診断結果
ずぶ濡れの着物を体に貼り付かせて、よたよたと歩く弾左衛門の元へ、倅・吉次郎が駆け寄った。
「父上!」
「おお、産婆と医者は呼んだか?」
「呼ぶも呼ばれぬもないわ」
吉次郎の背の後ろから、老婆とも老爺とも聞こえるしわがれた声がした。弾左衛門屋敷に常駐している産婆のお大だ。
「おお、元気に泣いておるな。胞衣がついたままじゃとな? 急いで臍の緒を切ってやらねばの」
お大は弾左衛門の腕から赤ん坊を取り上げると、年寄りとは思えぬ素早さで屋敷の中へ駆け込む。
弾左衛門は半ば茫然とお大の骨張った背中を見送った。
張り詰めていた何かが切れた。脚が震える。膝が崩れた。気が遠くなる――。
倒れかけた弾左衛門の腕を、吉次郎が掴み上げ、自分の肩に担いだ。
「今、風呂を用意しております。体を温めて、お着替えをなすって下さい」
そんな言葉を、弾左衛門は聞いた気がした。
気が付くと、弾左衛門は湯帷子を着て、居間に敷かれた蒲団の上に横たわっていた。どうやら無事に風呂に入ったらしい。
『ああ、あの赤ん坊は無事であろうか』
うつらうつらとしながら、弾左衛門は耳を澄ませた。
皮座の職人が革を漉く。
竹細工職人が竹を割る。
獅子舞の笛を吹く。
鳥追が三味線の稽古をしている。
萬歳や神楽の歌声。
ちょぼくれが早口で祭文を歌う。
猿回しが太鼓を打つ。
傀儡師がセリフを詠み上げている。
鉢叩や願人坊主が念仏を唱える。
門説経が説経節を語る。
日頃から屋敷の中で聞こえる音ばかりで、赤ん坊の泣き声は聞こえない。
弾左衛門の胸が騒ぐ。勢いよく起き上がった目の前に、倅・吉次郎の顔があった。
「父上、赤子はいま乳を飲んでおります」
「乳だと? 誰の?」
弾左衛門の頭に思い浮かんだのは彼の妻であり吉次郎の母だった。しかし彼女はもうずいぶん昔に鬼籍に入っている。
いや、生きていたとしても、子を産んだ直後でなければ、乳が出るものではない。
「鳥追いのお寅が運悪しく子を亡くしたばかりでしたので、乳を貰っております」
配下に鳥追いがどれほどいるというのか。弾左衛門はお寅とやらの顔を思い浮かべることはできなかった。
「……あの赤子の体に悪いところはなかったか?」
「それは冥庵先生にお聞きになった方がよろしいかと存じます」
さっぱり気が付かなかったのだが、吉次郎の隣には老医師の冥庵が座っていた。
「まず、怪我はないようだな。だが病気があるかどうかは解らんよ。
ただ泣いておるし、脈もあるから、肺の腑と心の臓はまずまず動いておるじゃろう。
目と耳は開いてみないとなんとも言えぬ。口もだ。しゃべれるようになるまでは判断できぬ。
手脚もそうよな。這って立てるほどに育ってみなければ解らん。
ま、七歳までは神の内というからな。そもそもどんな赤ん坊であっても責任は持てん」
冥庵の診察結果を聞いた弾左衛門は小首を傾げた。
「体中に毛が生えているのは、病気ではないのか?」
冥庵がそのことに全く言及していない事が、弾左衛門には不可解だ。
「病気と言えば病気だが、病気ではないと言えば病気ではないのぉ」
「はっきりしませぬな」
「赤ん坊の体が濃いめの産毛に覆われていることは、ままあるのじゃよ。大抵は生まれる頃、あるいは大きくなる内に抜け落ちるか、細く柔らかい毛に生え替わる」
自分の求めている答えとは見当違いに思われることを冥庵が言い出した、と弾左衛門は感じた。弾左衛門が口を開けて言わんとするのを、冥庵が手で制する。
「じゃが、稀に濃い毛が抜けることも生え替わることもない者が生まれてくる。あの赤ん坊の様にのう。その中には、体の毛も頭の毛同様に長く伸び続ける者もいる。
顔も手脚も背中も腹も、濃い毛に覆われる、ということじゃな。
ああ、目蓋やら、鼻の頭やら、唇やら、耳朶やら、手の平、足の裏やら……つまりは、汗を掻く必要のあるところ、その辺には生えぬようじゃがな。
実際、南蛮にそういう男がおるそうじゃよ」
「南蛮!?」
話が突然大きくなった。
「先生さまよ、どこからそんな話を仕入れてくるんだね?」
「儂の医術は長崎仕込み大阪育ちじゃよ。本でも話でも新しい治療法でも、あるいは稀少薬でも、色々な伝手を辿れば手に入れられるわい」
冥庵はニタリと笑う。
「……さてその男は、毛が全身を覆っている以外は至って普通の男……いやむしろ、賢く強くて、武人として優れており、何たら言う南蛮王に重用されておる上に、良き妻を迎えているそうな」
「そうして毛のない人間よりも良い暮らしをしておる、か」
「ま、毛の有る無しにかかわらず、単にその男が優秀であるというだけの話じゃな」
「まあそうではあるのだが……」
「ともかく、じゃよ。
あの赤ん坊の濃い体毛も、生きづらいという意味では『生まれつきの病』ということもできるが、生きるのに問題は無いという意味では『一つの個性』ということもできる、と言うわけじゃ」
「つまり冥庵先生は、あの子は当たり前の子どもと同じであると考えても良いと言うのだね? そして当たり前に育てても何の問題もない、と?」
医師・冥庵は『ふん』と鼻息を吹き出した。
「そもそも、どう育つかなどはどの赤ん坊でも解ったものではないわいな。どんな様子であっても、生きたまま川の中に投げ捨てるほどの事はなかろう」
「生きたまま川に投げるような実の親よりも、長吏のあたくしたちが育てたほうが立派に育つこともあるか?」
「育てられると思うたななら、育ててみるが良かろうよ。
縦し、門付け芸人でも犬拾いでも物乞いでも、天寿を全うして畳の上で死ねたなら、溺れて死ぬよりは幾らかマシかも知れぬのぅ」
長吏頭・弾左衛門は『むぅ』と唸った。唸ってから、二つほど呼吸をした。肺腑の気を全て吐き出して、三度目の息を吸い込む。
「ならば育てようではないか。そうして、あの子を捨てた親が恐れ震えて泣き出して地べたにひれ伏すような、日本一の芸人にしてやろう」
「好きにおし。まあ、精々気張ってな」
よっこらせ、と声を出して起ち上がった冥庵は、ヒョイヒョイと軽い足取りで弾左衛門の居間から出て行った。
全く会話に入ってくる気配なく座っていた吉次郎が、湯帷子姿の弾左衛門に、
「お着替えをお持ちしました」
静かに笑いかけた。