならない光景を心の奥深くに押し込めながら、震える足で帰路を急いだ。

 我が家へ着くまでの道のりがこれほど長く感じたことはない。

 

 振り返る勇気もなく、ただひたすらに前だけを見つめて歩いた。

 

ここまでお読みいただきありがとうございます!

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