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「まあそういった按配で、あたくし奴があの子を育てることにした次第でして」
「実際にお熊坊を慈しみ育てておるのは、鳥追い女と傀儡師の夫婦のように見受けられたがな」
治左衛門はクスリと笑った。
「何分、あたくし奴の乳首からは乳が出ませんでしたもので、致し方なく、牛と寅とに預けております」
「はっはっは! それは仕方が無い」
治左衛門の笑顔が弾ける。
弾左衛門は苦笑いで応じた。手拭いを取り出して、後ろ首から顔全体の脂汗を何度も拭いている。
「さて、弾左衛門どのよ、一つ頼みがあるのだがな」
にこやかな顔で治左衛門は、お熊が描いた煙草入れの絵を開いて弾左衛門に示した。
「これを、儂にくれぬかね?」
「いえ、殿様。今日は急いで参りましたので、何も持って参りませんでしたが、この度のことのお礼は後ほど、お熊の命にふさわしき物を改めて持参いたしますので……」
眼を見開く弾左衛門に、治左衛門は真顔で、
「これは儂の役目にとっては、お熊坊の命に匹敵する宝となるのだよ」
「お役目柄……それは御本役の御先手組のお役目ですか、それとも御加役の方ですか?」
「どちらかというと加役……火盗改メの仕事のためとなる」
「と、仰いますと?」
治左衛門は絵の『○に無の字』の部分を指で示した。
「人の持ち物や姿形の細かいところをよく見、覚えて、それを他人に伝える形で表すお熊坊の才覚は、捕り物に役立つとは思わぬか?
あるいは、他人から伝えられたことがらを糸口として、別の人や事柄を思い起こすことのできるお主の才知も、また捕り物には必要な事ではないかな?」
「ほ……。お熊ばかりか、あたくし奴もお褒め下さいますか?」
弾左衛門の顔にほんの少し誇らしげな、あるいは嬉しげな色が浮かんだ。長吏という身分ゆえに他人、ことに武士から『褒められる』ことなど、今までになかった弾左衛門だった。
「ああ、褒めよう。お主たちの機知はすばらしい」
小さく頷いた治左衛門は真剣な顔をしている。弾左衛門も顔を引き締めた。
「故にな、儂はこの絵を表装して床掛けにしようと思うのだ。物事を良く見定め、学び、観照する。これこそが火盗改メに必要であることを、努々忘れてはならぬからな」
「はっ、それは、もう」
弾左衛門は反射的にひれ伏していた。それ程にこの時の治左衛門の眼差しには力があった。
その真顔の上に薄い微笑を浮かべた治左衛門は、
「うむ、では有難く頂戴しよう」
紙の裏表を返して絵図のある方を上に向けると、両手で頂いて軽く頭を下げた。
弾左衛門は頭が上げられない。
「それでな、弾左衛門どのよ……」
「は、はい」
そっと頭を上げた弾左衛門は、眼前に治左衛門の少しばかり意地悪げな笑みを見た。
「あっ、あの、なんでござりましょうか?」
「丹波や半兵衛を如何にするかという話をしたいのだ」
「丹波や……お熊に怪我を負わせた外道!」
弾左衛門は背筋を伸ばし、膝を拳で叩いた。
――そう怒るな、と静かに治左衛門は彼を制する。
「相手は商人だ。商人として処してやろうではないか」
「商人として、とは?」
「弾左衛門どのは、商売とはどのようなものかと思うかの?」
この治左衛門の問いかけは、ある意味で唐突なものだった。それでも、いずれ丹波や半兵衛の扱いにまつわることであろう、と弾左衛門は少しばかり考えてから答えを出した。
「さて、あたくし奴は……まあいくらかは物の売り買いもいたしますが……本職の商人ではございませんので、ただ『欲する人のところへ欲する物を届けて、手間賃を頂く』こと、程度のことしか考え及びません」
「そうか。儂も本職の商人ではないのでどうこう言えぬが、『欲する人のところへ欲する物を届けて、相応の手間賃を貰う』ことじゃと思うのだよ」
治左衛門の笑みに意地悪さが増しているように、弾左衛門には見えた。
「相応、の……」
「あの時、儂は丹波やに
『門付け芸人を断りたい時には、浅草新町の長吏頭・弾左衛門の屋敷に出向いて“仕切り札”を買い、門口に張れ』
と言い置いた。
丹波やがその言葉を覚えておれば、近いうちに、主自身か番頭か手代か丁稚小僧か、ともかく丹波やの誰かがお主の屋敷に『仕切り札』を求めに行く筈じゃ。
お前がそれを相応の値で売ってやれば、丹波やは泣いて喜ぶと思わぬかな?」
黒い笑顔というのは恐らくこういう顔を指す言葉なのではないか、と弾左衛門は感じた。仙石治左衛門は眼に怒り、口元に笑みを浮かべている。
「ははぁ、相応の値で、でございますね」
よく似た黒い笑顔が矢野弾左衛門の顔にも広がっていた。