山谷堀
その初夏の日の遅い朝に、弾左衛門は息子の吉次郎を従えて、山谷堀の端をぶらぶらと散策していた。
山谷堀は江戸府内でも古い堀川だ。音無川から水を引き、根岸、三ノ輪を経由して、隅田川に流れ落ちる。
浅草新町こと矢野弾左衛門屋敷はこの山谷堀の間近にある。
「今日は真土山の聖天宮にでも参るかね」
吉次郎はちいさく、
「はい」
とだけ応える。
弾左衛門の言葉は相談でも提案でもない。決定事項だ。意見することも異論を唱えることも許されない。
山谷堀を聖天橋で今戸へ渡ると、小高い丘の上に待乳山本龍院が建っている。本尊は象頭人身の歓喜天、すなわち聖天と、十一面観音だ。
橋の中程で丘を見上げた弾左衛門は、足の下から『声』を聞いた。
間違いなく『人』の声だ。それも力のない『赤ん坊』の泣き声だ。
弾左衛門は欄干から身を乗り出した。橋杭の根包板に何かが引っ掛かっていた。
小さな、毛だらけの塊だ。
川の流れに、真っ黒く短い毛が揺らめいている。
弾左衛門の血がざわめいた。あの真っ黒い毛だらけの赤ん坊を、水の中から引き上げなければならないという使命感が湧き出た。
普段、支配下の長吏たちを扱き使い、搾取を行い、非道の悪名を高めている弾左衛門が、である。
羽織を脱ぎ、足下に投げ捨てた弾左衛門は、橋を今戸側へ走り渡った。橋のたもとの船着きに駆け下りて、川面に足から飛び込んだ。
梅雨前の雨が少ない頃だった。川岸近くの水深は膝ほどだったが、水を掻き分けて進むと、それでも腰あたりまでの深さがあった。
歩む速さはどうあっても早くなりようがない。それでも時間を掛け、水の流れに抗って進んだ弾左衛門は、橋杭に取り付けた。
弾左衛門は左腕で橋杭にしがみつき、右腕で赤ん坊を抱き上げた。
赤ん坊の体から紐状のものが出ている。
「臍の緒だ」
そればかりではない。臍の緒の先に胎盤がついていた。
赤ん坊の体と胎盤とが橋杭の左右に分かれるように引っ掛かっていたために、この赤ん坊は隅田川まで流されずに済んだ、とも言える。
幸運なことだ……とは言っても、
「畜生め、川に流して生み捨てやがった!」
通常、捨て子は拾われやすい場所に捨てる。
民家の前、侍屋敷の門前、神社仏閣、人通りの多い辻、橋の元。
人目がある場所に子どもを置けば、子どもの命が助かる可能性が上がる。
もし子どもの命を助けることを考えていないのなら……。
産婆が蒲団や濡れ紙で赤ん坊の口をふさぐ。息が詰まって赤ん坊は死ぬ。
赤ん坊はその時は苦しむだろう。
ただ、腹が減ってじわじわと死に追い詰められて行くことはない。病を得て医者に掛かることも叶わずに苦しみ死にすることもない。貧しい親に売られて、人を人とも思わぬ奉公先で虐げられて、殴り蹴られて痛い思いをして、命を落とすこともない。
命が助かるにしても、苦しみが長く続かないで済むにしても、そこには親の、子に対するなにがしかの思いがある。
だがこの、黒い毛に覆われた赤ん坊は、生まれたというのに臍の緒の処理もされず、人目の付く所に置かれることもなかった。
あらかじめ息の根を止められることもされなかった。溺れ苦しむことがわかりきっているのに川の中に投げ捨てられていた。
「畜生、畜生共め。親の情がないのか。人の心がないのか」
着物が水に濡れて、体を動かしづらくなっている。橋杭にしがみついた弾左衛門は辺りを見回した。
浅草側の船着きに息子の姿を見付けた。
「吉次郎! 医者……いや産婆を手配しろ!」
「はい!」
吉次郎は岸に駆け上がった。
隅田川側から一艘の空荷の猪牙舟が遡って来るのが見える。
「船頭さん!」
艪を操っている船頭が岸を仰ぎ見た。
吉次郎が単衣の懐から紙入れを取り出している。
「父をお願いします!」
小粒銀が一つ、空中を舞った。
燻し銀色の粒が船頭の掌の中すっと収まる。
「あいよ、任せな!」
船頭が橋杭に向かって力強く艪を漕ぐのを確認すると、吉次郎は弾左衛門屋敷へ駆け戻った。
船頭が橋杭まで船縁を寄せて、
「新町の頭! 舟に移れますかい?」
「あたくしのことなんぞはいい。とにかくこの子を助けてやっておくれ」
「この子?」
弾左衛門は黒毛の赤ん坊を舟の中に横たえさせた。突然、弾左衛門の体から力が抜けた。赤ん坊がどうやら助かるであろうと感じたことで安堵し、緊張の糸が切れた為かも知れない。
赤ん坊の姿に驚いている船頭に、弾左衛門はかすれた声で、
「あたくしは……着物が濡れて重くなっちまって、どうにも舟には上がれそうにない」
言った通りに沈みそうになった。
「おっと、頭! 舟に乗らねぇでもいい。舟縁に捕まってさえくれれば、そのままあっちの船着きまで引っ張っていきまさぁ」
船頭の声に励まされた弾左衛門は、力を振り絞って腕を伸ばし、猪牙の舟縁に捕まった。
「さぁ、行きますぜ!」
竿と艪を操り、船頭は素早く舟を浅草側の船着きへ付けた。赤ん坊を舟から抱き上げた弾左衛門が陸に這い上がる。
『息を、していない?』
先ほど、橋の上で確かに赤子の泣き声を聞いた弾左衛門である。それが聞き違いだったとは思えない。だとすれば、川から助け上げるまでの間に、
『水を飲んだか』
赤ん坊の両足を掴んで逆さに持ち上げた弾左衛門は、小さな背中を平手で打った。
赤ん坊の体がびくりと震え、口から水気が吹き出した。
直後、
「ふぎゃぁ、ふぎゃぁ」
赤ん坊は大きな声を上げた。
「よし」
ほっと息を吐いたのは弾左衛門だけではない。猪牙の船頭も胸をなで下ろしていた。
直後、弾左衛門は足下の地面に自身の羽織が内開きに拡げて置かれていることに気付いた。
吉次郎がこの場所にこの形で置いたのだろう。弾左衛門は赤ん坊を羽織に包んだ後、ずぶ濡れの単衣の懐から濡れた紙入れを取り出した。
「おい船頭。取っておけ」
小粒銀が一つ、弧を描いて飛んだ。船頭は慌ててつかみ取ったが、
「頭ぁ、さっき若頭に頂戴しましたんで、こいつは不要ですぜ」
「倅はあたくしを助けろと言ったんだろう? なら倅が投げたのはあたくしの分の船賃だ。今あたくしが投げたのは別物。この赤ん坊の船賃だ。取っておいてくれ」
「へぇ……では頂戴します」
船頭は軽く頭を下げた。
「歴代でもしみったれで、けちん坊で、人非人だと評判の、当代の新町の頭が、赤ん坊を助けたり、景気よく小粒銀を寄こしたりするなんて、こりゃ夏も近いのに雪でも降るんじゃあねぇのか」
船頭は小声でつぶやいたつもりだった。
ところが弾左衛門は振り向きもせずに、
「聞こえてるよ」
と言い残し、自らの屋敷の門へ向かった。