見えた人
翌日の丹波やの帳場には、困り顔の大番頭が座っていた。
主人・半兵衛は両手に桜材の心張り棒を握り締めて、店の前の道を見通せる棚の陰に隠れている。
その翌日の丹波やの帳場も、番頭の席になっていた。
主人は心張り棒を持って棚の陰に隠れている。
そのまた翌日の帳場にも番頭が座っていて、主人は棚の陰にいる。
薄暗い棚の影で、丹波やの目がギラリと光った。
この頃の丹波や半兵衛は、夜よく眠れていなかった。
頬が痩け、眼窩は落ちくぼみ、目の下には黒々とした隈が出来ている。
様子がおかしいことは店の者も家の者も気付いていた。心配もしている。しかしその原因が何処にあるかが判らない。
解らないはずだ。眠れないほど丹波や半兵衛が待ちかねているものとその理由は、他人が想像するのに難し過ぎる。
丹波やが待っているのは、歌う者が、演ずる者が、舞う者が、唱える者が、生きるために銭を乞う者全てが、自分の店先に現れること、だ。
そして、その人々が『仕切り札』に気付いて店先から去って行く惨めな姿を我が目に見るそのときを待っている。
さらに『札』に気付かなかった者が金をせびりに来たところを、心張り棒で殴りつける瞬間を、待ち続けている。
丹波の荒熊とかいう獣を、心張り棒で殴りつけ背中を蹴り飛ばしたあの時、我が手に足に感じた堅さや重さを、丹波やは忘れかねている。
だというのに、その待ち焦がれる瞬間が来ない。
ほんの僅か下を見た隙に、鉦や太鼓をたたきながら山椒大夫を語る声が聞こえた。顔を上げて外を見れば、その門説経たちは店の前を通り過ぎた後だった。
ふっと後ろを振り向いた時、歌うような祝詞が聞こえたため急いで振り向いた。歌祭文の歌い手たちは通り隣の亀井町の方へ曲がって行った後だった。
不意に眠気に襲われて目の前が真っ暗になった。遠くから太平記の一節が聞こえたことに気付いて慌てて目を擦ったが、講釈の語り手はもう汐見橋を渡っていた。
このように絶好の機会は幾度か訪れているというのに、丹波やは一拍子遅れてしまっている。それが彼を一層苛立たせる。
生の薄荷葉を薬種問屋から取り寄せた丹波やは、良い香りのするその葉を寝不足で青黒く変色した目蓋にこすりつけた。目覚草という異名を持つこの薬草で、居眠りを防ごうという作戦だ。先日寝落ちをしたのが悔しくてならなかった。
そうしてこの日も丹波や半兵衛は、心張り棒を掴んで棚の影の中に潜み隠れた。
鼻がスゥスゥする。薄荷の香気のためだろう。
目がヒリヒリした。こちらは薄荷のせいなのか、寝不足のためなのかわからない。白目が真っ赤になっている理由も、どちらのせいなのか判然としない。
ともかくも、薄荷のお陰で眠気を抑えることが出来ている。長時間目を閉じないでいることが出来ている。
丹波やは血走った目で店外の人通りを見張った。
眩しい日の光が照っている。道に無数の影が行き交う。
ふっと、店の前の路上に小さな影が止まった。
丹波やは充血した目で『その姿』を視認した。
黒く毛むくじゃらな、子どもほどの大きさの獣のようなものがいる。
体をガタガタと震わせて座っている。
『あいつだ! あの時の「丹波の黒熊」だ! いや、物乞いの餓鬼だ!』
黒い毛に覆われた顔の作りまでは見えないが、
『見ている。奴はこっちを見ている。歯をガチガチ鳴らしながら嗤っている』
丹波やはそう確信していた。その確信が丹波やを動かす。
棚の陰の闇の中から丹波や半兵衛は飛び出した。
荷出しをしていた小僧を突き飛ばし、客の応対をしていた手代を蹴り飛ばし、入ってきたばかりのお客様を押しのけて、裸足で店外に飛び出すと、心張り棒を振り上げる。
「物乞いの獣め!」
風を引き裂く音がする。
丹波やが心張り棒を振り下ろしたその先には、件の『黒い獣』の脳天があった。
心張り棒の下から真っ赤な飛沫が上がる。
