効果覿面《こうかてきめん》
店先に踏み台を引っ張り出した丹波や半兵衛は、つま先立ちで、柱の高い所に糊を塗った『仕切り札』を貼り付けた。柱に強く接着させたいものと見えて、札をゴシゴシと擦っている。
やがて踏み台の上で腕組みをした丹波やは、怒っているような、恐れているような、楽しみにしているような、奇妙な顔をした。
「これで物乞いどもが来るようだったら、弾左衛門屋敷に火をかけてやる」
頬を引きつらせ膝をプルプル震わせつつ踏み台を降りた丹波や半兵衛は、その踏み台を店の中に蹴り飛ばした。
自分でそうしておいて、ギャアギャア喚きながら、蹴った脚を持ち上げて、蹴っていない脚で飛び跳ね廻る。
これを見て、店前の掃除と水撒きをしていた小僧たちが、顔を見合わせて笑いを噛み殺して小走りに店内へ戻った。
手代が『袋小間物 丹波や』の看板を掲げる。店の前の道に人々が行き交う。
店が開いたら、丹波やの主人である半兵衛は奥帳場に座るのが本筋だ。帳場から店全体を見渡して、客の流れを掴み、主人による接客を必要としている『上客』を見付けてすぐさま対応に走る。
ところがその日の丹波や半兵衛は帳場に大番頭を座らせた。そうしておいて自分は店前の道を見通せる商品棚の陰に隠れているのだ。両手に桜材の心張り棒を握り締めて。
丹波やは待っている。門付け芸人がやってくるのを――。
歌う者、演ずる者、舞う者、唱える者、生きるために銭を乞う者全てを。
彼らが自分の店先に現れるのを待っている。
現れた門付けたちが『仕切り札』に気付かずに金をせびろうとしたなら、札を指し示して、
「失せろ、物乞いどもめ!」
と怒鳴りつけてやりたい。
門付けたちが『仕切り札』に気付いて踵を返したとしたなら、
「残念だったな、陪堂どもが!」
とあざ笑ってやりたい。
「やってこい、やってこい。大枚銭一貫を叩いたのだ。その効果効能を見ねば気が済まぬ」
丹波や半兵衛は棚の陰の暗闇でボソボソ呟き、ニヤニヤ笑っている。
「困ったものだなぁ……」
店員たちは多少気味悪げに主人を見ている。本人は気付いていない。
どれほど時間が過ぎたことか……。
ずっと同じ姿勢のまま物陰に隠れ続けていた丹波やの体が悲鳴を上げた。
丹波やが辺りを見回すと、店員たちは自分のことをまるで気にしていないようだった。
それはそれで腹立たしくもあったが、今は都合がよい。
店外の通りをチラリと見た丹波やは、人の流れが一段落していると判断した。
そこで背筋を伸ばしたり、手脚を伸ばしたりした。固まりきった体がすこしほぐれた。
さらに眼を閉じて、息を大きく吸ったり吐いたりもした。疲れが少し取れた気がする。
丹波やはホッと息を吐いて目を開いた。
店の戸口から歩き去って行く、僧体の後ろ姿が見える。ボロボロで埃だらけの僧服を着込んで錫杖のような杖を突いている。つるつるにそり上げた頭が陽を浴びて眩しい。
「あ……」
丹波やの腕の力がすっと抜けた。心張り棒が床に落ちて、カツンと大きな音を立てる。
直後、運悪く主人の近くを通りかかってしまった一人の手代の腕を、丹波やがひしと掴み、引き寄せた。
「おい、あの坊主は本物の托鉢だったか? それとも偽者の物乞いだったか?」
橋を渡って小さくなって行く僧体の人物の背中を指さして、丹波やは低い声で訊いた。
手代は小首を傾げつつ、
「さて、本物か偽物かはあたしの目にはわかりません。でもあの坊様は、うちの戸口に近づいた後、柱の上の方をチラリと見て、軽ぅく一礼してから、行ってしまいましたね」
「何、本当か!」
自分で出した大声に、丹波や半兵衛は自分で驚いた。店の中を見回して、訝しげに自分へ目を向ける客や店の者たちに、
「喧しくいたしまして、相済みませんです、はい。はい」
何度も頭を下げた。
その丹波やの右手は手代の頭の上にあり、彼の頭も強引に下げさせていた。かわいそうに、彼としては巻き込まれ損以外のなにものでも無い。主人には逆らえないし、客の手前では辛い顔も嫌な顔も出来ない。作り笑いで頭を下げる。
他方、丹波やは晴れ晴れとした笑顔をしている。
『そうか、そうか。物乞い坊主奴が逃げていったか』
あの『仕切り札』には効果があった……少なくとも一人の願人坊主を追い返すことが出来る程度の効果が。
丹波やは喜びを隠せない。
『だが残念だ。坊主が「札」を見付けて、物乞いを諦めざるを得なくなった瞬間の、その残念そうな、悔しそうな顔を、直に我が目で見る事が出来なかった』
捕まえっぱなしだった手代を解放した丹波や半兵衛は、先ほど落とした心張り棒を拾い上げ、再び棚の陰に隠れた。
戸口の向こう、道を様々な人々が行き交う。
棒手振の魚屋。箱を背負った羅宇屋。医生に薬箱を持たせた医者。俵を山積した大八車。駕籠屋。反物の担ぎ屋。御家人の旦那。旗本の殿様。
一日に幾人もの門付けが来るなどと言うことはそうそう考えられることではないが、今の丹波やは、我が店の戸口からどうしても目を離すことができない。
昼が過ぎ、日が傾き、沈んだ。
袋物小間物問屋・丹波やは掛け看板を下ろし、大戸を閉めた。
薄暗くなった店内で店主が
「残念だ。口惜しい」
ぼつりとつぶやいたその声を聞き取った使用人はいなかった。