獣は、
「ぎゃん!」
というような、人の声とも獣の声ともつかぬ『音』を発した。
丹波やの背筋にざわざわとしたなんとも言いようのない感触が走った。唇の両端が持ち上がり、目尻が下がる。
「ここはお前なんぞの来られる場所じゃぁない!」
もう一度、心張り棒を振り下ろす。
「きゃん!」
獣が音を出し、脳天から血が吹き出させる。丹波やの背筋がざわつき、顔面の歪みが大きくなる。
心張り棒をまた振り下ろす。
「きゃん……」
小さな『音』が鳴った。
「テメェ等が寄りつかねぇようにするためだけに、オレはたった一枚の紙切れに一貫文も使ったんだ! クズ野郎、消え失せろ!」
もう一度、もう一度、もう一度。
「…………」
いつしか『音』がしなくなった。倒れ込んだ『獣』の体はピクリともしない。それでも丹波やは心張り棒を振るうのを止められなかった。硬かった感触が、棒が当たる度に柔らかく変わって行く。
「畜生奴、畜生奴!」
荒い息を吐きながらも、一層大きく振りかぶった丹波やだったが、心張り棒を古下ろすことが出来なかった。
右二の腕が誰かに捕まれている。
振り向くと、浅編み笠をかぶった羽織袴の侍がいた。
火付盗賊改メ方長官・仙石治左衛門政勝だ。が、丹波や半兵衛はその正体を知らない。
「放せ、三一侍!」
口汚く罵り、身を震わせて強引に治左衛門の振り払おうとする。
編み笠の下で治左衛門の目は、怒りと悲しみと蔑みと憐憫の混ざった色をしていた。
「もう死んでおる」
静かな声音だったが、丹波やの耳ははっきりと聞き取った。
丹波やは地面を見た。
乾いた土の一カ所が黒く濡れている。
その上に頭が石榴のように割れた動物が倒れている。
飛び出た耳、長い鼻、裂けた口、尖った歯。
人の子どもほどもある、体躯の大きな黒い尨犬の死骸だ。
丹波やは手に、湿り気を覚えた。
視線を手元に移した丹波やは、心張り棒を伝って粘り気のある赤い液体が垂れてくるのを見た。液体は手の平の皺に染みて行く。
伝ってきた赤い液体の元をたどって視線を上に向ける。
心張り棒の先端部が広範囲で真っ赤に染まっている。黒い毛や、どろっとした血肉の塊もこびり付いていた。
仏教には殺生の禁忌がある。
神道には血の穢れの概念がある。
丹波やは生き物を殺した。その血に触れた。禁忌を犯し、穢れを受けた。
門付を人間とも思わぬ丹波やではあるが、いくらかの信心はあるようだ。
「うぁああ!」
丹波やは心張り棒を放り出そうとした。左手は心張り棒から離れたが、右腕は動かない。
腕は治左衛門に捕まれたままだ。それが腕が動かない原因なのかどうか、丹波やには考えている余裕など無い。
腕ばかりか、肘も手首も指も動かないのだ。血に濡れた心張り棒が丹波やの手に貼り付いて離れない。
「放せ、放せ! 頼むから放してくれ! お願いだ! 拝みます、後生ですから!」
始めは威嚇めいていた丹波やの言葉が、次第に要請になり、最終的に懇願になった。
丹波やの青黒い顔を、治左衛門はじっと見ている。
「放して欲しくば、銭一貫だ」
治左衛門の目が据わった。
「ひっ!」
青黒かった丹波やの顔が白くなって行く。
「鐚銭一切なし、きっちり銭千枚で寄こせ」
治左衛門は丹波やの腕を掴む力を強める。
「いだぁあいぃぃ!」
耳をつんざく悲鳴が、丹波やの喉から出た。
「払いまず、おじはらいいだじまずがら、どうがお放じぐだざいまぜ」
洟水を噴き出し、情けなく泣き叫んで、丹波やが哀願する。
哀願は通じた。言葉が終わると同時に丹波やの腕は解放された。
それでも丹波やの右手指は開かない。血まみれの心張り棒を放り出すことも叶わない。
丹波やは左の指で己の右手の指を一本一本摘まみ、引っ張り、こじ開けた。心張り棒が垂直に地面へ落ちる。
倒れて転がり出した棒は、尨犬の頭から噴きだした血だまりの中で止まった。